立川談志・吉川潮(聞き手)「人生、成り行き -談志一代記-」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-306941-6, \1400
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 ワシは談志にとってはいい客であった試しがない。ライブで本人の落語を聞く機会があったのは2回,一度目は「五人回し」,二度目は独演会にてジョーク集と「らくだ」・・・だったのだが,どちらも最後は本人による自作解説みたいなものがオマケについていて,容易に幕が下りなかった。噺が終わっても今の自分の落語についてあれこれと「批評」するのである。
 正直言って興ざめした。噺自体は,さすが長年名人と言われてきただけあって面白いと思ったし,客席も湧いていたのだが,ワシにしてみれば「てめぇの落語を聞きに来たのであって,評論家の講釈を聞きに来たんじゃない!」という気分もあるのだ。もちろん,この「批評」も含めて談志の全てを愛して止まない熱烈なファンが多いことは承知している。しているが,まあワシみたいな普通の話芸を楽しみたい「二流の客」にとっては,芸術を目指そうというなら金取るな,黙って普通に楽しませろ,という気分にもなろうというものである。以来,ワシは談志の落語を聞きたいと思ったことはないし,多分,この先も自分から積極的に聞きに行くことはないだろう。高いチケットの割には外れが多い,と言われるのも頷ける。
 しかし純粋に批評を批評として取り出してみれば,結構真っ当なことを言っているのだ。「落語は人間の業の肯定である」から「落語はイリュージョンである」,その他もろもろの社会時評,人物批評・・・ふん,なるほど,と思わせる箴言が七割ぐらいは入っているのだ。してみれば,落語より対談鼎談のたぐいの方が,今の談志の強みが生かせるのだろう。MXテレビで今年(二〇〇八年)の八月まで放映していた野末陳平との番組が中断しているのが惜しまれる。ま,ノドの調子が相当悪化していたのでやむを得まい。十分治療してから出直して欲しいものである。声があれだけしゃがれていると相当聞きづらい上に痛々しくて気の毒になってくる。「悪童」として名を馳せてきた談志にとって,人様の同情を買うってのは不名誉なことこの上ないだろうしなぁ。
 そんな悪童・談志の人生が本人の語りによってコンパクトにまとめられたのが本書である。立川流顧問作家・吉川潮が語りをリードしているせいもあってか,人生の履歴が時系列に沿って並べられており,至極読みやすい。談志自身の文章だと,昔はともかく近年のモノは特に毀誉褒貶が激しくて落語同様,普通の平易な文章を好むワシみたいな「二流の読者」にとっては至極付き合いづらいものとなる。晦渋なところが全くない本書は,談志自身による「あとがき」を除いて,至極常識的な文章で綴られているのである。
 しかし語られている人生そのものは波瀾万丈,とゆーか,本人自身が平穏無事でない道を突き進みたがるせいもあって,五代目・柳家小さんに入門してからの歩みは相当乱暴である。本業の落語のみならず,キャバレーの余興で天下を取り,勃興しはじめたテレビに進出し,余勢を駆って衆議院議員選挙に出て落選,次に出た参議委員選挙では何とか全国区で最下位当選を果たすも,沖縄開発庁政務次官を辞任するハメとなって国会議員は一期で廃業,落語に専念するかと思いきや,六代目・三遊亭圓生にくっついて落語協会を飛び出しすぐに出戻り。その後,真打昇進試験でのゴタゴタが起こると再び飛び出して立川流を創設,志の輔,志らく,談春を初めとする優秀な後継者を育て上げるに至るのだ。まあ乱暴という他ない人生である。
 一貫していたのは,本職を噺家と規定し,国会議員の在任中も寄席に出続けていたことだ。普通なら廃業するか,徐々に落語界からフェードアウトしていくか,タレントに転業したりするのだろうが,小さん譲りの古典落語を語る仕事は絶対に手放さなかったのだ。しれみれば,かような波瀾万丈な歩みの全ては落語のための人生修行ということだったのか,と思えてくる。
 そんなに落語を極めたいなら,余計な批評なぞ交えずにフツーに名人路線を目指せばいいのに・・・というのは,多分,立川談志の芸術指向を理解できない一般人の戯言に過ぎないのだ。記者会見を乗り切るためにアルコールに頼って政務次官をしくじるぐらい,実は胆力というか度胸のない臆病者の癖に(威勢はいいけど腕ずくの喧嘩も出来ないらしい),自分の野心に忠実に行動し,近視眼的にはバカみたいな失敗を繰り返すけど,大観すれば落語界のみならず日本の文化全体にかなりの良い影響を残してきたのだ。もし行動を起こしていなければ,今以上に鬱屈を抱えていた可能性も高い。やりたいようにやってきて,自分が育ててきた芸人としてのDNAも弟子に継承されているのだから,まあそんなに悪い人生ではなかったと言えるんじゃなかろうか。
 落語はともかく,もう少しの間,この談志という人物の吐く言葉を聞いていたいような気分にさせてくれるのが本書なのである。まだ「談志が死んだ」となるまで時間はあるようだから,それまでに目を通しておいて損はない。落語は・・・ま,聞く人間を選ぶので,あまりお勧めはしないでおく。

栗原裕一郎「<盗作>の文学史 -市場・メディア・著作権-」新曜社

[ Amazon ] ISBN 978-4-7885-1109-5, \3800
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 いや~,久々に頭を抱えながら読まされてしまった。唐沢俊一さんの「新・UFO入門」における「盗用」事件,それに端を発した告発ページやblogの主張は,表層的な点はともかく法律的にはどうなんだろうと疑問に感じて本書を読み始めたのだが・・・読めば読むほどこの<盗作>問題というのはややこしいものだということを痛感するハメになってしまった。本書は500ページ近い大著であるけれど,それはこの「ややこしさ」を資料引用を含めて丁寧に解説しようとすればイヤでもこの分厚さになってしまう,という事実を知らしめているのだ。法律問題には全くの門外漢であるワシが新たに知ったり感心した事柄は後述するとして,何がややこしくさせているかを最初に端的にまとめておくと,次のような事情によるようだ。
1.そもそも,文学(広く書き物も含まれるが)における「盗作問題」と呼ばれる事件は,全く整理されてこなかった。つまり本書以前に体系的な先行文献というものは皆無であり,栗原は資料を一から収集せねばならなかった。従って「この事件の発端はこの類型Aに分類されるのだな」という荒っぽい常識的な判断も不可能な状態であった。
2.「盗作問題」の多くは当事者同士の示談によって収拾されたり,論争に終始したりすることが多く,法廷で争われたケースは案外少ない。結果として法律論としての集積があまりなされず,法律家でも明快な判断が下しづらいようだ。
3.2のような事情も絡んでか,何が「盗作」なのか,どこからどこまでが著作権法で規定されている正当な「引用」なのか,盗用あるいは剽窃になってしまうのか,判断が極めて曖昧である。ほとんど引き写しの文章であるにも関わらず原著作者が何も言わなければ事件にならない,といったこともあるし,あるいは「そこまで文章を細分化して似ているだの何だの言ったらキリがないだろう」という度の過ぎた(と思われる)訴えもあり,これに感情論や出版社・放送局のビジネスの問題も絡んでくると,純粋に文芸的かつ法律的な「盗作問題」の定義は,第三者的に決められるモノではない,と思えてくる。
 本書で大きくページを割いて取り上げられている事件のうち,純粋な著作権上の,特に翻案権が侵されたかどうか,という点が争われたのは第六章・2「山口玲子「女優貞奴」とNHK大河ドラマ「春の波涛」」だが,これは担当した裁判官が「どう判断してよいかさっぱり分かりません」(P.358)とぶちまけるぐらい判断が難しいものだったようだ。最終的には最高裁までもつれ込む事件となるのだが,結局はNHK側の怜悧な弁護士の構造主義的法律解釈と小森陽一の論述によって,NHK側の全面勝訴となる。山口は自分の著作がそのままドラマ内で使われていると主張したが,その部分も「資料として活用されたに過ぎない」(P.370)と判断され,創作性は認められなかった訳だ。この場合,山口の著作が川上貞奴という実在の人物を追ったドキュメンタリーだったために,「事実」に創作性があるとは言えないという,ちょっと気の毒ではないかなぁという判決になってしまっている。
 純粋な文芸作品として執筆された作品中に,資料として用いた文献の文章と酷似した箇所がある,という「盗作事件」は本書でも多数示されているが,上記の事件のように,「事実」である場合は「盗作」と主張しても認められないケースが多いようである。
 ・・・となると,こりゃぁ,難しい話だなぁ,ということがご理解頂けると思う。パクリだ泥棒だと主張するのはたやすい。ことに盗んだ・盗まれた当事者でない第三者がヤイノヤイノ騒ぐのは簡単である。本書でも読者からのクレームによって発覚した事件が幾つか紹介されているから,著作権に関する意識は戦前よりも格段に高まっているのだろう。しかしながらそれが純粋に法律的に問題か?となると,個別の事例を詳細に調べていかないと何とも言えないのだ。しかもそれが実際の事件に関する文章だとすると,「引用文献の明示がないのは失礼だ」という文句のレベルで片づけられてしまう可能性が高いように思われる。創作態度が気に入らないとか安易だとかといった主張は感情論で終始してしまうのがオチだ。著作権違反だと言うのなら法廷闘争に持ち込んで恐ろしく手間のかかる手続きを経ないと決着が付かない上に,大した事件でなければ示談でオシマイなる可能性が高い。
 かくして<盗作>問題は,法律的な蓄積がナカナカ増えないまま,感情論とビジネスと世評のうねりの中でダイナミックに漂い続けるほかない丸太のようなモンなのである。普通に生活している分には,「あ,あの辺で丸太が流れているね」で終りだが,いざ自分が巻き込まれてしまうと振り回したつもりの丸太が一回転して自分の後頭部をかち割ってしまいかねないのだ。そう,NHKに喧嘩を売った山口が全面敗訴したように・・・。
 栗原はそんな危険な丸太をかき寄せて何とか一体の筏に仕上げることに成功した。が,思いのほか丸太の数は多かったようで,ふん縛って492ページにまとめるまで2年を要したという。無理もない。しかし労作にありがちの晦渋な文章は皆無で至極読みやすいし,当然のことながら「引用」の方法や「参考文献」の提示は著作権的に完璧である。「そっか,こういう風に書けば問題ないんだな」というお手本としてもお役に立つ一冊,法律家の書いた著作権本より,実際の事件がどのようなものでどういう経過を辿るのかを知るには現時点で最高の本であることは間違いない。誰だって著作権者になり,同時に著作権を踏み越えてしまいかねない時代なのであるからして,一度は目を通しておいて損はしないと断言しておく。

「月刊Comicリュウ」2周年に寄せて

[ 公式サイト ]
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 2006年9月19日,徳間書店が青年漫画月刊誌「Comicリュウ」を創刊した。雑誌不況と言われるようになって久しい時代に,しかも月刊誌では採算が取れている雑誌の方が希有,という状況下でよくもまぁ出したモノだと感心させられた。
 で,これ↓が創刊号の表紙である。
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 この時の主な執筆陣を挙げておく。(連)は連載,(シ)はシリーズ連載(不定期も含む),(読)は読み切りの意味。
 (連)「ドリームバスター」宮部みゆき(原作),中平正彦(絵)
 (連)「ルー=ガルー」京極夏彦(原作),樋口彰彦(絵)
 (連)「ゆるユルにゃー!!」小石川ふに
 (読)「HangII」遠藤浩輝
 (読)「不条理日記2006」吾妻ひでお
 (シ)「ちょいあ!」天蓬元帥
 (連)「子はカスガイの甘納豆」伊藤伸平
 (連)「おもいでエマノン」梶尾真治(原作),鶴田謙二(絵)
 (シ)「麗島夢譚」安彦良和
 (連)「MMリトルモーニング(後に「青空にとおく酒浸り」に改称)安永航一郎
 (シ)「ネムルバカ」石黒正数
 (連)「REVIVE!」五十嵐浩一
 (シ)「木造迷宮」アサミ・マート
 (連)「XENON」神崎将臣
 このうち下線が付いているのは,2008年12月号においてもまだ連載が続いている作品である。創刊して後もまだ雑誌のカラーを決めかねている角川書店の「コミックチャージ」に比べると,創刊時における雑誌の性格付けが殆ど揺らいでいないことが分かる。創刊3号目において連載陣の一人・安永航一郎から「COMICリュウ,ついに3号ですね。いよいよ3号雑誌の本領発揮ですよ。」(最終ページ・著者コメント欄より)などと,激励なのか揶揄なのか判然としない文句を投げつけられたにもかかわらず,SFファンタジー色の強い,少年キャプテンとSFアドベンチャーの遺産を受け継いたこの雑誌は,どの程度の販売部数なのかは不明なれど,創刊一年目において中綴形式から平綴形式に移行し,ページ数も370ページから200ページも増加した。
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 この時点で,いわゆる揶揄的な意味での「3号雑誌」は脱却したと見るべきだろう。雑誌単体で採算が取れているかどうかは疑問だが,連載作品のコミックス化が始まったのがこの時期からなので,ボチボチComicリュウ関係の売り上げから飯が食える程度にはなってきた,とワシは想像している。
 連載陣のラインナップから想像するに,読者の主力は恐らく30~40台のオタク世代,もしくはオタク崩れのオヤジどもであろう。最新号にはちみもりおの短編集が付録として付いてきたが,収録された作品は,初出がないので断定は出来ないけれど,1980年代後半のロリコンブームの影響とおぼしき20年以上前のものばかりであった。ま,他にも付録として押井守の短編映画とか銀英伝とかが付いてくるぐらいだから,読者層については推して知るべしである。
 そのようなオヤジ読者の経済力を背景にして勢いを得たのか,Comicリュウは旧キャプテン時代の作品をコミックスとして出版していくと同時に,新人発掘にも力を注ぐ。大野編集長はなるべく新人には執筆の場を与えるべきだという主義らしく,創作同人誌の古株・コミティアから即戦力として引っ張ってきた作家(アサミ・マート,坂木原レムなど)や,同誌が主催し,安彦良和・吾妻ひでおが審査員となっている龍神賞受賞者(いけ,大野ツトム,横尾公敏,平尾アウリ,山坂健)にもシリーズ連載や連載を持たせている。創刊2年目では更に100ページ以上もふくれているから,ちょうどその増加分を新人らで持たせているということになるようだ。
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 この調子ではまだまだComicリュウの快進撃は続きそうである。個人的には永遠の28歳・魔夜峰央のエッセイ漫画と,あさりよしとおの衣鉢(死んでないけど)を受け継いだかのような作風の大野ツトム「ネム×ダン」シリーズが好みなので,雑誌が潰れるまではお付き合いしたいと思っているのである。崩れ中年オタクどもの癒しとして,更に欲を言えば,次の世代のオタクどもを育成するためにも長く続いて欲しい雑誌,それがComicリュウなのである。
 最後にComicリュウにまつわる謎とお願いを提示してこの記事を締めたい。
 それは先にも名前を挙げた,安永航一郎の連載漫画「青空にとおく酒浸り」についてである。この作品,連載開始以来2年以上になろうというのに,そして一度たりとも連載が休みになったことがないというのに,未だコミックスが刊行されていないのである。人気がないとは思えない。ワシはいつもこの傍若無人な無軌道コメディを楽しみに読んでいるし,2008年10月号に掲載された「瀬戸内海の西の方のちょっと信じられないすごい話」という「フィクション」は,「フィクション」とはいえ身につまされながらも大いに笑ったマンガだった。「日本ふるさと沈没」において没にされたという幻の「竹島沈没マンガ」を彷彿とさせる程の大傑作だったのだ。
 そのような傑作マンガなのに,何故この作品だけがコミックスになっていないのか?・・・ま,理由は100%作者にあるんでしょーけどね。同情しますよ,編集部には。
 しかぁあし!,ワシとしては是非とも,Comicリュウ休刊までに安永先生のコミックスを出して頂きたいのだ。伏して編集部のご尽力と,瀬戸内海の西の方におわすマンガ家先生にお願い申し上げる次第である。

小谷野敦「日本の歴代権力者」幻冬舎新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-344-98092-1, \840
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 老境を迎えた学者が行う仕事はいろいろだが,学者生活の総決算を飾ろうという意図がある場合は
 ・自分の研究内容及びその周辺内容を含めた学問の歴史の記述
 ・長い研究生活を送るうちに蓄えた知識をまとめたデータベース的書物の執筆
つーのが普通のようである。「いやワシはまだ現役学者であるからして,コンテンポラリーな潮流を意識した研究に邁進するのだ!」というのもアリかと思うが,いくら何でも70歳を超えたら,少しは後進のために上記のような仕事をして欲しいよなぁと思う。ハッキリ言って老醜じゃねーか?と思える言動を取る老大家を見るに付け,ワシ自身は引退後に「学問の歴史」と「データベース」が執筆できるだけの知的蓄積を今からしておきたいなぁと思う。そうすりゃ,少しは人類の知的蓄積になにがしかの貢献ができるかもしれないし,多少の人格的障害があっても,世間のお目こぼしに預かれるだろうと期待しているのである。自分の年金支給額ばっかり気にしてヤイノヤイノ言う年寄りには正直,ウンザリさせられているのだ。
 上記のうち,今のワシが読み物として好むのは「データベース」の方である。「学問の歴史」はワシが引退する20数年後までどんな変化をするのか予測不可能だから,現時点のそれを知っていてもあんまし実がないよーな気がするのだ。が,データベースなら,今のバカなワシが持っていない知識を仕入れることができそーだし,何より自分がそのうち書くかもしれないデータベースの一部に取り込むことができそーじゃないですか。何?それは剽窃であって,唐沢俊一みたいだってか? なーに,「嘘つき」よりも「ドロボー」と言われた方が,内容の信憑性にはお墨付きが付いたよーなもんなので,いいんです。大体引用元さえキッチリしていれば,自分の創作的寄与ゼロのデータベースであっても著作権がちゃーんと発生するのであるからして,立派な自分の仕事になるんであーる。・・・ま,そんな立派なものが引退後のヨボヨボジジイに完成できるかどーかは分かりませんが,ね。
 で,最近だと「データベース」もコンパクトなものが好まれるのか,新書サイズのものが増えているようだ。例えば科学史家の小山慶太は「科学史年表」を中公新書で著しているし,ワシが複素関数論を習った井上正雄先生は「簡明 微分積分ハンドブック」(聖文社)を250ページ程度の新書版で出した。どっちも本来なら千ページを超える内容になりそうなものを,ペーパーバックサイズにまとめ,しかも読みやすさを求めてシンプルな文章と版組にしてある。「太い本を書きたい」というのは物書き共通の欲望だと中島らもは書いていたが,その欲望をあえて抑えているところがいいなぁ,とワシは思っているのである。
 で,小谷野敦先生である。ワシより7つ上だから,まだ40代後半なんだよなぁ。それでいて今回「日本の歴代権力者」なるコンパクトなデータベースを著しちゃうというのはちと気が早いのではないか。いや,面白かったからいいんですけど,なーんか「人生のまとめ」に入っちゃったのかなぁという感じがして,愛読者としては少し寂しい・・・というのは考え過ぎか? 死なないで~,小谷野センセー(当分死にそうにないけど)。
 小谷野先生は幻冬舎新書からは既に「日本の有名一族」を著しているけど,前にも書いた通り,著名人・政治家・学者の系図をまとめたものがWebページとして存在しているを知っていたので,ワシはあまり感心しなかった。ま,紙媒体で残っていた方が資料として便利なのでワシは買ったし一応読んだけど,うーん・・・下世話な本だというのが正直な感想であった。いや,品性が下世話なワシとか福満しげゆきのような人間にとっては「なーんだ,あいつもあいつもあいつもあいつも,ぜーんぶ係累がらみで出世したのか」という溜飲を下げる効能はあるので,その意味では読み物としては「あり」なのだが,一応,学者の看板を上げて商売をしている小谷野敦の著作としては「いいのか?」という気分がワシには残ったのである。
 しかしこの「日本の歴代権力者」は,まともな学者の仕事の醍醐味を知らしめてくれる良書なのである。ワシが日本史の知識に疎いこともあって,それを補ってくれる記述が多い上に,大量の文献を渉猟した結果だろうが,「へ~,あの常識はまだ学問的に決着が付いてないものだったのか」という目から鱗の指摘が多く,二重に感心させられたのである。やっぱ東大出を標榜するならこんくらいの仕事はしてくれないと,ねぇ?
 本書で言うところの「権力者」は,もちろん天皇ではない。本書の記述は蘇我氏から始まっていて,既に天皇は傀儡の扱いである。その後も,藤原氏による摂関政治,武家による鎌倉幕府と同様の扱いを受け続け,一時は後醍醐天皇が権力者として復活しようとするも挫折,以降も室町幕府,織豊時代を経て徳川幕府,明治維新,現在に至るまで,天皇は権力者に権威を付与するローマ法王的な役割(巻末に論考がある)を果たす存在になっていく。だから本書で言う「権力者」とは,その時代毎に,本当の権力を握っていた人物であり,それが判然としない時代には複数の人物が挙げられたりする。例えば,室町幕府創設時には足利尊氏・直義・高師直の三人が,戦前期には首相と共に内大臣・木戸孝一も挙げられている。この辺り,取り上げる人物は「恣意的のそしりを免れない」(P.4)と小谷野も認めている通りで,歴史にうるさいオヤジ連中の「あいつがいるのに何でコイツがいないのだ!」とゆー議論を巻き起こす可能性が高い。ま,それもまた本書の楽しみ方の一つである訳で,一人当たり1~3ページ程度とコンパクトにまとめられた記述には無駄がなく覚えやすいので,床屋談義のネタとしても有用である。
 それにしても40台でこの著作かよ・・・と思ってしまう。いや,売れそうだから書いた,というのは本音としても,エライ手間と時間がかかっているんじゃないかと思うと,ホントに元が取れるんだろうか? 大体,こんなに知識を仕入れちゃったら,後は死ぬだけなんじゃないかと,愛読者としては心配になってしまう。老境に達する前に書いちゃったコンパクトなデータベース本を土台に,これから先の小谷野先生のお仕事がどのように飛躍するのか,はたまた・・・となってしまうのか,ちと心配な今日この頃であります。

雷門獅篭「雷とマンダラ」ぶんか社

[ Amazon ] ISBN 978-4-8211-8683-9, \838
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 今の雷門獅篭(かみなりもんしかご)が,その昔,立川談志の前座・立川志加吾であったころ,一度だけその落語を聞いたことがある。浅草の雷5656会館の立川流一門会の,確か開口一番だったと思う。しかしその内容は皆目覚えていない。噺家らしからぬ長身のイケメンにーちゃんが出てきたなー,という印象を持った以外,その内容に感銘したとか大いに笑ったということは全くなかった。とどのつまり,まるっきり面白くなかったのだ。まあ前座の落語に面白いモノがあった試しがないのが普通なので当然と言えば当然だが,落語界の東大と呼ばれるぐらい,厳しい昇進のルールが定められた立川流の噺家ならば,前座でもそれなりに面白いかなーと期待していただけに,肩すかしを食ったというのが正直な感想であった。
 故に,談志直系の前座を全員破門にしたという報道を聞いた時は,まあ当然だな,と思ったものだ。いくら昇進が厳しいとは言え,何年も二つ目になれないようなモノどもを,齢を重ねた談志が見切りを付けるのも無理はない。後に談志の高弟・談春の本を読んだら,全く同じ感想を語っていたから,世間の反応もそんなモンだったと思って頂いて間違いない。
 ただ,獅篭が他のダメ前座どもと違っていたのは,四コマ漫画を講談社の青年漫画週刊誌・モーニングに連載していたこと,そして自分のWebページを持ち,ちまちまとメンテナンスを重ねていたことである。落語は面白くないが(シツコイ?),自分のパブリシティは怠りなかったのだ。それを継続せしめる「生きるエネルギー」だけは人よりぬきんでて燃えさかっており,エネルギーが余りすぎてオナホールを愛用しなければならない程なのである。
 そのエネルギーを抱えた破門後のCHICAGOは,郷里・浜松からほど近い大都会・名古屋で噺家として生きていく決意をし,名古屋在住ただ一人のプロの噺家・雷門小福に入門を頼み込む。全くの偶然だが,東京で漫画もやっている噺家がいると聞くがそいつなら何とかなるかも,と小福が言ったこと(P.22)が決め手になり,その「漫画もやっている噺家」CHICAGOは新たに「雷門獅篭」として再生,潰れかけと言われて久しい大須演芸場を拠点に今日もしぶとく噺家として生きているのである。
 モーニング連載時から今に至るまで,ハッキリ言って獅篭の漫画は絵が下手である。つーか,大してうまくなろうと思っていないことが見て取れる。「四コマはネタの切れ味とドライブ感が全て! 絵がうまくなっちゃったら元も子もない!」と割り切っているのかいないのか判然としないのだけれど,そう開き直っているとしか思えない進化のなさぶりなのである。しかしそれは絵についてのみ。獅篭の漫画には他の停滞した四コママンガ家にはない「魅力」があり,それは本書の前半の,特に絵が下手だった頃の作品に満ちているのだ。
 実話をベースにたエッセイ漫画なので,ギャグはベタなモノが多いが,何と言えばいいのか・・・そう,ワシにとっては「共感できるもの」なのである。多分それはワシが普段から「生きるエネルギー」に渇望していて,それを発散している人物を好ましく感じるせいだろう。エリート街道まっしぐらの人生より,失敗だらけで七転八倒している様に感動するのがワシなのだ。故に,獅篭の漫画に対しては好悪の感想が相半ばするかもしれない。ぶんか社ということを差し引いても下世話なネタが多いから,上品な女性の方々にはお勧めしない方がよろしかろう。
 ちょっと心配なのは,次第に獅篭の絵が整理されて見やすくなっているところ。特に最後のSCENE 17, 18辺りでは最初の頃の猥雑さがきれいに消えており,何としても笑って頂こうというサービスの度合いも低下しているように思えるところである。その分,本業の落語が面白くなっているといいのだが,ワシはまだ獅篭になってからの落語を聞いたことがないので何とも言えない。しかしblogを通じて知るところでは,結構あっちこっちの落語会に呼ばれたりしているようだから,それなりに腕は上がっていると信じたい。そのうち地元・浜松でもエンボスの社長のお眼鏡にかなって独演会が開催されるやもしれず,そうなれば本物になったと判断できるだろう。そこまで行けば,ワシとしては漫画がつまらなくなっても,十分に許すことができる。本書の印税がチェリーボムの支払いに回るだけでなく,多少なりとも芸の肥やしになることを念願してオナホールのゴムじゃなくこの記事を締めることにする。
[2009-09-28追記] 浜松にて獅篭の会が行われたので聞きに行った。なるほど,さすがしぶとく名古屋で噺家を精力的に続けているだけあって,段違いに腕を上げていた。ブレークするのも近い若手噺家期待の星であることを確信した。