四方田犬彦「先生とわたし」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-367106-0, \1500
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 昨年(2007年)に出た単行本だが,先日風邪で寝込む前まで積ん読状態だった。人文系の素養が乏しいワシにはちょっと重いかな・・・と,最初の数ページを読んだだけでうっちゃらかしていたのである。それを熱が引いて小康状態になった時にたまたま手にとってベッドで読み始めたら,一気果敢,殆ど徹夜で読みふけってしまったのであった。文筆の才には定評のある四方田の書いたものであるから面白いのは当然だが,一応今でも師と呼ぶ人を持つ身であると同時に師と呼ばれる人間でもあるワシとしては,我が身に照らして考えさせられることが多かった,と言う事情も手伝っているのだろう。本書で言うところの「先生」つまり英文学者・由良君美と四方田の出会いと(由良側からの)決別,東大定年直後の由良の死去による永遠の別れまでの経緯が,四方田の博識と徹底した資料調査によってアカデミックな面白さを伴ったドキュメンタリーとして描かれている本書は,「師と弟子」という古来からのテーゼにまた一つ,貴重な材料を加えたものとして記憶されるべき読み物である。
 学者世界における「師と弟子」という関係は,小中高における「先生と生徒」という木訥なものとは全く異なる一面を持つ。基本的にはアカデミックな競争社会なので,スポーツにおける先輩後輩同様,時間の経過と共に,師は弟子に乗り越えられてしまう運命にある。容易に乗り越えられないような偉大な師を持つことは,弟子にとって,そしてその偉大な師にとってももあまり好ましいことではない。お友達じゃあるまいし,関係性の停滞というのは学問の停滞を意味するもので,ハッキリ言えば,目上の人間に気兼ねしてモノが言えなくなるぐらいだったら学者なんて止めた方がいいのである。
 もちろん人に出し抜かれるというのは,センシティブな人間であればあるほど不快なものだ。ましてや自分が格下に思っていた弟子から思わぬ反撃を受けたりすれば,なおのこと平静ではいるのは難しい。難しいが,そこを何とかやり過ごすのが大人の態度いうモノであろう。・・・とエラそーに言っているワシがそれを実践できているかと言えば,甚だ怪しい。最近はマシになってきたと思うが,昨年まとまった査読論文が出るまで悶々としていた数年は,ハッキリ言って八つ当たりに近い言動が多くて酷かった。酷いという自覚がありながらも当たらずにはいられない精神状態が更に自己嫌悪を催し,更に深みに嵌っていくという悪循環。ワシが酒飲みであったら,間違いなくアル中手前まで行っただろう。これであの論文がrejectされていたらと思うと,心底ぞっとする経験であった。
 東大受験に失敗し,心ならずも学習院大学へ進んだ由良は才能を認められ,慶応大学院へ進学し学者の道に進む。そして東大駒場の助教授として,かつて入学に失敗した大学へ招かれるに至った。・・・と,学者としては出世の頂点に上り詰めた感のある由良だが,同時に,深刻な悩みも抱えてしまったようなのである。この辺りの四方田の洞察は当たっていると思う反面,もうちょっとハッキリ書いてもいいように思い,もどかしさを感じた。多分,純粋東大出身者の四方田としては書きづらいところがあるんだろう。
 つまり,由良には外様モノにはありがちの劣等感がつきまとうようになっていた,ということなのである。単に東大受験に失敗したというだけのことではなく,本業の英語能力においても実際弱いところがあった・・・という証言を四方田は得ている。批評眼においては図抜けたセンスを持っていた由良が,自身持つこうした傷に鈍感でいられたはずがない。まして,そのセンスを最も受け継いたとおぼしき弟子の四方田が,軽やかに国際的な場で活躍するようになっていったのを平静に見ることが出来るか・・・となると,由良先生に同情する点がないではない。
 結果として定年間近に至るまで由良は,講義にも支障を来す程のアル中状態に陥ってしまう。最後は回復するものの,恐らくはその深酒がたたって,まとまった著作も出せないまま,定年直後に死去することになるのである。
 商売柄,東大出身の方々と接する機会は多いが,つき合いが深くなると,内に秘めた「エリート意識」というものが垣間見えてきて興味深い。これを害と見るか益と見るかは人によるだろうが,競争というものをベースとした社会に生きている以上,その頂点を極めたという高揚感は,人間であれば当然持ってしまうものだろう。エリート意識なるものに敵意を持つのは勝手だが,それは恐らく誰しもが持ち得る「エリート意識」そのものの作用によるモノだ,ということを自覚している人は恐ろしく少ない。ハッキリ言えばジェラ心であって,適度になだめて,人の持つ真の実力を見極める眼力を磨いた方が得策である。
 しかしその東大において内部抗争が発生したりすると,エリート同士のぶつかり合いに,少数ながらも外様部隊も混じってきたりして話がややこしくなる。中沢新一の登用で教授会がもめたなんてのは最近の話だが,古いところだと牧野富太郎の「事件」がある。括弧付きで書いたのは,これはあくまで牧野の自己申告によるものであって,ワシから言わせれば,万年講師だった牧野が東大植物学教室から定年を言い渡された,というだけのことに過ぎない。講師にとどめ置かれたのだって,つまるところは牧野の業績が問題だったというだけのことであろう。いくらエリート意識の高い所だとは言え,周囲にぐぅと言わせぬ程の業績があれば万年講師にしておくはずがない。周囲の目が活動を鈍らせたという意見もあろうが,その程度で萎縮して活動できなくなるようなら,それもまた実力の内,その程度の学者だったというだけのことである。
 四方田によると,由良のような貴族精神の持ち主にはドショッコツ的生き方は無理だったということである。それでも曲がりなりに東大教授として定年が迎えられたのだから,日本社会の人生偏差値としては相当高い部類に入るのは間違いないだろう。ましてや,嫉妬と劣等感の狭間でアルコールに浸った時期もあったにせよ,四方田のような文筆家の愛情溢れる文章で評伝が紡がれたのだから,ちょっと,いや相当羨ましいなぁと,思ってしまったのであった。

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