藤子・F・不二雄「未来の想い出」小学館,坂田靖子「クリスマス・キャロル」光文社

未来の想い出 [ Amazon ] ISBN 4-09-181891-9, \825
クリスマス・キャロル [ Amazon ] ISBN 978-4-334-90162-2, \1200
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 後悔のない人生なんてあり得ない。さりとて,もう一度同じ人生を歩んだとしても現状以上に満足できるかどうかは甚だ怪しい,とワシは確信している。「人生が二度あれば」と願う心性は理解できるが,不可能である以上に,本当にすべての人間が現時点で保持している経験を踏まえて若返ったとしても,果たして素晴らしい人生を遅れるかどうかは疑問だ。何故なら,同じシチュエーションであればあるほど,最適解の選択はより困難になるからだ。失敗の経験があればなおさら慎重になるだろう。更に言えば,たとえ確信を持って次の一歩を踏み出したとしても,踏み出した途端にそこから先に起きる出来事はすべて未知のものとなる。分岐したパラレルワールドのその先を歩むことは,すなわち,選択できない未来を歩むしかない現実と何ら違いはないのだ。
 ・・・などと常識論をぶったところで,やっぱり人間はリセットボタンを押してやり直しを図りたいと考えてしまう動物なのだ。ワシが今でも「一冊だけ挙げろ」と言われたら迷わず選ぶのが,藤子・F・不二雄最晩年の長編SF「未来の想い出」なのだが,そこにでも主題であるところの「若返り」について,主人公・納戸理人と友人との会話でこう語らせている。

 「若返りね。」「古いね。」「ファウスト以来,手あかのついた題材じゃないか。」
 「題材なんて光のあてようで新しく装えるさ。」「それよりそんな夢みたいなことを願うきみの切実な気持ち。」「その切実さをテーマにすれば・・・きっと読者にも通じると思うがね。」(P.17)

 この作品の優れているところは,構成に無駄がなく,「手あかのついた題材」ということを熟知しているが故に,どうやって「新しく装」うべきなのか,よく練られていることである。何度繰り返したか分からない納戸理人の人生のやり直しの一部をパチンと切り取って,そこから納戸自身がどう「脱出」しようとするのかをワシら読者の腑に落ちやすいように提示してくれているのだ。SF作品としての斬新性がどの程度かは特にSF者でないワシには分からねど,「うまいな~」と感心させる物語の妙は,今読み返しても鮮やかである。
 ・・・と, まぁ,納戸のように爽やかなやり直しができるに越したことはないのだが,現実的には不可能である。であればこそ,人々は過去の他人の行動の蓄積,すなわち,歴史から学ぶことで,仮想的なパラレルワールドを脳内に刻み込み,断続的に訪れる選択の時にそれを参照しながら最適と思える行動を取るのである。結局,生まれ変りを本気で願うなら,生きているときに意識的に少しずつ「生まれ変わる」しかないのだ。それを人は「学習」と呼び,愚者が自身の経験というごく僅かなサンプルからしか学べないことの埋め合わせを学習を通じて行うのである。
 ワシはこの坂田靖子によるディケンズの代表作「クリスマス・キャロル」はあいにく読んだことがないのだが,完全な坂田ワールドと化した本作を読む限り,スクルージという守銭奴が「生まれ変わる」物語であるようだ。ワシはまだこの「改心」の動機づけがイマイチすっきり理解できていないのだが,スクルージが他者への贈与という人間の本能に根ざした行動に目覚めた最大の理由を胃の腑に落とすには,ワシがもう少し老いる必要があるのだろう。
 120ページと短い作品だが,生命感にあふれたダイナミックな画面構成は坂田靖子健在なりということを見せつけてくれた。緻密な構成に基づいた「未来の思い出」とは対照的に,漫画表現の自在さを武器とする坂田版「クリスマス・キャロル」は,古典的だが今にも通じる現実的な「生まれ変わり」の方法を提示していると言えよう。
 今日はクリスマスイブ。ワシにとっては相変わらず仕事に詰まってヒーコラいうだけで終わってしまう一日に過ぎないが,世界中の多くの人々が今の自分を肯定するために,他者へ贈り物をする日である。何も贈らないワシみたいな輩は,せめてその事実だけは一日の終わりまでには認識しておきたいものである。ひょっとしたらそのうち贈与の相手も見つかるかもしれないし,ね。

いしいひさいち(漫画)・峯正澄(文)「大問題’09」創元ライブラリ

[ Amazon ] ISBN 978-4-488-07063-2, \640
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 いしいひさいちがしばらく休業するというニュースが2009年11月に飛び込んできた。本作を最後に,しばらくは「大問題」シリーズが出ることも期待出来そうにない。デビュー以来,日本の4コマ漫画の世界に革命を起こし,多数のフォロワーを排出しながらも自らは革命の志を絶やさず,休業直前まで自己変革を続けてきた稀有な漫画家がおやすみモードに入ってしまうのは残念であるが,仕方のないことである。長谷川町子が休業を繰り返しながら,晩年まで仕事は断続的ながらも続けていたことを考えると,ぶっ続けで還暦を越えるまで続けてきたいしいの仕事量はちょっと多すぎたのかもしれない。ここはゆっくり静養し,再登場されることを期待したいものである。
 この「大問題」シリーズは峯との共著であるけれど,まぁ,間違いなくいしい抜きではここまで続いてこなかったものであろうから,峯の文章は抜きにしていしいの作品だけを論じてみたい。
 いしいひさいちの漫画は,現代日本の4コマ漫画の中でも特筆すべき鮮鋭さ,斬新さを持っている。いしいフォロワーの一人,やくみつるが,まだマイルドだった頃のいしい作品のテイストを保ちながら文春漫画賞を取ってしまったのは,それだけいしい作品が優れていたからに他ならない。かつて本宮ひろ志は「優秀な漫画家の後ろに何十人もの平凡な漫画家が連なっている」と言っていたが,いしいの場合それでは足りない程,いしい以外の漫画家に多大な影響を与えてきた。しかし今のいしい作品を真似ることができるフォロワーはもはやいない。あの風刺の鋭さ,あの「言う事をためらうことこそ描くべき」という,とり・みき並の非情さに加えて,人口に膾炙した政治家・著名人のキャラ付けの妙は,そうそう真似できるものではない。せいぜいいしいが作り出したキャラをそのままパクるのが関の山だ。いしい作品を作るための方法論を会得した漫画家は,今の日本には存在しない。アル中で辞任した中川昭一が,父親同様の末路を辿るかも,というワシらの腹黒い予想を見透かしたような作品(P.58-59)を描けるのは,たぶんいしいととり・みきぐらいであろう。
 ただちょっと気になるのは,「自己責任」という鉢巻をした小泉純一郎が,アキバ事件の加藤の種をばら撒く漫画(P.168)を描いていることだ。これは今までのいしいとはちょっと違う。自己変革の一歩ともいえるが,ワシはここにいしいの「老い」を感じてしまった。いしいの描く優れた風刺はいつも中庸のスタンスを崩さず,左右に大きく触れた振る舞いを察知してネタにするというものだ。それがちょっと左翼的プロパガンダ的なストレートさを本作品では感じさせている。まぁ,ちょっとドキッとさせるだけの冴えはあるのだが,それでも直裁的過ぎないかなーと思ってしまうのである。もちっとひねって欲しかったな~。
 来年に「大問題’10」が出版されるかどうかは微妙なところであるが,峯の文章が増えても,休載時点まで書きためた物だけを使って何とか出して欲しいと思う。今年は政権交代があって,風刺にはもってこいの題材がいっぱいある。ワシとしてはどうしてもその変革(の期待)を,いしい流に風刺して見せて欲しのだ。そしてこの先も,この日本がどういう状況になっても,それを冷静に眺めてクスッと笑う,笑いどころを見つける修練をさせて欲しいと念願している。そんな大仕事が出来る漫画家,いや日本人は,いしい以外に見当たらないからである。

江戸川乱歩(原作)・丸尾末広(脚色・作画)「芋虫」ビームコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-726085-6, \1200
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 丸尾末広と言えば,本年(2009年),第13回手塚治虫文化賞新生賞を取った「パノラマ島綺譚」の方を推薦すべきなのかもしれない。しかし,江戸川乱歩の小説作品の骨絡みのファンとしては,本作こそ,江戸川乱歩のコミカライズ作品としては現時点における最高傑作としてお薦めしたい。
 以前にも書いたが,今,ポプラ社から刊行されている「怪人二十面相」とはじめとする少年物シリーズを,ワシは乱歩作品とは認めたくない。まぁ,面白くないとは言わないが,あれは一番乱歩らしい部分が抜けちゃった抜け殻みたいなものであって,昭和初期,主として「新青年」に掲載された短編がワシにとっては最高の乱歩作品である。
 評判の高いものとしては,「蟲」(あ,書いているだけでサブいぼが・・・),「踊る一寸法師」(長編の「一寸法師」はあんまし面白くない),「押絵と旅する男」(ファンタジーの傑作),「白昼夢」(夏の暑い日に読んだら目眩を起こしそう),「屋根裏の散歩者」(推理小説としてよりは「屋根裏」趣味が横溢)・・・なんてのがあるけど,概して,つーか,全部,子供に読ませてイイものとは思えない。こーゆー「悪趣味」な物は不健全な大人が密かに楽しむ小説である。有意義に過ごすべき休日を部屋に篭ってクスクスと微笑みながら,閉じこもって楽しむものなのである。
 その傑作短編の中でも「芋虫」は図抜けて面白い作品である。ワシがこれを読んだ解説(中島河太郎だったか高木彬だったか)は,映画「西部戦線異状なし」とその原作「ジョニーは戦場へ行った」を取り上げ,シチュエーションの類似性を指摘していたが,描いている「主題」が全く異なることも述べていたと記憶する。ワシは「西部戦線」も「ジョニー」も未見なので何とも言えないが,本作「芋虫」が,少なくとも戦争の悲惨さを告発する目的で描かれたものでは全くない,ということは誰しも納得するはずだ。乱歩は主人公「須永中尉」の境遇を創りだすために戦争を口実に使っているだけである。「火垂るの墓」において,兄妹が悲惨な境遇に陥る理由も戦争であるが,それはきっかけに過ぎず,あの作品の主題はあくまで兄妹の生き様であるのとよく似ている。この世の悲惨さの多くが戦争によってもたらされることは確かだが,乱歩が「芋虫」を執筆した時代にはそれが今よりずっと身近な悲惨の種であったというだけのこと。現代においても「芋虫」と同じシチュエーションは,交通事故でも爆発事故でも,十分ありえるものなのである。太平洋戦争中,この作品は発禁となったが,乱歩は戦意高揚の妨げになるので処分を「当然」としながらも,何か解せないという感覚を持っていたのではないか。そもそも実際の戦争とは全く関係の無い主題の作品なのに・・・,と。
 丸尾末広は「芋虫」を漫画化するにあたり,大正から昭和にかけての戦争にまつわる風俗を大量に画面の装飾として利用した。「英雄」として賞賛されつつも一歩も自力では動けない須永中尉を「世話」する妻・時子,二人だけの閉じた離れでの生活は次第に平衡感覚を失い,読者に目眩を起こさせるような世界が展開されるのだ。しかしそこには戦争を批判する意図は全く感じない。いや,深謀遠慮的にそうなのかもしれないが,あくまで丸尾・乱歩ワールドのデコラティブな世界を構築する具材の役割としか,ワシには思えなかった。
 乱歩は自分の作品を「眼高手低」と評していたが,ストーリーテラーとしては絶対の自信を持っていたという。「芋虫」も,確かにおぞましい世界を描いてはいるが,基本的にはエンターテイメント作品であり,グイグイとワシら読者を引き込んでいき,読了後は何とも言えない不思議な感覚に導いてくれる。ネタバレになるからこれ以上の詳細は述べないけれど,本作でも丸尾は乱歩同様グイグイと読者を引き込んでくれるストーリー運びを心がけているということは保証しよう。「パノラマ島綺譚」の方は,雰囲気よりはストーリーの運び方に忙殺されてしまってイマイチ乱歩らしい異常感性が少ないように感じられたが,本作は短編ということもあって,絵による雰囲気作りに重点がおかれている。その意味では,「パノラマ島」よりは本作の方がずっと丸尾作品として優れているように思えて仕方がない。本作は前作とその受賞ががあって生まれたものであろうけれど,ひょっとしたら丸尾は前作で物足りなかった「描き込み」を本作にぶつけたのではなかろうか。
 そうであればこそ,「パノラマ島」に続けてこの「芋虫」を連続して読むと,丸尾が乱歩を理解し,その世界を二次元世界に再現する力量の冴えがより鋭く感じられるのも当然という気がしてくるのである。
 ちなみに,本作を読んでしばらく「バナナ」が食えなくなったら,アナタは正常人である。逆に大好きになったら・・・「与謝野鉄幹」と呼んで差し上げたい。
[ 2009-12-22 追記 ] え~っ,若松孝二が「芋虫」を映画化ぁ~? それはいいのだが

「戦争はいろいろな人を不幸にする、ということを伝えたいし撮りたいのです」と訴えていた。

・・・そっ,そんな反戦映画,乱歩作品じゃないやいっ!

鹿島茂「ナポレオン フーシェ タレイラン 情念戦争1789-1815」講談社学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-291959-3, \1650
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 日本で本格的な政権交代が起こってから早3ヶ月が過ぎた。叩く人あり,暫く様子見を決め込む人あり,小泉改革憎しでとにかく反対党だからと称揚する人ありと,ひとそれぞれ,メディアそれぞれの立場で意見表明を盛んに行っている。ま,不況だの少子化だの高齢化だのと言われながらも表現の自由が保証されていることは真に結構なことである。結構なことであるが,さて,批判する側も称揚する側も様子見する側も,みな揃って政権与党が行う政策を「眺める」だけで,積極的に協力してやろうとか足を引っ張ってやろうとか,参加しようという様子は全く見えない。様子見する人はまだそういう意味では発言も控えて「何も手出しをしない」のだから「無言不実行」は当然と思えるのに対し,批判側も称揚側も「有言」の癖に「不実行」なのはどうも解せない。批判するならみんなの党でも自民党でも積極的に活動して持ち上げればイイものを,どうも盛りあがりに欠ける。称揚する側は称揚するだけで自分のサイフを広げて寄付するとかCO2の削減行動に精出すとかすればいいものを,ただ「何かいいことはないものか」と待っているだけだ。かくいうワシも「様子見組」の一員なので大きな口を叩く資格は無いのかもしれないが,どうもこれだけ「行動しない」ようになってしまった国の有様を見ていると,滅びの時は近いと思わざるをえない。民主党でも自民党でも共産党でもみんなの党でも国民新党でも社民党でも,どこの政党が政権を担ったところで政府の末端,政府の根本たる国民が何もしないでは,先行き何が起ころうこともなく,衰微していくというのが世界史の常識である。
 結局のところ,国家の活力ってのは,ドガチャカな大騒ぎに内包されるエネルギーの総量なのだろう。完全な無秩序では経済活動どころではないけれど,国家権力の中枢がしっかり機能した上で,権力だの金だの愛情だののやりとりが活発に行われているならば,不幸な人間と同数の幸福な人間がいて,それが時間の推移とともに入れ替わっているという面白い状態であるはずだ。革命が勃発してナポレオンがセントヘレナに流されるまでの時代,フランスは,絶対零度の沈黙の世界に移行しつつある今の日本とは全く別のベクトルを持った,活力あるドガチャカな時代だったのだ。ギロチンの露と消えた王侯貴族・政治家も多数,リヨンではフーシェの指示によって虐殺も起こったし,ナポレオンはヨーロッパ中を戦争の渦の中に叩き込んだ挙句に極寒のロシアで何十万ものフランス兵を凍死させた。もう一度あの時代を繰り返せと言われてOuiというフランス人は皆無だろうが,悲劇の熱量が国家の活力を最大化させた時代であったことは間違いない。
 本書はそんな時代を生き抜き,引っ掻き回した3人,フーシェ,ナポレオン,タレイランを描いた傑作評伝である。単行本で出版された時は評判が高かったので,文庫化するにしても一般書と同じ扱いになるかと思ったらさにアラず,この度講談社学芸文庫に収められることになった。まぁ,確かに大量の資料を土台に積み上げた本書が学術的に優れているのは確かだが,600ページもの本書を一気呵成に読ませてしまう鹿島茂のエンタメ的筆力を考えると,もっと定価を安くして講談社文庫に収めた方が日本の歴史的知性を高めるには良かったのではないかと思うと残念である。ま,講談社的には文庫になっても高い定価のものが売れた方がイイのかもしれないけどさぁ。
 以前,フーシェをモデルにした倉多江美の傑作歴史マンガ「静粛に、天才只今勉強中!」を此処で紹介したが,本書を読みながら,倉多の描き方が優れていることを改めて確認できた。フーシェの最期は別として,そこに到るまでの歴史的経緯,リヨンの虐殺,総裁政府での復活,ナポレオン政権での重用と失脚まで,重要なところはきちんと押さえて描いているのだ。本宮ひろ志とは正反対の冷徹な政治的振る舞いに焦点を当てた描き方は,もう少し日本の政治漫画も見習って欲しいと思う。政治漫画がみんな小林よしりんのようになっては困るのである。
 その倉多のマンガでも,「熱狂情念」に駆られたナポレオン,「陰謀情念」に一生を捧げたフーシェに対して,「移り気情念」を持つと鹿島に宣言されたタレイランは,一等図抜けた存在として描かれている。平民出身の二人に対して,貴族階級出身のタレイランは,一種世界史を俯瞰する知性に優れていたのだろう。ま,女たらしで銭稼ぎに熱心という精力家であることも手伝って,精神的にも肉体的にも余裕を持って人生を過ごせたってことも大きいようだが,やっぱりナポレオン没落後のヨーロッパ秩序を回復するだけの政治的構想力は,生まれついての貴族的インテリ知性がなければあり得なかったろう。現代のEUの原型が,フーシェが内政的に支えたナポレオンがヨーロッパ中を引っ掻き回した後の,タレイランが混乱を収拾するウィーン会議から出発しているということを考えると,フランスがもたらした大混乱は,今のヨーロッパの活力の源泉になっているとも言えるのだ。してみれば,この3人が同時代に生きていなければ,そして3人それぞれが異なる「情念」に駆られて積極的な活動ができなければ,つまりそんな活動ができるフランス革命の混乱がなければ,現代の欧州も存在していなかったと言えるのである。
 普通,学術的な記述をしようとすれば,なるべく合理的な説明で埋めていくのだろうが,鹿島の語り口では「情念」という言葉がバンバン出てくる。政治的な動きは合理的な説明のつく部分と,権力者の「性癖」による部分から成り立っていて,どうやら鹿島はこの性癖部分を強烈な個性,すなわち「情念」という言葉で置き換えているようなのだ。その点,ちょっとそこに寄りかかりすぎではないかと思わなくもないのだが,その分妙にすっきりしたストーリーになっているのが不思議である。
 してみれば,人間社会のドラスティックな動きというものは後天的にすべて合理的に説明の付く部分より,その動きを主導した極少数の個人の性癖に依存している部分が多いということなのかもしれない。
 年末から正月にかけての長い休み期間中に本書を読めば,この凍りつきそうな日本とは対極のエネルギーを読み取って個人レベルでエントロピーを高めることができるであろう。つまり本書の現代的意義は,フランス革命時代に発生した,この3人が抱えた恐るべき量の「情念」を個人に注ぎ込むことにあるといえるのである。

おざわゆき・渡邊博光「築地あるき」飛鳥新社

[ Amazon ] ISBN 978-4-87031-964-6, \1048
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 ワシはグルメではない・・・つもりだが,割と食い物にはうるさい方かもしれない。ことに自炊生活をするようになってからは自分好みの食い物ばかり作るようになっている。特に魚料理。凝ったものを作るわけではないが,朝に焼き魚がないと一日胃の調子が良くないように感じるし,秋には秋刀魚の塩焼き,冬には三平汁やブリ大根を食わないとなんだか落ち着かない。
 さすがに生魚となると,スーパーで買ってきた物をそうそう食す気分にはならず,外食が主となる。大きい仕事が終わった夜にはちょっと高めの回転寿司チェーンに飛び込むし,遠出したときには山よりも海の近いところを喜ぶようになってしまっている。
 そんな伝統的日本人の食嗜好を備えるに至ったワシなので,「東京築地市場」と聞けば,マグロをゴロゴロとコンクリートの床に並べて威勢のいいセリを行っている風景とか,中売・小売の小さな店がテラテラと生きの良さを勝ち誇る海の幸を並べている風景とかが脳内に浮かんできて,条件反射的にヨダレが出てきてしまう。
 しかしこのたび「おざわゆき渡邊博光」夫妻が上梓した本書によれば,そんなステレオタイプな築地のイメージは相当狭いものであるらしいことがわかる。市場を中心として,築地の界隈にはうまい食い物屋が林立しており,それを食べ歩くことで市場を見学するのと同等以上の楽しい観光ができるようなのだ。う~む,知らなかった・・・。本書にはそんなおいしい食い物屋が28店,オールカラーかつ手塗りのアナログな温かみのある「おざわゆき」のエッセイコミック形式で紹介されている。加えて「渡邊博光」による「なべMEMO」でその店の追加情報が文章で添えられ,食い物のジャンルごとに漫画では紹介しきれなかった店が「なべコラム」で約150近くも言及されている。いや,仕事とはいえこの情熱には頭が下がる。
 本書の前身は同人誌「築地あるき」「築地あるき2」である。
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 最初はおざわによるエッセイマンガだったものが,好評だったらしく,渡邊による追加情報も載っけた「2」が出てさらにブレイクし,築地市場内の墨田書房でも扱うようになってさらに人口に膾炙してこのたび,全面書き下ろし・オールカラーの豪華本(の割には定価が安っ!)となって出版されたものであるらしい。ワシは同人誌は読んでいたが,商業出版されたのはコミティアblogで知った程度なので,詳しい経緯はよく分からないのだが,本書のあとがきによるとそーゆー経緯で出たものということだ。
 同人誌であれ商業出版本であれ,一定数以上の支持があるものには理由がある。本書の場合,やはり
 ・全部,おざわ・渡邊夫妻が自分の足と銭と舌で体験した情報だけで編まれている
 ・おざわの描く絵の持つ豊かさと手塗りカラーの鮮やかさ(イクラ丼とナポリタンが美しい)
 ・大人気店から一見様お断りみたいな店まで,手広く訪問している探究心の広さ
ってのが大きいように思う。ワシみたいな偏狭な人間は「あれはマズい」「これはキライ」という排除の論理で物事を語ってしまいがちなのだが,ご両人の語り口からは「あれはウマい」「これはスキ」という包摂的な表現しか出てこないのだ。「高いからダメ」,「安いからイイ」という貧乏人に媚びた表現もない。つまり無理をしていないのだ。腹を空かして築地界隈を楽しみながらほっつき回って飲み食いし,素直に喜べたものを描く,このストレートな幸せ感が本書が支持された一番の理由だろう。
 しかし,ワシ個人が最も羨ましいと思ったのは「夫婦」でこの楽しみの共有しているということだ。ああ全く羨ましいったらありゃしない。してみれば,本書で一番「ウマそう」だったのは,この仲睦まじそうな「おざわ・渡邊」夫婦の連携プレーそのもの,なんだろうな。ちえっ。