シギサワカヤ「さよならさよなら、またあした」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-62129-1, \590
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 ワシにとって,シギサワカヤはエロ漫画家だった。シギサワの柔らかい描線は,プニプニしている裸体を白く輝かせ,紙面から浮き上がらせる。それは読者の健全な性感帯を挑発せずにはいられない。2009年から刊行されている女性向けエロ恋愛漫画アンソロジー「楽園」で,創刊号から最新Vol.7まで途切れなく表紙絵を担当しているのも,その描線が醸し出す上質なエロさがキャッチーだと編集者が判断したためであろう。
 そのシギサワが新書館という緩くてお堅い出版社から初単行本を出した。それがこの「さよならさよなら、またあした」である。「楽園」愛読者であるワシが,その先入観から何を期待して本書を買ったかは言うまでもない。
 結論から言うと,その期待はある部分満たされた。しかし,全く予期しなかった新鮮な驚きも与えてくれたのである。それは今までシギサワに感じてきた,表面的なエロさを支える「土台」が何であったかを確信させるものだったのだ。まだ2011年が10日も残っているこの時期,早々に今年のマンガを総攬するムックを出版している宝島社とフリースタイルには大いに反省して頂きたいものである。今年一番の収穫物を逃したよ,と。
 本書は一人の病弱な少女が大人になるまでを,4つの異なる視点から描いた短編を編んだものである。病名は明らかにされないが,主人公の持病は結構深刻な難病であるらしく,両親は彼女のために郊外にどーんと一戸建てを購入,入退院と手術を繰り返しつつも,高校卒業の日を迎えることができた。その彼女が卒業記念(?)にとった行動は,軟弱そうな理科の教師に結婚を申し込むことであったのだ。
 ・・・と書くとシリアスな難病少女の恋愛物語と取られそうだが,そうではないのだ。いや,確かにシリアスさは確固としてあるのだが,軽いのだ。かっとんだギャグトーンが随所に織り込まれ,主人公に至っては自身の難病すら,級友との話のネタとして使い倒しているのだ。
 深刻ぶらない病弱ストーリー・・・とは違うことは確かだ。人間は誰しも死ぬ,遅いか早いかだけだ,というセリフのオリジナル出典は知らねど,これは事実。それを深刻に考え込まず,そ知らぬふりしてやり過ごしたりして「日常」を生きるのが「普通の人」なのだ。そしてこの病弱主人公もそんな「普通の人」の一人なのだ。普通の人だからこそ,病気も性癖も恋愛もセックスも織り込んだ「日常」を過ごす術に長けているのだ。本書で描かれるのはその「日常」であり,「普通の人」の普通たる所以がエンターテインメントになっているのである。
 シギサワの既存作にはさまざまな男女の人間模様が描かれる。セックスが重要なアイテムであることは確かだが,それは必ずしも甘美なものではない。男性向けエロ漫画の大半ががオナニーのための道具であるのに対し,シギサワのエロは女性向けの,ある種の深刻さをはらむ痛々しい側面を持つものなのだ。語り口がギャグ調からシリアスに転じるテンポの見事さは,めまぐるしく変化する事象とそれに応じて振り回される人間の感情の正確なデッサンなのである。シギサワはその事象にセックスを大胆に取り入れつつ,刹那的なエロさが日常に溶け込んでいく様を描くのが抜群にうまい。本書収録作には直接的なエロい肉体表現は皆無だが,「エロさ」は十分盛り込まれている。このあたりが緩い新書館向けに合わせたかなぁ,と思われるが,それを一つのチャレンジとして見事に昇華させているのはさすがである。
 本書の場合,タイトルである「さよならさよなら、またあした」というのがまた秀逸なのだが,それは読んだ人のお楽しみとしておこう。・・・ありふれている? 確かにそうだが,そのありふれたことを胃の腑に落とすシギサワの「説得力」を堪能できるってのがいいんだよ。シギサワに馴染のない方でも,シギサワのエロさがお好きな向きも読んでみませう。新しい年を迎えるこの時期に相応しい一冊である。

石原繁・浅野重初「理工系入門 微分積分」裳華房,石村園子「すぐわかる微分積分」東京図書

「理工系入門 微分積分」 [ Amazon ] ISBN 978-4-7853-1518-4, \1900
「すぐわかる微分積分」 [ Amazon ] ISBN 978-4-489-00406-3, \2200
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 あーめんどくさ。複数の教員が担当する「微分積分/演習」のテキストを統一するための会合があり,何だか知らないけれどワシが議長役をしろということになった。
 で,大もめ。
 元々,ワシ自身がリーダーシップを取るつもりもなく,現状,テキストが統一されていない状況を理解するためのご意見拝聴に相務めようという態度で臨んだせいなのだが,その煮え切らない態度に怒った方がいらっしゃるのは当然として,そもそも今まで培ってきた教育手法も考慮せずに統一なんて乱暴極まりないというご意見の方もいらっしゃって,面白かった・・・のだが,正直疲れた。政府の審議会で喧々囂々の議論を纏めるなんて良くやるよなぁ・・・ホント,議論ってのはタフじゃないとやってられないなぁとつくづく感じた次第である。
 で,そこで出たテキストの候補がここで取り上げる2冊なのである。石原・浅野の「理工系入門 微分積分」(以下,「石原・浅野本」と称する)は,矢野健太郎の流れをくむ正統派テキストの簡易バージョン,石村園子の「すぐわかる微分積分」(以下,「石村本」)は,共立出版の「やさしく学べる」シリーズ(ここでも離散数学テキストを取り上げたことがある)と双璧をなす,「すぐわかる」シリーズの一冊で,穴埋め形式の演習問題の解答法まで教授してくれるバカ学生向けテキストである。両者とも,一変数関数の微分積分から二変数関数の微分積分までフォローしており,石原・浅野本が常微分方程式まで扱っている点を除けば,ほぼ守備範囲は一致している。
 また,どちらもロングセラーで版数・刷数が半端じゃない。石原・浅野本は1999年初版で,2011年2月に第16版第4刷,石村本はその6年前,1993年に初版,ワシが貰った2008年のものは第37刷である。理工系大学生向けのテキストとしては間違いなくベストセラーと言える。両者とも,主たる使用者の大学教員に支持されているからこそこれだけ売れているわけで,それぞれのテキストに惚れるという合理的理由もちゃんとあるのだ。だから,この両者のどっちかを選べと言われると揉めるわけである。いいじゃんテキストなんて好きなもの使って,結果として微分積分が理解できれば問題なし,とワシ自身はそう考えるのだが,世の中そー考えない方もいらっしゃって,まぁめんどくさいことになってしまうのである。
 「やさしく学べる離散数学」でも述べたが,偏差値40前半以下の学生さんを相手にしていると,「数学」というものを根本的に勘違いしたまま教えられてきた,という事実に気がつく。彼らの多くは単なる記号操作(=計算手法)の暗記と訓練を数学と思っているのだ。まぁ,彼らを相手にしてきた高校の先生方にしてみれば,それで十分と割り切ってのことなんだろう。実際,二次方程式の解の導出方法なんかすっかり忘れ,解の公式だけ覚えている,なんてのが日本の標準的高校生の実態なのだから,標準以下の生徒は計算方法を習得しただけマシ,と割り切るのも無理もないことなのである。
 とはいえ,これだけフツーにコンピューターが氾濫し,スマホですらDual-core CPUを積んでいる時代になると,少々重たい記号処理操作でもソフトで易々と実行できてしまう。計算方法の裏に潜む理論体系を知り,理論に基づいた真の「数学」の運用こそが人間本来の仕事であり,ICT社会になった今こそ,計算は機械に任せて本来の仕事に勤しむべきなのだ。その点,日本の高校生(に限らないけど)の数学力は世界最低レベルと言えよう。何せ,計算機械の方が何万倍(どころじゃないか)も優れている操作を,超低速な人力で再現しておしまいってんだから。最低でも,所謂「応用問題」が出来なきゃ数学を勉強する意味が無い時代になったということは認識して欲しいものである。
 だもんで,大学教師は躍起になって本来の「数学」を教えさせられる羽目になる。いや,数学以前の国語も含めて,全部やり直しになるのだ。答案の書き方,論述の仕方,「式」が単なる記号ではなく,意味を持った「文章」なのだということ・・・,まぁメンドクサイったりゃありゃしない。しかし,これが重要,かつ,専門科目への登竜門となる学習内容なのである。理論体系の存在に気づき,「体系」に基づいた記述方法を習得できないと,彼らは「数学」を学んだことにはならず,コンピューターに取って代わられる存在に留まるのだ。
 で,その本来の「数学」を教えるための教材開発をせっせせっせと行ってきたのが,「大綱化」がなされて教養課程が崩壊した1990年代からの歴史なのである。同時に,大学も山ほど作られた結果,本来なら大学生とは呼べないレベルの人達も受け入れざるを得ない状況になった(大学もある,ということ)。そうなれば,ますます教材としてのテキストは多種多様なものが必要となり,それこそ「微分積分」と「線形代数」の入門書は佃煮に出来るほど出版されることになった。結果として,教員の教授法にあったテキストが選ばれて,熱心な教員ほどテキストに依存したノウハウが増えて執着度が増す,ということになるのである。そのような事情を無視し,十分なFD的議論もせずに無理して統一を求めれば,揉めるのも当然のことなのだ。石原・浅野本を好む向きは,説明が不足している分を埋める講義を熱心に行い,石村本を好む向きは,自学自習の共として演習問題の解答をこのテキストに従って書かせるのだ。どっちがどう優れているかなんて決めようがないではないか。学生の理解度に違いが出るとすれば,それはテキストのせいではない,教員の資質の問題なのである。
 ・・・とゆーことを全部報告書に書いたのでは字数がいくらあっても足りないので,オミットした歴史的経緯とテキストの紹介文についてはこちらに書いておくことにしたのである。

遠藤浩輝「遠藤浩輝短編集1」「同2」アフタヌーンKC

「遠藤浩輝短編集1」 [ Amazon ] ISBN 4-06-314175-6, \505
「同2」 [ Amazon ] ISBN 4-06-314275-2, \514
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 物質的な豊かさの頂点にいる人類が,これほどの空しさを抱える存在になるとは,過去の誰しも予想し得なかったに違いない。「衣食足りて礼節を知る」のは飢餓と戦乱に苦しんだ時代の話。「衣食足り」たその先にかくも巨大な空疎,即ち,「虚無感」が控えているとは,孔子も今頃あの世で自分の無知を恥じているに違いないのである。
 とはいえ,この虚無感をマンガの表現として受け止めるには条件がいる。正確な客観描写,俯瞰から全てを見通す神の視点,突き放した冷めた観察眼が不可欠だ。最初これを提示したのは卓抜な画力を誇る大友克洋だった。そしてそのフォロアーも虚無感をマンガに導入し始めた。遠藤浩輝がどの程度,大友フォロアーだったのかはよく分からないが(本人はコメント饒舌のくせに肝心なことを語らないヘタレなのだ),遠藤のこの2冊短編集に収められている作品はほぼ例外なく虚無感に満ちている。その意味では,遠藤浩輝はまごうことなき大友克洋の落とし子の一人である。
 遠藤の作品に共通する要素はもう一つ,人間の感情は欲望がいかにデタラメで制御不能の代物なのか,ということを織り込んでいることである。笑いも悲しみも怒りも,実はどうしようもなく湧き出し溢れてくるものであって,それは仕方の無いことなのだ,と言っているようでもある。そのくせ,感情や欲望を放出した後に残るのはやるせない虚無感のみ。まるでワシら人類は,宇宙空間の虚空に誰が聞くわけもない,かすかな雑音を発するだけの存在だと言いたいがためにマンガを描いているかのようである。よく空しくならないものである。あ,それを覆い隠すためのコメント饒舌だったのかも。
 2巻に収められている「Hang」は,同じシチュエーションの短編「Hang II」がComicリュウ創刊号と創刊2号に掲載されている。未だこれが収録された単行本が出ていないので,今年(2011年)の2月と3月に相次いで増刷されたこの単行本を買ってきたという次第である。日本列島が,天空の果てから伸びてきたぶっといワイヤーロープによって吊されており,常時どこかしらの陸地がワイヤー切れによって落っこちてしまう,という誠に不安定な世界を描いている。今から読むと,まるで3・11東日本大震災後の日本の心理状態を言い当てているような設定である。
 そんな危なっかしい世界でも,若者はSEXして子供を作り,とりあえず当座の水を確保するためにダムを造ってますます宙ぶらりんの大地の重量を増す。即ち日本人は自ら落下の危険を増やしているのである。合理的知見に基づいて人類は蠢いていない,ということをやけくそのように,ギターをかき鳴らしながら遠藤浩輝は叫んでいるのである。
 ギャグ短編も含めて,「虚無感」としかいいようのない感覚をワシら読者に残す名短編集,何がきっかけかは不明なれど,久しぶりに増刷されて間もないこの時期に,そんなマンガを読んでみるのもある種のセラピーにはなりそうな気がする。1巻の最後は「神様なんて信じていない僕らのために」という出来過ぎた感のある,演劇をセラピーにしてしまった学生演出家の物語。きっと,虚無感を描くこと,それ自体に「セラピー程度の効果がある」と,遠藤自身に言い聞かせているかのようである。
 それはきっと,ワシら読者にも効果のあるものなのだ。

宮崎駿・企画&脚本,宮崎吾朗・監督「コクリコ坂から」

[ 公式サイト ]
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 いやまぁ,「ゲド戦記」の時から,宮崎駿の二代目,宮崎吾朗のアニメ映画監督としての「才能」についてはあれこれ言われ続けてきたわけであるが,本作を見て・・・なるほど,当たっているところがあるな,と思うと同時に,実は映画そのものより世間が注目している「物語」が進行中であり,世間はそちらをおもしろがっているのではないか,と気がついたのである。なるほど,そう考えると,本作の「できばえ」や「面白さ」についても納得できる。「この程度」であり,なおかつ,「ゲド戦記よりマシ」というレベル,それを達成するために父親である宮崎駿が企画と脚本で支えたのが本作なのだ。そして本作が「この程度」であることは絶対に必要なことだったのである。
 映画そのものの感想については,語りまくるラッパー・宇多丸の「ウィークエンドシャッフル」におけるこの感想(Podcast)と余り違いはない。「どこかで見たことのある過去のジブリ作品のカットが多数」とか,「脚本が余りにご都合主義(の部分がある)」とか,「動きが悪い」とか,「キャラクターに精彩を欠く」とか・・・。しかしそれでも結構面白かったのは事実である。至る所で宮崎駿の才能が生かされ,おっと目を引くカットは大体宮崎駿の助言が生かされているようなのだ。
 それは既に放送されたNHKのドキュメンタリー「ふたり」,「コクリコ坂・父と子の300日戦争」(2011年8月9日放送)でたっぷり語られていた。
 吾朗監督の提出する企画がダメになり,宮崎駿の企画が採用されるも,吾朗監督の最初の絵コンテが精彩を欠き,鈴木敏夫プロデューサーから公開取りやめもあり得ると警告される出来。そこで,宮崎駿は要所要所でアドバイスを行う。まずヒロイン・海(うみ)の性格付けを決定づける,陸橋の上を大股で歩く俯瞰のカットを提供。これで暗いだけのヒロインから,凛とした芯が通った魅力あるキャラクターに変身する。そうして絵コンテはドンドン進み出し,最終的には映画公開のゴーサインが鈴木プロデューサーから出る・・・そんなドラマを映画公開前から喧伝し,観客動員を増やすべくこの時期を狙ってNHKとジブリは放映したのである。殆ど,受信料を使っての映画宣伝番組である。
 しかし,これが映画以上に重要な「物語」をワシらに提供してくれているのである。前作の「ゲド戦記」でもNHKはジブリで密着取材を行っているが,そこでは今回の「物語」に繋がる伏線がしっかり敷かれていたのだ。そしてワシらはNHKとジブリ,というより鈴木敏夫プロデューサーという天下一の興行師の手の中で踊らされていたのだ。

 「映画もさることながら,宮崎駿と宮崎吾朗の葛藤,そして吾朗がどう成長しているか,見物ですよ,大変面白い「物語」ですよ」・・・と。

 その意味では,本作は少なくとも前作よりはマシな作品でなければならない。成長していなければ「物語」は停滞する。更に父と子の葛藤の末に幾ばくかの和解も加えて「物語」の盛り上げに一役買っている。
 「コクリコ坂から」はダシであったのだ。いや,もっと大きな父と子の「物語」に比較すれば,サイドストーリーでありさえすれば良かったのだ。声優キャスティングに配役名が付されていないのも,スタッフリストがありきたりであっても,登場人物に「メロドラマみたい」と言わせるご都合主義的展開があっても,ラストがとってつけの,アクションを見せつけるためだけのシチュエーションであっても,要所要所で父と子の「物語」が垣間見える光が見えさえすれば良かったのだ。観客を退屈させずに91分座席に縛り付ける程度の「面白さ」であれば十分だったのである。
 映画を見に行ったらもっとでかい「物語」に巻き込まれてしまった,という体験をするためにも,ぜひ本作は観に行くべきである。宮崎吾朗監督作品は,それを制作することが既に父と子の「物語」を紡ぐための重要なパーツなのだから。

原作・太宰治,作画・山本おさむ「津軽 太宰治短編集」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-182698-5, \1238
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 ワシにとって,太宰治と山本おさむは,永らく敬して遠ざけるべき存在だった。太宰の「走れメロス」は教科書で誇らしげに友情の大切さを見せつけていたし,山本おさむは「遙かなる甲子園」という,文句の一つもたれようものなら障碍者団体から総スカンを食いそうなマンガを描いていたから,批評の対象外にしていた。つまり読まなかったのである。
 そう,ワシはいわゆる「文部省(現・文科省)特選作品」というものが大嫌いなのである。触れたくないのである。ワシにとっては,税金を食いつぶして作ったわりには面白くない,押しつけがましい「正しい思想」をまき散らす害悪でしかないのである。太宰治も山本おさむも,その意味ではまごうことなく「文部省特選作品」・・・だと思っていたのである。
 しかし本作は,そうして遠ざけてきた二人が,とても上質なエンターテインメントを作り上げてきたことをワシに教えてくれたのである。読まなかったのは思い込みが激しすぎたせいであるが,それにしてもちともったいなかったな・・・と,この「津軽」を読んで反省したのである。
 優れた原作であっても,マンガにした途端に駄作に落ちる,ということはよくある。いや,かつては良くあった,というべきか。力量のない漫画家は単に原作をなぞるだけで済ませようとして,一番光る玉をダメにする。その意味では,中央公論新社が企画した「マンガで読む古典シリーズ」は図抜けたベテラン漫画家ラインナップの古典原作モノであった。ま,スカもあるが,おおむね,どの漫画家も,そのままなぞっては面白くない古典をどのようにエンターテインメントにアレンジするか,ということをよく練った作品が揃っていたのだ。
 もし今,その精神を受け継いだ「マンガで読む文学シリーズ」を企画するとすれば(昔,徳間書店でそーゆーものがあったと大塚英志が書いてたな),太宰治の愛読者である山本おさむが執筆陣に加わっていなければいけない。短編だけでもこれだけ芳醇な「面白い太宰治」という果実をワシらに運んできた力量がある漫画家とは,実は本作を読むまではよく分かっていなかったのだ。不明を恥じたい。
 山本おさむを見直すきっかけになったのは,今は見られないようだが,双葉社のサイトで連載していた漫画講座だった。高橋留美子の短編を題材にして,シナリオの優秀さを解説していた。「へぇ,山本おさむって理論派だったんだな」と,感心したのを覚えている。本書に収められた短編のうち,巻頭の「カチカチ山」はその理論的なシナリオ作りが功を奏した作品である。原作が,落語でいうところの地噺,つまり,作者による語りがメインになっているため,そのまま漫画化するには,背景となる「絵」が地味では盛り上がりに欠ける。そこで,原作が空襲の最中であるというシチュエーションを生かし,クライマックスを燃えさかる東京の風景に重ねている。具体的にどう「重ねて」いるのかは本書を読んで確認して欲しいが,これは見事な「シナリオ」である。
 本書の見所はもう一つ,巧まざる(?)ユーモアと,真っ正面から感動を描き出す誠実さのハーモニーが醸し出す物語の豊かさであろう。旅先で求めた鯛を5枚におろされたぐらいで大仰に騒ぐ太宰と,乳母と久しぶりに再会する太宰,両方包んで芳醇な文学を巧みに描き出した表題作「津軽」を読んで,ワシはうなってしまったのである。ま,くどくど書くのも野暮だから(既に遅いが),まずは読んで頂きたい。
 文科省が特選するかどうかは知らねど,本作はメディア大賞にはノミネートして欲しい作品である。日本のマンガ文化を誇るなら,骨太のシナリオに支えられた,真正面から感情を描いた本作が一つの核であることを示す必要がある。本作はその「核」を代表する最新作なのである。