あさりよしとお「アステロイド・マイナーズ 1」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950146-3, \562
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 やぁっと出たか,待ちに待ったこの単行本,当初は昨年(2009年)に出るはずだったものが,伸びに伸びてようやっとこの2月に発売となった。入手してみると,帯にもある通り,書下ろし部分が70ページを越えているというから,まぁ遅れるのも当然である。本書に収められている3作品「宇宙のプロレタリア」「軌道上教習」「ゆうれいシリンダー」は全てComicリュウに掲載された作品だが,ワシはリアルタイムでこれを読んで感動し,単行本化を待ち望んでいたのだが,焦らされただけのことはある。以下,どの辺にワシの感動ポイントが有るのかを縷々述べていきたい。
 あさりよしとおの代表作,「宇宙家族カールビンソン」について,大塚英志は次のように述べている(Comic新現実 vol.5,P.384~385)。

いい話だったりギャグとかしてオチがあるし(ママ),あさり君なりのドロドロしたものも,分かる人には分かる程度に描いてあるし,おたくっぽい連中には「これはあのパロディーだな」って了解できるように描いてある。彼は三層か四層くらいに読者の水準を設定して,全部に対応しているから割と誰でも読めますよね。で,まんがとしての基本的な部分を押さえてるから,ぼくはまんがに対して意外と保守的だから彼が好きだったんです。

 どうもワシはあさりよしとおの作品を愛読しながらも,物足りなさを感じていたのだ。特にカールビンソンや「るくるく」は・・・どちらも擬似家族を扱い,結構背景には大きな物語が隠れていることを匂わせ,時にはそれを部分的に見せてくれるものの,そのものズバリを出してくれない。星野之宣なら,長々と登場人物たちに「くどい!」というほど雄弁に語らせるのに,あさりよしとおは「最下層のバカは気づかないでよろしい」とばかりに隠すのだ。これはあさりの趣味なのか性格なのか含羞がなせる技なのか判断がつかないのだが,まぁ達磨大師のような風貌の奥底には複雑なものを抱えているのだろうと思うしかない。大塚が言う「三層か四層ぐらいに読者の水準を設定」していると評している,この隔靴痛痒的な描き方が意図的なのかそうでないのかはともなく,あさりよしとおという漫画家作品の一番の特徴であることは疑いない。
 しかし,「まんがサイエンス」を全巻読み,「なつのロケット」にブチあたってからは,へ~,藤岡弘みたいなアツさを前面に出してくるようにもなったんだなぁ・・・と,正直感心した。本書は一応「空想科学マンガ」とは銘打っているものの,作品の系統は間違いなく「なつのロケット」に連なる,熱血宇宙マンガであり,藤子・F・不二雄のSF短編と同じテイストを感じたのだ。
 本作の舞台は,21世紀末の太陽系,それもせいぜい小惑星帯までの範囲の太陽系,地球の庭先のようなところである。ワープ航法も光速ロケットも存在しないから,小惑星と地球との往復は旧来の,とゆーか,今現在使用されている液体燃料ロケットそのものが使用される。民間会社が宇宙開発に乗り出しているところが,現在よりちょっと未来っぽいという程度の,「空想科学」というにはリアルすぎる世界である。リアルであるから当然,現代社会の「ひずみ」がそのまま宇宙にも持ち込まれ,「宇宙のプロレタリア」では島流しのような状態で小惑星で働くハメになる男や,「軌道上教習」「ゆうれいシリンダー」では見て見ぬふりの出来ない「廃棄物」処理が扱われることになる。・・・こう書くと,夢も希望もない面白みのないシニカルなだけのマンガと受け取られそうだが,そこは全く違う,ということは強調しておきたい。詳細は本書を読んで確認して頂きたいが,限りなくリアリティのある設定でありながら,ひずみも含んだ「リアル」があるからこそ,そこから一歩一歩,進まなければならないという断固とした熱い決意が刻まれるのである。
  Comicリュウという雑誌の購読年齢層は,ワシも含めて相当高めなようであるからして,本作で語られる,あれもできないこれもできないと断じてしまう科学的知見にショックを受けるようなことはないだろうし,むしろ中高年ならそんな制約条件下でどのように物事を進めていくべきかという方法論を考える前向きさを持っているのが普通だ。困難の続く日々の生活になじんだワシらおっさんおばさん連中は,馬齢を重ねているが故に,あさりよしとおの描く小惑星開発労働者たちの姿をてらいなく理解できるはずなのである。

杜康潤(とこうじゅん)「坊主DAYS」ウィングスコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-67086-2, \740
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 著者の兄が臨済宗(禅宗)の僧侶になるための修業話が中心のエッセイ漫画だが,読了後,ワシは爽やかさを感じたのである。正直言って,絵はお世辞にもウマいとは言えないし,シリアスな顔もはっきり言って古臭い。イマドキもっと画力のある同人作家は山ほどいるというのに,どうも本書は新書館の編集者の慧眼によって拾われただけあって,画力以上の魅力があることは間違いないようなのだ。以下,その魅力がどこにあるのか,縷々考えていきたい。
 上品なマンガ,というものがある。手塚治虫は矢口高雄の作品を評して「上品だ」と言ったそうだが,画力はともかく(シツコイね,ワシも),杜康のマンガも矢口と同様の上品さがある。ベタなギャグは下手に受けを狙ってないだけに適度な親しみやすさを産み,嫌な気分を読者にもたらす悪人は出てこない。「ユルい」とも言えるが,矢口の作品がストーリーテリングでぐいぐい引っ張っていくのに対し,杜康の本作は禅宗といえど,現代日本に住まう人間が携わっているのだから,厚い伝統と現代社会とのせめぎ合いがとても興味深く,ワシらを飽きさせないのだ。
 杜康の家族は姉妹二人に兄一人という構成であるため,自ずと住職を継がねばならない運命にあったとのこと。子供の時に得度しているだけあって,大学卒業後はスパッと髪を剃り,直ちに僧堂に入って2年半の禅の修行を行い,住職となって実家の寺を継ぐことになる。この辺の潔さも本作の上品さに寄与しているのだろう。落語家の前座は大体2~3年だが,封建時代以来の師弟関係を維持するための修行は,例外なく「型」通りの,理屈より行動という,現代では理不尽とも思えることをあれこれやらされるもののようだ。本書で語られる禅宗の修行もそんな感じで,大変だとか嫌だとか言っているうちに,過ぎてみれば・・・ああ,そういうことなんだと,伝統に根ざした「合理性」があることを,後天的にしか理解できないものなのだ。
 覚悟を決めて,与えられる修行の数々をこなしていく杜康の兄や修行を共にする同僚たち,そして厳しく指導する先輩僧たち・・・みんな爽やかに描かれている。現代社会とは相容れない伝統との確執,肉体を酷使する,若くないととても耐えられそうにない臘八大接心なども,何だかんだ言っても歴代の僧たちは皆これをクリアしてきたわけで,それを可能にしてきたのも伝統の厚みとがあったればこそである。その大きな厚みをバックグラウンドにしているという,一種の安心感が,指導の行き過ぎや,修行の過度な辛さを抑えているのだろう。本書で披露される仏教や臨済宗に関する豆知識を知るにつけ,僧堂を現代に成立させている「おおらかなマユ」がジワッとワシにしみてくるような気がするのである。
 結局,真面目に伝統に根ざした修行をし,真面目に檀家や地域と生きていく覚悟をした住職である兄と,彼を支える杜康をはじめとする家族の物語が本書なのであるから,下品になりようがないのである。読了後にワシが感じた爽やかさは,結局のところ,まっとうな伝統的宗教と,まっとうな家族が持つ,ごく普通の,それでいて大切な雰囲気がもたらしてくれたものだったと,ワシは確信しているのである。

釣巻和「童話迷宮 上」「同 下」新潮社

上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-771490-9, \543
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-771491-6, \543

 本書は「原案:小川未明」となっているが,未明の童話のコミカライズ作品だと思って購入すると裏切られる。その代わり,今の日本の漫画家の中では抜群のファンタジー表現を持った新人マンガ家・釣巻和という存在を本書でじっくり堪能できるので,損したと残念がる必要はない。当然,あなたが現在Comicリュウ紙上で「くおんの森」(ホントは「木」が「本」になっている)という連載を持っているかの漫画家のファンであるなら,ファンタジー作家としての力量を知る意味でも本書はお勧めの2冊セットである。
 2006年秋のアフタヌーン四季賞で準入選してから,釣巻はあまり大活躍したという印象はない。ただ,デビュー後にアフタヌーンに載ったマンガは「おっ?」と思わせる端正で透明感にあふれた高い画力のファンタジーだったから,一読すれば印象に残りやすい個性の持ち主であったことは確かだ。高い完成度を求めるようなところも見受けられたので,量産するのは難しいのかな・・・と思っていたら,いつの間にか新潮社が目をつけて約1年の連載を持たせていたのだ。うーん,リュウ・大野編集長が引っ張ってくる前にこんな仕事をさせるなんて,いい編集者もいたもんである。
 釣巻の特徴は,別の漫画家と対比させてみるとよくわかる。たとえば,須藤真澄。現在の須藤の漫画は平面的な装飾がなされている。「ツー・テン」と本人が言う特徴的な線で描かれた丸っこいキャラクターは,しかし釣巻並みとは言わないけれど,結構リアルな画風の進化形なのだ。
 釣巻の場合,デビューからまだ間もないこともあるけれど,キャラクター自身はデッサンがしっかりしているリアルな立体的な造形である。その立体感が画面装飾に奥行きを与え,3DCG映画のような煌びやかさをもたらしている。今のところ須藤とは異なり,3次元的な深みを追及している方向を釣巻は目指しているようだ。
 本書に収められている作品はすべて小川未明の作品タイトルが冠せられているが,内容は全く別物である。正確に言うなら,未明の作品からインスパイアされて釣巻オリジナルの世界を構築してみたのがこの作品集なのだ。作品の舞台は全部現代の日本だし,未明の代表作「赤いろうそくと人魚」でも「人魚」は出てこない。「人魚」と思しき浮世離れした美人の女子高生が出てくるだけだ。「千代紙の春」では女性向け恋愛シミュレーションゲームが主題だし,「野ばら」に至っては造花がカギになってたりして・・・未明としては「自分の作品はどこ?」と文句の一つも言いたいかもしれない。しかしだからこそ,文学に暗いワシでも面白いマンガに仕上がっているのだ。未明には,この釣巻の作品をきっかけにして原作にも興味を持ってもらえるかもしれません・・・と宥めておくのがよろしかろう。
 この手の「インスパイアもの」は,かつて角川書店で宮沢賢治を題材にして漫画家に作品を描かせていたから,今に始まったものではない。「迷宮」仕立ての構成も,独立した短編を一つにまとめ上げる手法としてはごくスタンダードなものである。本書の内容「だけ」を見る限り,オリジナリティに欠けるきらいがあるのはまぁ当然だ。しかし,その手の文句は,演歌がみな同じだ,というのに似ていて,演歌嫌いの人にその良さを伝えるのが難しいのと同様,ファンタジー嫌いの人にその「様式美」の素晴らしさは分かってもらえないと割り切るべきだろう。
 そう,釣巻の作品を一言で言い表すなら,「様式美」,なのだ。本書の中で唯一,アンハッピーな物語である「野ばら」は,その様式美ゆえに,ハッピーエンドな物語と同様の霧散霧消的すっきり感を与えてくれる。「そーゆーこともあるよな・・・」という妙な説得力をもたらす釣巻作品の個性を知るには,未明を加工して華麗な自分の物語に仕立て上げた本書がお勧めである。
 とゆーことで,2009年を締めくくる,というよりは,正月のゆったりした空気の中で読むにふさわしい作品として,本書を呈示する次第である。

 本年は大変お世話になりました。
 来年もよろしくお願い致します。

吉村昭「私の文学漂流」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42560-7, \600
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 本年(2009年)はなかなか大学生の就職が決まらない。就職先がない,というわけでもなく,企業の新卒者採用の意思はそこそこあるのだが,採用目標数に届かなくても学生の質には妥協しないという「厳選化」と早期に締め切ってしまうという「早期化」,そして学生自身の「質」の問題が引っ絡まって,変な言い方だが「内定が取れない学生は取れないまま」となってしまうようである。
 「厳選化」と「早期化」は企業側の都合だから仕方ないとしても,「質」の問題となれば,ワシも含めた教育機関側にも大いに責任がある。学生自身を甘やかしたという気はあまりないのだが,考えさせる機会をことごとく奪ってきた,という忸怩たる思いはある。もちろん「あまり考えさせないでくれ」というのは学生側の「(かなり)切実な」要求ではあるのだが,それにハイハイと応じてしまうワシらの側に一義的な責任があると言わざるを得ない。但し,たたきのめす様なことを今更やったところで脱落者が増えるだけで良いことはあまりない。サポート体制はとりながら,チクチクと「考えさせる」ことを意識的にやらせるようにしなければダメだろう。そういう意味では,小中高を通じて,どれだけ勉強してきたか,というよりは,その勉強を通じてどのように「主体的にモノを考える習慣をつけたか」ということが,知識量そよりも何倍も重要なことである。ハッキリ言って,就職活動を始めてからそのことに気がつくのでは完全に手遅れなのだ。どこまで通じるか分からねど,せめて「これから自分の人生をどう歩んで入ったらいいのか真剣に考えろ!」と,ネチネチと言い続る必要があるのだろう・・・が,それで彼らの胃の腑に届くのかは甚だ疑問だ。
 本書は,2006年にガン闘病中,カテーテルを引きぬいて逝った吉村昭の,デビューまでの悪戦苦闘ぶりをいつもの静謐な文体で綴った自伝である。これを読むと,確かに日垣隆が嫌味を言うように,事業を営む兄弟の援助を受けることができる恵まれた環境にいたことで,長い助走期間を何とか脱落することなく乗り切れたということが分かる。
 しかし,途中,妻の津村節子が先に芥川賞を取る一方,自分の作品は再三候補になりながら,一度は受賞決定の知らせを受けて会場にたどり着いてから間違いだったと告げられるという仕打ちを受けた挙句に結局取れずに終わって挫折しかけるという経験を読まされると,結構辛い助走期間だったなぁと同情してしまう。結局,自分のポリシーを曲げて筑摩書房に投稿し,やっと太宰治賞を取ることができたあたりから反転,新潮社から「戦艦武蔵」を出して10万部を越えるヒットを飛ばしてなんとか作家として離陸できたという事情が,本書の最後あたりで明らかとなる。
 この助走期間において,吉村は同人誌で批評合戦を行いつつ,作家修業を積んでいたことが本書の半ばあたりで詳細に語られている。当時の純文学雑誌は同人誌の中からめぼしい作品に目をつけてスカウトするというシステムだったようで,段々と吉村にも声がかかって来ると,芥川賞にも手がとどくところまで到達するのだ。
 教師をしていて思うのは,学生への訴求力は,学生同士の関係から生まれてくるもののようだ。結局のところ,読書会とかゼミのように,自主的に学びを経験し,ロールモデルを教師にではなく,自分より優れた学生に見つける,というのが一番学生の成長が見込める学習形態である。作家・吉村を育んだ土壌もそこにあった。
 内定が取れる学生とそうでない学生との差異は,仲間内から自然発生的に優れた部分を見出そうと意識し,自分の開発に生かそうとする学習能力が発揮できるかどうか,そこが大きいように思える。具体的な行動を起こさず,他者との現実的なコミュニケーションも怠り,何年も夢想だけしているというのでは,採用する側が躊躇するのも当然だろう。実績のない若手は,体力にモノを言わせて短期間で実績作りに死に物狂いになって取り組まねばならない。何故なら,自己プレゼンはそこに基づいて行うしかないからだ。「何でも好きなことをやりなさい」とはワシらの常套句であるが,それは好きなことなら主体的に「学習」できるだろうという期待に基づくものであって,怠けさせるための口実ではないのである。
 吉村のデビューまでの経緯には,終戦当時としては経済環境は恵まれている方とはいえ,作家としての実績作りに真剣に取り組み続けた跡がくっきりと残っている。今の学生さんも,社会環境が厳しくなっているとはいえ,まだその多くは学費を払ってもらって飯も食わせてもらってという,吉村以上に良い経済環境に浸っているはずなのだ。だから,彼らは口先三寸の面接だけで企業に入れてもらおうなどというさもしい魂胆はさっさと捨てて,せめて吉村並の必死さを見習って,何でもいいから「実績」を作って示して欲しいと,ワシは願っているのである。

南Q太「ぼくの家族」YOUコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-782261-8, \838
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 本書読了後,ふ~,「レディース」もついに大変化の時を迎えているのか・・・と,感嘆せずにはいられない。欲を言えば,優れた中間小説並の「大人の物語」まであと一歩・・・と思わなくもないのだが,しかし,岡崎京子らが巻き起こした少女漫画から女性漫画への,ストーリーと絵柄の革命は,とうとう中高年女性も巻き込んでレディースまで変えようとしている・・・そんな大潮流が巻起こっていることを南Q太は本書で示したのだ。
 世の「妙齢」な女性であれば,未だに結婚生活における家事の担い手のデフォルトは妻であり,夫ではない,という「常識」にカチンと来た経験はあるはずだ。ワシが知る限り,よしながふみ「愛すべき娘たち」でも,かなり協力的な夫ですら食事は妻としか作らないし,掃除は汚れに根負けした妻がやれやれとため息をつきながらやらざるをえないものという場面が描かれるし,勝間和代&西原理恵子の対談でも,家事を「手伝う」と発言した毎日新聞男性記者に,手伝うとは何事だ,てめぇの仕事なんだゴラァ,当事者意識がねぇぞぉ~・・・と二人して説教しまくっていた。世の男性の意識は昔に比べれば大分変わったというのは確かだが,それでもまだ「良妻賢母」幻想は根深くワシら日本人の,主として高齢者と男どもに食い込んでいるのである。かくいうワシだって,妻がいれば家事は「やってもらいたい」という願望が拭えないのだ。それゆえに,家事負担の平等を恐れて未だにひとりもの生活を続けている・・・というのは単なる言い訳だ。すまん。
 本書では,ともにバツイチ・子供(娘)一人のイラストレーターの女性と会社員の男性が再婚したあとの,困難であることは火を見ることが明らかなステップファミリー生活が描かれているのだが,主として妻となる側の忍耐が前半の主要テーマとなっている。第一話から「つらくない結婚などないのだ」(P.31)・・・だからなぁ。いや,全く,(結婚してないけど)男性として,申し訳ないな~・・・と感じ入ってしまう。またこのモノローグの被った,まるで小学生のように膝抱えて泣いている女性の絵がいいんだなぁ。いや,ワシも四十路になってわかったんだけど,精神構造って全然進歩してないのね。メンドクサイとか疲れたとか世間体とかが邪魔して感情表現が表に出づらくなっているだけで,喜怒哀楽の発火点はそんなに変わってないのである。昔より成熟年齢が上がっているという話はあるけど,それを差し引いても,辛いもんは辛いよね~。特に「妻」はさ。
 ま,「夫」もそれなりに辛さは抱えて毎年3万人超の自殺者の過半を占めてしまったりするけど,死ねば終わりってのも一種の責任放棄っぽく感じられて,あまり同情できないところもある。辛さに耐える,のではなく,辛さを受け入れてアウフヘーベンするってのは,業田良家「自虐の詩」のテーマだけど,結局,宗教家が古来語ってきたことをワシら俗人も寿命が尽きるまで追求しなきゃいかんのだろう。
 本作の最後は正直,ハッピーエンドにしようとしすぎてご都合主義的なものが感じられて,う~ん,どうかなぁと思うところもある。それでも,本作の半ばの「羊と筏」の疾風怒涛な展開を経て,次第に他人同士だった家族が「融合」していく様は,南の実体験から来ている部分も多いのだろうが,説得力を持ってワシを和ませてくれた。怒りも悲しみも笑いも涙も全部取り込んでコミュニケーションを図り,多少いびつでも社会を形成する一つの結晶として関係性を固定化していくのが家族というものの基本的な姿なのだろう。これで最後にもう一歩,単なるハッピーエンドではないビターテイストがいい具合に入ってくると,田辺聖子とか佐藤愛子の中間小説のような,類型的でない上質なエンターテイメントになる・・・と,思うのだけれど,さてどうでしょう?
 そういえば,レディースって,昔から家族がテーマだったよなぁ,と今更ながら思い出した。その意味では金子節子とか風間宏子あたりから,夢路行やこの南Q太まで,本作も含めて「レディース」の王道は踏まえているわけだ。「嫁姑」関係が蒸発してしまった家族の形態や,「ヘタウマ」的な絵のセンスといった,表現形式はずいぶん変化しつつあるが,本作は間違いなく「レディース」の王道を踏まえている。この先も,新規参入者が増えるにつれてレディースといえども間断なく変化していくのだろうが,多分,「家族」という軸がブレることはないんだろうなぁ。