功名焦りにつける薬

 ホリエモン逮捕に引き続き,民主党の若い国会議員が持ち出したメールに関する騒動が起こっている。どちらも当の本人や所属する企業・政党に対するバッシングがすごいらしいが,どーも私にとってはヒトゴトでない感じがあって,もちろん当事者に責任のあることではあるのだが,批判する気は全くなくて,むしろ同情してしまうのである。
 理由は二つある。一つは,どちらも私と同年輩の三十路男が引き起こした事件であること。もう一つは,どちらも当事者の功名に対する過度の焦りがあるように見受けられることである。
 ワシみたいな馬鹿と違って,お二人とも高学歴の結構なエリート路線に乗っているが故に,もっと先へ,もっと早くと急かされる内的・外的な要因が多かったんではないか,と勝手に想像しているのである。三十路ともなれば,まあそれなりに自分の実力というものを理解でき,それを更に伸ばしていこうという意欲も沸く。そこにもう少し慎重さがあれば世間をお騒がせすることにはならなかったろうが,そーゆーお年頃であったところに,思いのほかアクセルをふかせてしまう周囲の期待が強かったのだろう。そこに今回の事態の本質的な原因があったのだと思っている。
 ・・・で,このお二人の当事者とは異なり,ぜんぜんエリート路線でない私といえば,近頃焦りから失敗ばっかり繰り返し,「もう少し頭を冷やせ」というサジェスチョンを頂いているところなのである。そりゃまぁ,そう言われれば二三日は落ち込んでおとなしくしてまさぁね。しかしだね,この年ではそーそー黙ってひざ小僧抱えてばっかりもいられないぐらい意欲気力が充実しているのである。で,またぞろ復活して,懲りもせずに新たな仕事に邁進していたりする。そんな時期にこの事件が立て続けに起こったのであるから,「あ,功名焦りなんだな」と思ってしまったのも無理はないのである。
 幸いとゆーか,不幸とゆーか,私は現在「萌えるひとりもの」であるので,子供の育成などに頭を悩ます必要が全くない。持ち家はどーする,とか,教育費はどー賄う,とか,嫁さんの親族問題等は抱えていない。抱えたくても抱えようがない(くそぅ)。
 なので,考えることはそーゆー近未来のことではなく,ずっと先の,30年後の老後生活になってしまうのである。ここ数年来は自分の現在の収入と社会的立場から試算して,どういう生活が定年後に可能かをシミュレーションしまくっているのである。
 社会保険庁(ここもボロクソに叩かれた役所だ)のサイトに,「自分でできる年金簡易試算」というページがある。ここで自分が貰えるであろう65歳以降の年金額が試算できる訳であるが,ワシの場合は月額だいたい16万円という結果が出た。もちろん,今の給料からすればずっと低い。低すぎる。しかしどー考えても,私が実際貰える額はこれより多いはずがなく,むしろ少なく見積もるべきであろう。
 仮に月額15万円とした時,さて私はどのように生活するべきか?
 現在,毎月振り込まれた給料のうち12万円は引き出さずに口座に残している。これはさまざまな公共料金の引き落としのために必要な額である。
 しかしこれでは老後は生きられない。食費や医療費(どーせ慢性疾患の一つや二つはあるに決まっている),最低限の娯楽教養費を賄うために,コストカットできるところを考えることになる。
 まず,自家用車を持たないことにしたい。運転は今でもあまり好きではないし,私みたいな逆上しやすいタイプは,そのうち絶対に高速道路を逆走するに決まっている。これで,年額3万円の自動車重量税と,毎月4,5千円のガソリン代,3千円の任意保険料を浮かすことができる。
 次に家賃。現在月5万円のアパート暮らしだが,これはせいぜい2,3万円に抑えたい。もちろんそんな家賃で暮らせるアパートはそんなにないし,大体一人暮らしの老人に部屋を貸してくれるわけがない。いずれマンションか一戸建てを持ち,ローンは完全に返済しておく必要がある。
 最後は娯楽教養費。私の場合は殆どが本代なので,なるべく近所の図書館や漫画喫茶(老後に存在してるか?)で満足するようにし,ほぼゼロに抑える。これは今の吾妻ひでおの生活が参考になる。
 以上のコストカットを実行し,残りの月々5,6万円で生活したとすれば,住む所は都市部に限られてくる。郊外の団地よりは,市街地の人口密集地が相応しい。足元のおぼつかない年寄りでも歩いて行ける距離に駅や病院,図書館があればベストだ。個人的には東京にも近い小田原あたりが理想なのだが,埼玉も捨てがたいよなぁ・・・。
 なーんてことを考えているとだね,功名焦りの三十路も段々落ち着いてきて,「地道に働こう」とゆー気分になってくるのである。これは一種の鎮静剤なのだ。ホリエモンも永田さんも,そーゆー「功名焦りにつける薬」を持ってなかったのかなぁ。

夫婦者への注文(イチャモン?)

1.平日の昼飯を

コンビニ弁当で済ますな!

 夫婦者故に,一人で食う飯ぐらい好きにさせろ,というのかもしれないが,
何のために結婚したのだ!

と言いたい。朝飯・晩飯の残り物を詰め込んでくるだけでもかなりの節約になるはずだ。夫婦の老後生活をエンジョイするためにも
貯金しろ!年金は破綻している!

2.ひとりものがDLPプロジェクタだのDual Core PCだの車だの旅行だのと,派手に金を使いまくるのを
羨ましがるんじゃない!

 ひとりだから,せいぜいLOHAS(と言えるのか?)生活を楽しむしかすべがないから,金をパーッと使っているんじゃないか。
 二人なんだろ? 子供がいる家庭も多いんだろ? だったら金を使うんじゃなく,頭使って
家庭生活を楽しむ努力を惜しむな!

3.これはダンナへの注文だが,妻という女がいるにも拘らず
女のビキニグラビアに鼻長くしているんじゃない!

 まあ,これはまだかわいい。一番不可解なのは,結婚しているに関わらず
AV鑑賞を止められないダンナ

である。問い詰めると「それとこれとは違う」らしい。
不可解だ!

4.夫婦者に全般的にいえる事だが
もっと楽しそうに結婚生活を語れ!

 あまりお仲間が増えて欲しくないひとりものとしては,一つでも多くのカップルが成立すべく,既婚者による「結婚は楽しいぞ」アピールを是非とも活発に展開して欲しいと念願しているのだが,新婚にも拘らず,「どう?」と水を向けても「いやぁ・・・」と語尾が濁りやがる。こっちの立場に同情して言いづらいのかな,とも思ったのだが,どうもそうではなく,本当に「いろいろなこと」があって,すっぱり「楽しい!」と言い切れないようなのである。好きあった同士であったとはいえ,所詮は違う人生を歩んできた他人なのだから,ある程度は仕方がない面もあろうが,そこはそれ,嫌なところはぐっと我慢して,結婚のメリットや楽しさを強がりでもいいから,ワシみたいな「現状になんとなく居心地の悪さ」を覚えているひとりものに,
結婚はすばらしい!

という主張を語りこんでもらいたいものである。
5.ひとりものを一番結婚行動から逃避させるのは
熟年離婚

のニュースである。退職金が出た途端,離婚を切り出され,年金も半分貰って妻は独身生活をエンジョイし,ダンナは呆然として日々何も出来ずに引きこもる・・・。
 まあ,家事労働と子育てを一人で押し付けられて,ねぎらいの言葉もなく数十年も我慢していれば,独りになって清々したい,という気持ちも分からんではない。夫婦関係をコミュニケーション不全に陥らせたダンナにも大いに責任はあろう。しかし,傍からから見れば
何のために結婚したんだ!

と言いたくなる。働き盛りの頃の離婚とは全然シチュエーションが違うのである。そんなんだったら,
最初から一人で生きろ!

P.S. 256倍シリーズ,復活しないかなぁ・・・。

究極の孤独

 「若い人はシングルは男女問題だと思っているみたいだけど,それはちがう。シングルというのは老人問題なの。若いのがひとりなのは当たり前なんだから」(「歩くひとりもの」P.140より)。
 NHKスペシャルは,たまに興味のある内容の時は録画して見る。しかし,これはたまたま時間とザッピングのタイミングが合って見ることになった番組であった。
 「ひとり団地の一室で」(2005年9月24(土)放映)。これはまさしく老人問題としての,しかも男性のひとりものを扱った番組である。一言でいって,本番組に登場するひとり者は悲惨極まりない。体の調子が悪くて働けず,医者に行く金もない。病気になって働けなくなった途端に妻から離婚を言い渡され,ひとりで団地に越してきたが,部屋から一歩も出ず部屋は荒れ放題。挙句に孤独死。そういう状況を少しでも改善したいと奮闘する団地役員氏とそのお仲間達の活動を主軸に据えているが,ひとりものの悲惨さが際立って伝わるように編集された番組であった。そーゆー悲惨なひとりものばっかりなのか? と疑問に思わないではないが,「ひとりものの末路は孤独死」という事態が多いことは紛れもない事実であろう。この番組が放映されるかなり以前にも,東京都の警察の仕事の多くは老人の孤独死の後始末だ,という話を聞いたことがある。
 というわけで,酒井順子が言うように,負け犬は男女問わず「腐乱死体」になることは覚悟しなくてはなるまい。勿論,今はこうしてバシバシキーボードを叩けるのも元気で若いからであって,いざ腐乱死体にそう遠くない年齢になったときに平気でこの4文字熟語(じゃないか)を口に,あるいはキーボードに叩き込めるのか,と言われれば,かなり自信がない。今のところは,50を過ぎたところで,貯金に見合った額で入ることのできる有料老人ホーム探しに勤しむ予定であるが,そもそも現在のような日本経済の状態で,そんなところに入るだけの余裕があるのかどうか。それ以前に,街中を彷徨う,臭気プンプンのうらぶれたホームレスオヤジになってしまう可能性が高いのだから,屋根のある所で死ねるだけでもマシかもしれない,と本気で思う。
 かつて「老人Z」というアニメ映画があった。「原作・脚本・メカデザインが大友克洋、キャラクターデザインは江口寿史」(from Amazon)という,どうしてこの二人が関わって作品が完成に至ったのか,日本の7不思議に数えられているぐらいの珍しいアニメだが,さすがに面白い。脚本のくだらなさ(誉めてるのよ)とキャラクターの可愛さが共に際立っていて,まさしくワシ好みの作品であった。そーいや,これもNHK(BS2)で見たんだったな。ワシの一生はNHKと共に終わるよーな気がしてきたぞ。いやそれはともかく。
 この作品で大活躍するのは,暴走する介護マシンとそのモルモットにされた独居老人である。この老人は痴呆の症状も出始めた足腰の立たない要介護状態でありながら,妻とは死別して一人暮らしである。故に厚生省(現・厚労省)が開発されたばかりの介護マシンの実験台として目をつけるのだが,この老人の「かーちゃん(妻)」への想いがマシンの人工知能に伝わって,老人が理想化した妻の人格を宿してしまうことになる。
 あれ? これって,あの千葉の公営住宅に越してきたひとりものの男性と境遇が良く似ているな・・・と気が付いた。離婚と死別,理由は異なるが「かーちゃん」が今はいない,故に寂しい,という状況は同じではないか。
 アニメと一緒にするなよ,と怒られそうだが,「萌えるひとりもの」の妄想だと思って許して欲しい。ワシは老人Zを見ながら,主人公の老人を羨ましく思っていたのである。勿論,エンターテインメントとして切れの良い演出が施されていたせいもあろうが,「かーちゃん」とかぼそく言い続ける老人は,ワシみたいな純粋培養ひとりものよりも真っ当な男に思えて仕方がなかったのである。
 対して,映像は暗くてすさんでいたけれど,あの公営住宅に越してきたひとりものの老人らは,ひとりになった寂しさを嘆いていたが故に,真っ当な人生を歩み,真っ当な感情に苛まれている,これはとても良いことなのではないか。人間性とは,このような寂しさを知る老人らにこそ宿るのではないか。
 おなじ腐乱死体になるにしても,そこに至る過程において,純粋なひとりものに比べれば,老人Zも公営住宅の老人もずっとずっと真っ当であり,寂しさに泣くことによって魂も昇華できるのであろう。
 孤独の寂しさを忘れた人間は,自分以外の人間を求めることもしないから,この世に存在しなかったことなる。
 それこそ,究極の孤独って奴なんじゃないかしらん?

参考文献と基本データ

 前にも書いたが,ワシは別段,ひとりものであることをここで正当化したいわけではない。「一人で萌えていたらそのまま三十路になっちゃった,しゃーねーな,じゃあ一人でこんな感じで生きていくしかないな」ということを恬淡と述べることが「萌えるひとりもの」の目的である。
 一応こちとらデータに基づいた主張をするのが仕事なので,ここでも感情的な事柄以外は,なるべくそのようにしたい。そのための参考文献と基礎データをここで紹介しておくことにする。これがあると,ワシも今後非常に助かるのである。
 まず,本コラムの先達として
 津野海太郎「歩くひとりもの」ちくま文庫, ISBN 4-480-03377-7, \680(1998年)
を筆頭に挙げておかねばなるまい。残念ながら(何がだ),本書が文庫として出た時には既に著者はひとりものを卒業されていたので,OBからの送辞ということになってしまった。自分の立場を強弁せず正当化もしない本書にインスパイアされて,本コラムは成立したのである。タイトルもここから頂いた。ワシの(まともな)主張の大半は本書に述べられていることの焼き直しみたいなもんである。それだけ著者の意見は常識に基づいたまともなものである,と言える。萌えるひとりものがみんな本田透みたいな主張の持ち主だと思われると迷惑この上ないので,お断りしておく次第である。
 津野さんも取り上げている海老坂武の最新エッセイとしては,
 海老坂武「新・シングルライフ」集英社新書, ISBN 4-08-720032-9, \660(2000年)
がある。もう定年を迎えたんじゃないかなぁ,と思うがお元気でしょうか? 「戦うひとりもの」とは津野さんの命名だが,本書にも「独ハラ」に対する怒りの表明が随所に登場する。ただ,溜飲を下げる,というよりは,「強がり」としか取れないところが少し痛い。小谷野敦先生によれば,海老坂先生は「もてる男」なんだそーだが,真偽の程は定かでない。ワシのように世間に対して申し訳ないという気持ちを持ってコソコソと暮らしたい向きには,うーんそこまで言うか,と思うところが多い。それでも「真面目に暮らしなさいよ」というメッセージがあるところは良い。反抗的に生きたいひとりものにはお勧めである。
 ということで,同性の先達の書を挙げたが,女性でも共感するところの多い先輩として
 群ようこ「貧乏贅沢のマリア」角川文庫, ISBN 4-04-171710-8, \438(1996年)
も挙げておこう。群センパイ((c)西原理恵子)の更にセンパイ(バツイチだけど)森茉莉の評伝であるが,今の自分に関する話題をマクラにして本題にすっと入るスタイルは名人芸的にうまいよな,と感心する。読後感がそこはかとなく哀しいところは,「やっぱりひとりものは・・・」となってしまい,海老坂先生からカツが入りそうであるが。本書ばかりでなく,群センパイのエッセイや人物評伝(女性のひとりものが多いのは気のせいか?)は,ひとりものに関する事柄が多く登場するので,大概参考になるだろう。
 小谷野敦先生がお好みの岸本葉子さんのエッセイも挙げようかと思ったが,どーも,この方のライフスタイルは,ワシみたいなスボラ人間とは真反対で,全然参考にならないため,控えておくことにする。几帳面なひとりものの方なら共感することが多いんだろうな。
 人口統計一般については総務省統計局のデータ以外に頼りになる指標はないだろう。まだ今年(2005年)の国勢調査が終わったばかりなので,最新データが揃った段階で面白いことがあればネタにしたい。

なぜワシはひとりなのか?

 のっけからテンションの高い書き出しから始まってしまったが,ワシは別段,ひとりものの権利を主張したいわけでも,正当化したいわけでもない。「人は結婚すべきである」という世間一般の常識は,生物学的にも正当性のある正しい主張であると思っているし,こっちだって同意の取れた相手がいれば結婚する可能性がないわけではない。ただし,三十路を越えてからというもの,恋愛もSEXもめんどくさくなってしまった上,コミュニケーションスキルもなく,容貌もぱっとせず,稼ぎもそれほどあるわけではない(少なくともホリエモンより少ない)。つまり,当方からアタックするわけでもなく,先方から押しかけてくることもあり得ないわけで,こーゆー中年男が結婚できるわけがないのである。結婚したら家事の一切合財を女性に受け持ってもらう,などというフザけた期待も抱いていないから,それなりに自炊生活も営めるようになった現在,結婚生活がワシにとってさほどメリットのあるものとは思えないのは仕方のないことである。
 へ,子供が欲しくないのかって?
 うわーおぞましい。冗談ではない。こんな底意地の悪い低脳人間のDNAなんぞ,この世に残さず,灰にしてしまうのが人類のためだとワシは固く信じている。まかり間違って自分の子供が出来たらそれはそれで可愛いと思うのかもしれないが,将来真人間になることは期待できないから,思春期にグレ始めたら殺してしまうかもしれない(返り討ちにあったりして)。
 さびしくないのかって?
 うーん,もう,さびしいという段階を通り越している。「さびしい」という空気に包まれていることすら,めったに気がつかないという状況である。仕事柄,平日はワラワラと人に囲まれているため,夜や休日に一人になるとほっとするぐらいである。従って,仕事がなくなってしまったら寂寥感に押しつぶされて,首をくくる可能性がある。まあその時には「ああ,人間,やっぱり家族が必要なんだな」とせせら笑っていただきたい。・・・変? だって,ワシ,前に言ったでしょ,人は結婚すべきだって。それが適わなければ,自殺したって仕方がないじゃん・・・そこまで言ってないって? そりゃぁ偽善的だ,自分は家族がいるから幸せで,ひとりものは家族がいないから可哀想,でも死んじゃいけない,ってどの口叩いていってんのかね。常識ってのはね,そこから外れた人間にとっては,物凄く冷たい排除の理屈でもあるんだよぉ~。
 以上,ワシが非常に可哀想な(書いててつくづくそう思った)人間であることが理解されるであろう。その割には同情されていないのは,恐らく,ワシが「萌えている」ためにこの悲惨さが伝わっていないからだろう。しかし,悲惨さを覆い隠すために萌えるしかない,という状況であるとも言えるのだ。
 さぁ,大いに同情しなさい!(笑)