三井斌友・小藤俊幸「常微分方程式の解法」共立出版

[ Amazon ] ISBN 4-320-01608-4, \2600(現在は\2835)
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 久々にこーゆーまともな常微分方程式の教科書を通読した。卒研テーマのネタとして本書がちょうど良さそうだったので,解説用にと一気にまとめのメモを作ったのだが,さーて,ワシが学部生だったときの本書があれば良かった・・・のかどうか,ふと考え込んでしまった。そのあたりのことも思い出しながら,つらつらと長めのぷちめれを書いてみることにする。
 本書は未だに完結の目処が立たない工系数学講座シリーズの一冊として,当初の締め切り予定を大幅に超過した上に著者が一人増殖して出版されたものである。なぜそんなに締め切りにこだわるかというと,ワシはこのシリーズを能登半島に左遷中,行きつけの本屋に予約を入れていたのである。1990年代後半に結構華々しくシリーズ刊行をぶちあげ,編集委員はさることながら,その著者のラインナップを見てワシは薄給を叩いてでも全部揃えてみせると意気込んで予約を入れたものである。・・・でまぁ,学術書にはよくあることだが,最初の何冊かは順調に出たものの,あれから十年以上経つというのに未だ出版されていないものがあったりするのである。そりゃあねぇ,いくら執筆者が学界の重鎮揃いとはいえ,身銭切っている読者としてはイヤミの一つも言う権利があろうというものである。いい機会だがら一度言っておくが,ワシは一冊残らず刊行されるまで,執念深く待つ。だからもっと著者をせっつけよっ!>共立出版
 まあしかし遅れるのも無理はないのである。何せ指名された方々は皆,過労死しそうなほど忙しい人ばかりである上に,完璧主義者が多いんじゃないかと想像する。いい加減な内容を書くとすぐさま編集委員のH先生のつっこみが入ってしまう(妄想です)ことを恐れてのことではなく,せっかく書くなら新機軸も少し入れてわかりやすい解説を付けて・・・などとやっていると,完成が長引いてしまうのであろう。その証拠に刊行されたものは,時間をかけただけのことはあるよな,と思えるものが多い。本書みたいに,ずぅううっとワシの座右においてあるものもある(「工学における特殊関数」とか)。もっとも偏微分方程式関係のあの本は肩すかしにあったとかってものもないではないが,この辺は好みが分かれるところであるから,著者の両K先生におかれましては決して気分を害されることがないようにお願いしたいものである。
 さて本書である。一昔前までは,教養系の微分方程式の教科書と言えばヤノケン(矢野健太郎)のアレであろうが,記号処理的計算に満ちていて,コンピュータシミュレーション全盛の今日向きではない。大体,原始関数が代数的有限表現で完結するってのは限られるのだから,その手の計算は程々にして,とっとと「力学系」つまり,常微分方程式全体が形作る「場」,局所的な振る舞いと大域的な振る舞いを知る理論を勉強した方が得策である。何せ計算ならコンピュータがやっちまうんだし,それほど複雑ではない方程式なら3次元までのベクトル場ぐらい,フリーなソフトウェア(Scilabとか)ですぐに描けてしまう。数式からだけでは難しい幾何学的イメージ作りがコンピュータの手助けでできるのだから,今は本当に力学系の勉強にはいい時代になったものである。本書はポントリャーギン以来(でいいのか?)の伝統である,線型常微分方程式の解析解を導出する手順を丁寧に解説し(第2章~第4章),それを元に一般の常微分方程式の安定性の解説を行う(第5章)。著者らの専門性が生かされるのは第6章以下で,数値解法としてはポピュラーな一段法であるRunge-Kutta法の解説と,数値解法の安定性(A安定性という奴)の解説が初学者向けになされている。もっともこの辺をきっちり勉強したければ,同じ著者らによる「微分方程式による計算科学入門」の第1章(陰的解法については第2章も)だけ読んだ方がいいかも。百科事典みたいな訳本もあるけど,ちょっと厚すぎるし,肝心なところは前書にコンパクトにまとまっているから,とっかかりとしてはこれで十分だと思う。
 今ワシの手元には本書の他に2冊の力学系の教科書,スメール・ハーシュ「力学系入門」(岩波書店)と大橋常道「微分方程式・差分方程式入門」(コロナ社)があるので,これらと比較しながら本書の特徴をもう少し詳細に述べてみたい。
 常微分方程式とはどんな現象を記述するものでどんな種類があるのかといった概論を語っている第1章と数値解法の解説にあたる第6章以降を除き,無駄な解説が一切ないなぁ,というのが第2章~第5章まで流して読んだ感想である。しかも説明が簡潔でHartman・Grobmanの定理等の大物を除き,証明が一切省略されていない上に,必ず手計算できる例題が付いている。他の2冊にもこれらの特徴が当てはまるが,本書はそれが完璧すぎるきらいがある。隙がないので手を抜けない,抜いた途端に次の例題で躓く(前の例題を解いていないとその結果が使えない)のである。
 これはワシみたいな怠け者学生(だった奴)にはつらい。まあ元々数学ってのはサポったら置いてきぼりを食らう非情な学問なのであるけど,普通の教科書はもう少し「この辺は勘弁しておいてやらぁ」という手抜きポイント(著者が説明をめんどくさがっているだけか?)があったりするんだが,本書には一切ない。少なくとも2章から4章までには見あたらなかった。反面,それなりに知識が身に付いて(いた)人間が読むとまことに分かりやすい,スムーズに知識の整理が付く感じで,線型常微分方程式の解析解を得る2種類の手続きをまとめるメモはすんなり出来上がった。従って,手計算部分の習得に足を取られそうなバカ初学者には根性が必要で,きっちり2章から5章まではまとめノートをとりつつ計算しながら順序通りに進むしかない。「まえがき」に記してある各章の関係図を真に受けて3章をとばして読み進んだりすると後で少し困ったりしそうである。ま,著者も「詰め込み」であることは承知の上で書いているから,そーゆー本だと諦めてつき合うのが吉でありましょう。それ故に,読み通したときには結構な高みに登っているということは保証付きである。
 そう断言できる理由は,本書の例題の解説がねっちり書いてあるためでもある。手計算で無理なく進められるよう2ないし3次の例題でとどめてあり,計算過程もしっかりこれでもかというぐらい丁寧に書いてある。他の2冊に比べて一番特徴的なのはこの点で,純粋な数学屋さんなら計算そのものは手を抜くものである。現に,これだけ執拗に行列の固有値と固有ベクトルを求めさせている「常微分方程式の」教科書は他にないんではないか。それ故に,それなりの計算力があれば躓くことは少ないと思われる。
 ・・・という貶しどころのない本書なのであるが,ワシにとっては理想的な本とは呼べないところが幾つかはあるのだ。以降はワシの好みとはこの辺がズレている,というポイントを列挙してみたい。
 一つ目は,先に書いた「例題の解説がねっちり書いてある」点である。講義の演習を思えば当然の措置ではあるが,これをやりすぎると妙な誤解を初学者に与えてしまう可能性がある。ワシが受けてきた線型代数の講義では,固有値と固有ベクトルの計算は3次以上の例題で,それも程々に打ち切って,さっさと固有空間の話に切り替えていた。固有値の計算は,手計算レベルだと固有多項式の係数を陽的に導出して(本書ではLeverrier-Faddeev法を紹介している)代数的に求めるが,これは一般には標準的な解法とは呼べない。5次以上の行列の時にも使える「一般理論」に繋げるにはこの「ねっちり」さが仇とならないのかなぁ・・・という不安がある。現に,行列式は3次までしか計算できない輩が結構な率でいたりするし。・・・ということで,著者にとっては言いがかりに近い文句ではあろうけど,も少し一般理論に触れさせ得る,手計算は無理だけどこういう大次元でも形式的な行列(Frankとか)では固有値と固有ベクトルがこんな形で与えられていて,この場合の一般解はこうなる・・・というようなものがほしかったなー,と思っているのである。
 二つ目は,線型数値計算に対しての解説が少ない(ほぼ皆無)こと。「そこまで書いていられるかいっ!」と言われそうだし,無理もないんだけど,著者が数値解析の専門家であることを思うと,うーん・・・少なくとも前述したように固有多項式をモロに作ることを標準として扱うのは勘弁してほしいよなぁと思うのである。モロに出すにしても,計算量の点ではDanilevski法の方が少ないし,もう少し吟味して出してほしかったなぁ(計算手順はLeverrier法の方が分かりやすいけどね)・・・ってやっぱ贅沢ですかね?
 三つ目だが,これは著者には責任のない話である。本書は現在でも版を重ねている良書であるにも関わらず,印刷品質が劣化しているのである。どの刷からかは不明だが,ワシが昨年(2008年)入手したものは印刷会社が変わっており,明らかに版の質が悪くなっていた。文章が読み取れなくなるというほどひどいものではないけれど,図版のスクリーントーンの模様は潰れて汚くなっていたし,初刷をコピー機で読み取ったような代物だった。まあ出版不況と言われて久しい時代状況ではあるし,ましてや読者が限られる理工系のテキストだから,出版社がコスト削減に走る理由も分からないではない。しかし,間欠的とはいえ増刷するような商品を,一目で分かるレベルにまで劣化させるのは営業的に得策とは思えない。多少質を落としたところで売り上げと関係がないと高をくくっているのであれば,出版元&印刷会社に猛省を促したい。
 ということで,線型常微分方程式ばかりか,数値解法の安定性解析にまで踏み込んだ,ネッチリ解説の本書は,印刷の質を除けば,きっちり勉強したい&シミュレーションもしたい向きには大いにお奨めしたいのである(ホントだよ)。
 なお,先に挙げた内容に関する2点の「言いがかり」についてはワシ自身も気にかかっていて,それを自分なりに解決すべく,次年度の卒研テーマを設定したという経緯がある。そのために卒研生用にもう一冊本書を買って三つ目の文句が追加されてしまったのはともかくとして,ワシに新たな(でもないか)研究テーマを提供してくれたという点についてはここで感謝の意を表しておきたいのである。

特集・アルコール依存を理解するための本

 中川(前)財務大臣が,G7後の醜態記者会見の責任を取って辞任した。本人の弁によればアルコールが入っていたせいではない,ということだったが,酒好きであることは確かであるらしい(J-CAST)。
 このJ-CASTの記事にもある通り,今回の会見は別としても,これだけ酒による問題行動が傍目にも明らかで,しかも常態化しているとなれば,「アルコール依存(面倒なので,以下アル中とする)」と判断されても仕方なかろう。落語の枕じゃないけど,ろれつの回らぬ声で「おれはよってなぃい」と言うのが「酔っぱらい」の定義そのものだからだ。自分の判断ではない,他人から見てどうなのか,というのが重要なのである。
 つーことで,アル中を理解するための本を三つばかり紹介してみたい。
 まずは,医者の書いたものから。久里浜病院で長らくアル中患者と付き合ってきた,作家でもある,なだいなだの「アルコール問答」(岩波新書)。手始めとして読むには最適かと思う。仮想の患者(社会科の教師)が夫人に付き添われて来院するところから,医者と患者の問答形式で「アル中」というものがどういう病気かということを分かりやすく解説している。ワシはなだいなだの言説には信頼が置けないものがあると常々思っているが,ことアル中に関しては専門家として信頼しているのである。アル中から復帰した講談師・神田愛山との共著もあるそうな(その1その2@お台場寄席)。
 次はアル中の体験者のものを二つ。当然,中島らもは外せない。小説だが実体験に基づいたものとしては「今夜、すべてのバーで」(講談社文庫)がいいか。感動の押し付けみたいなところがあってワシはあまり好みではないけど,さすが(?)専門病院に入院しただけあって,久里浜式スクリーニングテストなんかも掲載されており,参考資料としてはいいんじゃないかと思う。
 そして,これも当然だが,失踪から復帰してアル中になってしまってまた復帰した(こう書くとホントにすげぇな),吾妻ひでおの「失踪日記」(イーストプレス)も外せない。現在,月刊Comicリュウにて,中塚圭骸とのダラダラ対談記事「吾妻ひでおの失踪入門」が連載されているが,この中で中塚が吾妻の失踪はアル中寸前の状態からの遁走で,結果として「治療」になっていたという指摘をしている。これを読んで,なるほど,失踪から戻ってきた後にアル中になってしまったのは,「再飲酒」と呼ぶべきものだったのだなぁと,納得したものである。本書の中でも医者が解説している通り,アル中はHIV同様不治の病で,一度罹患してしまったら,一生アルコールとは縁を切るしか生きる道はない。再飲酒とは「再発」に他ならず,事態は悪化するのみである。
 「アルコール問答」に登場する社会科教師は,酒を切らすことができない連続飲酒状態だった吾妻ひでおと違って,昼間は全く普通に生活しており,本人には全く病識がない。しかし夫人は,夜に飲んだ後は迷惑この上なく,しかも休肝日もなく毎日飲んでいるから,これはアル中に他ならないと主張する。両者の言い分を聞いた医者は,教師に対してこういう例えを使ってアル中という病気を解説する(正確な引用ではないので,間違っていたらごめんなさい)。

 あなたは連続飲酒状態になったのをアル中と思っている。しかし奥さんは現在でもアル中だと主張される。
 こう考えたらどうでしょう。
 連続飲酒状態が大阪,全くの平常状態が東京とする。今のあなたは,東京から大阪に向かっている新幹線に乗っている状態なのです。確かに今はまだ小田原かもしれない,熱海かもしれない。しかし,現在の状態を続けていては,確実に大阪に辿り着いてしまいます。程度の差はあれ,治療を始めた方がいいことはお分かりでしょう?

 ワシが一番感心した,アル中という病気の説明がこれである。正確なところは本で確認してくださいな。
 で,中川前財務大臣だが・・・果たして彼はどの辺にいるのかしらん? 静岡? 掛川? それとも,もう既に米原を越えて京・・・。

天野郁夫「教育と選抜の社会史」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 4-480-08966-7, \1200
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 怒りたぎっている人,嘲笑が止まらない人,悲嘆の底に沈んでいる人が,この世界には必ずいて,行政官・政治家・研究者・教育者・ジャーナリストという役割を担った人間たちは,好むと好まざるとに関わらず,そのような感情に走っている人たちに冷静さを取り戻させるため,「頭を冷やせ」(by 内田樹)と言わねばならない時が必ずある。その際,重要なのは言うまでもなく人間的な蓄積,東洋的な価値観で言うところの「徳」という奴であるが,それ以外の道具立ても必要である。特に役に立つのは客観的なデータの提示であり,ことに感情をを高ぶらせるに至った「歴史的経緯」,そして現状の「統計的分析」である。徳だけの丸腰で立ち向かうより,この「二つ道具」を携帯しておくことで相手に相対的な視点を注入するとともに,自分も冷静さを保つことができ,相手のペースに巻き込まれる危険を減らすことができる。
 ワシ自身は間違いなく感情を高ぶらせるタイプの人間なのであるけれど,さすがに四十路を迎えるようになった今では,少なくとも昔よりは冷静さを保つための「二つ道具」の蓄積はある。そのせいか,安倍内閣時代に頂点に達した「学力低下論争」に対しては,多数を占めたゆとり教育批判派にも,少数派に転落した賛成派にも是々非々の態度を貫くことができた・・・と自分では思っている。徳は全然備わってないけどな。
 あの議論,焚きつけたのは大学生の数学力調査を行った数学者(だけじゃないけど)グループだった。出発点の調査結果の意義は認めるとしても,その後は,ハッキリ言って理系科目を担当する教員の利権を確保する運動にすり替わっていったというイメージがぬぐえないのである。ワシ自身はその「利権」の恩恵を受ける側にいるのだが,生徒・学生の「幸せ」を本当に考えて言っているのかと疑問を呈する意見が教育学者から出てきた時には,残念ながらその意見に賛成せざるを得なかった。そして,苅谷剛彦をはじめとする,歴史的経緯と統計的調査結果に基づいて意見を述べる教育学者の仕事に興味を持つようになったのである。
 と言っても,本書を手に取ったのは,著者・天野郁夫が苅谷剛彦の恩師であるということを知っていたからではない。単純に書名に興味を持ったからである。とはいえ,かっちりした学術書である本書をきちんと通読するのは時間を要した。結局発売から3年を経てようやく完読できたのである。ふー,長かった。そして解説に取りかかってようやく,「あれ?,苅谷先生が書いてるんだ」と気がついた。馬鹿にも程があろうというものである。そうか,この天野の仕事を引き継ぐ形で苅谷の仕事が出てきたんだ・・・と,意外なつながりに驚かされてしまった。
 本書は明治から戦前(イラク戦争前のことではなく,第2次世界大戦前のこと)までの,日本の教育の変遷をつづったものであるが,教育「体制」だけではなく,それに伴って日本における「学歴」の成立と,それに対する社会意識の移り変わりまで,豊富な参考文献を参照・引用しながら誠実に語っているものである。そして明治時代に確立された教育体制の源泉であるヨーロッパ(ドイツ・フランス・イギリス)の公教育の歴史に2章(第3章,第4章)を割き,更にさかのぼって中国の科挙制度がヨーロッパや日本に与えた影響にまで第2章で言及している。この非常に長大な歴史の厚みをもってして,教育が持つ機能である「選抜」の歴史と「学歴」の機能を語っているのである。そりゃぁねぇ,門外漢の数学者がおいそれとタコツボ的個人体験論だけで太刀打ちできるもんじゃぁありませんぜ。以下,ワシが理解した範囲で,本書の内容をまとめてみよう。
 教育の目的は学力による選抜ではない。「一定の知識・技術,あるいはより広く一定の文化の伝達」を行うことが教育本来の目的であることは異論はなかろう。しかし,学ぶ側を集団にして互いに比較することでしか個々人の持つ個性の判断はできず,伝達の結果を客観的に評価することもできない。学習の結果を「試験」の結果に基づいて評価することで個性の判断を行う。これが「選抜」である。そしてその選抜を,学習の促進剤として利用しつつ(「加熱」と呼ぶらしい),学習者の今後の人生に指針を与える材料として用いる(「冷却」と呼ぶらしい)。これが教育機関の持つ機能である。この「選抜」機能が社会的資源の分捕り合いのための有利な材料,即ち「学歴」として重要視されるようになってきたのは産業革命が始まって以降のヨーロッパにおいてであった。特にドイツ(プロイセン)では国の統一が遅れたため,近代化を強力な官僚制を敷くことで熱心に推し進めた。その官僚の育成機関として大学が作られ,大学の下に公教育制度が整えられていく。革命によって社会が激変したフランス,階級社会は続いていたものの中間層が厚くなってきたイギリスでも,制度の差異はあれ「選抜」に基づく,ことに厳格な卒業試験を伴う教育制度に変化していき,社会的上昇を果たすための手段として「学歴」が重要視されるようになってきた。
 明治維新後の日本が,特に手本にしたのがドイツの制度であった。日本のキャリア官僚に占める東大卒の割合が高いのはよく知られたことだが,もともと東京(帝国)大学は,官僚養成のために作られたものだったのだ。近代産業を起こす土台がゼロだった日本に西洋列強並みの経済力をつけるためには官立の教育機関が排出する人材だけでは到底足りず,その補充のために私立の学校が続々と誕生するが,私立出身の若者が官僚になるためには,東大卒には免除されていた高等試験を受験する必要があった。
 こうして無条件に社会的ステータスの高い官僚になりやすい学歴と,そうでない学歴が生まれたことで,日本の教育には「正系」と「傍系」の分岐が発生する。単純化すれば,東大.vs.その他,細かく見ると,帝国大学 vs. 官立専門学校 vs.私立専門学校(大学)という,高等教育におけるヒエラルキーが形成されてくるのだ。さらにこの構造を細かく見ると「多元的な構造をもってい」て,「私立専門学校が底辺部を占めた」のは確かだが,「その私学のなかでも,質的に充実した慶応義塾や早稲田のような学校は,早くから官立の諸学校と肩を並べ,時にはそれを凌ぐ威信をもっ」ていたのである。その他の専門学校の体系では,今よりもっと複雑な構造もあったとはいえ,戦後の学歴ヒエラルキーの源泉がここに完成したのは間違いなかろう。しかし手本となったヨーロッパにあった社会階層構造を明治維新で潰し,急速に近代化を進めてしまった「後進国効果」によって,お手本以上に学歴主義化,いや「学校歴」重視化が進んでしまったのは皮肉と言うほかない。
 天野は,本書が最初に執筆された1982年までの文献に基づいて,「学校歴」化が進んだ現状の問題点を第12章でまとめているが,これは四半世紀を経過した今でも有効なものばかりである。ワシが重要だと思った2点を引用して紹介しよう。
 一つは,学歴主義が「非教育的」であるという批判を肯定する意見だ。天野は教育の持つ根源的な機能である「一定の知識・技術,あるいはより広く一定の文化の伝達」をもう一度説きおこし,伝達のために学力試験が必要であることは認めつつ,それが単なる「選抜」としての機能としてしか使われず,「卒業証書の取得は実際に教育を通じて何を習得するかとかかわりなく,それ自体が自己目的化している」ことを指摘している。最近では大学生の学力全般が下がっていることを受けて「学士力の向上」なんてことを政府内部で言い出し始めたようだが,その根拠になっている意見がこれなんだろうなぁ,きっと。
 もう一つは学歴による社会階級の固定化の構造を解説している部分である。「学歴によって形成されたわが国の新しい中産階級は,学校教育や学歴のもつ社会的な価値をもっともよく知っている階級である」ために,「子どもたちを学校教育に向けて動機づけ,より高い成績,より高い学歴・学校歴をめざして努力するよう」焚きつけるわけである。なーんだ,親の学歴と子供の学歴の相関の高さを指摘した苅谷先生の主張の源泉はここにあったのかぁ,と,ワシは腑に落ちたのであった。
 しかしまぁ,ここに挙げられている学歴社会の「病理」・・・とカッコつきで述べられていることにワシは天野の主張の奥深さを感じる。本書の「教育と選抜」の歴史を読んだ人間は,果たしてこれが「病理」なのか,そう言い切っちゃっていいのか,こういう疑問を持つはずだ。構造の違いはあれ,どこの国でも学歴社会が進む合理的な理由があり,それがもたらす利益は,利益の配分に預かれなかった人間が持つ「ルサンチマン」を産むものではないのか。
 ぶっちゃけて言えば,産業革命がもたらした資本主義が人間の欲望をドライブさせる機構を解放した結果,社会的利益とがっちり結びついた学歴主義化は歴史的必然だったのだ。程度の差はあれ,これからも若年者ほど学校歴が重視される傾向は続くだろうし,逆に,学校歴がまるっきり無視されるような能力無視の封建社会の再来は避けるべきなのだ。
 近年ニセ学位を発行していたDegree Millが問題視されたのは,学歴主義が肯定される現代では当然である。そしてDM側が広報の一環として行っていた,学歴社会における弱者を救済するという主張も,実は学歴主義にワルノリして後押ししているに過ぎないのだ。
 もし第12章で述べられている「病理」が問題だというのであれば,DMにジャカスカ学位を発行させるのではなく,それを緩和するような機構を教育機関以外の組織や個人が,学歴主義とは別の観点でもって社会的に担保するしかない。複雑化した現代社会の諸問題に対応するためにはどうしてもレベルの高い高等教育が不可欠であるが,全ての人間がそのような教育を受けとめることができる訳でもない。エリート小学校に包丁男が乱入するような馬鹿げた感情の爆発を抑えるためにも,日本社会の停滞をもたらすような行き過ぎた階級化が起こらぬよう適度に階層をシャッフルする手段を講じるためにも,長いスパンの歴史的「学歴主義化」の経緯を語った本書は,苅谷剛彦の統計的データに基づいた主張とともに非常に有用な「二つ道具」を構成するに違いないのである。

PAW Laboratory (HMOとかの中の人×くぅ) 「HMO AND WORKS」同人CD

[ 本家 | とらのあな通販(絶賛品切れ中) ] \2000 (イベント頒布価格\1400)
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 多くの演歌歌手が公演を行ってきた新宿コマ劇場が2008年12月31日をもって閉館した。施設の老朽化による建て替えの必要性,地域の再開発によるものだが,二千人のキャパを持つ観客席を,演歌歌手の公演で埋めるのは難しくなってきたことも閉館の理由であるらしい。年末のNHKラジオ番組を聞いていたら,たまたま劇場関係者が証言をしているところに出くわしたのだが,「若い人も年を取ったら演歌を聴くようになると思っていた」と語っていたのが印象的だった。つまりは,演歌を聴くファン層が固定化し,そのまま高齢化していったことが集客に苦しんだ一番の要因だったのだ。実際,還暦を迎えつつある団塊の世代ですら,演歌よりはフォーク,GS,ビートルズ,演歌でない歌謡曲を今でも主として聞いている訳で,演歌は一部のヒット曲を除けば,彼らの好む音楽カテゴリにはついに食い込めなかったのである。多分,音楽的センスは団塊の世代と今のワシら中年世代とではそう変わらないのではないか。まあ1980年代アイドルとかはさておき,沢田研二,小田和正(オフコース時代も含む),サザン,大瀧詠一等のアーティストの曲は普通に咀嚼してきた最初の世代ではないかと思うのである。
 もし今の60代と40代の境に断絶があるとすれば,シンセサイザーの音に対する感性の違いではないか。コンピュータが曲がりなりにも市井の人々の目に触れるようになったのは1970年代以降で,パーソナルコンピュータが16bit化して普及するのは1980年代後半である。シンセサイザーが音楽業界で使われ出すのも,このコンピュータの普及と軌を一にしており,それ故に1970年代の終わりに最初のコンピュータミュージックのメガヒットがYMOによって生み出されたのだ。以降,コンピュータの指令によって奏でられる音楽は大なり小なりYMOの影響下にあり,小室哲哉,電気グルーヴを好む奴らは正確無比な打ち込みリズムをYMOによって骨の髄まで叩き込まれたが故に,そうなってしまったのである。あなおそろしやYMO,キリンビールがCMに還暦を迎えてもなおカッコイイ3人を据えてアンビエント化したRydeenを演奏させたのも,広告代理店の中核メンバーがワシら電子音楽ジャンキー世代に占領されてしまった証左であろう。
 そのようなジャンキー世代は,とうとうシンセに細かくサンプリングした人間の声を取り込み,滑らかに歌わせる新たな「楽器」を作り上げた。それがVocaloidと呼ばれる一連のソフトウェアであり,初音ミクはその中で最も商業的に成功したものである。どーせシンセの一種なんだから,みくみくしてあげたりIevan Polkkaに合わせてネギ振らせるだけでなく,電子音楽の中に埋め込んでしまえ!・・・と思ったかどうかは定かでないが,HMOとかの中の人たち(言いづらいなこれ)は初音ミクのルーツであるYMOの楽曲を選択したのである。しかも,原曲を親しみやすいテンポと打ち込み音によって再編し,元々備わっていたアーティスト臭を一掃,ライトに楽しめる大衆的なものに仕上げたのである。21世紀のYMOが到達した精密な音作りとは逆方向のベクトルを持つ,(電子音楽ジャンキー世代にとっては)大衆的な音楽を,ニコ動やコミケ,とらのあなを通じて広めたHMOとかの中の人らの功績に,ワシらオッサンは深く首を垂れるのみである。初音ミクから「どうもありがと」と言われても,「どうも結構なものを聞かせて頂きまして」と敬服するだけなのである。
 ワシがYouTube,ニコ動にハマって最初にやったことは,古き良き懐かし音楽ビデオを漁ることであった。当然,YMO関連の動画も集め,散開コンサート,ことに最後のTokioとRydeenなぞはPower Playしまくっていた。そんなジャンキーにふさわしい生活に明け暮れるなかで,HMOとかの中の人(言いづらいよやっぱこれ)の作品を知り,ハマってしまったのである。その彼らがコミケで,未公開の曲も含めてCDに収録し販売すると知ったワシは居ても立ってもいられなかったのだが,金がなくてあえなく参加は断念。しかしとらのあなで通販すると告知されたのを知ったワシは発売開始と同時に購入ボタンをポチっとなしたのである。販売後,間もなくCDは評判となりすぐに売り切れとなってしまった。まあCDに収められたYMOの曲はたいがいこっちで聴けるので,買えなかった人はしばらくこれで我慢してほしい。
 彼らの作るYMOの曲は当然全てCD購入前からPower Playしまくり,特に「希望の河」は原曲より早めたテンポがツボにはまって心地よかった(これ書いているちょうど今,かかっているぞ)。CDにはニコ動未公開の「東風」がおまけとして入っているが,これも好みである。しかし,今回のCDの中で一番気に入っているのはオリジナル曲の「Aschel Overdrive」(未公開曲)である。流行に疎いオッサンなのでよく知らないのですが,この曲名,何か意味があるんでしょうね? それはともかく,この曲はアンニュイな低音が響く北欧的サウンド(ワシの世代ではa-haの”Hunting High and Low”に通じるものを感じるのでは?)みたいで,ワシ好みなのである。うーん,この時代に生きててよかった,と感じているのである。
 学力低下論争(実際には学力2分化論争というべきものだが)の過程で,既存の科目を学ぶ意欲は下がっているが,その分他に学ぶエネルギーは回っているはずだ,という意見があった。実際,マンガ・アニメ・音楽・デザインといったアーティスティックな分野には人材が集中していて,挫折する割合も多かろうが,育つ人材も確かにいて,しかも平均値は断然上がっていると感じる。マンガの新人賞を見ると,「ホントにこれ新人か?」と思うこと多々。オリジナリティはともかく,クオリティは恐ろしいほど上がっていることを実感するのである。
 音楽においても同じことが言える。投稿サイトが充実したこともあって,技巧の切磋琢磨も盛んに行われているから,普通にうまい,というレベルは格段に上がっている。初音ミクという楽器を使うことで,ヴォーカルも含めた楽曲が作れるようになった今,「君に胸キュン」はYMOのおっさん3人が「キュン」と歌うよりミクたんが「キュン」する方が断然相応しい,などということだけではなく,電子音にマッチする若干舌足らずな音声を使って何を奏でさせるべきか,その判断のセンスが問われているのだ。それこそ,技術的な障壁を乗り越えてしまった日本の音楽の世界が,もう一段高いステップに上った証なのである。

つげ義春「つげ義春コレクション 近所の景色/無能の人」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42544-7, \760
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 次年度からの収入減少に備えて貧窮シフト体制に入ってからつげ義春を読むと身に染みて理解できるようになる。おまけにこれから先もいいことがあまりなさそな予感がしている能ナシの中年の男になってみると,なおさら理解が深まるというものである。
 つげ義春を,パロディではなくオリジナル作品で知ったのは,本書の最後に収められている「蒸発」,特に井上井月のエピソードに感動したのが最初である。確か新潮文庫を立ち読みしたんだったっけか。まだ若い時だったので,「無能の人」のシリーズなぞは,見てはいけない人生の深淵を見せつけられるように感じてコワゴワ眺めていたものだが,今となっては味わい深い,そしてユーモラスにも感じられる作品である。多分,自分なりに「底」を見知ってしまったと自覚したためであろう。落ちてしまえば井戸の底の蛙となるのもそれほど悪いものではない。「落栗の座を定めるや窪溜り」(井月, P.312)である。
 ちくま文庫から「つげ義春コレクション」が2008年後半から刊行されるようになり,ワシはせっせと買い込んでいる。安くてコンパクトなのもさることながら,つげ義春は筑摩書房という,一度潰れた出版社から出るのが相応しいと思っているからでもある。
 つげ本人は,若い時分はともかく,再評価されて以降はそれなりに安定した生活を送っているのだろうと思うが,作品の方はむしろ陰々滅滅さが際立ってきて,本書に収められている1979~1986年に執筆された作品群では,そこから迫力やユーモア,時には「まーるいみどりの山手線」(P.289)のようなギャグまで飛び出すようになっている。それを芸術的と一言でまとめてしまうと,ちょっと違うような気がする。むしろ,馬齢を重ねたオッサン・オバサンのための,リアルに腑に落ちるエンターテインメントとして世間に定着する力を得た,というべきだろう。中古カメラの商売に熱を上げ,多摩川の石を拾って売ろうとする助川助三は一言で言うとダメ男であるけれど,そんなダメ男を罵倒しつつも別れようとしない妻,そして陰気で将来有望でもなさそうな息子。この3人を嘲笑できる奴がいたら,それこそ人非人のレッテルを張ってやりたい。大方,しょうがねぇなぁと思いつつ,自分の至らなさと世間とのズレがもたらす痛みを彼らと共有する筈である。この「痛みの共有力」が,つげ義春を現代に突き刺している力の源泉なのであろう。
 世界的な不況が回復しようとしまいと,この先の日本は少子高齢化と人口減少の進展により,斜陽の時代が続いていくことは間違いない。しかし隣近所で人間がバタバタ死んでいくような戦前戦後の非人道的なまでに悲惨な状況に陥ることも考えづらい。懐さみしいなぁ,家族はいるし健康ではあるが先行き明るそうでもないなぁ,でも死ぬのもイヤだから成り行きで適度に頑張りつつ生きていこう・・・そんな,合理的だけど希望に満ち溢れてもいないちょっと下り坂の生活をありのままに送っていくためのバイブルとして,つげ義春コレクション,特にこの巻はその価値をますます高めていくに違いないのである。