内田麻理香「恋する天才科学者」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-214439-1, \1400
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 歴史に名を残してきた科学者の評伝というのは例外なく面白い。もし面白くないとすれば,それは文章のレベルが低いか,読み手の科学的知識が不足しているか,そのどちらかである。もともと後世に残る程の業績がある人間なのであるから,どこかしら「普通でない部分」があるのは当然であるし,その「科学的業績」だけを取り上げてもその偉大さに比例した面白さが得られるのだから,評伝が面白くない筈はないのだ。
 しかし,残念ながら「科学的業績」に力点を置いてしまうと,読者としてはそれに関する知識のある人間だけに限定してしまうので,商業的にはあまり芳しくないことになる。数式ゼロの,専門用語を極力廃した文章だけで科学的業績を書こうとすると,どうしても長くなってしまい,本が分厚くなってしまう。それなりに広い読者層にアピールするためには,せいぜいブルーバックスのように,ピンポイントの話題を選択してコンパクトにまとめる程度にしておく必要がある・・・が,それでも読者が限定されてしまうきらいがある。従って,普通の大手出版社から出ている新書では,「科学的業績」よりは「普通でない部分」に力点を置いて紹介せざるを得なくなる。つまりは,ワイドショー的な下世話な所をほじくり出して,「あの偉大な科学者がこんな生活(生涯)を送ってきた!」ってなものになりがちだ。それはそれで読み物としてはアリ,とは思うが,それが何かの学問的価値があるかどうか,となると話は別だ。こういう手のものを書くのは大概大学などに籍のある科学史家なので,自らの学問的良心と,商業的な要求とのバランスを取って(こういう思考を「最適化」と呼ぶ),「ガリレオの求職活動 ニュートンの家計簿―科学者たちの生活と仕事」みたいな面白い本が出来上がってくるのであろう。
 内田麻理香は,カソウケンの研究者という肩書きで身近な科学を面白く上品な筆致で紹介してきた希有な書き手である。伊達に東大のDr.コースをを出てないな,と思わせる博覧な彼女は,しかし,自分なりの16人の科学者(ファーブルや南方熊楠のような枠に納めづらい人間も含んでいる)の評伝を書くに当たって「最適化」の手法を潔く捨てたのである。ワイドショー的「普通でない部分」にのみ力点を置き,そこだけ,を端正な読みやすい文章で綴ったのである。副題が”The Handsome Scientists”になっているので美形の科学者だけを取り上げたとも読めるが,ワシら扁平顔の黄色人種から見れば,西洋ゲルマン系の男どもの若い時分の顔は大概美形であるから,内田がまえがきで書いている通り,選択の基準はそれだけではない 。本書のタイトル「恋する天才科学者」の「恋する」の主語は当然・内田本人であろうが,惚れているのは「科学的業績」であって,顔だけじゃないのである。しかし内田は,この業績部分は殆ど全て巻末の参考文献に譲り,下世話な部分だけをミーハー的な読ませる文章で綴ったのである。
 この取り上げ方には異論が多々あるかも知れない。特にそろそろ絶滅しかけている真面目な堅物の学者様には不評かもしれない。しかしワシも含む多くの現役研究者は本書の存在意義を大いに認めるだろうし,内田もそれは狙って書いている。まるで韓流イケメン俳優にうつつを抜かす中年オハバンのようなミーハーさを装ってはいるが,その後ろには相当のバランス感覚が手綱を引いていて,「普通でない部分」の描き方はかなり客観的だ。それは相当の読書量と,Dr.まで進んで現在東大の特任教員にまで就任するだけの科学的知識・社会的常識に裏付けられたものなのだろう。ファーブルの記述では養老孟司の引用や「昆虫くん」(酒井順子言うところの「宇宙人」だな)の話もあったりして,同じ「昆虫くん」のワシとしては,いやぁ申し訳ない,と苦笑しながら読ませて頂いた。
 理数系離れが叫ばれる昨今だが,多くの理数系入門書が書いている内容は似たり寄ったりの手垢にまみれた「分かりやすいトピック」だけを取り上げたものばかりであり,本気で理数系に進もうとしている読者には遠からず飽きられてしまうだろう。本書はその中でも異色の「理数系としての生き方」に絞った入門書であり,世間的に居づらさを覚えているオタクな人間には一種の共感を持って読める本だ。多分,内田にしか書けない軽さ(を装っている)を持った本書は,今のところ,ワシにとっては女性にも勧められるNo.1の「科学入門書」なのである。

わかつきめぐみ「シシ12か月」白泉社

[ Amazon ] ISBN 978-4-592-14278-2, ¥752
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 日本の土着神をファンタジー漫画の主役として登場させる時,そこに住む人間との関わり方には幾つかのパターンがある。その一つとして,人間社会の変化を直接あるいは間接的に引き受けるというものがある。人間がいてこその神,というのは紛れもない事実であるから,これは自然な神のあり方と言える。
 例えば手塚治虫の「火の鳥・太陽編」では,壬申の乱の原因の一面を象徴するものとして八百万の神と仏教神との戦いが描かれるし,あとり硅子の「夏待ち」では,そろそろ過疎地の住民からは忘れられつつあるお稲荷様が主役の一人を張っている。夢路行の主様シリーズでは,神とも妖怪とも宇宙人とも解釈できる「主様」と他の土着神や鬼との交流が描かれるが,雪の神の一族は次第に山奥へと追いやられていく過程にある。
 これらに共通するのは,古の日本では神と人間が安定した共存関係にあったという幻想が土台にあるということだが,これはあくまで幻想でしかない。もともと神という概念自体,近代においては科学的に否定されたものであり,人間社会のありように付随する浮遊的なものでしかない。つまり,過去においても安定したものであった試しがないものだ。だからこそ,神は常に人間から畏怖されたり唾棄されたり都合良く愛されたりしながら,人間が共有する概念として,変化しながらも存在し続けているのである。
 わかつきめぐみが描く土着神が主役のシリーズも,単なるほわほわとしたファンタジーから変容し続ける人間社会の一端を担うように変化してきたが,それは今まで述べてきたように,神という存在を考えれば自然な帰着と言えよう。そしてその変化の結果,わらわらと画面を賑やかにしてきたキャラクター達には,我々人間が抱いている感情のメタファーとしての役割が担わされるようになっているのである。
 「シシは土地神さまの所に住んでいます」というのが本書の冒頭の文句だが,タイトルロールの「シシ」にはこれ以上の説明はない。ちょっとエキセントリックなイケメンの土地神は,インテリジェンスと爆発する感情との間を往復しながら12ヶ月を過ごす存在であるが,シシはその土地神に何の影響も与えない存在で,愛玩動物としての役割も果たしていない。が,自身の存在が人間から忘れられつつある土地神がキセル煙草をくゆらせながらシシ相手に語るシーンにおいて,シシは我々人間が持つ「よく分からないけどそこにいる第三者」としての機能を担うようになった。たぶん,シシは村上春樹が言うところの「うなぎ」(分からない人は「村上春樹にご用心」でも読んで下さい)なのである。睦月から師走まで,愛嬌やトラブルを振りまいてくれはするものの,それはストーリー全体の本筋を直接担ってはいない。多分,天性のファンタジー作家・わかつきめぐみは,本書において,ストーリーを間接的に語ることに挑戦したのだ。シシと土地神のお付きの者どもが織りなすエピソードを介して,ワシみたいな読者が「勝手に物語る」作品を作り上げてしまったのである。つまり本書は「機能としての漫画作品」になってしまったのだ。・・・ってのはおおげさかな?
 神という存在が共同幻想であることが明確になった今でも,いや今だからこそ,神は求められている。この先,日本の少子高齢化が進展するにつれ,限界集落が増え,うち捨てられる土地の寺・神社・地蔵も増えていくに違いない。しかしそれでも人間が全滅しない限り,土着神信仰もまた全滅することはないのだ。本書において,仲間が減りつつあることに嘆息する土地神は,悩みながらも破れかぶれになることはない。それはタネマキという謎の存在が置いていった種に希望を託しているからという単純な理由ではない。タネマキがいようといまいと,傍らで話を聞くシシさえ居てくれればいいのだ。そして我々人間が季節の変わり目を意識さえしていれば,土地神もまたそれに合わせて行動してくれるはずなのである。
 今日は大つごもりである。今夜は一年を振り返って土地神とシシ共々しみじみとし,年が明けたら近所の社を巡って彼らの存在に思いを馳せようと考えている。

本年は大変お世話になりました。
来年もよろしくお願い致します。

雅亜公「シークレット・ラブ」I, II, III,芳文社コミックス

シークレット・ラブ I [ Amazon ] ISBN 4-8322-3058-1, ¥552
シークレット・ラブ II [ Amazon ] ISBN 4-8322-3071-9, ¥552
シークレット・ラブ III [ Amazon ] ISBN 978-4-8322-3094-1, ¥552
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 いや〜,エロ特集をすると予告しておきながら,年末に入ってしまうとテンションが落ちてしまい,殆どらしいことが出来なかった。だもんで,最後に書きたいことを全部書いてしまうと共に,これだけは紹介しておかねばらならないという3冊をご紹介することで,お詫びに代えたいと思う。
 最近の2次元フェチな若者どもがどんなエロマンガを読んでいるのかを知るため,それなりにこの分野のマンガを渉猟し,何冊かは買って読んでみたのだが,いや〜,なんつ〜か,やっぱこの分野,進化が早いというか,もはや中年親父のワシには付いていけない所まで逝っちゃっている。SEX中の男が透明人間になるとか,巨乳女性はもはやホルスタインの化け物のような肉の塊になっちゃっているとか,性器の露出が殆ど欧米並みになっているとか(秘宝館が廃れる訳だ),ともかく凄い。一体どうやったらこんなホラーみたいなマンガを夜のおかずにできるのか,おじさんにはさっぱり理解不能である。Web上では全世界規模で実物が拝めるので,フィクションの世界では極端に走らないと刺激が足りないのかしらん? 中には完全なラブコメ&スポ根マンガの構成でありながら,スポーツの代わりにSEXをしているというものもあって,著者の意図とは別に大爆笑しながら読ませて貰ったが,おっさんとしてはもはやこの分野,トンデモ的な楽しみ方をしないとついて行けない所まで逝ってしまっているのだ。
 ただ,この極端な変化は男性向けのエロマンガに限られるようである。女性漫画家が担当することの多い女性向けエロマンガの方は,そこまでファンタジック(と言っていいのかどうか?)な進化は遂げていないようで,まだ何とか「実用」に耐えうる程度に留まっている(BLは別ね)。つーか,今時,恋愛の中にSEXが登場しないというのも不自然である上に,女性にとってのSEXはどうしても妊娠という可能性を孕むものだから,幻想の上に乗っかって射精だけしていればいい男とは違う,生々しい現実を伴うものなのである。それ故に,化け物同士のくんずほぐれつなんぞ見せられても困るのであろう。
 従って,同じエロでも男性よりは女性の漫画家が描いたものの方が現実離れしていないのではないか。徹底して男向けに描いたとしても,どこか違和感を抱えてしまうのではないか,と思えるのである。で,その違和感に誠実であればある程,男性奉仕のための作品からは離れていくのが自然の成り行きなのであろう。男性漫画家でも,エロから入って徐々に普通のマンガへシフトしていった一群としては,吉田戦車,山本直樹,陽気碑などが挙げられるが,彼らもどこか単なるエロには飽き足らなくなっていたのではないか。女性ならばなおのこそ,と,ワシには思えて仕方がないのだ。
 そんな一人がこの「シークレット・ラブ」というベタベタなタイトルの短編集を描いた,雅亜公(まあこう,と読む)なのだとワシは勝手に確信しているのである。もし男性だったらごめんなさい。女性同士が使うあだ名のようなペンネームと,単行本の著者コメントで判断する限り女性と思われるので,以下ではそう仮定してぷちめることにする。
 さて,この3冊の単行本の表紙を見て(写真参照),これがエロマンガではないと思った人はいないだろう。ワシもそのつもりで(どんなつもりだ)買ったのだが,その期待は半ば裏切られたのである。半ば,というのは,確かに本書に収められている作品にはSEXが描かれているのだが,ストーリーが面白いため,SEXが単なるお色気成分に成り下がっているからである。つまり本書はSEXを見せることではなく,SEXにまつわる男女の物語を描くことが目的の作品群だったのである。
 特に感心したのは,女性キャラの心理描写が巧みなことである。まあ女性が描いている(たぶん)のだから当然と言えば当然なのだろうが,掲載誌は「別冊週漫スペシャル」である。小汚いラーメン屋に置いてあるマンガ雑誌に,SEX後に雨の音を聞きながら男と語らう行きずりの女性を描いたり(第6話「雨宿り」),既婚女性が男からコートをかけて貰ったことに「こんなことしてもらうの何年ぶりだろ」「女の子扱いしてもらったみたいで何か嬉しいな・・・」と少しジンとしたり(第26話「アイ・ニード・ユー」)というような繊細な女性の心理描写が描かれている作品が掲載されているなんて,時代も変わったものだと思わざるを得ない。絵柄はデビュー当時の金井たつおを思わせる,端正なデッサン力と可愛らしさを伴ったもので,確かに男臭い雑誌に載っていても違和感はないレベルである。しかし,単行本3冊になる作品を描き続けられたのは,絵柄だけではない,ストーリーの持つ魅力があったからこそなのであろう。そして,その魅力は女性心理描写の巧みさがあったればこそなのであり,今はそれを週漫の読者が支持する時代になったのである。
 この作品群は3冊の単行本にまとめられているが,1巻よりは2巻,2巻よりは3巻に感心させられるストーリーが増えている。女性心理描写が巧みなのは全てに共通しているのだが,その上に構成させるシチュエーションが段々凝ってくるのである。
 ワシが一番感心したのは,3巻巻頭の第21話「言えなかった言葉」である。これは電車の中で痴漢行為を働いてしまった男が主人公で,その男が好きになった相手が実は痴漢の相手だった・・・というものである。男にとって一方的に都合のいいエロマンガばかり読んでいる輩には少し苦いものを残すかもしれないが,それ故に,ワシはマジにこの作品,道徳教材として使えるのではないかと思っている。純粋エロを求めて買ったワシにとっては意外だったが,マンガとして楽しめたのに味を占め,この漫画家の作品を全部買ってしまったのは当然の成り行きと言えよう。
 雅亜公の最新作「ラビリンス Vol.1」は,「シークレット・ラブ」の一短編を拡大したような不倫ものの長編であるが,ベタなタイトルが相変わらずなのはいいとして,今のところは間延びした作品という印象が強く,切れ味という点では短編の方がお勧めである。まだ始まったばかりなので,これについては今後に期待することにして,今は在庫がある「シークレット・ラブ」3冊で楽しむことをお勧めしたい。

福満しげゆき「僕の小規模な生活 1巻」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375417-9, \743
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 ガロの流れをくむ異端マンガ雑誌・アックスに掲載されていた福満のマンガを最初に知ったのは,多分,フリースタイル Vol.3掲載のいしかわじゅん×南信長対談だったと思う。その後,吾妻ひでおの日記でも好意的に取り上げられていたのを読んで興味を持ち,そろそろ購入すべきか,と考えていた矢先に出たのが本書である。しかもメジャー出版社。でも装丁はまるっきり青林工藝舎。普通のA5サイズコミックスに比べて価格も高めだし,つまりは,そーゆースタイルで売り出した方が得策だと講談社サイドは考えたということらしい。うーん,最近は小学館でもIKKIなんてマンガ雑誌が出るぐらいだし,飽和したマンガ市場で利益を上げるにはニッチなマーケットも確保しておかねば,と,大手出版も考えを変えたってことなんだろうか。この辺の動向はぜひ中野晴行さんに分析していただきたいところである。
 そのニッチなマーケットにあって,それなりに利益が上がりそうだ,と目をつけられたのが福満しげゆきという存在だった,と勝手に断定することにして,さてこのマンガのどこが良かったのか? そこんところをつらつらと自分勝手に考えることにする。
 2007年12月現在,福満のマンガはWeb上でも読むことが出来る。本書でも語られているが,ご本人のWebサイトも存在している(奥さんが作ってくれたものらしい)。福満を知らない方は,まずそれをご覧頂きたい。
 読んだ? では,話を続けよう。
 本書は青林工藝舎「僕の小規模な失敗」の続編・・・というか,現在進行形でこの日本の首都・東京に住む福満自身とその奥さんを中心とした生活を語る,エッセイマンガの体裁を取っている。いつも目の下にクマをはやし,自意識過剰気味な性格がもたらす額の脂汗を流しつつ,少し猫背気味の姿勢で漫画を書き,妻との間合いを取りながら時にはバイト生活を送っていた福満自身が主人公だ。が,双葉社と講談社から同時に連載の依頼を受け,メジャーの道を走り出したところが本書の後半で描かれているので,そろそろマンガだけで食える状況になってきたようである。なんか,水木しげるの自伝を読んでいるような気分になってくる。ガロ→講談社(少年マガジン)というルートを辿った水木と,アックス→講談社(モーニング)&双葉社(アクション)というルートを確保した福満,将来が楽しみである。
 それはともかく,本書はエッセイマンガの形態を取っているし,福満自身もここで描かれているような惨めったらしい存在だと認識しているのだろうけど,それを額面通りに受け取るのは果たしてどうか,という気がする。実際,いしかわ×南対談においても

いしかわ「(略)とにかくこの粘着質はすごい。手紙を書きまくって,携帯書きまくって,通話料金が十二万だっけ。(笑)」
南「毎日手紙書きまくったあげく,「お願いだから控えてください」って言われる。敵に回したくないタイプです(笑)。でもこのひとはものすごく極端だけど,ある部分はわかるなぁ,というところがありますよね。十七,八歳で将来に不安を持つというのは誰にでもあることだし,もっとダメな人って世の中にいっぱいいる。無気力でダラダラしててなにもやらない人とか。それに比べたらこの主人公はものすごくアクティブ。マンガを書くこともそうなんですけど,向上心がある。」
いしかわ「前向きだよね。でも暗〜い前向き。粘着質で暗い前向きなんだよ(笑)。」

・・・と指摘されている通り,実はこの福満という男,サイバラや得能史子と共通するまっとうな夫婦生活を送るための常識,相当の根性,プロ的視点,の持ち主とお見受けする。
 まず,マンガだけで食えない状況にあっても,きちんと結婚している,ということが挙げられる。この時点で萌える中年ひとりものとしてはジェラ心に火が付いてしまうのだが,それはこの際置いておくことにしよう(でないと話が進まない)。まあ,結婚までの経緯は色々あったとしても,本書で描かれている夫婦生活は相当まっとうなものである。稼ぎのない時は奥さんが働いて食い扶持を確保し,そろそろダンナにメジャーからお声が掛かるようになった頃を見計らったように奥さんは専業主婦化していく。働いている間はダンナを穀潰しとして叱咤し(激励の意味もあろう),福満もぶつぶつ言いつつもそれなりにバイトに精を出す。ビンボー夫婦生活を描いたエッセイマンガは,例えばここでも取り上げた「まんねん貧乏」「同2」があるが,稼ぎの範囲で生活をする,稼ぎに不足があれば自分が動く,という原則に忠実なところは福満も得能も共通している。高々数万程度の急な出費を補う貯金も出来ずにサラ金に走るバカどもは,福満や得能の爪の垢でも煎じて飲むがいい。ついでにサイバラから罵倒されてみろ,と言いたくなる。その意味で,福満の夫婦生活は理想的なあり方と言える。
 次にいしかわ×南対談で挙げられていた「根性」についてだが,当然,メジャーからお呼びが掛かるまで地道にマンガを書き続けたことを挙げなければならない。その前に,原稿料が出ないアックス(やっぱり本当だったのか・・・)に「普通に読める」マンガを描き,単行本まで出していた,というステップを踏んでいたことがジャンプのきっかけとなったことは疑いない。それにしても,この陰気を地でいくようなねちっこい画風で,自意識過剰としか言いようのない鬱々した世界を書き続けたことは相当な根性とお見受けする。本書ではミュージシャンを目指しながらライブの一つもしようとしない知人を尻目に,福満自身が見事バンドを組んでライブを敢行してしまうエピソードも描かれているが,これも根性の証左である。そして,自分でどれほど意識しているのかは不明だが,ちゃんとメジャーどこからの要求に応えて何度もネームを書き直し,画風も段々軽やかになっていくのはたいしたものだと思う。それでいて奥さんは可愛く描いているし,エロいし(ああっ,太もも太もも!),ワシみたいなメジャーどころしか読まない普通の読者のツボも刺激してくれる。それもこれも根性の賜物,と言うほかないのである。
 そして最後は,福満のプロ的視点だ。客観性,といった方がいいかな。自分が他人からどう見られているか,その上で,自分はどう行動すべきか,という悩み,それ自体が本書が一番エンターテインメントしているところなのだが,答えの出ないこの問題を,福満はねちっこく根性で乗り切ると同時に,相当考えた上で行動しているのである。そしてそれを本作に描くことで読者を喜ばせることができる,ということも福満はちゃんと意識しているはずである。自分の自意識が過剰であり,しかしそれこそが自分の持つ一番の「ウリ」であり,それを丁寧な絵と端正なコマ割に載せることで,読者を満足させることが出来るという確信が,福満にはある筈なのだ。そこにワシはプロ的視点,客観性を感じてしまうのである。笑われることは恥と考えるだけではなく,むしろそれを利用して,「どう笑われているのか」と意識し分析することで表現のステージを駆け上ることができる,ということを,福満は都営団地の一室でペンを走らせつつ確信しているのである。
 本書を単なる「ダメ人間」のエッセイマンガ,として楽しむことは可能であるし,世間ではむしろそちらが多数派なのかもしれない。しかし,ワシにはとてもそうは思えない。少数派かもしれないが,福満に嵌る読者のある一群は,間違いなく「共感」しているのだ。共感する読者は,「ああ,ここにも同じ自意識に悩む人間がいる」と安心する。しかし,その上には福満がしっかりと監視の目を光らせ,「・・・よし(ニヤリ)」とほくそ笑んでいるのである。
 恐るべし福満。メジャー二社を巻き込んで取り合いになる騒動を,悩みつつもネタにするねちっこい政治力とプロ意識,大いに見習うべきである。

水月昭道「高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院」光文社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-334-03423-8, ¥700
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 ちょっと前,「博士が100にんいるむら」というWebページが話題になった。ベストセラーになった本のよくあるパロディかと思って読み進んでいくと,ラストに衝撃的なオチがあるというものである。元ネタはこれであるらしい。
 ポスドク(博士号取得済みの学生さん)の就職難という話は昔からある程度あったようで,人文系では40過ぎにようやく大学の常勤職に就けたというのがざらであり,理工系でも博士号取得後,ストレートに助手(助教)に就任,というケースはそれほど多くなかった。
 しかし1990年代に入ってからの大学院強化という文科省の方針の下,全国の国公立大学だけでなく,弱小私立大学まで揃って大学院収容人数の増員が図られて以来,博士号保持者は増える一方,しかしそれに比して就職先は増えないどころか少子高齢化時代に入ってますます減る一方,という状況で,無職の博士は「無駄飯食い」というレッテルを張られ,ノラ博士とまで揶揄されるようになってしまったのである。本書はそのような「ノラ博士の就職問題」の背景を解説し,就職先のない状況にある博士達の生の声を集め,もっと広い視野を持って博士号保持者が現実社会に立ち向かうことを提案している。自身もノラ博士の一人である著者であるが,時々混じる「世間・文科省・現在常勤職にありながらもロクに論文を生産しない研究者への恨み節」を除けば,概ね冷静かつ分かりやすい文章を綴っており,「何で博士なのに就職出来ないの?」と疑問を持つ方々にとってはぴったりの解説書になると思われる。
 ・・・というのが本書に対する模範解答的な書評ということになるんだろうが,うーん・・・率直に言って本書に登場する博士の方々は,世間知らずに過ぎるのではないかと思えて仕方がないのである。まあ,様々な事情があって職がない,という状態になってしまったことは理解するのだが,「こんなに長い間勉強して論文を書いたのに」という恨み言をストレートに受け取ってくれる程,ワシも世間もお人好しではないのである。もちろん,「お前みたいな三流大学出のろくすっぽ業績がない輩が常勤職を持っているから,もっと優秀な奴が被害を被り,日本の研究者のレベルを下げているんだ!」という批判については首肯するが,だからといって「じゃあワシの席を譲ります」とポストを明け渡す気は全くないのである。何故なら,今の職場や日本の研究会でワシはそれなりのポジションを保持しているからであり,それが出来る人はそう沢山はいない,ということをワシは確信しているからである。
 本書を読んだ方が誤解するとまずいのだが,前述したように,博士号取得→大学常勤職というルートが全員に保証されるという「常識」はなかったのである。大体,今程ノラ博士問題が深刻化していなかった1990年代半ばですら,ワシの師匠は「大学にポストを得るなんて,運が良くなきゃ無理よ」とハッキリ言っていたし,職を持つ社会人として博士課程に入学する際にも「仕事を持ったままの方がいいよ」というアドバイスは随所で受けた。少なくともワシが知る範囲で,「博士を取れば大学に残れるよ」と言われたという人を見たことがない。そういう別格扱いの人も僅かながらいるようであるが,それは才能が抜群という人に限られているように,ワシには思える。著者のいる社会科学系の世界ではどうだか知らないが,ワシのいる応用数学や情報科学・工学分野では,社会情勢や求められる専門性に相当左右されてポストが決まる世界なので,「職がない=才能がない」という公式は成り立たないのである。努力さえすれば大学にポストを得られると教授にそそのかされたという博士も本書には登場するが,自分がそれほどの才能の持ち主だと自負しているのであれば,もっと世間の風に当たって出身大学外へ出ることも視野に入れるべきではなかったのか? それが出来なかったという時点で,「甘いんとちゃう?」と思われるのは当然であろう。
 ま,水月は,大学淘汰・倒産という時代に突入すれば,現在職を得ているワシら専任教員もいずれもっと転職の難しい「元大学教員」というノラ人間に成り果てると予想しているが,それについてはワシも同意する。だから,現在職のないノラ博士以上に悲惨な末路を辿る可能性も高い訳だ,ワシらは。そう言う意味でも,もっと若いノラ博士に同情する必要はまるでないし,むしろ同情して欲しいのはこっちだ!と言いたくなろうというものである。
 は,甘い? そう,確かに甘いのだろう。しかしそれは博士号さえ取れれば専任教員への道が自然と付いてくる,と考えたどこぞのノラ博士と同等の甘さである。してみれば,世間知らずの甘ちゃんというのはお互い様,ということなのである。
 つまりは,「センセー達も,その予備軍達も,もっと世間の風に当たりましょう」という教訓が得られる,というのが本書の一番の存在価値なのだ。大学教員の世界に縁のない方々におかれては,「へへっ,笑わせるね」と鼻を鳴らして頂くぐらいが一番真っ当な感想であり,いわゆる高学歴の集う世界が「お勉強ばっかりしている割には社会を知らないバカが多い」ということを理解するためにも格好の入門書であることは,バカ教員の一人として保証する次第である。