佐野眞一「完本 カリスマ 中内㓛とダイエーの「戦後」」上巻・下巻・ちくま文庫

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上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-480-42630-7, \1000
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-480-42631-4, \1000
 分厚い2冊の文庫本によって,ワシの貴重な三日間の連休は完全に潰れてしまった。
 やたらに重複の多いしつこい記述,空想が飛びすぎる部分など,平易かつ簡潔な文体が好みのワシとしてはかなり気になる箇所の多いノンフィクションなのであるが,やっぱりこの著者による「読ませる文体」と,「中内㓛(いさお)」という栄光と挫折を併せ持つカリスマ経営者の魅力に引っ張られて一気に読んでしまったのである。おかげで家事がおろそかになってしまったが,掃除洗濯をほったらかしても読むべき価値があることは間違いないのである。
 1969年生まれのワシにとっては1980年代の「ダイエー」という店は取り立てて特徴のあるショッピングセンターではなかった。こぎれいだし,品揃えはそこそこだし,近場にあれば立ち寄るぐらいはする,という程度の存在であった。本書の上巻で述べられている破竹の勢いで,松下電器や花王という大メーカーと喧嘩しながら,当時日本一の売上高だった三越を抜くまでに成長した栄光なぞ知るはずもなく,「垢抜けない小売店」という程度の印象しかない。しかも,その後のダイエーは転落の一途を辿り,2004年10月13日,産業再生機構による支援を仰ぐに至る訳だが,その過程では「サンデープロジェクト」に再建を託された経営陣が登場して田原総一朗をはじめとする出演者から励まされたりしていたのを見物させられ,特段愛着もない小売店の行く末にさして興味もないワシは心底うんざりしていたのである。
 「一体全体何が問題なんだ? あの中内って言うだみ声の親父のワンマン拡大路線が原因だってんなら,親父ごと葬っちゃえばいいじゃねーか」というのが,ダイエー再建問題についてのワシの感想であった。だもんで,当時のダイエー社長が報道陣にもみくちゃにされながら経済産業省で産業再生機構入りを表明しているニュース映像を見ても,「やっと決着したか,やれやれ」と思っただけなのである。
 実際,本書で語られているダイエー末期の状態は相当ひどかったようだ。粉飾とまではいかないが,グループ企業内で株のやりとりを頻繁に行うことで目くらましをして何とかしのいでいたものの,ちゃんと計量してみれば,ピーク時には2兆6千億円もの借金を抱えていたという。破綻した夕張市の借金が約600億円であることを考えると,途方もない金額である。1980年代半ばから改革の努力を行っていたとはいえ,そんな借金を抱えつつ,産業再生機構入りするまで十数年間もよく持ったモンである。
 これだけの借金を抱えたのはひとえにダイエー創業者・中内㓛の「ワンマン体制」そして「拡大路線」が原因である。
 ワンマン体制は徹底している。自分の後継者にと息子や女婿を取締役に配置し,周囲を全てイエスマンで固め,自分のプライベートカンパニーを次々に作っては潰したり合併したりしてダイエーの株式持ち分をしっかり保持する。80年代にV時回復を果たしたスカウト社長は放り出すようにして遠ざけ,次に連れてきた社長にはインサイダー疑惑をおっかぶせて放逐する。結局,再生機構入りするまで,CEOは辞任しても「ファウンダー(創業者)」という地位を維持してにらみをきかし続けるのである。うっとうしいことこの上ない。確か,「サンデープロジェクト」でも,中内の影響力が残ったままで再建は可能なのか?という質問が出ていたが,その疑問を裏付けるうように,最後は国家が中内を追放し,彼の私有財産を根こそぎ取り上げる形で再建を目指すことになってしまったのである。
 拡大路線については,ワシら中年以上の世代にはかなり明瞭な記憶が残っているはずだ。リクルート,ヤオハンジャパン(の静岡地区の店舗)を買収し,とうとう南海電鉄からプロ野球球団まで引き受け,ホテルやドーム球場までセットにして福岡ダイエーホークスを設立する。たしか先頃引退した「あぶさん」にも,ホークスのジャンパーを着込んだ中内が登場していたと記憶するが,本書によれば,実際,あのようなジャンパーを好奇心からか喜んで着ていたらしい。
 ってなわけで,ワンマン創業社長の転落の表層的な原因は火を見るより明らかである。しかし,この転落の根本には,そもそも破竹の勢いでダイエーを日本一の小売店にした原動力も絡んでいる。良くも悪くも,ワンマン体質を生んだ人間不信と,拡大路線を突っ走る情熱を中内に受け付けたのは,第2次世界大戦中,中内がフィリピンで体験した飢餓線上での敗走にあるという。食料が尽き,死んだ兵隊から靴を奪っては履き替え,自分の靴を食って飢えを凌いだというほどの凄惨なものだったらしい。そのせいで中内は総入れ歯になってしまうのだが,そんなことはたいしたことではない。問題は,仲間に殺されて「食われる」危険を感じながらの敗走を経験したことにより,極度の人間不信と,生き残ったことで戦死した仲間に対する抜きがたい罪悪感を抱えてしまったことにある。復員した中内は,級友の記憶に残らないほどおとなしかった戦前とは打って変わって,エネルギッシュに戦後のヤミ市をかけずり回って商いに励むようになったものの,ダイエーが大きくなるにつれて兄弟間の確執が増し,ついには自分を支えてくれた弟も放逐,前述したように,自分の失敗をフォローしてくれるようになった近習も,三越・岡田社長のように寝首をかかれるかと恐れてドンドン外部に出してしまうようになる。信頼できるのは自分の子供だけ。それも,ビジネスにかまけてろくにかまってやれなかったという負い目から思いっきり甘やかしてしまい,ハイパーマートのような大失敗を引き起こしてしまうのである。
 そんな中内だが,著者の佐野眞一は,取材するうちにその光と影を抱えた巨大な人物の魅力,いや,魔力に惹かれたかのように,中内周辺の取材を綿密に重ねていく。決して紋切り型の断罪はしない,中内の成功も失敗も丸ごと納得できる論証を突き詰めてやろう,そんな意気込みが感じられる本作は,佐野が生きてきた「戦後」を噛みしめ,理解するためのライフワークの一環として編まれたものなのである。

とり・みき&唐沢なをき「とりから往復書簡2」リュウコミックス,坂田靖子「サカタ荘221号室」PHP研究所

「とりから往復書簡2」 [ Amazon ] ISBN 978-4-19-950145-6, \933
「サカタ荘221号室」  [ Amazon ] ISBN 4-569-61991-6, \1350
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 NHK BSの番組「マンガノゲンバ」で唐沢なをき先生を取り上げる予定だったのが取材中のトラブルで中止になった,という記事(産経新聞)が出たのが本日2009年9月14日。それを見た現実逃避中のワシは慌ててからまんBlogにアクセスし,奥様の唐沢よしこさんがその顛末を細かく報告した記事を読んでみた。
 うーん・・・デジャブ・・・デジャブだ。そうだ,あれは坂田靖子先生の本だった。っつーことで本日「マスコミの横暴」じゃない「(一部の)横暴なマスコミ関係者」にからめてまとめて2冊ご紹介してみたい。
 さてくだんの事件だが,制作会社側の言い分が全く聞こえてこないので,今の時点ではよしこさんの記事でしか判断できないのだが,それを読む限り,まぁ何というか,やらせ問題があれだけ騒がれたのも忘れたのかという程の,ワシに言わせりゃ完全に横暴極まりないディレクターの指示(先方にしてみればお願い程度の認識だったのかもしれないが)には呆れかえってしまう。強引な先方のストーリーに載っかったインタビューもさることながら,漫画作品にまで手を突っ込んでこの材料を使えなどという要請(?)は,20年以上もプロとして食ってきたベテラン漫画家に対する敬意のかけらも感じられない。そりゃぁ,継続取材を断るのも当然だよなぁという内容である。
 で,よしこさんも言及している新刊「とりから往復書簡2」に納められている「愛の18通目」には,とり・みきからの「思いっきりやらせっぽいTVや雑誌の取材を受けたことはありますか?」という問いに対して「えーっもーいっぱいありますよいーーーっぱい!!」となをき先生が力説されている。で,「こっちが見下されてなければ」「実はけっこう好きなんですよ ヤラセの入った取材とかそーゆーの」(P.25)と言っている。しかし今回の取材では事前に説明もなく,あーしろこーしろという一方的な指示が来るだけだったので,さすがにこれは・・・ということでお引き取りを願ったということのようだ。多分,完全に「見下された」ような取材だったのだろうと想像する。
 「とりから往復書簡1」の感想でワシは,「とりの「冷たさ」と「毒」が程良い具合に唐沢によって中和された,万人にお勧めできる漫画エッセイ」と述べた。暖かみの残る絵もさることながら,内容もマイルドであるのが唐沢漫画の特徴であるから,とり・みきの逆ベクトルの味わいと混じり合ってちょうどよいハーモニーを醸し出しているのがこのエッセイ漫画なのだが,この取材の件では,そのマイルドさ故に,多少強引な注文をしても乗ってくれそうな人の良さというものを勝手にディレクターがでっち上げてしまったのかなぁ・・・とも感じてしまう。一条ゆかりにも同じ態度で取材していたとすればイヤな強引さだが一貫性があって,それはそれであっぱれとも言えるが,そうでないなら単なる悪のりとして糾弾されても仕方なかろう。
 しかし,どうしても作品がマイルドで,かつ,大変なビッグネームという程ではない,という漫画家さんは,往々にしてそーゆー横暴なマスコミ関係者がもたらす災難に遭ってしまうものなのかぁ・・・と感じてしまう。その一例が「サカタ荘221号室」に納められている坂田先生のエッセイ「ヨワいものの話」(P.48~52)に現れているように,ワシには思えてならないのである。
 本書は2002年発行だからもう7年前のものだが,今でも多分,漫画よりエッセイの分量がずっと多い著者唯一の単行本であろう。漫画同様,生き生きとした躍動感溢れる表現は文章でも変わらず,読んでいて楽しくなるものばかりである。ただ,この「ヨワいものの話」だけは,ちょっと引っかかるものがあってワシは良く覚えていたのである。
 このエッセイは,坂田先生が在住している金沢まで出張ってきた編集者2名+カメラマン1名の「抱腹絶倒な同人誌仲間とのエピソードを語れ」という無茶な要求に坂田先生が焦らされた,という話である。まぁ,文章は坂田先生らしく朗らかに締めているのだが,ワシが同じことをされたら逆上してちゃぶ台をひっくり返しているところである。「いきなり事前説明もなく面白い話をしろったってなぁ~(怒)」と怒鳴り散らしていること間違いないのである。
 最後は大人の態度で寛容にフォローをする坂田先生なのであるが,作品と人柄の良さにつけ込まれたなぁ・・・というのが,このエッセイを読んだワシの偽らざる感想であった。
 この手の「横暴なマスコミ関係者」ってのは絶えることなさそうだ・・・という予感,つーより,確固たる事実は,かつて坂田靖子を襲い,この度また唐沢なをき夫妻に一つのイヤな思い出と「まんが極道」のネタを一本提供して,その実在を世に知らしめたのである。

松本清張「史観宰相論」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42605-5, \900
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 政治家の評価ってぇのは難しいモンだなぁとツクヅク思う。いや,個別の政治家が好きだ嫌いだと床屋政談レベルであれこれ言うのは簡単だが,歴史的に長いスパンで,かつ「日本の国益」に寄与しかどうかを判断基準にしてきちんと評価しようとすると,誠実に考えれば考えるほど分らなくなる。小村寿太郎なんてのはポーツマス条約直後にはロシアからの見返りが少ないと当時の国民からボロクソにこき下ろされたが,吉村昭が小説「ポーツマスの旗」でその業績を評価したら180度変わって名外相ともてはやされたり,井伊直弼に至っては二転三転どころではなく,結局今も統計的に確定した評価なんて存在しないのではないか。世の移ろいに従って「国益」の基準が変わってしまったり,評価する側の「常識」が変化してしまったりすると,政治家の評価なんてコロコロ変化するに決まっているのである。
 ましてや,政治家をテーマにしたノンフィクション書き物なんて,書き手の見方が変われば同じ人物を取り上げていても真っ二つの評価になることは普通にある。いや,同じ書き手でも「俺の筆先一つで善悪好悪は何とでも変えてみせるぜ」という筆先三寸な輩であれば,2パターン,いや何パターンの評価の異なった著作を作ることも可能だろう。大下英二ならやりそうだな。
 じゃぁ芯が通っている書き手であれば信用できるかというと,佐野真一のような文学的フレーズ表現に懲りすぎ,しかもその人物の生い立ちに寄りすぎた断定の多いライターだと,事実関係の記述は大いに参考になるが,肝心の評価については「?」をつけざるを得なかったりする。「凡宰伝」読んでいるときには引き込まれたけど,今になってみると,小渕恵三を「幼虫」と形容したのは何の意味があったのか,形而下的なことしか分らないカチカチ頭のワシにはさっぱり分らん。
 ということで,政治家の評価というものは,それなりに客観的・合理的な証拠に基づいた上で,個々人が判断し,それを各個人が積み上げてきた社会的ステータスも勘案して重み付けした上で統計的まとめを行い,そこに現れる「偏り」をもってようやく「まぁこの政治家はこういう評価か」と思うしかないものなのである。
 ・・・という結論を得た上で言うのだが,どーもそれはワシの好みではない。事実関係はきっちり調べて欲しいが,それはそれとして,結局その政治家がどんなことを政治的にやってきたのか「だけ」を取り上げて評価したものが好ましいと,ワシは思っているのである。「ちくま」No.462では佐野が小泉純一郎一家の,親権争いだの姉の別れた亭主の批判などを捕らえてとんでもない宰相だと批判しているが,そんなもの,政治家としての評価と何の関係があるのか,まるで意味不明である。小泉への批判は,国会議員となってつい先日の解散時に引退するまで,特に総理大臣在籍時の政治的振る舞いに力点を置いた政治活動に基づいて「だけ」で行うべきであって,不倫しようが離婚しようが「よっしゃよっしゃ」と言おうが目白に御殿を建てていようが芸者に金をばらまこうが,そんなプライベートなことはどーでもいいのである。ゲス的な調査はゴシップとして面白いからそれはそれで結構であるが,何を行い,結果として何が起こったのか,そこは揺るぎなく捕まえた上で良いだの悪いだのを言って欲しい。それがワシが好む「政治家談議」である。
 本書はそんなワシ好みどんぴしゃりの,大久保利通から鈴木善幸まで扱った「日本の宰相論」である。松本清張は本書の意義をこのように述べている(P.8)。

本文はどこまでも雑談ふうな史的宰相論である。ここにとりあげる人物が宰相の適格者だとはけっして思っていない。あるいは「悪宰相列伝」かもしれない。だが,現実性のない理想像的宰相論を言うよりは,曾ていくたびか変遷した組織の上にたしかに存在し,史的評価も与えられている「宰相」を見る方が,まだしも将来の理想像をさがす手がかりとなろう。

 阿刀田高は「松本清張あらかると」の中で清張の小説にはユーモアが全くないと指摘しているが,本書のような結構気楽に書き綴った(でも事実はきっちり調べた上で,だが)ようなエッセイでも,ほんっっとに読者をクスリとさせようと塵ほどもしていない。現実の宰相に理想なんて述べ立てたところでしゃーねーだろ,と一種の諦観というか達観というか,そーゆー冷めた視点のみが屹立しているという印象がある。結果として,日本の宰相の原型は内務卿・大久保利通がもたらし,そのくびきから現在に至るも逃れてられていないと断じることができたのであろう。
 本書では清張の興味を引かなかった首相はいとも簡単にすっ飛ばされている。東条英機なんて全く面白いと思っていなかったようで,近衛文麿が始めた「日本の破滅」(P.220)を行ったとして一言でまとめられているだけ。戦前の首相では,大久保・伊藤以降は政党嫌いだった山県有朋がいわゆる「統帥権」と,軍が天皇への直接意見具申が出来る制度「帷幄奏上」を創設したところから,近衛文麿が陸軍の「使用人」として終わるところまでを扱い,戦後はワンマン宰相・吉田茂を集中して述べ,それ以降の首相はさらっとした一口論評程度で終わっている。本書執筆当時の政治家が小物だということではなく,歴史資料の堆積のない最近の首相は書く意味がないと言っているようでもある。この辺は分厚い歴史資料好きな清張の面目躍如という感がある。
 きちんと取り扱っている宰相についての論評はほぼ的確,というか,資料の裏付けのある歴史的評価の定まった人物については,「ふーん,なるほど」と納得させてくれる記述をしている。ほめあげることは殆どなく,政治家として実行したこと・しようとして出来なかったことに対して少し辛口な論評を短くそっけなく行っている。ほとんど異論はないが,客観的すぎて作家と言うよりは学者の仕事という感じ。早大を出た石橋湛山に関する記述の中に,中年になって作家デビューするまで苦労した清張の「やっかみ」が見える記述(P.394)を見つけてホッとしたぐらいだ。高学歴の多い編集者に質問を浴びせてその無知ぶりを笑っていたという清張らしいが,ワシはこの子供じみた振る舞いに魅力を覚えるタチなので,もっと自分のことに絡めて語ってもよかったのではないかと思うのである。
 本書には,今度首相になる鳩山由紀夫の祖父・一郎についての記述も,現首相である麻生太郎の祖父・吉田茂の記述もそれなりの分量が割かれている。そしてその二人が登場するまでの歴史的経緯も明治以来厚く書かれている。戦後政治がどのような「源流」を持っていたかを知るには格好の一冊であると共に,今の政治も決してその源流とは無縁ではないどころか,太いワイヤーで繋がっているということを再確認する上でも役に立つ書である。ワシは政権交代が起った今こそ,本書が刊行された意味が出てきたと思っているのである。

伊藤理佐「あさって朝子さん」マガジンハウス

[ Amazon ] ISBN 978-4-8387-1961-7, \800
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 そうか,老舗女性誌・Hanako連載の名作漫画シリーズのバトンは伊藤理佐が受け継いだのか,と先日この新刊をgetした直後に気がついた。我が家にはちくま文庫に入っている高野文子「るきさん」と吉田秋生「ハナコ月記」があるのだが,数年後にはおそらくこの伊藤理佐の「あさって朝子さん」も,きっと,きっと,

全頁オールカラーで


収録されるに違いないのである。いいや,間違っても本書のように

最初の15ページ分だけがカラー,残り153ページまで全部白黒


などという,伊藤理佐の画力が放つ魅力を半減させるような,営業暴力的な単行本にはならないはずなのである。いいか,定価が高くなっても全頁オールカラーで文庫化するのだぞ>筑摩書房
 高野文子・吉田秋生・伊藤理佐に共通する,Hanako名作漫画シリーズの特徴は
 ・オールカラー,見開き2ページ連載
 ・ちょっとトウが立った三十路以降の女性が主人公
 ・現実味のある女性の色気が匂い立つ絵の魅力がある
 ・よくあるホノボノ漫画に堕落しない,笑えるユーモアとペーソスに溢れている
というものである。作り込んだギャグではなく,実体験が滲み出てほどよく蒸留された,「そうそう,そういうことってあるよね」という共感を覚えるエピソードが積み重ねられていくのである。
 伊藤理佐の場合,特に本作には,さすが吉田戦車の子を孕むだけのことはあって(何の関係があるのか),「やっちまったよ一戸建て!!」から「おんなの窓」「女のはしょり道」に至る一連のエッセイ漫画と同質の笑いが詰まっているのである。主人公である「朝子」は,はるばる田舎から上京し,アパレルメーカーの一広報部員(だよな,たぶん)として東京で日々豪快な社会人生を歩んでいるのであるが,どこか作者・伊藤理佐を彷彿とさせるエピソードが描き連ねられているのである。
 出張先で肌にどんぴしゃりのリンスインシャンプーと洗顔フォームを見つけた(と思った)とか(伊藤の肌は敏感),二日酔い明けの水道水はジョッキ生ビールと同程度にうまいと感じたとか(伊藤の飲み助ぶりは有名),どんぴしゃり,作者本人を想起させるものもさることながら,他の全ての作品でも,一作ごとに設定される一つの中心テーマはエッセイ漫画と全く同じ「質」のものなのである。朝子を伊藤と置き換えても全く違和感のない作品になるのだ。これは伊藤が細く長く漫画家をやってきた結果,辿り着いた一つの到達点故の相似なのだろう。芸のない芸人は命の危険も顧みずマラソンにチャレンジしたり,大したおもしろみのなさそうな冒険に出たりするものだが,そういう輩は面白い「ネタ」が非常な体験を通じてしか得られないと勘違いしているのだ。優れた芸人は「感性」を磨くことで,どんな些細な日常生活からでもネタを仕入れることが出来る。伊藤も読者や編集人・漫画家との付き合いを通じて「感性」を磨き,笑えるエピソードを拾い出すことができるようになったのだろう。
 しかし,特筆すべきはネタの面白さ以上に,へろへろな線で描かれる朝子をはじめとする女性陣に色気が満ちあふれていることだ。彼氏と5年つき合ってアパートの更新ついでに結婚した女性も,四十路越えで時たまカラスに変貌する女性も,皆例外なく可愛らしい。これで全頁カラーだったら・・・とワシが喚きたくなるのも当然なのだ。白黒ページが多数を占めてしまう編集によって,伊藤理佐の画力を存分に味わえなくなったことは,何度も言うが,返す返すも残念である。定価が倍になってもイイからマガジンハウスには頑張って欲しかったところだ。ちくま文庫に入った2冊は,その点,全頁あざやかなカラーが再現されていて,これがなければ「名作」の輝きに曇がさしていたこと間違いないのである。
 ということで,筑摩書房の皆様方におかれましては,是非とも是非とも,本作の

全頁オールカラー収録による文庫化


をお願いしておきたいのである。

おざわゆき「凍りの掌」Vol.1,Vol.2,Vol.3(完結), 同人誌&小池書院

[ 著者サイト ] 頒価 \1000(だったかな?)
[ Amazon ] ISBN 978-4-86225-831-1, \1238 (2012年6月発売)
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 終戦記念日なので,何かそれにちなんだものを取り上げようと思ったときに真っ先に思いついたのがこれである。ということで,ワシが大好きな同人作家・おざわゆきのシベリア抑留マンガをご紹介したい。
 太平洋戦争における日本の「敗戦」を考える切り口は,ほぼ出揃っているように思われる。政治面では天皇の統帥権を盾に,いわゆる「城下の誓い」に至らしめるまで,次から次へと内閣を翻弄してきた帝国陸軍の責任を第一に考えるべきであるし,しかしそれを支え続けたワシら国民の責任というものも同程度に考える必要がある。戦中,東京で少年時代を過ごした吉村昭は「私の文学漂流」で,世に認められるきっかけとなった作品「戦艦武蔵」の土台となった資料である「『武蔵』の建造日誌から立ち上る熱気」を受け,「私が少年時代に感じた戦時の煮えたぎっているような空気」を思い出して次のように述べている(P.217)。

 戦後,戦争は軍部が引き起こし持続したものだ,という説が唱えられ,それがほとんど定説化している。しかし,少年であった私の目に映じた戦争は,庶民の熱気によって支えられたものであった(太字はワシによる)。

 ナチス・ドイツ同様,そういうものが成立する土壌はポピュリズムにあるのだということは,洋の東西を問わない事実だ。しかし民主主義がそれなりに回っていくためにはポピュリズムの力を利用しなければならず,結局の所,政治家がその他大勢の国民を煽ったり騙したりなだめすかしたりしながら,ある程度長期的な観点に立って合理的な方向性を探っていくほかないというのもまた事実である。その意味では,ちょっと合理性を欠いた行動をし過ぎたな,と言わざるを得ない時期が昭和初期~20年8月15日ということになろう。そして,合理性を無視し続けた結果,敗戦後に国民が支払わねばらならなかった「代償」は,64年経った今に至るもワシら国民を色々な意味で「屈折」させ続けているのである。
 大きな「代償」の一つが,植民地・満州国崩壊によって引き起こされたものである。邦人引き上げの際の混乱によって残留孤児問題が引き起こされ,近年まで毎年のように肉親捜しが続けられたことは多くの人が記憶していよう。ワシが一番好きな竹宮惠子の作品は「紅にほふ」であるが,満州花柳界で育った3人姉妹(血は繋がってないが)それぞれの人生が時に優しく,時に残酷に描かれる入魂の作品である。当然,日本への引き揚げの苦労も描かれるが,この3姉妹はまだマシな方だったようで,悲惨きわまりない事件も多数あったこともちゃんとモノローグでは述べられている。残留孤児問題はそんな事件の一つであった。
 さて,満州国崩壊と共に,ここを実質的に抑えていた関東軍がソ連軍に連行されてシベリアで過酷な肉体労働をさせられるということが起こった。これがシベリア抑留事件である。本書は著者の父が体験したこの抑留経験に基づいた漫画作品である。
 つげ義春の作品を表して,赤瀬川原平は「悲惨な町の安全運転」と言った。けだし名言である,とワシは感じた。その意味は「つげ義春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり」の解説を読んで頂きたいが,おざわゆきのシリアス作品も,意味は多少違えど「悲惨な町の安全運転」めいたところがあるように思えるのだ。
 おざわゆきの作品については,竹宮惠子が的確な解説をしているので,まずはそれを引用しておこう(「竹宮惠子のマンガ教室」筑摩書房,P.199)。

 絵は三頭身ぐらいのバランスで,卵のような丸い顔の中に,大きな目が半分くらい描いてある,全然シリアスな雰囲気じゃない絵なのに,その絵のまま,戦争で難民になってしまって,放浪している間に自分の身を売って家族を助けていく,というドラマチックな話を,こんな薄い同人誌の中で描いている人がいるんです。本当に枝葉の部分を全部そぎ落として,話の骨子だけを伝えているんですけれど,それはそれですごいというか,読んでしまえばすごいドラマだった,そういう描き方をする人もいるんですね。

 今なら西原理恵子に似た画風,といえば当たらずといえども遠からず,ではあるが,納得して頂ける方が多いだろう。ただ,叙情と根性に頼った短編が多いサイバラと決定的に違うのは,竹宮が言うように,おざわは骨太で重厚なドラマを展開するストーリーテラーであることだ。そしてその物語は悲惨な状況であっても,パンドラの箱に唯一残った「希望」を感じさせるものである。これはオザワ流の「安全運転」=「ハッピーエンド」なんだろうなぁと思えるのである。ワシは宗教には全く疎いのだけれど,業田良家の「自虐の詩」の幸江が辿り着いた境地と同じ,「悟り」というものがオザワにもサイバラにも共通してあるような気がしているのである。そしてそれは悲惨さが自尊心をズタズタにするような経験によって得た,いつまでも尾を引く疼痛を抱えたものであるように思えるのである。
 オザワ作品は以前,「才能とは何か?」というテーマで谷口ジロー作品とまとめて論じたが,ワシはあの作品,かなり実体験に即したものだと思い込んでいるのである。で,ワシの感性をヒリヒリと刺激した,あの作品に描かれた世間との軋轢は,現在でも大なり小なり,誰しも世間に出る時には感じさせられる通過儀礼なのだと気がついた。
 現代は教育の場であれ会社であれ役所であれ,効率化を求められる時代である。故に,誰しも他人から「評価」されることになる。客観性のある評価であれば個人はそれに従うほかなく,自尊心との齟齬がどうしても生じてしまう。それに甘んじるのか不満を述べ立てるのか,評価を上げる努力をし続けるのかは人それぞれであるが,ある程度飯が食える状況に持って行ければそれなりの「悟り」の境地に達することが出来る。しかしそこに至るまでには通過儀礼としての「痛み」が誰にでも生じざるを得ない。優れた作家はその痛みを読者に「共感」させ,一種のコミュニケーションツールとして利用し,自分の表現を伝えるのである。BSマンガ夜話用語である「あざとい」というタームも,多くの読者にこの共感作用を呼び起こしたという肯定的な意味で使われているが,その意味ではオザワも十分「あざとい」作家であると言えよう。
 そう考えると,父君の体験とは言え,シベリア抑留をテーマに作品を創ったおざわゆきの意図は明白である。作家の直感として,これは自分の持つ資質と呼応するテーマだと断じたのだ。自分が描くべき物語だと,135ページものネームをバリバリと切っていったのである。本作は,右翼がソ連の横暴さを非難するためのものでなく,左翼が戦争の悲惨さ/愚かさを訴えるためのものでもないのだ。ただ,オザワが描くべき作品だったというものなのである。
 それ故に本作は,誤解を恐れずに言うが,面白い作品なのだ。井伏鱒二の「黒い雨」が優れた文学作品であるという以上に,面白い作品であるのと同じ意味で,エンターテインメントとして優れているのである。
 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
 おざわゆきが書き下ろした本作が,いしかわじゅんの言う「表現」になっているか,と言えば,いしかわの意見は知らねど,ワシ自身は十分それに叶っていると,この2冊を読む限りは断言する。抑留そのものが国際法に則って正しいとはとても言えないことぐらいは主張しても良さそうだが,それもかなり抑制的。ソ連兵による扱いが非道であることを声高に主張することもあまりなく,ひたすら過酷な収容所生活が描かれるだけだ。それはオザワが描くべき所がそこにあるからなのであって,別紙でオザワが主張するように,シベリア抑留を告発することが目的ではないからである。そしてこの重苦しい,いつ終わるとも知れぬ極寒の地における過酷な労働生活は,「読ませる」物語になっているのである。
 本作は3部作だそうで,多分今年(2009年)には完結すると思われるが,ワシはまだ未見である。それを楽しみにしている,というと悪趣味なようだが,面白い作品なのだからしゃーないではないか。大体,戦争漫画が面白くて何が悪いか,とワシはいしかわじゅんに成り代わって叫びたいぐらいだ。まぁそのうちどっかのプロパガンダに利用される可能性はあるけど,そうなったらなったで良いではないかとも思うのだ。たとえ思想のフィルタがかかっても,物語の面白さに違いはないのだから,どーせ使われるなら面白いものの方がイイに決まっている。原爆の悲惨さを伝える作品として丸木位里・俊の絵が今も流通しているのも,圧倒的な迫力があってのことだ。吉村の言う「煮えたぎるような熱気」の源泉を肯定的に描いた小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言 戦争論」がベストセラーになったのも,左翼の反発を呼び起こすだけの圧倒的な表現のエネルギーがあったればこそだ。「表現」として優れていて,ワシの共感を呼び起こす「あざとさ」を持つものであるなら,ワシは積極的にその作品を支持していきたいと思っているのである。そして優れた「表現」が右にも左にも氾濫することで,「屈折」が複雑さを増して強固な地盤となり,現代日本の長い「戦後」が豊かになるとワシは信じているのである。
 是非とも完結した本作を読んで,このエントリにその感想を追加したいと念願しつつ,コミケにも行けずにいじけている終戦記念日のワシなのである。11月のコミティアか年末のコミケには何としても出かけて3作目を読みたいぃ~ぞ~っと,オスの負け犬が掛川から遠吠えをお届けした次第である。
[2010-09-01 追記] 2010年8月15日付で完結編のVol.3が発行され,ワシは8月29日のコミティアにて入手した。3冊の中で一番分厚く,111ページの力作。収容所での共産主義洗脳活動のリアルな描写があって,骨組みとしての知識はあったものに「肉付け」される感じがして,このVol.3だけ取り出しても十分「面白く」読むことができた。
 刊行が一年遅れたこともあって,民主党政権のもと,「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が2010年6月に成立(朝日新聞)。洗脳された帰国者の共産主義活動が問題視されたことも,成立が遅れた原因であるらしい。そのことの是非は置いておくとして,ちょうど法律が成立した年に本書が刊行されたのは,意図せぬ偶然とはいえ,救済に間に合わずに亡くなった抑留者の慰霊としても相応しい。
[2012-06-26 追記] 小池書院から3冊分の同人誌を纏めた単行本が刊行されたので,そのデータを追加した。