西原理恵子「この世でいちばん大事な「カネ」の話」理論社

[ Amazon ] ISBN 978-4-652-07840-2, \1300
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 我ながらよくもまぁこれだけ西原りえぞうに金つぎ込むよなぁ,と呆れてしまう。恐らく我が家で一番銭をかけて収集しているのが奴の出版物ということになるだろう。最近は出す本出す本殆どベストセラーになるし(本書も2008-01-04現在,Amazonで第8位だよ),本人はNHKに出まくっているしで今更ここで紹介する必要もないだろうと思い,あまり取り上げないようにしているのだ。しかし・・・,本日朝ぼらけの中,これを読み始めたら止まらず一気読み。最後は感動してホロっときてしまったのだ。ああまたやられちまった,と内心舌打ちしたものの,時すでに遅し。よって新年一発目はりえぞう先生から行くことにしたのである。この後,しばらく辛気臭いもの(筑摩書房がいろいろ文庫で出しやがるもんだから・・・)が続きそうだしね。
 さて,「カネ」の話,なのにワシが感動したのはなぜなのか?
 いや,サイバラの稼ぎの凄さにジェラ心を抱いたからではない。そんなものは「できるかな?」で税務署にガチしかけた時から知っている。
 実は本書,サイバラの語り下ろし自伝なのである。
 「カネ」の話がついて回るのは,「貧乏」からの脱却ツールとして,「自立」維持のための必要不可欠な要素として,そして人間が「堕落」する原因として,一番重要なものだからだ。西原理恵子がムサビに入学するまでの経緯は「上京ものがたり」や「女の子ものがたり」にも描かれているが,ここまで不安定な家庭だっとは意外だった。それをこうして力強い断言口調で語られると黙って拝聴せざるを得ない迫力が生まれるのである。
 そしてその迫力ある言葉によって,サイバラの真っ当な精神がどこから来たのかが明らかとなる。ユリイカのサイバラ特集でも複数の書き手がその真っ当さをを指摘していたが,その源泉は,ひどい家庭環境でも子供を育て上げた母親の踏ん張りによるものであることが明らかとなるのだ。
 感動のポイントはそれだけではない。予備校からムサビ入学後,西原は自身の絵画能力のなさに劣等感を覚え続けるが,絵を書いて生活していくという希望は捨てなかった。その諦めの悪さによって,「「自分はどうやって稼ぐのか?」を本気で考え出したら,やりたいことが現実に,どんどん,近づいてきた」(P.94)ことを知る。教員の一人としては,大学という教育機関が一種の選別機能を担っている社会的意義を,この一文で再認識させられた。
 そしてもう一つ,とても気持ちのいいセリフを引用しておこう(P.176)。

 カネのハナシは下品だという「教え」が生んだもので「ちょっと待て,いい加減にしろ!」って言いたくなることは,まだ,ある。
 「人間はお金がすべてじゃない」「しあわせは,お金なんかでは買えないんだ」っていう,アレ。
 そう言う人は,いったい何を根拠にして,そう言い切れるんだろう?

 うーん,カッコいい。そっか,ホリエモンが登場した時にワシが感じた清々しさはこれだったんだなぁと,思い出した。イマドキ粉飾決算で上げ足とられてヒルズからブタ箱へ放り込まれようとしている奴を取り上げるのも恥ずかしいし,サイバラも「一緒にするなぁ!」と怒るかもしらんが,普段御大層なことを言っているくせにイザとなったら高々数万程度の金でケチケチする大学教授を見てきたワシにとっては,こっちのセリフの方に真実味を感じるのである。
 とはいえ西原母さん,金の重要性を言いつのるだけではなく,最後は母親としての矜持も見せている。そのあたりは本書の後半部にとっぷり書いてあるので,是非とも買って読んで頂きたい。
 カネの話といえば,一昔前は邱永漢だった。本書P.172のカットのセリフ

お金はさびしがりやです。友達の多い方にすぐ行ってしまいます。

ってのも,彼の文章である。ワシはちくまプリマーブックスの一冊「お金持ちになれる人」を読み,金持ちであり続けるためには「徳」が必要,という主張に大いに頷いたが,サイバラの主張もよく似ている。両者とも,少数の成功と多大な失敗の果てに得た経験則を土台にしているからだろう。その意味では,どちらを読んでも地に足のついたカネの話が身に付くこと間違いない。そーいやこの二人,日本だけでなく,世界的視野で物事を見る目を持っているところも共通しているよなぁ。
 従って,本書は
 ・西原理恵子の愛読者
 ・大金じゃなく小金を稼いで維持することの社会的・実存的意味を知りたい人
 ・世界的見地から日本の豊かさとそこから生じる日本独自の社会問題を認識したい人
にお勧めということになる。全部に当てはまる人は勿論,どれか一つでも当てはまるようなら,とりあえず1300円支払ってサイバラの被ったFXのロスカット分を補填してあげてもいいんじゃないか,とワシは思うのである。

内澤旬子「おやじがき 絶滅危惧種 中年男性図鑑」にんげん出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-931344-22-8, \1300
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 毎週風呂掃除するたびに,人間というのはよくもまあこれだけ「だし」が出るもんだなぁと,バスタブ壁面のザラザラをふき取りながら思うのである。純然たる一人暮らしのワシんちですらこれだから,4人家族できれい好き,なんてご家庭はさぞかし大量の皮脂が垂れ流されているんだろうなぁ。
 加えて,よくもまぁこれだけ毛が抜けるもんだと,シャワーでバスタブの底に沈殿している体毛のなれの果てを洗い落としながら呆れてしまう。純然たる一人暮らしのワシんちですらこれだから,4人家族できれい好き,年頃の娘さんなぞいようもんなら,「パパ,きったな~い」とゴキブリの如く嫌われること間違いないであろう。加えて髪の毛が喪失する分,顎だの腋だの胸だの脛だの,あってもなくてもどーでもいいところのヘアばっかり増えて,バスタブの底に沈殿したり,湯面に浮いたりして衛生的によろしくない事態を招来している。まことに肉体の老化というものは「こ汚い」ものばかり排出するものである。
 しかしそのこ汚さには「個性」が宿る。清潔さという方向性は一点に集約させるものだが,汚れ方は千差万別だ。これだけ個人の個性がもてはやされるようになったのだからさぞかしこ汚い中高年はアイドルに・・・なるはずがない,と誰もが思っていたのだ。個性は大事,しかしそれは清潔なものでなければならないのだ。矛盾である。つまり個性個性とはやし立てていたものは,かなり限定されたものでしかなく,小ぎれいで流行に沿ったものであって・・・つまりは多数決的に望まれていたものでしかなかったのである。
 内澤旬子はこ汚いが故に真に個性的な物体,すなわち「おやじ」,を発見し,2008年末の日本に文化的な貢献を行った。それが本書である。一ページに一オヤジが基本で計71オヤジ。やけに生々しい内澤のイラストと的確な短いコメントが添えられている。
 おやじの特徴は,前述した二つの要素から成る。一つは皮脂,即ち,脂肪である。日本政府はおやじの腹周りを85cm未満に抑えようと躍起になっているが,なかなか脂肪は落ちないもので,例えば頬周りにくっついたり(P.12, 23),腹にくっついたまま(ほとんど全部)なのである。
 もう一つは毛だ。禿オヤジがすだれ頭を形成するに至るまでにはそれ相応の歴史というものがあり,大多数は若いころから流していた髪の毛を薄くなってもまだその方向に生やしている,というだけのことなのである。それがいつしか嘲笑の種になってしまうのはやむを得ない。もういちいちページ数は挙げないが,おやじの個性の源泉は薄くなった髪の毛と,それをフォローすべく無駄な努力を重ねられた工夫,そして濃くなった体毛に集約されるようなのである。
 本書は,編集した南陀楼綾繁氏の献身的な努力によって,すべての漢字にルビが振られており,父親のこ汚さに目覚めて毛嫌い始めた小学生の娘さんでも読めるようになっている。しかし,その努力は徒労に終わるであろう。なぜなら本書は,全82ページ1300円という,ほとんど同人誌並みにコストパフォーマンスの悪いものとなっており,ガキのこづかいではおいそれと買えないものになっている。本書をためらいなく買って読んで楽しんで,さてぷちめれでも書こうかという段階になって初めてこの定価を知ることになった,そんなボケているけどいいものは躊躇なく「大人買い」できる稼ぎを得たワシみたいなオヤジしか,気軽に購入できないのである。
 オヤジを描いたオヤジの娯楽のためのマスターベーションのような本をこの年の瀬に送り出すというのは,日本の出版界の度量の現れなのか苦しみの果てのヤケクソなのかは不明だが,少なくとも,オヤジの持つこ汚い「個性」が商品になるかどうかの試金石になっていることは確かだ。ワシは商品として大いに評価するのだが,さて,これを日本の人口の半分を占める,内澤旬子以外の「オバハン」はどう判断するのか,その結果を楽しみに待ちたい。
 つーことで,一年の最後を「オヤジ」で飾ってみました。ワシもますますオヤジ化して,髪の毛は白くなりつつあり,説教は長くなりつつあり,来年は四捨五入なし四十路突入でありますが,ますます嫌なオヤジになるよう,頑張ってこ汚くなる予定であります。

 本年頂いた皆様からのご愛顧に感謝しつつ,
 来年もよろしくお願い致します。

山本直樹「レッド1」「レッド2」講談社

「レッド1」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372322-9, \952
「レッド2」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375527-5, \952
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 山本直樹にはその昔,大変お世話になった。
 無論,夜のオカズとしてだ。
 山本直樹のSEX描写は,ちょうど性のリビドー真っ盛りのワシの脳天を直撃したのだ。
 確か,ビッグコミックスピリッツだったと思う。「極めてかもしだ」には大変お世話になり,大変記憶に残る漫画になったのである。
 山本のSEX描写の一番の特徴は,SEX後の空白表現にあるとワシは考えている。それは,射精後に性も根も尽き果ててしまう男の感性の忠実な表現である。か細い女体が喘ぐ描写と,この空虚感の落差を最初にメジャーな漫画雑誌にもたらしたことで,山本直樹は日本の漫画を,後戻りを許さぬ表現の高みへ連れ出してしまった。
 しかし革新者はその後必ず自らの成功に悩まされることになる。SEX描写が売り物だった山本直樹は東京都から有害図書指定される「栄誉」を得るに至るが,そこに安住することは許されなくなっていった。そしてその描線からは生気が抜け,コンピュータを使いながらものっぺりテカテカのレイトレーシングとは逆方向の,パサパサの乾燥した表現へと移行していった。それは古さから脱却であると共に,時代から「湿り気」が抜けていったことと連動していた。感性に忠実なSEX表現から,方向性の定まらない現代の不安な,それでいてウェットな関係性が完全に崩壊した現代の,忠実な空気の表現を希求した結果が今の山本の描線なのである。
 その山本は,とてつもなく青臭くじっとりしていた1970年代を,乾燥した筆致で描くことを選択した。それがこの「レッド」である。
 当然,今の山本にはその時代の空気を描くことはできないし,それをしようとはしていない。「赤色軍」(赤軍派がモデル)に参加した若者たちの運命をあらかじめ丸付き数字で頭に刻印しておき,ジリジリと警察から追い込まれ自滅していく様を乾いたタッチで淡々と描くことに専念している。この先,3巻で描かれるはずの「地獄めぐり」(第16話)をことさら非人道的に描くのを避けるためか,赤色軍のメンバーたちの言動は,普通の大学生のサークル活動のノリ,そのままである。このあたり,「死へのイデオロギー」を読んだものとしてはちょっと違和感を禁じえない。しかし本作は連合赤軍事件のリアリティを描くことを目的とした作品ではないのだから,その程度の違和感が生じるのはやむを得ない。死んでいく人間は死ぬための準備を万端整えて死ぬわけではなく,普段の生の延長上に死があるだけなのだ。山本が描きたいのは,そのような死のリアリティなのだろう。
 交番を襲撃しようとする人間もその直前まで談志の落語を楽しんだり,赤城の山に籠って「総括」に加担する人間も女性とすき焼きを食った後に同衾したりする,そんな生のありようこそが死のリアリティに直結することを,山本は熟知しているのだ。その卓抜した表現能力は,大学生だったワシにさんざん精液を吐き出させたSEX表現の延長上に磨かれたものである。バブリーな時代から遠く離れて長期低落のあきらめが満ちている昨今,時代の熱気を取り去り乾ききった滅びゆく赤色軍を描くことで,山本自身が生を実感しようとしているのかもしれない。

P.G.Steinhoff, 木村由美子・訳「死へのイデオロギー 日本赤軍派」岩波現代文庫

[ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4006030843?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4006030843) ] ISBN 4-00-603084-3, \1100
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 つい最近まで気がつかなかったのだが,産経新聞で「さらば革命世代」という連載がなされている。現代から1970年代の大学紛争を当事者の証言を得ながら振り返るという記事だが,まあこれだけ否定的な内容も珍しい。結果として,その時代に騒ぎまくった「全共闘世代は理屈をこね回していただけで、上の世代の敷いたレールを忠実に歩いてきたに過ぎなかった。政治も経済も行き詰まる中で、新たな日本型システムを提示することもできなかった」(第1部(10)「過去を振り返れない人たち」より),というのが連載全体のトーンである。産経新聞という媒体の性格を差し引いても,当たっているところが多いとはいえ,なんだか自虐的だなぁという感じがする。若い時分に馬鹿げた行動に出たり青臭い議論にうつつを抜かしたりなんてのは誰でもフツーにあることで,ましてや日本に留まらず,全世界的にリベラルの風が吹いていたのだから,自己卑下はほどほどにしておいたらどうか・・・と,ゼンキョートー世代なんてのは馬鹿老人の掃き溜めみたいなもんだという持論のワシでも弁護したくなるほどである。
 しかしその過剰なまでの自己卑下の背景には,ある種ヒーロー的な役回りを担っていた一握りのグループが行った一連の犯罪行為がある。赤軍派と総称されるそのグループは,ワシみたいな市井の一般人はもとより,学生運動の中心にいた人々までも戦慄させる行動をとった。一つはあさま山荘事件の少し前に終わった「総括」という名の粛清行為,もう一つはパレスチナ解放戦線の活動の一環としてのテルアビブ空港襲撃事件である。本書によれば,同じ仲間が引き起こした「総括」事件によって,パレスチナに飛んだ岡本公三らは無差別テロに参加せざるを得なくなったというから,結果だけ見れば「赤軍派」というグループは一括して救いようのない自滅的テログループということになる。そして大学紛争を支えていた無数の学生たちには,自分らの活動の中から赤軍派を出してしまったという重石がのしかかることになったのだろう。
 ハワイ大学で戦前の日本における共産党員の「転向」を研究していた著者は,テルアビブ空港での事件の後,夫の助言に従ってイスラエルの首相に手紙を書く。純然たる学術目的で,テロ後に生き残っていた犯人グループの一人,岡本公三にインタビューしたい・・・と。その願いはかなえられ,テープレコーダーも許可されない環境において,ロングランのインタビューをイスラエルのラームレ刑務所で行うことになる。それが著者と赤軍派の最初の接点であり,1991年に塩見孝也・高沢皓司らとあさま山荘周辺を訪れるまで,長い付き合いをすることになるのだ。
 本書の特徴は,同じ1970年代リベラルの風を受けていたとはいえ,米国人が執筆した「学術書」であることだ。共産党員の転向がなされた環境,米国人の生活習慣などを例に引きつつ,何故,岡本がイスラエルでマシンガンをぶっ放すに至ったのか,本人や家族へのインタビューを行いつつ,その背景にある社会情勢を述べ,赤軍派が第一世代の幹部逮捕によって第二世代へと移行していく過程を解説し,最後は連合赤軍事件の真相に迫っていく。結果として,あさま山荘からテルアビブ空港は一連の思想的背景があることが明らかとなるのである。そして,赤城山中で行われた「総括」のメカニズムも,しつこいなぁという程のねちっこい記述によって読者の脳に語りかけてくる。読んでいるワシの方が感化されそうなぐらいである。そうはいっても,その記述はあくまでアカデミックなものだ。
 それによると,最初の脱走者の処罰による殺害事件は別として,その後行われた「総括」は,いわゆる粛清とはタイプが違うものらしい。あくまで本人の反省を引き出すための行為にすぎず,それがあまりに過酷だったために,結果として殺人になってしまった・・・と,端的にまとめるとこうなるわけだが,読みながらワシは思いっきり突っ込んでしまった。まあ確かに突っ込みを入れるはずの「外部」が存在しない山の中の出来事とは言え,どうやったら「共産主義」の理念強化活動が,風雪吹きすさぶ山小屋の外に縛り付けた揚句に全員でぶんなぐることになっちゃうのが,
さっぱり理解できない。しかも死んだら「敗北死」だぁ? 死ぬのが当然だろうがっ! ・・・と。
 しかし,Steinhoffはこの行為がなされた原因は確かにあり,それは日本的集団合意のあり方に起因するものだとしてこう述べている(P.167)。
>  日本社会でよく見られるように,共同参加の意思表明を迫る強大な組織の圧力のもと,この新方針(注:「総括」行為に参加すること)はメンバーをジレンマに追い込んだ。それは,イデオロギーを巧みに操る森(注:森恒夫)の才能によって,いっそう力を得ていった。エスカレートしていく暴力に戸惑いを感じている人間も,弱気な姿勢を少しでも見せることは,自分の非革命性の指標になるのだとすぐに気がついていく。誰もが共産主義化を獲ち取ることを心から希求していたから,自覚した欠点がそれがどのようなものであろうと,克服するように努めようと決意していたのである。したがって,不快に感じる暴力にも駆り立てられるように参加していった。それは自分が次の(注:「総括」の)ターゲットになるのを恐れてであると同時に,不快だと思う気持ちが怯えからきていると自覚したからだった。
 もちろん著者は日本的なるものがなければ「総括」のエスカレーションもなかったと言いたいのではない。あくまで,この暴力行為は日本的なるものと無縁ではない,ということを主張しているだけである。そしてワシらはその時の赤軍派メンバーの心証を,好むと好まざるとに関わらず理解してしまうのである。実際,「そんことしちまったら死んじまうぞ」と,素朴な常識に従って止める回路が働かない状況であったからこそ,よく分からない森恒夫の屁理屈で死人が続出することになったのである。そして,彼らがひれ伏した屁理屈は,あさま山荘にこもった際に人質の管理人夫人を丁重に扱うという行為の合理的な説明にもなっているのである。
 本書は日本的なる文化背景を血肉として持っていない米国人が,同じ米国人に対して誤解の入る余地がないほどねちっこく「赤軍派」の思想と犯罪行為を解説したものである。それ故に,ワシみたいな全然その世代のことを理解していない人間でも分かりやすい内容になっている。しかしそれでも,ワシが1970年代にいたとして,赤軍派に肩入れしたかどうか,となるとかなり疑問である。
 たぶん,ホリエモンやコイズミを支持したようにはいかなかったろう。追い詰められたインテリの行き着く果ては遠く見送り,ポピュリズムを指向する権力者の尻馬に乗る方がマシと考えるのが今のワシだ。金融肥大化の経済の先行きは危ういとはいえ,グローバルスタンダード化が進んだ日本も含むこの世界のルールは所詮,思想なきゲームにすぎない。しかしゲームのコマの一つ一つ,目を示す情報ツールではない実体としてのサイコロですら,ワシにとっては愛おしい。思想がどれほど高邁であったとしても,目前の生きた仲間を抹殺するような行為に走るような集団が信奉するものからはできるだけ離れて生きていきたいというのが,今のワシが愛してやまない「馬鹿さ加減」なのである。

連合赤軍事件について(言い訳)

 元々は,山本直樹の漫画「レッド」(2008-12-28現在,1,2巻が発売中)に手を出したのがきっかけである。連合赤軍事件について興味を持ったのは。
 詳しくは「レッド」のぷちめれに記す予定であるが,実はこれを読んだとき,内容に魅了されたのはいいとして,同時に,少し違和感を覚えたのである。ホントにこんな「ノリ」で赤城の山に籠ったのか?
 ということで,いくつか連合赤軍事件を扱った映画とか本を読んでみようとは思っていたのだが,警察側からあさま山荘事件を扱った「突入せよ!「あさま山荘」事件」は,どーもあんまし面白くなさそう・・・つーか,どういう内容になるか予想できているというところがあって,視点は共感できそうだがどーにも食指が動かなかった。まだ若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の方が,青臭そうだけど泥臭い感情を突き動かしてくれそうなところがあったので見ようかな~・・・と思っていたら全然上映日程がワシと合わず,DVDが届くまでお預け状態となっている。「光の雨」?・・・ん~,立松和平は読む気にならんので映画も原作もパスです。
 つーことで,映画は未見,本はというと,あれこれ読もうかな・・・と思って最初の一冊,「死へのイデオロギー」を読んだらもう他のものに手を出す気が失せてしまったのである。その感激は・・・,まあしばしお待ちいただくとして(これから書くのよ),現時点では,ワシにとっての「連合赤軍」というものはこの一冊で尽きていると言っていい。あとは「レッド」に描かれる予定の乾いた描線による「地獄めぐり」の様相をエンターテイメントとして楽しみに(悪趣味だが)待つだけとなってしまった。
 以上,何でノンポリかつ癒しウヨクなワシが「連合赤軍」なぞに興味を持ったか,その言い訳を述べてみた。現在の社会状況と重ね合わせてどーのこーのと根拠なくべしゃることはなんぼでもできるが,あえてそれはやらないことにする。何せ今はグローバルスタンダードが体液として全世界に染み渡っているし,ワシ自身もそれをよしとしている。そんな状況において,1970年代の時代の風を今に持ち込むことの意味は全く見出せないからだ。そーゆーことは,これから年金をもらいながら政府の悪口をブーブー述べ垂れるだけの馬鹿老人どもにやらせておけばよい・・・そんな風に,ワシは冷やかに年寄りどもの甘えっぷりを横目で眺めている。「連合赤軍」関連のものに少し触れることは,そのような馬鹿老人どもを育てた時代状況を理解する一助にはなるかもしれない。