安田まさえ「数学女子2」竹書房

[ Amazon ] ISBN 978-4-8124-7582-9, \648
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 著者自ら「②巻です,びっくりです。」と書いているが,ワシも2巻が出たのを知って驚いた。結構人気あるんだなぁ,と感心しきり。今時,商業雑誌連載マンガだからといって必ずしも単行本にまとまるとは限らない,という状況であるので,真面目に数学を専攻する学生を主人公にしたマンガが2巻分出版されるだけでも言祝がねばならない。イヤめでたい。目次はないし,数学者名言録って程の分量もない杜撰な単行本の作りは相変わらずだが,妙ちきりんな数学記号を使った意匠はなくなっているし,女の子が可愛らしいので許すことにする。
 本書の魅力については既に語っているので,今回は感心したポイントだけ語ることにする。
 主人公の数学女子達が3年生になり,ゼミ配属される,というのが本書後半の設定であるが,そのうち内山まなは「線形代数ゼミ」に配属される。「線形代数~?」とワシは一瞬違和感を覚えたが,ちゃんとゼミ主宰のA教授が「線形代数を復習して代数を深めたいなと・・・」(P.92)とそのゼミ名の由来をきちんと説明していることに感心したのである。
 本書では専門に深入りした数学そのものの説明は殆どないのだが,ツボをおさえた描写がきちんとなされている。著者はちゃんと数学を履修してきた人なんだろうな,と思えるのはそのためだが,特にこのA教授の言葉はアルティン流の線形代数→代数的構造→ガロア理論という学問体系を抑えていないと出てこないものなのである。それがどーゆーものかって説明は,アルティンの本とか,上野健爾の本とか,アルティンの弟子のラングの線形代数テキスト(特に下巻の方)を参照して欲しい。
 つーことで,次の3巻では華々しくガロア理論のコア部分の解説をお願いしたい,と無茶な願望を書き付けておく。

宮崎克(原作)・吉本浩二(漫画)「ブラックジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~」秋田書店」

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-13239-8, \648
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 いやぁ,最高最高。この表紙左上のギラギラした手塚治虫の姿もさることながら,右下の帯のカット「来週はがんばります」と笑顔で言う手塚治虫に至っては,「漫☆画太郎先生ありがとう!」と叫んでしまいそうになる。・・・いや,そんなことではない。本書の魅力はそんなところではないのだ。本書はちょうど手塚が落ち目の時代に起死回生のヒット作「ブラックジャック」を描き,又売れっ子第一人者に復活していく時期の脂ぎった「黒手塚」を描いた傑作ドキュメンタリー漫画なのである。
 「白手塚」「黒手塚」というタームは,もちろんBSマンガ夜話における造語である。ファンサービスには手を抜かず,対外的にはにこやかだったベレー帽姿の手塚治虫が「白手塚」とすれば,本書は,人一倍嫉妬深く,才能ある新人の登場には常に目を光らせ,自作の人気の上下に拘ったという,今となっては周知の事実になっている人間くさい姿が「黒手塚」ということになる。もちろん,「黒手塚」という言葉は,単なる人間の醜い裏面を表現しているだけではなく,その因ってきたるエネルギーや感情の坩堝,つまりは「情念」の煮えたぎる様を言い表したものなのである。そしてその「黒手塚」を知ることによって,「白手塚」まできちんと繋がって一人の図抜けた巨人・手塚治虫が立体的に理解できるようになるのだ。
 吉本浩二のマンガをじっくり読んだのは,実は今回が初めてである。Webで連載作品を読んだことはあるが,紙媒体では今回が初だ。改めてじっくり画風を眺めてみると,青木雄司を洗練させて構成力を与えるとこうなるのかな,という感じで,デッサンの狂った力業のキャラクターに細密な陰の描線が異様な迫力を添えている。ワシ個人は「デッサン狂いのヘタクソな絵の魅力」について常々考えているので,吉本の画風は良いサンプルなのである。しかし,人柄が人畜無害っぽいところは,う~ん,どうなんだろうな,と微妙な評価で,今一ワシの中ではあまり高く買ってはいなかった。今回この単行本を買っていなければ,当分はその評価を変えることはなかったと思われる。
 しかし,本書はすごいのだ。いや,凄いのは「黒手塚」の情念なのだ。黒手塚が吉本の人畜無害さを吹き飛ばし,土方のようにマンガ執筆という肉体労働に勤しむ巨匠の姿とエネルギーを吉本に描かせたのだ。それはもう漫☆画太郎なんてもんじゃない。自分以外のアシスタントや編集者に作品のネームを内容を確認させ,面白さに疑問を呈する評価を受け取るや,表面的な締め切りなんぞはすっとばして一から作品を書き直す。アメリカ旅行中に自分の頭の中だけで作品を構成し,アシスタントに電話でコマ割りと背景を指示する天才っぷりもさることながら,その帰りの飛行機内で,全ての乗客が寝入っている中,一人,インク壺を左手に持ち,一心不乱にキャラをペン入れしている様の描写は,目撃した永井豪の驚きを再現して余りある。
 エピソードの一つ一つは既に手塚プロのアシスタント経験者や関係者,同業の漫画家やTV番組などで伝わっているものが多く,ワシ自身が初めて知った事実,というのはごく少ない。しかし,知識として得たエピソードの「情景」には,吉本が描いた黒手塚の情念の炎が欠けていたのだ。本書によって,その重大な欠落要素がかちっと嵌まり,まるでアメリカから帰国した手塚が描いたキャラで原稿を埋めるように,「手塚治虫」という像がワシの頭に屹立したのである。なるほど~,漫画でドキュメンタリーを描く意味はここにあるのか,ということを,本作でイヤと言うほど知らされたのである。
 黒手塚が生み出した異常な執着心とエネルギーは,今後もグローバル化した資本主義社会において,重要な原動力となって我々を巻き込み,永久に「リテイク」要求を突きつけるに違いない。「ヒューマンな手塚作品」というレッテルは,表面的にも内面的にも哲学的にも間違っておらず,相当深い射程を持つものであることを,本作はワシら凡人に知らしめてくれるのである。

新谷かおる・和田慎二「黒い子守歌 Super Tug」同人誌

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 昨日(2011年7月8日(金)),神田神保町のコミック高岡・書泉ブックマート・三省堂本店を一巡りしてきた。しかし,「和田慎二追悼」というフェアをやっているところは皆無。白泉社の少女漫画雑誌を1990年代に引退してからも結構精力的に作品を発表し続けていたのは良く目にしていたが,過去のヒット作に絡めた作品は「今更」感があったし,近作を読もう気も無く,個人的には完全にスルーしていた。それはワシだけではないようで,Twitterでも「スケバン刑事」以前の作品が好きだったという,50代以上の方々のメッセージが多数見受けられ,近作を読んで嵌まった,という若者の意見は残念ながらかなり少数のようである。
 とはいえ,読めば結構面白い,ということはもっと評価されても良いように思う。「もう少し画風を現代的にしてくれれば」と感じる向きも多かったのではないか。ストーリーテリングは今の漫画家にも十分参考になるだろうし,キャラクター造形も分かりやすくとっつきやすい。手塚治虫のように若い漫画家の感性をどかどか作品に取り入れる柔軟性があり,エロ度ゼロな健全さを捨てても読者へ媚びるような要素がもう少しあれば,別な展開があり得たかもしれない。そう考えると,麻宮サキだけの漫画家として忘れ去られるにはちともったいないなぁ,とも思うのである。
 ・・・などと言いつつ,ふと我に返ればワシの書棚には和田慎二の商業作品が一つも無いのである。1987年から「花とゆめ」を読み始めたワシには「ピグマリオ」が一番近しい作品なのであるが,大河ドラマの割りには最初から全部読んでやろうという気分が起きなかった。手練れ過ぎて,一作一作,以前の連載分を遡らなくてもストーリーの流れとキャラの把握がすぐにできた,というせいであったような気がする。連載は欠かさず全部読んでいたし,大団円までお付き合いしたにもかかわらず思い入れがイマイチ少ないのは,「健全な面白さ」以外の要素が少なかったせいかなぁ,と今となっては思うのである。貴重な働き盛りの時期を「ピグマリオ」に消費されてしまった,という和田自身の述懐も読んだ記憶があるが,本人としては「そこそこの人気」(決してアンケート一位,というポジションではなかったと記憶する)に甘んじる作品をだらだら続けてしまった,という気分もあったのかもしれない。
 1990年代に突如連載を投げ出すようなエンディングで「花とゆめ」を飛び出してからの活躍ぶりについては,前述したように横目で見てきただけなので,よくは知らない。しかし,結構時間も自由に取れて好きに活躍できたのかなぁ,という感じは伝わってきたので,人気の程はともかく,最期の最期まで仕事を続けられたというのは本人的には幸福だったのかな・・・とワシは勝手に思い込んでいるのである。
 この記事のトップにあげた同人誌は新谷かおるとの合作で,新谷のストーリーに和田キャラがはめ込まれている,という感じのものである。1999年の夏コミで販売されていたものを,「こんなの売ってた!」という情報を得て自分のサークルから飛んで買いに行った覚えがある。その場で読んでも結構面白かったが,今読み返してみても色あせていない。逆に,色気満載の新谷キャラが和田の地味な画風に華麗さとエロさを加えていて,ブレンド具合が絶妙である。もう少しこの新谷かおるの貪欲さが和田にあればなぁ,と思わずにはいられない。
 合掌。

小谷野敦「友達がいないということ」ちくまプリマーブックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-68860-6, \780
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 いやぁ,痛快痛快。「プリマーブックス」だから少しは手加減するかと危惧したが,全くの杞憂であった。いつもの小谷野節全開,少し枯淡の味わいが出てきたのがファンとしては気がかりではあるが,「真実はこうなのだ」ということを遠慮なくぶちまけている。やっぱり感性としては立川談志と相通じるところがあるんだろうな,と思わせる怒りと哀切の行きつ戻りつがワシにはとても好ましく思える。新書としては薄めの187ページ,一気に読ませてもらった。「友達がいなくて(少なくて)さびしい」という人にとっての福音・・・となるかどうかは保証しないが,少なくともその寂しさの依って来る理由については,著者の博識に教えられることが多いだろう。変な「解決策」の安売りをしないところがとても好ましい一冊である。
 村上たかしの「星守る犬」が大ベストセラーになり,映画化されて2011年6月現在公開中であるらしい。らしい,というのは映画も原作も見ていないし読んでもいないので,詳細を知らないからである。特に原作だが,ワシは最初の発端の部分読んで全然共感できなかったので,結局読まずにいる。もともと村上作品とは相性が悪いので,そのせいも多分にある。しかしいい年こいてロクすっぽ家庭を顧みてこなかったこのおっさんが三行半突きつけられて野垂れ死にするのは当然だと思ったことによることが大きい。多分,この作品をストレートに読んで感動した人とは友達になれない。
 そんな酷薄なワシなので,友達はごく少ない。そもそも中学校ではイジメにあったし(おかげで十二指腸潰瘍になってしまった),高校では便所飯ならぬ便所勉強(個室に籠って英単語カードを繰っていたのだ)してたら頭から洗剤をぶちまけられて往生したし,大体,学校というものが嫌いなのである。大学生になって妙な同調圧力から解放され,親元から離れたことも手伝って,ようやく一人で好き勝手に動けるようになったことを心底喜んだのである。友達がいなかったわけではないが,たくさん作ろうとは全く思わなかった。
 その分,常に寂しさに付きまとわれていたことも事実である。一人さびしい夜に電話をかけて飲みに行ったり駄弁ったりする友人が欲しいなぁ・・・と思ったこともあるが,反面,そーゆー付き合いが煩わしい,と思うことも多々あった。人並みに女性と付き合うようになってから,四六時中いつでも自分のことを見てほしい構ってほしい,という要求に辟易したこともあって,人付き合いより自分の仕事を優先しないと人生の甲斐がない,と開き直るようになったのは三十路以降である。
 以来,寂しさが張り付いてしまって日常化している。平気だとも思わないが,煩わしいよりマシ,という感情もある。阿刀田高がエッセイで,結婚式の際,秒単位だが独身生活への別れを意識した,と書いているのを見て,ちょっとホッとしたものである。男女問わず,実は皆,大なり小なり「寂しさ」と「煩わしさ」を天秤にかけて日々暮らしているのだ,と分かったからである。
 本書では友達がいない,ということに伴う寂しさを様々な著者の知識の引き出しから取り出して見せてくれるのだが,その奥底には「人間の真実はこうである」という,著者のメッセージが込められている。
 例えば,「恋愛というのは差別的」(P.129)ということをさらっと書いていたりする。よしながふみの寓話的漫画集「愛すべき娘たち」(白泉社)には,この「恋愛=差別」という事実を悟った主人公が出家してしまうという短編が収められていて,この事実をシチュエーション的に解説しており,事例の一つとしてお勧めである。
 そして著者は友達関係においても差別が伴う,ということを続けて述べる。

 たとえば人は,自分を慕うものをかわいがる。教師が学生に対するのなど特にそうである。あるいは,自分の競争相手になりそうな者より,そうならない者の方に,情愛を注ぎがちである。実際私は,高校生の頃,中学時代の友人の間で「Pはいいやつだと」とXに言ったところ,Xが「そりゃ,Pはお前にとって下の人間だから,そう言うんだろう」と言われたことがある。なるほどPは学力の面では,低い男だった。ぎくりとしたものだが,やむをえない。

 誰しも思い当たることがあるだろう。自分はそんなことはない,と言い切れるとすれば,ペテン師か自己内省能力に致命的な欠陥がある人間かのどちらかである。
 本書には随所にチクリとくる真実の指摘がある。高校生には逆にまだピンとこない所も多いかもしれないが,なるべく若いうちに「少々口の悪いおじさんの直言」と「過去において友達がいなくてさびしかった人の言」には触れておいた方がいいだろう。筑摩書房のシリーズ本の一冊だから,全国の中・高校の図書館に本書が常備されるだろう。なるべく多くの「さびしい」若人の目に留まって欲しいものである。

宮田紘次「ヨメがコレなもんで。」ビームコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-727294-1, \620
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 齢四十路にして,すっかりすれっからしの親父と化してしまったことに最近気が付いたのである。新人漫画家の作品をロクすっぽ読みもせずに「昔読んだあの作品と同趣向」とか「あの漫画家のデビュー時と比べて云々」などとウンチクたれするばかりで,普通に漫画を読めなくなっていたのである。
 これはイカン,このままでは漫画レビューとは名ばかりの,自縛的知識の羅列になってしまうではないか,もっと虚心坦懐に漫画作品を楽しもう! ・・・とゆーことで,最近のワシは書店店頭で行われている漫画家フェアにおいて各社がプッシュする,なるべく未知の作家の作品を読むようにしているのである。で,読んでみると,やっぱり一押しされるだけあって面白い作品が多いのである。「売れてる作品なんて,ケッ」という団塊世代左翼的態度は改めた方がいいな,と反省することの多い今日この頃なのである。
 そんな一押しフェアの中で目を引いたのが宮田紘次のこの作品,「ヨメがコレなもんで。」である。宇宙人を妻とする若ハゲ日本人男とのご家庭コメディ漫画,というふれこみだが,読んでみたらそのまんま。何のひねりもなくド直球のラブコメ(?)である。ワシ世代だとどうしても宇宙人vs.地球人カップルというと「うる星やつら」(ATOK2011辞書にも登録済みだ!)を思い出してしまうのだが,あちらが学園ラブコメで長々と,割と淡白な描き方をされていたのに対し,本作は,ちょっと懐かしい劇画調の暑苦しい作風で「奥さまは魔女」的なご家庭イチャイチャラブコメをごく短いページ数に詰め込んで描いている。新人さんの割にはワシら中年世代の漫画読みには馴染みやすい暑苦しく肉感的な絵柄なので,若い人に人気があるのかどうは,ワシにはちょっとわからない。まぁFellows!という読者層が絞られそうなムックに掲載されていた作品だから,最近の流行とはチトかけ離れているのかもしれず,その辺の分析については本職の漫画評論家の方にお任せしたい。しかし,エンターブレインからこういう「普通に面白い」コメディを描ける手練れな漫画家が出てくるというのは少し意外であった。
 地球人・真壁ノブオがUFOに拉致され,インプラント(何を?)される直前,一目見た宇宙人の女性に一目ぼれしてプロポーズ,少しの交際期間を経て結婚し,狭い団地暮らしで専業主婦となり子供も作り,日々家事に追われつつ幸せに暮らしている・・・というシチュエーションだけ書くと詰まらなそうだが,汗と愛がにおい立つ圧倒的な画力で攻められると,「いいなぁ,こういう生活」と洗脳されてしまうのである。奇をてらったストーリー展開は皆無で,それよりは宇宙人の嫁(名前が不明なまま,ヨメとか奥さんと呼ばれるのみ)の愛らしさを描くことだけしか考えていないのではないか?という作品なのである。そこが非常に良くできていて,何度も聞いた古典落語でも,名人の落語家が語ると面白く聞き入ってしまう,というのと同じく,画力に裏打ちされた「漫画力」にワシはすっかり魅了されてしまったのである。
 シリーズ短編で構成された全1巻の本作,非常に気に入ったので,ワシはフェアで並んでいた「ききみみ図鑑」も読んでみるつもりである。やっぱり注目されている新人さんは欠かさずチェックしておくべきだなぁと反省した次第。