須原一秀「自死という生き方 覚悟して逝った哲学者」双葉新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-575-15351-4, \876
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 本書の存在,というより,「須原一秀」という哲学者の存在を知ったのは,今は無きWebTV 「ミランカ」の番組中で,宮崎哲哉がこの名前を出していたからである。その時は,ふうん,珍しい人間もいるもんだというぐらいしか意識しなかったから,よもやワシがその須原の書いた遺書がわりの本書を読むなんて思いもしなかった。
 で,本書の親本が単行本として出版されたとき,「須原一秀」という名前が脳にインプットされていたワシは,店頭で確かにそれを手にとってパラパラめくってみたのだが,そん時には怖くてレジに持っていけなかったと記憶する。ちょうど自殺者3万人突破という時代が続いている上に,ワシ自身も「自殺」という自体を深刻に受け止めなくてはならない立場になったこともあって,本書が縄に首を通してビクついているワシの脚を引っ張りかねないと,ホントに恐ろしく感じたからである。
 本書の冒頭で浅羽通明が解説を書いているのだが,その中で筒井康隆の小説「銀齢の果て」の登場人物に言及しているところがある。ワシはこの作品を読んでいたので,浅羽とは別の人物,小説の冒頭,老人ホームでの殺戮戦において,生き残った老人に哲学的アドバイスを講じてさっさと縊死した「哲学者」を思い出した。単なる偶然かもしれないが,何かこの哲学者の「死に様」は須原に通じるものがあって,正直,あまり共感できないなと感じたものだ。共感できるとすれば,同じく筒井康隆の作品,「」の主人公の方がまだ理解出来る余地がある。この主人公は文学を専門とする元・大学教員で,今は妻とも死別して一人でひっそり暮らしている。とはいえ,生活水準を落とすことをよしとせず,さほど多くない蓄えを食いつぶし続けているので,この暮らしが維持できなくなったら「自裁」(「自殺」とは言っていない)すると決めている頑固老人である。老い先短い人生で,家族もなく金もなくなったらそこでチョン・・・という気分,ワシもそのうちそうなるかもしれない。
 しかし,「銀齢の果て」の「哲学者」や須原一秀は,イマイチ自分勝手過ぎて(これは浅羽も指摘している),それはどうだろうと思わずにはいられない。単行本が新書として編み直されて,ちょうど風邪気味な時にそれを手にとってこの機会にと反射神経的に購入し,38度の熱にうなされながら断続的に読みつつ須原に共感したら死んでしまうかもしれないとビクビクしていたワシは,「ダメだこりゃ」と,途中で呆れると同時にホッとしたのである。この須原の主張する「死の能動的ないし積極的受容の理論」には感心したものの,安楽死を大幅に健康時に前倒しした「新葉隠」的自死には正直,「何を勝手なことを!」と憤ってしまったのである。今のところ,ワシが須原と同じ65歳で十分健康であっても,安楽死前倒しをしようとは考えないだろう。須原同様の円満な家庭を持っていれば,なおさら死への未練断ちがたく,死の前倒しをしようなどとは露ほども思わないに違いない。ワシはきっと徹頭徹尾,本書がいう処の,キューブラー・ロスによる定義「死の受動的ないし消極的受容」しかできない,普通の人間なのである。
 須原の主張は明快だ。本書は浅羽の解説と須原のご子息のあとがきを含めて307ページの新書だが,その主張の核は前述した通り,「死の能動的ないし積極的受容」(P.126~128)と,葉隠で主張されていた武士の「自死」を,現代の老人の「自死」と同じ意義を持つものにしようということだけ。それを自ら証明するために,須原は2006年4月に頚動脈を掻き切った上で縊死したのである。「自分には「自死」する資格がある」との主張を本書にまとめ,ワシら普通人にもホントにわかりやすい,哲学者とは思えないほど日常的な言葉使いで,主張の核を真綿でくるんで渡してくれたのだ。それについては本書の記述に直接触れて頂きたい。いや,この須原という人,多分「哲学者」という肩書きがなかったら,普通の気の良い元気なオジイサンだったんじゃないのってぐらい,いい文章なんだからさ~。
 その仕事の成果に,風邪ひきの頭ではあるが,ワシは大いに「励まされた」のである。本書の記述の一つ一つにワシは同意し,「人生の高」を知ったソクラテスや三島由紀夫や伊丹十三のような人間が老境に差し掛かった時にふと陥る不安,いや,確かな死の影を察して早めの安楽死をすべく身を引くことの「正当性」の主張も理解した。しかしどうしてもワシの頭は納得しなかったのだ。
 それは多分,ワシが大学生の頃,十二指腸潰瘍をこじらせて極度の貧血になり,ICUに担ぎ込まれた経験があるからだろう。あの時ワシは病院に行かねばとタクシーに乗って何とか隣駅の民間病院にたどり着き,医者と面談して間髪入れずにICU行きを命じられたのだが,その後,一般病棟に移るまで,隣のベッドには生きているんだか死んでいるんだか(死んでいたらICUにはいないか)分からない人もいる中で,なにやらぼーっと過ごしていたという印象しかないのだ。だから,たとえ癌になってモルヒネ中毒になってほぼ昏睡状態になってしまえば,まぁ,自分の意思があるんだかないんだか分からないまま死んでいけるに違いないと踏んでいるのである。須原に言わせれば,そんな都合よくいかねーよということになるのだろうし,聖女といわれたキューブラー・ロスですら,自分の死に際しては不機嫌極まりない死に様だったのだから,いわんや凡人たるわしみたいな輩が精神的にも肉体的にも安らかな死を望むなぞ,宝くじに当たるより低い確率でしかあり得ないというのは正しい認識なのだろう・・・しかし・・・。
 須原に言わせると「癒し」とは,集中させれば人生の極みを得られる快楽を薄めてダラダラと生を長らえるためだけの効能にしたもの,ということだが,そういう癒しで長らえる「凡人」的人生ってのは,多数の人間の人生がそうであるならそうであるだけの「理由」があるんじゃないかと,ワシは思ってしまうのである。須原は科学を「異様」といい,数学や物理の「わけのわからなさ」(P.233)を難じて「普通主義」を定義しているが,このような凡人的常識を備えている哲学者が,武士道のエリートを極めたような葉隠的自死を唱えているのはどうにも解せない部分が残る。「科学」が異様であると感じられたのは,自死を妨げる合理性が,「多数の論理」によって成立してしまうのではないかという反骨精神の表現なのだろうか? 結局,須原の「自死」は,本書に縷々述べられた哲学的思索の「結果」ではなく,「前提」に過ぎなかったのではないのか?
 ワシ自身は,死を積極的にも能動的にも受け入れる気など毛頭なく,最後の最後までネチネチと抵抗しながら,最後は「しゃーねーか」と観念するという精神構造しか持ち合わせていない凡人である。だから低い確率でしかなくとも,死ぬんだったら安らかであることを願うしかないし,さりとて元気なうちに首をくくって死ぬほどの度胸も思い切りもない。前述したように,65になって自死を選択することは絶対ないとは言い切れないが,たぶんそれはないだろうし,ワシ以外の多数の人間にとってもそれは同じだろう。たとえ本書に影響されて「自死」を選択する人間が増えたとて,多数派になることは多分ない。
 ワシは須原が感じた「異様な」「科学」をかじった人間なので,多分「多数派」には何らかの理があると信じている。人生の高を知ることなく,癒しだけで生き延びる「受動的ないし消極的」な人間が多数であることの意味を,須原は真正面から取り上げることなく逝ってしまった。その議論の続きは,生きている人間が生きている限り続けるしかない。そして,多分,いや,そこにこそ多数の「受動的ないし消極的」人間の存在意義が見いだされるハズであると,凡人たるワシは一縷の望みを持っているのであるが・・・・ダメっすかね?須原先生。

しらいさりい「ぼくは無職だけど働きたいと思ってる。」朝日新聞出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-02-250642-9, \940
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 エッセイマンガが増えたな~,とツクヅク思う。映画でもドキュメンタリーが増えてきたが,日本全体,いや先進国全体で高齢化が進展していることもあって,読者層・視聴者層の一番分厚い部分がフィクションというものに飽きているという理由も手伝っているのだろう。絵空事ではない,リアルな物語を希求するという状況は暫く止むことはなさそうだ。
 エッセイマンガが増えてきたのも,そんな「リアルな物語」を求めるという状況に加えて,マンガの表現力と読者のリテラシーが格段に上がり,複雑なコマ割が敬遠されるというよりは,シンプルで白い絵でも十分面白さが伝わる・読み取れるようになっているというマンガの21世紀的進化の結果でもある。表現がシンプルであればあるほど絵やコマ割にはセンスが求められるので,誰にでも描けそうでいて,そう簡単には読者に届く表現力が得られるわけでもない。実際,ストーリーマンガでは一線級の作家でも,エッセイマンガとなると途端に精彩を欠く,ってなことは普通にある。逆に,ド新人でもセンスさえあればWebや同人誌を通じてドンドン読者を獲得していく,ってなこともすっかり当たり前になった。このblogでも幾つか紹介しているが,「ヘタリア」のようにWeb経由で世界的な評判を得たものも現れるようになり,「時代だなぁ~」とすっかりオッサンの感傷に浸ってしまう昨今である。雑誌が駄目になったと思ったら,今度はWebか,いや,Webのせいで雑誌が駄目になったのか。ともかく,漫画家と読者が直に繋がりやすい状況になったことは良いことだとワシは思う。
 本書も,そんなWeb経由で評判になり,プロデビューに至ったマンガであるらしい・・・というのも,本書を読むまでは著者の「ニートな僕」の存在を全く知らなかったのである。どーしてもバブリーな1980年代に青春を過ごしたオッサンなワシは,Web上のマンガってのにまだ抵抗があるらしいのだ。だもんで,積極的にディスプレイでまんがを読もうという気にならないのである。多分,本書を手に取らなければ,著者のblogを読むことはなかったであろう。
 そんなワシが本書を購入した理由は,内容が「・・・うっ,これは惹きつけられてしまう・・・」と直感したからに他ならない。得能史子に惹かれたのと同様,「ダメダメ光線」がビガビガと発せられており,本書を手にとって一瞥した途端,ワシのダメゴゴロの「共感」回路がショートしてしまったのだ。ワシは結構絵柄にはうるさいのだが,シンプルというだけではなく,相当センスのよさげなベクトル描画なデジタル絵にも好感を持った。
 ちょっと気弱な三十路の独身男,村田良男が主人公のフィクションマンガ・・・が本書の正確な紹介になるのだが,ワシはやっぱり本書を「エッセイマンガ」というジャンルにカテゴライズしたいと思う。なぜなら,ここで描かれている村田君のありように,フィクションを超えたリアリティを感じたからである。著者がこのような体験を経てきたかどうかは不明であるが,ワシも職場でしょっちゅう悩まされている「マンション営業」にいそしむ村田君がクビになる(自主退職という形態は取らされるが)経緯,ニート期間のやるせない鬱な日々,チャットと出会い系にハマって振られるという情けないエピソード,そして再就職(といえるのかなぁ,これ)に至るまでの七転び八起きな就職活動・・・,どれを取っても絵空事感がゼロ。多分本書をノンフィクションのドキュメントマンガだよ,と言って人に勧めたら完全に信用するだろう。そのぐらいリアル,っつーか,「あるよなぁ・・・こういうことも」「いるよなぁ・・・こーゆー奴」「ああっ,これワシだ,ワシのことを描いている~」ってな反応が続出するんじゃないかな。ワシの場合は,自分にも通じるし,今教えている学生さんとか,前の職場で接してきた能開セミナーの受講生さんにも思い当たる人がいる(た)ので,読みながら胃がキリキリしてきたのである。
 村田君は,慣れないマンション営業部門に回され,業績不振の責任を取らされる形で自主退職をする(させられる)。そして就職活動の日々を送るのだが,誰しも,ことに,対人関係では積極的になれない気弱な向きには,自分には向いていない仕事をさせられて苦しんだ体験はあるだろう。村田君が退職するのも,誰が悪いというよりは,時代と状況が悪いというより仕方のないところがあり,そして再就職活動も躓きながら休みながらだらだら~と過ごしてしまう,というのも,勝間和代あたりからは「バカしっかりしなさい!」と怒鳴りつけられるだろうが,カツマーとは縁遠いダメ人間たるワシは「無理もねぇなぁ~」とシミジミ共感してしまうのである。ちょうどワシも調子が良くない時期に当たっているので,多分,村田君のような状況であれば全く同じか,いやそれ以上に対人関係ゼロのヒッキーになるに決まっているのである。
 幸い村田君は,ネットを通じてとはいえ,交友関係を持とうという意欲は残っており,自分を心配してくれる家族もいた。三十路前半という年齢制限ギリギリの若さであったことも功を奏して,何とか世間と繋がることが出来た。この辺も結構リアルで,逆にこのような多少の社会性・関係性の有無が,職を得るかどうかの紙一重の違いに繋がってしまうのだろう。そう考えると,一歩間違えればアキバで暴れまくった加藤のような人生にもなり得る,ちょっと怖い状況を描いた作品であるとも言える。
 今の日本の雇用状況の悪さと,すぐに底辺に落ちてしまう耐性のなさは,結局の所,社会の分厚さがないせいだ,というのが宮台慎司の分析であるが,民主党政権を突き上げたところでそう簡単に復活するものでもない。とりあえず手近なところから,出来る範囲で各人が隣人知人をつなぎ止める努力をする他ないだろう。もちろん,最低限の本人の自助努力は必要であるけれど,せめて元気で就職の意志のある世代がヤケクソの捨て鉢にならない程度に,パンを分け与えるぐらいの節度を,まだパンを得ることが出来ているワシらが持つことが必要だ。そう,村田君が労働の意欲を復活させたぐらいの,ささやかだが重要な成功例を普遍化することができれば,ビンボーではあるがそこそこ良い社会が維持できるのではないか・・・ワシはこのマンガを読んで,そう確信したのである。

小谷野敦「禁煙ファシズムと断固戦う!」ベスト新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-584-12249-5, \686
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 作家(という肩書きでイイかな?)・小谷野敦の激烈な「禁煙ファシズム闘争」は,氏のblogを愛読している人間にはよく知られていることだろう。本書は日本パイプクラブ連盟などの媒体や自身のblogに綴ってきたその主張をまとめた約200ページの新書である。大変読みやすく,一日も掛からずにあっさり読み通せたから,現在では少数派になりつつある喫煙者の主張を保存しておくにはもってこいだろう。ま,「最後の喫煙者」の主張,とまでは今の時点では至ってないけど,小谷野が言うところの「禁煙ファシズム」が行き着くところまで行けば,こうしてその主張が出版されることもなくなるかもしれない。ことにこういう激烈な反撃文はますます出版されづらくなるかもしれないのだ。
 本書にも小谷野の「文章作法」の激烈さを非難するAmazonレビューが引用されていたりする。ま,それは確かにそうかもしれない。しかし,ここは一つ冷静になって小谷野の主張するところだけを整理してみようではないか。
 ・駅のフォームや道路・公園など,外気に対して完全に開放されている公共の場所での完全禁煙は行き過ぎ。喫煙所を設けろ。
 ・健康増進法は「分煙」を勧めているのであって,「完全禁煙」推進のための法律ではない。
 ・マナーを守らない喫煙車の行いには怒りを覚える。車からの吸い殻のポイ捨てなど言語道断である。
 ・タバコが健康に悪影響を与えないなどとは言っていない。肺がんとの因果関係は完全に証明されたわけではないが,肺気腫や喉頭癌などタバコが原因の呼吸器系の病気は確かにある。
・・・とまぁ,「言い方」を変えると,至極穏当な中庸的な意見を述べているに過ぎないことがわかる。そう,反論が口汚くなったりすることはあるが,言っていることは「タバコの煙は直ちに健康を悪化させるような毒物ではないのだから,喫煙の場所を適当な所に設けてくれ」と言っているだけなのである。それをかさに掛かったように喫煙者を追いかけ回してとがめたり罰金を取ろうなんてことは止めて欲しい,ということに過ぎないのだ。
 ただ,難しいなぁ・・・と思うのは,この問題,かなり根が深く,歴史も長いということがあって,解決できるとすれば,ただ一つの方法しかない。つまり,この「禁煙ファシズム」という「空気」を,「禁煙ファシズムなんてかっこわるいぜ」という空気に変えていくほかなく,それも小谷野のような突撃兵を先頭に,ある程度の数の賛同者と共に「分煙」の主張を声高に行い続けるより方法がないのである。
 その結果どうなるか? 適度なところで落ち着けばいいのだが,またぞろ我が物顔のマナーの悪い喫煙者が問題を起こして嫌煙者の悪感情を引き起こして更に強硬な「完全禁煙ファシズム」を引き起こし・・・という,いつ果てるともしれない「空気の波」として引きずることになる可能性が高いとワシは想像しているのである。実際,小谷野も本書で指摘しているように,かつては,ことに昭和50年代ぐらいまでは列車も会社も学校の職員室も煙でモウモウとしていたと記憶している。その頃でも嫌煙権を主張する頑固な少数派はいたのだが,「へっ,小うるさいこといいやがる」と,多数を占める喫煙派からは侮蔑されていた。
 それが今では立場が完全に逆転しており,喫煙派に相当不利な「空気」が作られてしまっている。それを称して「禁煙ファシズム」というのは正しいのだが,かつては「喫煙ファシズム」がはびこっていたことを考えると,結局,適度な「分煙」を境として喫煙派と禁煙派が綱引きを続けていく以外の解決策はなく,揺れ戻しは常に引き起こされるだろうという,甚だ疲れる結論しか出ないのである。
 疲れるけど,しかし,人間社会のダイナミズムは大なり小なりこの手の「ファシズム」的な「空気」によって生まれているのだから,ある程度の揺れ動きは仕方ないと諦めるしかない。今,ちまたではタバコ以上にもっと依存性の高い薬物が蔓延りつつあるという状況だから,ひょっとすると,麻薬に嵌るよりタバコでも吸ってれば?という風潮にならないとも限らない。ワシ自身は喫煙者ではなく,小谷野同様,潔癖すぎる空気は望ましくないと思っているので,適度な分煙には賛成である。けれど,そーゆー禁煙と喫煙(分煙)の間にいるワシのような付和雷同的な輩が,現在の禁煙ファシズムを形成し,ひょっとすると次にまた来るかもしれない喫煙ファシズムを作り上げるかもしれないのだ。そんくらいの「自覚」をワシみたいな禁煙ファシストどもも持つべきで,それを認識する為にも本書は有益な書であると,ワシは確信しているのである。

「月刊Comic リュウ 2009年11月号(Vol.37)」徳間書店

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 安永航一郎から「3号雑誌」などと揶揄されながら,とうとう3周年を迎えたComicリュウ。安永先生の連載「青空にとおく酒浸り」もいい加減,単行本化してくれないんですかね? まさか3年も続くなんて思ってなかったとか? いや,まったくあの行き当たりばったりとしか思えない,女の裸を描くのが目的としか思えないストーリー展開はワシ,大好きなんで,是非まとめて欲しいんですが・・・。しかし安永先生,原稿料だけでメシ食っていけるとも思えないんだけど,どうやって生活しているのか知らん?
 それはともかく,2周年記念に続いて,3周年もこうして無事迎えられて嬉しい。まぁ,購買層が「SF」という言葉に反応する三十路後半から四十代まで,主としてオタク崩れのオッサン連中に限られているらしいっていう,将来性に関する暗雲は垂れ込めてますが,ね。とりあえずは潰れずに続いていることを喜んでおきたいのである。でないと4年目は・・・いや,イヤな連想はよそう。確かに,Comicリュウ独自ドメインのサイト(comicryu.com)が消滅して徳間書店サイトに移行しちゃったことは経費節減の一環とも取れるし,雑誌本体の価格が580円→780円→630円と高止まりしていることに,愛読者としては一抹の不安を覚えるのだが,龍神賞からは有望な新人も育っているし,単行本もボチボチ書店の書棚に少しだが定位置を確保したようだし,も少し長い目で見ていけばそのうち大ヒットも・・・あると期待したいのである。
 とりあえず,目先の楽しみは,あさりよしとお「アステロイド・マイナーズ」が単行本にまとまること。「宇宙」と言えども貧富や能力による「格差」がある身も蓋もない現実味のありすぎる世界を描いているのだが,さりとてSF魂というか純粋な情熱が失われたわけではない,どころか,そんな世界だからこそわき上がってくる「生きる力」ってものを真っ正面から取り上げている力作である。出版の暁には是非ここでも取り上げたいものである。
 だからさ,大野編集長,いろいろうるさいことを言われているんでしょうけど,これがまとまるまで,くたばらないで下さいよ! ・・・と,何だか甚だ意気の上がらないエールではあるけど,ここ静岡の片隅から遅らせて頂く次第であります。
[ 2009-10-20 追記 ] 10/26(月) 「アステロイド・マイナーズ」1巻発売だそうで・・・いや,まだくたばってもらっては困りますぜ。

栗原俊雄「シベリア抑留 未完の悲劇」岩波新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-00-431207-9, \700
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事実関係を調べるにはまずググってみる,というのが今のワシのデフォルト動作である。つまり,「検索バカ」になっちゃっているわけだが,少し有名なものであれば,たいがいWikipediaの記事がトップに引っかかってくる。で,じっくり読んだりちらりと一瞥を食らわせたりするのだが,最近はほとんど必要なところだけピックアップしておしまいになる。ことに長めの記事は全文読んでいると頭がくらくらしてくる。ワシの貧弱な日本語解読能力が更に破壊されそうになるのである。
これは,普段からまともな日本語を読み書きしていない学生の長文を読むよりたちが悪い。何故なら,学生の文章はダメなりにダメさが一貫しているのに対し,Wikipediaの文章は様々な人間が手を入れたせいだろう,文章の流れが一貫していないことが多いのだ。エディタが介在しているから,文の一つ一つはそこそこマトモなのだが,文同士の繋がりが微妙に噛み合っていないことが多く,じっくり読んでいると船酔いになったような気持ち悪さに見舞われてしまうのである。
この「気持ち悪さ」は,ワシが本を読んで知識を得て育ってきたという経験から来るものなんだろう。最初から断片的な知識をつまみ食いするように育ってきたのであれば,Wikipediaのぶっち切れ文体はかえって吸収が早いのかもしれない。その意味ではワシは完全にオールドスタイルの人間なのだ。ま,四十路ですからもう若くないですけどねぇ~だ。
そんなロートルであるから,今でもやっぱりまとまった知識を得たいときには,新書だの文庫だの単行本だのといった,旧態依然とした「本」に頼ってしまう。もちろん,対談本のようなものは別として,読みやすさでは単著がベストである。文章の「流れ具合」は一貫していることが望ましいからである。
つーことで,おざわゆきのシベリア抑留マンガの感想を書いてから,そもそも何故そんなことが起こったのか,という疑問に答えてくれる本を探していた時に見つけたのが本書である。もちろん,過去には様々な本が出版されていて,おざわの同人誌にも参考文献リストが載っているぐらいだから,そんなかからピックアップしてよさげなものを読めばいいのだが,何せほら,根がズボラだから,なるべく薄くてコンパクトで読みやすいものがいいな~,できれば抑留体験者の書いたものより,第三者の視点からまとめたものがいいな~・・・なとどわがままぶっこいていたところに本書がグッドタイミングで出版されたのである。本文が211ページしかなく,新聞記者の著者が書いたものだから,大変読みやすい。ワシとほぼ同年配の著者であるから,怨念でドロドロになった記述は皆無で,抑留の発端から,抑留体験と引き上げ後の悲劇,そして現在まだ日本国相手の裁判が続行中であることまで,時系列的に事実が淡々と述べられている。「岩波ぃ~? ど~せ左翼的偏向しているんでしょ?」という人にもお勧めできる中立的な内容である。
ワシが知りたかったのは,シベリア抑留の「そもそも論」である。ことにソビエト連邦側の言い分が知りたかったのだ。
まず,日本との中立条約を破って対戦末期に満州に攻め込んできたことは,まぁ日本側としては卑怯千万と批判することは当然だが,ナチスドイツ・ファシストイタリアと三国同盟を組んでいて,ドイツが降伏しても中立を守ってくれるなどと期待すること自体が間違いであろう。それ以前に,ソビエト革命の際には日本によるシベリア出兵があったことをソ連は忘れていなかった,どころか,「ソ連にとってもっとも苦しい時期に干渉戦争をいどんだ日本への恨みは,深く残っていた」(P.28)と栗原は指摘している。
更に,第2次大戦において最も死者数が多かったのがソ連であったことが,シベリア抑留の直接的な原因となったことも述べられている。失った3千万人もの労働力を補う目的で,日本人64万人も含めて24カ国,417万人もの戦争捕虜を「活用」したのである。これはポツダム会談でチャーチルに対し,スターリンが捕虜を活用して生産を上げればいいと言い放った(P.35)ことで裏付けられている。まぁ独裁者なら考えそうなことだ。しかしドイツ人は238万人も捕虜になってたんだなぁ・・・そう考えると,日本で声高に被害を述べ立てるだけでなく,ドイツも含めた被害国との連携も必要なんじゃないかと思えてならない。
本書では,国際法も持ち出して堂々としていたドイツ人捕虜に比べて日本人捕虜は従順だったということも,使い勝手のいい労働力としてこき使われた原因ではないかと指摘している。全く,東条英機の「戦場訓」なんぞ,負けてしまえば何の役にも立たないばかりか,害悪にしかなっていないことがよく分ろうというものである。東海村の臨界事故でもそうだけど,末端の兵隊だから知識が不要ってことはなく,むしろ自分の身を守るための手段として,今自分がどういう立場にいて何をさせられているのかを正確に認識し,無体なことは異議申し立てをしたり反抗したりするための知識は絶対に必要なんだよなぁ。
・・・とまぁ,コンパクトな新書であるが,読むとワシの知らない「事実」がいっぱい出てきて,目から鱗が落ちること落ちること。あ~,やっぱりこういうものはWikipediaには分量からして全部の掲載は無理だし,何より流れるように腑に落ちる文章は「みんなのWikipedia」には所詮無理だよなぁ・・・ということを再確認させられる。ロートル親父なワシではあるが,まだ当分は,「ちゃんと勉強したいなら本を読め!」と主張していかねばならんのだなぁ・・・と再確認させられた次第である。