山本さほ「岡崎に捧ぐ①」「同②」小学館

dedicated_to_ozaki_the_friend_of_mine_vol1

dedicated_to_ozaki_the_friend_of_mine_vol2

① [ Amazon ] ISBN 978-4-09-179207-5, \787 + TAX
② [ Amazon ] ISBN 978-4-09-179209-9, \787 + TAX

 帯の煽り文句に「WEBサイト[Note]で短期10,000,000 viewを記録した話題作」とあったので,てっきりまた一迅社やメディアワークスあたりがトチ狂ってWeb漫画をまとめたのかなと思ったのだが,出版したのは天下の小学館,今はビッグコミックスペリオール誌で連載中というのだから,Web漫画の成り上がりぶりには慣れているワシとても素直にすげぇえなぁと感嘆したのである。
 で,買って読んでみたら確かに面白い。基本的には作者・山本の小学校~中学校時代の思い出話を描いているのだが,リアリティに溢れすぎていて現実のアンチクライマックスぶりに左頬の筋肉が引き攣る程だ。しかもこれ,10年ぶりに描いた漫画だというのだからビックリだ。一応美大を目指していたぐらいだから,絵心はあったろうが,面白い漫画を描く才能はそれとは別のものなのだから,漫画の執筆を勧めた同級生の杉ちゃんや岡崎さんは偉大だなぁ,持つべきものは友達だ,としみじみ感じ入るのである。
 糸井重里のマンガ読み能力は年季が入っているだけあってさすがと唸らされることが多い。本年も山本さほにとよ田みのる,simico,小山健の3人を加えて催された「私(し)まんが座談会」を催しており,よく読んでいるなぁと感心させられた。そこで糸井は次のようにこの4人が描いている「私まんが」を次のように定義している。

私小説(ししょうせつ)という言葉がありますよね?
「わたくし」の身辺や考えを
書いていくのが私小説だとすると、まんがにも
そういうものがあるんじゃないでしょうか。

 私小説と言えば,猫猫先生こと小谷野敦が盛んに門人を集めては執筆を勧めている文芸作品である。文学に造詣が全く深くないワシとても,「へぇ~この人がねぇという下種の勘繰りを満たしつつ,ひょっとして自分もこういうことをやらかしそうだという共感神経を逆なでする,事実に基づくエッセイやマンガが大好きなのだが,それ以上に浅はかな作り物を超えた不条理的ストーリー展開に魅せられるのだ。本作を含む「私まんが」が糸井重里翁のトレンディアンテナに引っかかったのも,過剰なフィクションに食傷したワシら日本のマンガ読みの秘せられた欲求を満たす一筋の光をそこに見たからではないか。ワシはそう確信しているのである。

 本作,「岡崎に捧ぐ」は「ちびまる子ちゃん」のようにマンネリ化したホームドラマでは決してない。そこに描かれるのは赤裸々な凡人たる主人公=作者・山本の平凡ぶりであり,それを際立だせる親友・岡崎さんの存在なのである。家庭環境が荒れている岡崎さんは,それに対抗するように屹立した個人として成長していく。対して山本は平和な家庭環境で平々凡々と日常を過ごし,平均値を脱しないまま2巻の最後で岡崎さんと同じ高校受験して失敗する。描かれているのは,当時の中三の山本のお気楽な態度なのだが,それを描いている作者・山本はその後の人生の波乱を経験しているだけに作中の山本に突っ込みを入れまくるのだ。気楽な思いでエッセイマンガの体裁をとっているのだが,ワシも含む大多数の煩悩を断ち切れない凡人の大人は,自身の若い頃をのぬるま湯っぷりを思い出してしまい,ある意味,読んでいて辛くなる作品でもあるのだ。

 中核となる山本と岡崎さんを取り巻く人間模様もまことにアンチクライマックスで,劇的感からほど遠い。教師に暴力をふるった不良学生は感動的な許しを請うも「お前らまたやるだろ」の一言で警察に通報され,更生の機会を逃すことになるし,所有しているプレステ目当てで家まで上がり込んだ同級生に対しては,ゲームをクリアした後の付き合いをあっさり絶ってしまうし,まことに「あったあった!」というエピソードに満ちている。人格円満でないワシら凡人にとってはちと切ない,思い出したくもない記憶を掘り出してしまう効果が高い漫画なのである。

 新年を迎えるにあたり,それにふさわしいファンタジー漫画を毎年大みそかに紹介している訳だが,本書は心をシバキ倒した擦過熱で熱くなる作品であるから,まぁ一種のブラックユーモア的ファンタジーと言えないことはない。今後の山本と岡崎の関係が大いに心配になるが,それは2016年に刊行される第3巻以降で次第に明らかになるであろう。つまり,来年が待ち遠しくて仕方なくなるシャブのような効果のある作品でもある。まことに新年を迎えるにふさわしい強烈な「ファンタジー」ではないか。ヘタウマ的センスあふれる山本さほの今後の活躍に期待しつつ,2015年を〆ることにする。

 本年は誠にありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。

戸川隼人「マトリクスの数値計算」オーム社

Matrix Computation

(絶版) [ Amazon ] ISBN 4-274-07008-5, \4301 + TAX

 Wikipedia風に本書の著者紹介をすると次のようになる。

戸川隼人(1936 – 2015) 1958年早稲田大学第一理工学部数学科卒,1971年まで科学技術庁航空宇宙技術研究所(現JAXA)研究員,1976年まで京都産業大学助教授→教授,2000年まで日本大学理工学部数学科教授,その後,尚美学園大学,サイバー大学で教鞭を取る。数値解析,数値計算,プログラミング, CG,情報処理全般の著作多数。

 理工系大学・専門学校でプログラミングを学んだ,現在40歳以上の元学生の諸氏は,C, Fortran, Visual Basic等のテキストの著者として認知しているのではないかと思われる。特にサイエンス社からは多数の書籍を出しており,関連会社の数理工学社のテキストや「数理科学」の表紙絵も描いていた。個人的には器用で世渡りのうまいタイプの秀才だったという認識を持っている。

 本書は著者自身による著作リストにも入っていないオーム社からのロングセラーで,ワシの手元にあるのは平成4年(1992年)の「第1版第17刷」である。現在は絶版品切れ状態だが,21世紀になってもひょっとしたら生き残っていた可能性もある。第1刷が刊行されたのが昭和46年(1971年)だから,かれこれ40年以上も継続して読まれ続けたということは,ことこの分野の書籍としては異例で,しかも第1版のまま改定もされずに生き残っていたのだから,記述そのものがそれほど古びなかった,ということである。内容は「マトリクス」(行列)ということから類推できる通り,連立一次方程式と行列の固有値問題がメインであるが,執筆当時は最先端の話題であった区間演算,キングサイズ(今でいう大規模問題)向けの計算法,疎行列の扱い・・・に加えて「高次代数方程式」(第4章),「常微分方程式の初期値問題」(第5章)まで扱っており,内外の文献を集めまくって精力的に執筆を行ったことが巻末の膨大な文献リストからも伺える。実際,現代でもこの分野の勉強の一環として本書に目を通す価値はあるだろう。但し,あくまで参考程度に留めるべきである。

 著者の履歴を眺めていて気が付くのだが,本書刊行時点ではまだ博士号を取得しておらず,母校・早大から博士論文「ロケットの運動の数値解析的研究」が認められたのが4年後の昭和50年(1975年)である。多分,本書の記述に使われた膨大な文献は,航空宇宙研在籍時からのものも含め,博士論文執筆のために存分に利用されたのだろうと推察できる。
 残念ながら,その後,本書は改版されることなく,当然その後の研究の進展も,Linpack, Eispack,そして統合されたLAPACK/BLASと派生ライブラリの高速性については全く触れられないままとなってしまった。書籍ではありがちのことではあるが,科学技術計算基盤が大型計算機からワークステーションやパソコンに移ってしまった1990年以降の技術動向を著者は全くフォローしていなかったようなのである。

 実はワシはちょうどその時期に博士号の取得のために永坂秀子先生の実質的な指導の下,著者に主査をお願いしていたのだが,研究そのものについての役立つアドバイスは皆無であり,博士号取得の要件となる査読論文はほぼ全部,ワシと永坂先生との共著として出版したものである。とはいえ,いざ博士号の審査となれば,著者の顔の広さを存分に発揮して頂き,副査として日大工学部に移っていた田中正次先生と,物理学科の川上一郎先生という大御所を付けて頂いたことは今でも感謝している。しかし,肝心の論文の中身についてのアドバイスは地に足のついたものではなく,正直イラつくことが多かった。当時は数値解析よりもCGやプログラミング言語の方に著者の関心が移っていたことも原因であろうが,やっぱり,数値線型代数に関する最新知識の習得は怠っていたのかなぁと思わざるを得ないのである。

 本書に関しては,今でも内容的に使えるところが結構ある反面,更に高度に発展した技法があり,それを取り込んだLAPACK/BLASが既に無料で入手できる状況にあることを鑑みると,歴史的価値以上のものを見出すことは難しいというのが今の偽らざるワシの感想である。理論的な記述,本書で言うとQR法の収束の解説などはさすがに心血を注いでいるだけあって分かりやすいが,同様のものは森正武「数値解析」(共立出版)にもあるので,本書が唯一無二の数値線型代数中心のアルゴリズム解説書であるという記述はそんなに多くはないのではないか。それよりは1970年代初頭の段階でのこの分野の動向,そしてその当時の著者の博覧強記ぶりを知るための歴史的資料として捉えるべきであろう。

 ワシが現在刊行を目論んでいる「LAPACK/BLAS入門」(仮)は,実は本書の記述に対する一種の「恩返し」の意味合いも込められている。まことに嫌味で反抗的だった院生として著者に対し「先生の書いた数値線型代数の技法は全てLAPACK/BLASにつぎ込まれて更に洗練されてますよ」と言いたくて書いているところもあるのだ。ちょうどその執筆に苦しんでいる時期に著者が亡くなっていたことをこの年の瀬に知ったこともあり,博士号取得に際して散々お世話になった「お礼」も兼ねてこの小文を書くことにしたのである。

おざわゆき「あとかたの街1~5」(完結)講談社

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「あとかたの街1」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-376999-9, \580+TAX
「あとかたの街2」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377075-9, \580+TAX
「あとかたの街3」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377144-2, \580+TAX
「あとかたの街4」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377221-0, \580+TAX
「あとかたの街5」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-377350-7, \580+TAX

 2014年初頭から始まった連載が本年(2015年)半ばに終了,最終の第5巻が出版されて,名古屋空襲を描いた初の長編漫画が完結した。戦後70年を経て第2次世界大戦時の日本を描いた映像作品はボチボチ「時代劇化」しつつある中で,辛うじて肉親からダイレクトに聞き書きできる現時点で描かれた「生の感触」を伝える役割を果たす作品として,図書館に置かれてもおかしくない漫画作品である。まずは完結を喜びたい。

 とゆー真面目な意見は他にもたくさん書いている人がいるだろうから,ワシは個人的な「萌え」をここで書きつけておくことにする。
 それは本作の第2巻の表紙に描かれた,物資の少ない中で男物のコートを羽織った主人公の女学生・木村あいの姿によって発動されたのだ。ルパン三世の五右衛門バリに「可憐だ・・・」と思ってしまったのである。萌えたのである。
 萌えたといえば,同様の胸キュン(死後)を,本年9月に出張で行ったドイツ・ポツダムでも感じたのである。毎日国際会議の会場となっている大学へトラムに乗って通っていたのだが,そこには必ずスカーフを被ったムスリムと思しき少女が乗り込んでくるのである。それを見るとワシはドキがムネムネになったのである。ロリコンかワシは。
 いやそうではないのだ。
 ワシはどうも「健気(けなげ)」にヤラれてしまうようなのである。自分を取り巻く家族や社会や時代の状況に対して声高に反抗するのではなく,従順に,だが,真摯に向き合っている姿にワシは心底惚れてしまうようなのだ。多分,ある種の合理性を主張している向きが,実は自身の利益の最大化を狙って行動しているだけという事例に普段から多数触れているため,心底ウンザリしているという事情が大きい。きりっと真一文字で口元を結びつつ日常を営む,その姿にワシは涙が出そうになる程感動するたちなのである。ドイツで見たムスリムの子供たちも,本書で描かれている登場人物たち,とりわけ,主人公のあいにも,ワシは共通するきりっとした口元を見たのである。

 本書で描かれているあいは,幼少の妹・ときと鶏・クラノスケを手放すことなく,どんな困難があっても家族として行動を共にしようとする。大黒柱である父親がイマイチ頼りないこともあって,日本本土の制空権が完全に失われた後,木村一家は焼夷弾が散らばる中を名古屋市内から岐阜へと疎開。それでも最後まで家族と共に生きていく姿は健気で尊い。全く持って結婚するならこういう娘さんに限るよなぁと,我ながら昭和のおっさんのような感想を抱いてしまうのだが,こういうタイプに弱いんだから仕方なかろう。

 してみれば,ドイツで見かけたスカーフほっかむり娘さんたちも,ムスリム家族内の結束の証としての服装をしている訳で,木村一家と同様の健気さが充満しているのも当然なのだ。こういう家族愛とそれを表現する健気さに対する「萌え」感情,誰しも強弱の差はあれど持っているものであるとワシは信じるのであるが如何か? 読者諸氏におかれましては,完結した5巻セットを読破して,戦時中の庶民の大変さを知ると共に,いつの世もどんな地域でも人間社会を成立させてきた最小単位である家族愛に対して胸キュンさせて頂きたいものである。

御手洗直子「31歳ゲームプログラマーが婚活するとこうなる」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-67174-6, \850+TAX

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 以前ここで紹介した「31歳BLマンガ家が婚活するとこうなる」の続編,今度はゲームプログラマーである旦那の側の婚活エッセイマンガである。相変わらず乾いたユーモアのある作風で,お気楽に読めるし,何より数少ない「男側から見たネット婚活の赤裸々な実態」が垣間見えるので,普段から出会いがないとお嘆きのオタク(に限らないけど)なモテない男性諸氏におかれては,ネット婚活を始める前に是非一読し,「粉かけた女性からの返信が全くない」「リアルなデートの第一回目で相手が目の前に現れず終わる」「ファッションセンスのダメさをズケズケ指摘される」等々の悲惨な経験談を頭に叩き込んでおくべきである。

 ネット婚活を始めるシチュエーションは人それぞれであろうが,一番の理由は「出会いがない」ということであるらしい。地方自治体が相次いで婚活イベントを主催するのも,リアルな出会いの機会を増やしたい→既婚者を増やさなければ地域の維持ができない,という危機感の現れのようで,高知・奈良・長野・福井で行われている報告書(PDF)をチラ見するだけでもその一端が理解できようというものである。身の回りには出会いがなく,行政の手助けも受けられないとなれば,人類の利器・ガイアの神経回路ともいうべきネットを通じた(いささか恣意的な)ランダムアクセスに頼るのもむべなるかな,という気がする。

 この御手洗直子の旦那がネット婚活を始めた理由は,ボンヤリ過ごした20代を振り返り,「このままいくと彼女とか結婚とかスルーしたまままた10年経過する気がして・・・」「よし決めた!31歳これからの目標は女の子とお近づきになる!」(P.9)という決意である。で,登録したはいいけれど,前述のような悲惨な目にあいながら5年間(長ぇよ!)もの歳月を過ごすことになったというのである。全くもって同様のオタク的もっさり系男性として思い当るところの多い(だから思い返したくない)貴重で笑える(傍から見ればね)体験を積み重ねてきたからこそ,本書は是非とも同類男性諸氏にお勧めしたいエッセイになっているのである。

 身も蓋もない統計調査によれば,結婚できる男性は「正規社員(職員)として一定以上の所得がある性癖普通,人格穏やかな人」ということになる。所得があることはもちろんだが,社会的常識を一定以上備え,女性に対する配慮ができなければ,結婚には至らず,したとしても長続きしないのだろう。当たり前のことではあるが,これらの条件が最初から揃っていればまず目の高い女性連中が見逃すはずがなく,「モテる男性」となってあっという間にゲットされてしまうことになる。そうやって男としての主体性を何ら発揮することなく篭絡された例を幾つか目にするにつけ,高度に発達した情報社会における弱肉強食的結婚事情の何と残酷なことか!と叫びたくなる。そしてその他大勢の女性からそっぽを向かれた「モテない男」どもは,結婚のためにはどんな悲惨な目にあったとしても主体的に動かざるを得ない,動き続けざるを得ないことに気が付くのである。

 本書で描かれる御手洗直子の旦那の経験はなかなか悲惨だ。御手洗の筆致がユーモラスで乾いているから読めるけど,自身がそーゆー目にあったら早々に挫折して引きこもってしまうかも・・・と恐ろしく思うかもしれない。やれ「臭い」だの「ダサい」だの「車持ってこい」だの・・・まぁいろんな要求を突き付けてくるもんだなぁと,ワシはあきれ返ってしまった。勿論ワシも何件か「お見合い」の経験があるが,ここまであれこれ言われたことはないので,ワシは随分と常識的な女性たちと接触できていたのだなぁと知ることができたのである。

 とはいえ,悲惨だろうが何だろうが,活動し続けないことには結婚には至らないし,何より経験を積むことで身を持った学習をすることになり,少しずつレベルアップして最終段階の手前では短期間の同棲経験(SEXがあったかどうかは描いてないが)までするに至るのだから,人間何事も経験と学習だなぁと思うのである。これ何か似ていると思ったら,新卒の就活と全く同じシチュエーションなのである。けんもほろろに門前払いされる経験を経て己を知り,自分にふさわしい企業を少しずつ受験していって最終面接まで辿り着けるようになって内定を得る,という過程は婚活も就活も同じなのだ。
 もちろん一発受験ですぐに内定を得る「モテる就活生」というも存在するがそれはごく僅か。大多数は多くの「お祈りメール」を貰った末に社会への入り口にたどり着く。この高度に発達した情報社会では選択と選別を我々も企業も日常的に行っており,他者からの要求を無制限に受け入れることはあり得ない。自らが拒絶することは当然の権利である以上,「自分が拒絶される」ことも受け入れなければならず,であればこそ,拒絶に対して「傷ついた!」と喚き続けることは無駄以外の何物でもない。自分だって拒絶することがある以上,拒否されて傷つくことはお互い様なのである。

 前著でも描かれているように,御手洗の旦那は御手洗と出会うことで長きに渡った婚活を終了する。最終的にはオタク的趣味と収入(重要!)以外のことには興味のない御手洗直子と結婚するに至り,婚活中に学んだ数々の「社会的経験」は不要だったのかな・・・と旦那本人は感じているようだが,ワシとしてはこの経験があったからこそ結婚後の生活も安定的に営めるのでは,と思う。必ずしも望んで得た婚活経験ではないにしろ,それは今後の結婚生活における種々の波乱を乗り越える礎になるのではないだろうか。

 ま,過ぎ去ってみれば何でも「思い出」になってしまうものである。ネット婚活を,この御手洗の旦那ほど経験していないワシとても,今になってみれば人生を振り返る際のスパイスになっているなぁと感じるのだから,これからネット婚活に入ろうという男性諸氏におかれましては,本書を前書と共に読み込んで,スパイス慣れしておくのも一興ではないかと思うのである。

マイカタ「かたくり」上・中・下,一迅社

上 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0878-5, \1240 + TAX
中 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0879-2, \1240 + TAX
下 [ Amazon ] ISBN 978-4-7580-0880-8, \1240 + TAX

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 世に蛮勇あり。・・・というのはオブラートに包んだ婉曲表現であり,つまりは「バカじゃねぇの!」と吐き捨てられる行為一般を蛮勇と呼ぶのだ。

 本書の出版はまさに蛮勇,オールカラーで全話収録,しかも三分冊で一冊税込だと1300円を超える価格で一括販売である。バカのやることである。ワシが一迅社の株主なら怒り狂って社長の首を絞めに行く。既に実績のある有名マンガ家なら復刊ドットコムという事例があるからまだ理解するのだが,著者は日本のプロ商業漫画界ではほぼ無名の存在であり,しかも内容は弱小Web会社のブラック社畜生活を明るく描く,解説なしの専門用語だらけの不親切極まりない1ページ完結のぶつ切りマンガだ。講談社のWebマガジンで連載されていたとはいえ,3年の連載期間中に一度も単行本にまとめようという話もなかったという,商業的には完全に見捨てられた作品なのだ。捨てる神あれば拾う神ありとよく言われるが,拾って出した単行本が売れなければ神どころか単なるスッテンテンの貧乏人になるだけだ。まともな出版社ならやらないことを一迅社はやらかしたのである。

 しかし一迅社はそのような前科がある。低迷していた夢路行の全集を出し,鉛筆書きの個人Webサイトに張り付けられていた白黒ビットマップをまとめて単行本化してアニメ化まで行っている。まこと,賢いサラリーマンだらけの日本の出版界において数少ないベンチャー魂にあふれた大馬鹿者の出版社である。漫画に対する目の付け所については確かなものがあり,それが大衆に刺さるものかどうかを世に問う度胸は大したものなのである。確かに本書は,そして作者のマイカタにはそれが備わっており,オールカラーのド高い贅沢な大判単行本として読者に届けるだけの価値のある作品だと一迅社は確信したのだ。そしてそれは確かに間違っていない。間違っていないがビジネス的にどうなるかは未知数だ。しかるに大馬鹿出版社の大博打に対し,ワシは戸田書店静岡本店において大枚払って本書を入手し,読破してこれを書くことでその博打に一口乗ることにしたのである。以下は丁半の結果を待つこのワシの高揚感をお届けすることにする。

 実はこの著者の「マイカタ」という人物,創作系同人誌即売会コミティアではかなりの有名人である。ワシは一度だけ,この著者ともう一人の人物との合作本を読んだことがあるのだが,それはコミティア発行のパンフレットの読者投稿欄で取り上げられていたからである。
 それはマイカタ(女性)ともう一人の人物(男性同人マンガ家)の同棲生活を描いた共作エッセイマンガだった。最終的にはマイカタの方が,もう一人の同人マンガ家の経済力のなさに見切りをつけて別れてしまい,商業作家への道が開いたマイカタが都会に出ていくというものであったが,なる程,明らかにマイカタの作品にはもう一人の作品にはない「魅力」があった。この「かたくり」上巻の最初の部分はその面影が色濃く出ていて,不安定ながらもプロ編集者から「こいつを使ってみようかな」と思わせる独特の作風になっている。

 マイカタの画風の魅力は,(1)融通無碍な描線で描かれた下半身デブな可愛いキャラと,(2)世の無常を泣き笑いでからりと叫んでまとめてしまうブラックジョーク的シンプルさ,この2点に集約される。
 まずは(1)について語ることにする。
 多分,デザイン能力が抜群にあり,図画の構成能力が高いためだろう,キャラの動的表現がたがみよしひさより数倍上回っているにも関わらず,読みにくくはならず,魅力的になっているのだ。しかもこの下半身デブキャラ,特に女性キャラは脂肪多寡にもかかわらずみな可愛い。デブ専エロ漫画的肉ジワがあっても水着姿がエロく感じるのは,かなりの専門的美術教育を受けてきた可能性もあるのでは・・・と思うのである。表紙が名画のパロになっているのもそれ故なのかもしれない。
 そして(2)だ。作者マイカタの分身のような主人公・ナカウラが所属する弱小Web制作会社は,実は親会社のリストラによって消滅した支店が母体となって発足したものであり,まず上巻の最初からエグイ社長のドライな配置転換 or 退職宣言から始まるのである。それがまことに心地よい。ナカウラをはじめとする支店の面々は,支店長を新たな社長とするWeb小企業として再出発,配置転換して散り散りになった元会社の仲間と涙の別れを経て,明るい諦観を持ちつつ,土日祝日が平気で潰れるサービス残業三昧の社畜生活を開始するのである。
 マイカタという作家の持つこの二つの特徴が融合し,不思議な可愛らしさ,明るさを保ちつつドラマチックでリアルなICTを活写した物語世界を展開しているのが本作のもう一つの不思議なところなのである。

 著者のマイカタは都会(名古屋か?)に出てからすぐに漫画だけで一本立ちしたわけでなく,IT会社で働いていた経験があるとのこと。それ故,本作の端々で何の解説もなく展開されるHTMLやらAndroidやらIOSやらソース(HTML,CSS, JavaScriptのプログラム)という用語がリアルな物語の中で昇華されている。このコンピュータ関連会社のリアルさはシギサワカヤ並である。長時間労働にも関わらず明るい諦観で貫かれているのだから,重苦しいシギサワ作品とは雰囲気が真逆であるが,何か奥底には諦観ベースのブラックユーモアテイストがあるのが共通項として挙げられる。現代テクノロジーの粋を集めたはずのICT世界は今だ泥くさい低賃金労働の下支えなしでは立ち行かない,中世的階層世界を凝縮したような構造を持っており,シギサワ作品にもマイカタ作品にもその怨恨のようなものが作品のエネルギーとして立ち現れている。Amazonクラウドは倉庫を駆け回る多数の契約アルバイトによって稼いだ銭がつぎ込まれているし,Googleの堅牢なデータセンターは常に故障する基盤を交換する要員がいなければクラッシュする運命にある。そしてクラウドが支える検索対象データを担うのは,全世界で下へ下へと押しやられたHTML, CSS, JavaScript, ActionScript, PHP, C#, ASPのプログラマであり,JPEGやPNG形式の煌びやかなバナーや飾りつけを作っては張りつけつつWebページを構築するナカウラのようなデザイナーの汗と涙と低賃金なのである。

 上・中・下の3巻でマイカタのダイナミックな画風は確立し,躍動感と可愛さはそのままにプロマンガ家として一本立ちしたようだ。そして最後には上巻の最初の展開のようなドラマチックな結末と現代ICTの中世的階層世界を描いて結末を迎える。著者によれば単行本化が一向にされないことに業を煮やしての自分から申し出た打ち切りということだが,実は早いうちにICT世界から足を洗って最新技術動向をネタにできなくなったという限界を感じてのことかもしれない。今時,全部Flashで作ったページなんぞ作ってたんじゃスマホやタブレットで見れないページができちゃうだけだしなぁ。

 何にせよ,本書の刊行はワシが目撃した中では本年最大の暴挙であり,そんな大博打を打たせるだけの魅力を称えたマイカタを世に出そう(+ひと儲けしよう)という一迅社のバカな心意気に感動した一大事であった。3冊合わせて4000円近い出費を無駄と思うか安いと思うかは,そんな一迅社の心意気を,マイカタを,そしてマイカタが描いた現代ICTの中世的階層社会を,どう評価するかによって変わる。少なくともワシはそのすべてに対して惜しみない拍手を送りたく,このぷちめれを執筆したのである。

 マイカタと一迅社に幸あれ! 願わくば本書の売り上げと印税で年が越せますように!