「夢路行全集25 日常茶飯事」一迅社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7580-5182-8, \552

夢路行全集 25
夢路 行
一迅社 (2005.9)
通常24時間以内に発送します。

 著者本人も「呆れたに近い」暴挙とも思える夢路行全集刊行も,ついに最終刊までたどり着いた。これも一重に,途中合併して経営基盤を強化した一迅社の体力のおかげである。愛読者として,厚く御礼申し上げる。
 ワシが夢路行を読むようになったのは20世紀も押し詰まった頃からで,そこに至る彼女の軌跡を,今回始めて辿ることが出来た。集英社から単行本が出なくなり,東京三世社(とは独立の編集プロダクションが主導していたようだが)からの出版物のみを読んでいたから,それ以前の作品や,秋田書店移行時までの仕事については殆ど知らないできたのである。
 今回の全集を通じてデビュー後20年を越える仕事を通してみると,随分と色々な冒険を重ねているのだな,ということが分かる。ホラーっぽいものから,派手なアクションを伴うものまで,ファンタジーだけではない作品世界が展開されている。しかしそこには独特な雰囲気が必ず漂っていて,冒険しながらも自分の立ち位置が大きくずれることはなかったのである。そこに確固とした意思があったのか,それとも単なる成り行きだったのかは不明であるが,それがなければ一迅社も全集の刊行を決断することはなかったであろう。同じく全集を刊行した24年組の大家達は,自分らの仕事そのものが少女漫画のみならず,他のジャンルの漫画をも激変させてしまったが故に,メジャーに留まるためには,その作風を変えて行かざるを得ない運命にあった。夢路行は幸い,その世代よりずっと遅れてきた世代であり,デビュー時の絵柄はかなり1980年代の「乙女チック」路線っぽい。しかも自ら言うように,あまりうまくなかったせいもあって,時間をかけてコツコツと力量を上げて行かざるを得なかった。そこが1990年代の漫画の変化に,不器用ではあるけれどもついて行けた秘訣ではないか,という気がする。
 全集刊行と共に,一迅社の雑誌で続いていた連載「モノクロームガーデン」も終了した。しかし,秋田書店からはこれからも新作単行本が出版される予定になっているし,本人も小さい家を建てるという「野望」をお持ちのようなので,手打ち蕎麦の如く,細く長い活動を続けていくことであろう。
 「まあ こんな わたしですけど
        長いおつき合いの人も 一見さんも
     これからも よろしく 。 と。」(25巻)
 あ,いえ,こちらこそ,末永く,お付き合いさせて頂きたく,
 よろしくお願い致します。 と。
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 この全集↑に,今後何巻分,新作が追加されるのであろうか。楽しみである。

山下達郎「ソノリテ」Moon Records

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 CCCD騒動が一段落し,昔の習慣が忘れられずに「真面目に」CDを購入しているオッサンとしてはヤレヤレ,とホッと一息ついているところである。確かに,P2Pを初めとして,The Internet上における違法コピーの流通には目に余るものがあるし,教育や研究という名を借りてコピーしまくるバカ教師も多いから,Copyright holderとしてはふざけんな,と激昂してしまうのは当然であろう。しかしだな,一消費者としては,こちらの私的コピーの権利を必要以上に制限されてしまうのも,また困りモノなんだ。真面目な話,必要以上の権利行使に対しては,消費者運動として不買・不使用を呼びかけることも考えねばなるまい。Creative Commonsの広がりは結構なことだが,それを使用するかどうかはCopyright holderの良心に期待するしかないものであって,Copyrightを意図的に乱用する輩がそんなもの,使う筈がないのである。CCCDが廃止されたのも,真面目なリスナーによる運動の成果と言えるだろう。・・・ま,タツロ―エーイチにとっては全く関係のないことではあるのですが,ね。
 「オマタツ!」というダサいコピーはともかく,オリジナルアルバムとしては1998年のCozy以来7年ぶりだから,確かに待たさた感はある。しかしその間,On the Street Corner3(1999年)やRARITIES(2002年)も出しているし,Sunday Song Bookも続いているので,まあ何とか浮気もせずに我慢できたのである。初回限定紙ジャケ(アナログLPを知らん若いモンには分からんだろうが)をナデナデしながら,いそいそとCDからWindows Media Playerに音源をconvertしたワシは,HDDが擦り切れるほど(嘘)全曲をrepeatしまくったのであった。
 Amazonには随分と否定的なコメントが掲載されているが,ワシにとっては簡素な打ち込みサウンドと,服部克久ジコミのClassicalなOrchestrationも,どちらもしっくり来ていて好みである。そんなにクソミソに貶すほどなのかぁ?,と,ボチボチ「高気圧ガール」を聞くと気恥ずかしさを覚えるようになってきた年寄りは,珍しく団塊世代のmusicianを擁護してしまうのであった。

倉多江美「静粛に、天才只今勉強中!(全11巻)」希望コミックス

[ 復刊.com ]
 何せ絶版長編漫画であるから,今更ISBN番号を書いても,Amazonへのリンクを張っても仕方がないので,復刊.comへのリンクのみを示しておく。書誌データはこちらのページがよく整っているので参考にして頂きたい。ワシも一揃い持っているが,何だか人をおちょくったような表紙で,デザイン的には見事だが,フランス革命という激動の時代を活写している歴史漫画の力作として見てもらえないのではないかと一抹の不安を感じてしまう。まあその恬淡さ,ユーモラスさが倉多江美の持ち味なんだから,仕方ないか。
 フランス革命といえば,絶対王政を打ち倒したかと思うと,多数の王族・貴族・政治家を断頭台の露と消し,ナポレオンが皇帝に成り上がって没落した挙句に,またブルボン王朝が復活する,というややこしい経緯をたどった世界史上のターニングポイントとなった事件である。映画や文学の題材としてはもってこいで,本国フランスではいわずもがな,日本でもナポレオンやロベスピエールの評伝がいくつか出版されているし,漫画にもなっている。ワシは仕事柄,数学者に興味があるのだが,ラプラス,フーリエ,ダランベール・・・と今もその名が残る定理を多数残した数学者が多数輩出されたのもこの時代であり,自然とその時代状況にも興味を持つようになった。
 しかし,数学者の評伝を読むと,ラプラスとフーリエの評判はヒドく悪い。政治的立場をコロコロと変えて社会的地位を維持したことが悪評の原因(ラプラスは政治家としての能力がなかったことも原因)だが,しかし,これだけ激動した時代に,しかも学問の自立なんて概念のない当時,自身の研究活動に支障のない範囲の経済的生活を維持しなければならなかった彼らが,その時その時の権力者に擦り寄るのはやむを得なかったのではないか,とワシは同情してしまうのである。むしろ反抗し続けて生き抜く人間の方が少数派であったろう。阿諛追従こそ人の常,と思うのである。そして,どーせ権力にへつらうのなら,徹底してやった方がいいではないか,とワシは考えてしまうのである。
 で,その時代をそれを実行して,まんまと生き抜いた大物政治家が二人いた。一人はタレイラン,もう一人はフーシェ。片方はナポレオンの下で大臣を務めながら,ナポレオン没後のウィーン会議まで抜け抜けと出席し,片方はロベスピエールの片棒を担ぎながら彼を断頭台へ送り,ナポレオンをも恐れさせる秘密を握る警察大臣として活躍した。ま,最後は神様に懺悔しちゃうんだけど,それも神様という権力に擦り寄ったと言えなくもない。
 さて,倉多江美である。熱血とは正反対の白い絵を描く,独特の画風を持つベテランであるが,その彼女が今は亡き(もう復活することはないだろうーな)コミックトムから長編漫画の依頼があった時,フランス革命を描こうと思ったのである。で,自分は誰を主人公にしてこの激動の時代を描くべきか,悩んだはずである。ナポレオンは論外。貧乏子沢山のド田舎島出身者の努力家軍人なんて主人公にしたら暑苦しい。やっぱり恬淡と権力と付き合ってきた政治家がいい。でもタレイランは艶福家っぽいから脂ぎっていて合わないな。フーシェは痩せぎすで警察大臣,陰険で素敵,やっぱりこれにしよっと(想像で書いてます為念)。でも最後は駄目ね。政治家は最後まで風見鶏じゃなきゃ。引き際も大事,食えない古狸は最後も抜け抜けと引退して・・・と,フーシェをモデルにした「コティ」という人物を創造したのである。したがって,本書はコティさんという架空の政治家の周りに,フランス革命の主要を配置した大河歴史ロマン非熱血編,ということになる。
 コティさんは修道院のセンセーから,国民公会の議員となり,ロベスピエールの手伝いをしたかと思うとテルミドールの反動の首謀者となり,さらにその反動の余波で自分まで追いかけられる羽目になる。その後,身を隠してほとぼりの冷めるのを待ち,伝を頼ってナポレオンに取り入る。そこで警察大臣なり,時には臨時内務大臣まで勤めるまで信頼を勝ち得るのである。その間,お金持ちのお嬢さんを娶り娘を授かるが,ロベスピエールとの権力闘争の最中に,娘も夫人も病のため亡くしてしまうというエピソードも描かれる。善悪という基準を超えて,盛者必衰の世の中をあるがままの運命を受け入れつつ精一杯生きていく,というコティさんは,ワシにとってはかなり身近な人物に思えるのである。無論,頭は切れるし,風向きを読む感覚に優れているから,そういう生き方ができるわけで,誰もがコティさんになれるわけではない。倉多はその辺りもシビアに描いている。
 歴史は馬鹿と熱血が主導して活動することによって,彼らが意図しない形に結晶化したものである。熱血馬鹿になれない,なりようもない大多数の人間にとっては,ある種のパーツとしてその結晶の中に組み込まれるしかない。しかし,パーツにはパーツとしての自由意思というのが厳然としてあり,熱血馬鹿の愚かさも偉大さも,その自由意志によって唾棄されたり愛されたりするものである。コティさんは明らかに賢いパーツの一つであり,その活動が自由奔放であるが故にフランス革命の貴重な語り手たり得ている。その活動そのものがエンターテインメントとなっている本作品は,ワシにとって歴史漫画の,間違いなくベストワンなのである。

小林薫「奥様は漫画家」あおばコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-87317-602-6, \600

奥様は漫画家
奥様は漫画家

posted with 簡単リンクくん at 2005. 9.25
小林 薫
あおば出版 (2005.9)
通常2-3日以内に発送します。

 小林薫の面白さは「すっぽ抜け」にある。
 真面目一本槍のピッチャーが一球入魂の精神で投げたボールがすっぽ抜け,あらぬ方向に飛んでいく。その結果は悲惨であり爆笑ものである。バッターのどたまを弾き飛ばすか,ワンバウンドしてキャッチャーの股間を強打するか,はたまたキャッチャーが捕球し損ねて三塁ランナーが悠々とホームインするか。どーなろうともその状況は,無責任な観客には爆笑モノ,プレイしている当事者たちにとっては悲劇である。小林薫の作品,特に近作は,キャラクターたちにすっぽ抜けの悲劇を演じさせ,読者の爆笑を喚起させる傾向が強い。本作は漫画家と編集者の夫婦が成立する,その前後を描いた連作短編集であるが,日常生活とハードな仕事との両立を目指すべく,物凄いエネルギーで困難に立ち向かっていく主人公の大林薫子の「すっぽ抜け」が見事に表現されている名作である。・・・の割には出版社がマイナーで,書店店頭で目立たない扱いにされているのが残念である。日本の企業なら.bizじゃなくって.co.jpぐらい取れよな>あおば出版
 以上が「炎のロマンス」にも通じる小林薫の一般論であるが,この作品にはもう一つ特徴がある。それは大林薫子が全然,漫画家という職業に一生を賭けていない人物として描かれている点である。いや,イイカゲンに漫画を描いている,ということではない。一作一作,連載をこなしていく姿は熱血そのもので,それでこそのすっぽ抜け,なのである。しかし夫となる幼年誌編集者と付き合う前は,玉の輿を狙ってみたり,合コンを画策してみたりと,普通に結婚(恋愛ではない)して専業主婦となることを目指していたりする。結婚後も暫くは仕事を続けるが,それは夫が自分の仕事に理解があるからであって,主婦になれ,と言われたら未練はあれど,従っていただろうという所も描かれている。全然フェミ的ではなくて,極めて平均的日本女子の願望を持っている,何だかいまどき珍しい主人公なのである。・・・ま,最後は自分の業(ごう)に目覚めるんですけどね。
 まあ,中年越えると,運命に抗うのではなく,なるようになるさ,という開き直りが自然と身につくものである。それでいて日々目の前のことはきっかりこなしていかないと,運命に流されることも出来ず溺れてしまう,ということも身に染みて知るようになるのだ。そーゆー人生の空しさと厳しさを貫通した「日常生活」を送る手段として,小林薫的すっぽ抜け,というのは案外いい回答なんではないか,という気がする今日この頃なのである。

西島大介「ディエンビエンフー」角川書店

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853890-X, \1000

ディエンビエンフー
西島/大介??〔作〕
角川書店 (2005.8)
通常24時間以内に発送します。

 さーて困った。
 何がって? 西島大介って,今お前が一押ししている漫画家じゃん,その最新作を紹介するのに何が困っているのか分からんというのか? いや,何と言ったらいいのか・・・つまりこれは物語の体をなしていないんだよ。じゃあ面白くないのかっていうと・・・うーん,これが難しいところなんだな。読者を選ぶ作品なのかって?・・・うーん,そうとも言えるだろうし,そうではないかもしれない・・・我ながら,じれったい,もどかしいんだけど,すぱっと言えないんだ。まあ,聞いてくれよ。
 漫画の基本は起承転結っていうじゃない。・・・こんなことを言うといしかわじゅんから今時何を古ぼけたこと言っているんだって怒られそうだけど,物語を読者に分からせるためのフレームワークの一典型であることは間違いない。まず「起」。核となるキャラクターや物語の背景が説明される部分だ。そして「承」→「転」と事件が次々に起こって物語が展開していって〆,つまり「結」となる。もちろん現代のフィクションではこの順番をずらしたりひっくり返したり,ということはザラ。だから承転起結とか結起承転,承と転がくっついてしまっている・・・etc.という物語も珍しいもんじゃない。
 で,ものすごく乱暴に言ってしまうと,この西島大介の新作は「結」「起」・・・あとはせいぜい「承」の取っ掛かりまで。それで単行本は完結してしまっているんだよ。Comic新現実の最終号で,西島は「ディエンビエンフー特別編」を描いているんだけど,それは「起」の更に前の話なんだ。だからエンターテインメントとして一番肝心の,血沸き肉躍る展開部分がすっぽり抜け落ちていて,西島はそこを描くつもりは今のところない,ということは既に分かっている(今後描くつもりはあるみたい)。
 俺がComic新現実をVol.1から購読していることは知っているよな? この単行本に納められている#1~#5のエピソードはそこに連載されていたものに少し加筆訂正が加えられたもので,Prologueと#6が単行本用に書き下ろされた部分だ。
 連載されていた部分はリアルタイムで読んでいて,かなりワクワクさせてもらった(悪趣味かなぁ?)。だもんで,新現実がVol.6で終了して連載が尻切れトンボで終わってしまった後は,単行本化が待ち遠しくて仕方なかった。著者のインタビューが連載の最後に載っていたのだけど,書き下ろしをするって発言していたしね。当然,主人公の日系人・ヒカルと,姫と呼ばれるベトナムの殺人娘,そして米国兵に鍛えられた人間兵器・ティム・セリアズ,この3人のその後がきちんと描かれるものと思うじゃない? それがどうだ,#6ではヒカルとティムのジャングルクルーズが延々と続き,姫は育ての殺人婆さんと畑を耕し続けることしか描いてくれていない。「結」であるPrologueではヒカルの持っているニコンが爆風で飛んでいき,結局最後にヒカルと行動を共にしてたのは誰なのか(まあ見当はつくけど),何も説明してくれないんだ。あーもー,俺の靴下痛痒感,分かってくれる? 最初に単行本を読了した時には,ふざけんな西島!って不貞寝しちゃったよ。だーれがこんな訳の分からん物語を推薦するかってんだっ。
 ・・・いやだけど,問題はその後なんだ。
 ・・・気になって仕方がない・・・Prologueがね。ネタバレになるからこれ以上は言わないけど,とにかく,単行本を全部読んでしばらくすると,Prologueの持つニュアンスが頭の中で熟成されてくるんだな。
 ・・・いや,省略された「承転」部分を自分なりに想像して埋め合わせる,って訳じゃない。逆なんだ。そこはなくても良かった部分なんじゃないかって,何だか勝手に分かった気分になってくるんだよ。俺だけかな?
 ・・・だから,これは面白い「物語」じゃないんだ。西島描く架空のベトナム戦争に配置された3人のキャラクター,彼らを取り巻く環境,そしてその底流に存在する見えない「物語」の醸し出すニュアンス,そーゆーものを眺める・感じる作品,ということになるんじゃないかな。
 ・・・そうなんだ,俺はそーゆー素直に楽しめない作品を持ち上げる輩の鼻持ちならなさが大嫌いなんだよ。分かりづらいから面白い,なんてのは邪道も邪道。漫画はインテリのお飾りじゃないんだ。・・・だからこの作品を「面白い」なんて称揚するつもりは全くないし,そんなことはしたくない。・・・でも,やっぱり気になるんだ,ひっかかるんだよPrologueが,今でもさ。
 俺が困った理由が少しは分かってくれただろうか? 前作はしっかりした起承転結物語だったので,この作品との構成のギャップには驚かされるよ。
 でもまぁ,この作品が理解できるのは俺だけさって感じの文章がWebに氾濫するのは見えているから(何せサラブレット西島だからね),「困った」と発言する奴が一人でもいるってことを知らせるべきとは思っている。
 そうね,「不思議な作品」と総括しておこうか。面白いかどうかは保証しないけど。ま,今後続編出るまで待ってもいいかもね。何時になるか分からないけど,それまではやっぱり「不思議な作品」のまま,なんだな。
 読む?