常識の浸透圧

 日本画家の片岡球子が103歳で亡くなった。何を書いても野太く不細工な野性味あふれる物体になってしまう特異な画風の持ち主だった。小学校で30年も小学校で教鞭を執っていたそうだから,子供達の絵に何か惹かれるものがあり,その影響を受けての画風だったのかなぁと思わなくもない。とまれ,103歳となれば大往生には違いない。感慨深いものがある。
 さすが文化勲章画家だけのことはあって,片岡球子の訃報は大新聞社のWebページでは軒並みトップニュース扱いになっていた。朝日しかり,毎日しかり,日経しかり,そして読売も・・・なのだが,もうお分かりだろう。ワシは読売の記事のこの部分に引っかかりを覚えたのである。

 82年、日本芸術院会員となり、89年には文化勲章を受章。最近まで制作意欲は衰えず、2005年、100歳を記念した個展では、「一生懸命上手になろうと毎日、へたな字を書いている」と書などを出品していた。生涯独身を通した。

 ・・・ふーん,つまり何かい,ノーベル賞を取ろうが,文化勲章を取ろうが,どんな高潔な人生を歩んだ人であっても,「独身」であればそれを突かれるという訳なのかい?
 いや,「独身を通した」だから,それは褒め言葉なのだ,という人がいるかもしれない。しかしそれはお人好しの発想であり,かつ,既婚者のものに違いないのだ。そしてこの記事を書いた読売新聞の記者も既婚者に相違ないのである。
 いや,ワシは既婚者に対して僻んでいるわけではない。僻みたくなる既婚者が居ることも事実だが,同情してしまう既婚者も枚挙にいとまがないのであるからして,既婚者を見ればパブロフの犬よろしく負け犬の条件反射的に僻むわけではないのだ。それにワシは何度も強調しているように,人は結婚するのが自然であり,結婚はするべきだと主張している。二人以上を養うに十分な収入があり,人格的に破綻を来していないのであれば,成人となった人間は結婚して当然だというのが世間の常識であり,ワシもそれは大いに首肯する。
 だからワシは片岡球子が独身であったことを指摘していることに対して,引っかかりを覚えたのではない。カチンと来たのは「独身を通した」の「通した」という部分に対してである。ワシはこう言いたいのである。
 「何故素直に「生涯独身でお気の毒にねぇ」と書かないのか?」と。
 まあ,日本の良識を代表し,社主が「たかが選手」(ワシは一生忘れないからな,この言いぐさ)を支配しつつ,日本の2大政党を尚早にもくっつけようとしている新聞社の記者ともなれば,悪口をストレートに表現できないのは仕方のないことでは,ある。あるが,「独身を通した」とは何事であるか,とワシは言いたい。しかも追悼記事の最後にとってつけたようにこの「独身を通した」と書くとは,何と根性悪であることかっ! 小学校で30年も教鞭を執り,その後も大学で芸術を教え,死ぬ直前まで画業に勤しんだ高潔なる人生を全うしても,「独身を通した」というその一言で「あ〜あ,お気の毒様なことですねぇ」という纏められ方をしてしまうのである。
 嗚呼,悲しきかな「独身」。かの酒井順子は名著「負け犬の遠吠え」において,「負け犬よ,仕事に精を出せ!」とカツを入れて文章を締めくくった。しかし,酒井先生,読売新聞のこの追悼記事を書いた記者は,そのようなあなたの教えを一言で打ち砕いたのであります。どんなに仕事に励もうとも,死んだ後は「独身を通した」と嫌みを言われてしまうのであります。なんと非情なことなのでしょう,酒井先生!
 ・・・とまぁ,同じく独身のワシはつい憤ってしまったのであるが,よく考えてみれば,このワンマンマン社主(@いしいひさいち)をいただく読売新聞の記者の「独身を通した」発言は,世間の意見を代弁しているだけとも言えるのである。つまり片岡球子が大往生を遂げた今,誰しも故人の芸術性を褒めちぎった後,やっぱり「お一人でしたのねぇ」と,ため息と共にその死を締めくくってしまうに違いないのである。これはつまり「負け犬でしたのねぇ」「何故,負け犬のままで終わってしまったのでしょうかねぇ」という,同情と憐憫と勝ち犬の持つ上から目線という奴を象徴しているのだ。
 しかしそれに抗することは無駄であり,それは負け犬としては悄然として受け入れるしかない「常識」なのである。この記者が思わず書いてしまった「独身を通した」という一文は,この常識の持つ浸透圧によって押し出されてしまったものに違いないのだ。
 「独身を通した」・・・ねぇ。思わず憤ってしまった,同じく現在進行形で「独身を通」しつつあるワシとしても,やっぱり,片岡球子に対しては「何でまた独身のままだったんですか?」という疑問を持ってしまうあたり,常識の浸透圧に慄然としてしまうのであった。

主婦感覚って奴は・・・

 2007年年末,チャンネル数減の圧力を逃れたNHKは,2年ぶりにBSマンガ夜話を復活させると共に,伊丹十三の映画特集を組んだ。既に民放・地上波では宮本信子主演の映画は大概放映されているのだが,腐っても国営放送,コマーシャルによる中断がないとあれば,録画用としては最適なのである。とゆーことで,我が家のDVD+HDD録画装置は2008年の正月を迎える時には「伊丹ボックス」と化す予定である。・・・その前にもうちっとHDDの空き容量を増やしておく必要があるのだが。
 ワシが見た伊丹映画を好きな順に並べると,次のようになる。
1.タンポポ
2.マルサの女2
3.マルサの女
4.お葬式
5.マルタイの女
6.大病人
未視聴なのは「静かな生活」「あげまん」「ミンボーの女」なのだが,今回の特集は「〜の女」シリーズに限られているので,ワシにとって初体験となるのは「ミンボー」だけである。
 あれ? もう一本足りないんじゃないの? とお思いの方は,結構な伊丹映画通の方に限られるのではないか。そう,ワシは確かに「スーパーの女」を映画館で公開早々に見ている。しかし・・・ハッキリ言って,この映画,伊丹十三にあるまじき「超駄作」であって,順位付けすれば7番目に位置するのは確かだが,ワシにとっては,ランク外,という扱いをすべきものなのである。
 この映画は,とある住宅地でスーパーを営む男(津川雅彦)と,その幼なじみのバツイチ女(宮本信子)が主人公で,この二人が,最近の食品偽装問題の主役になりそうな悪徳スーパー(伊東四朗が経営者役)に対抗すべく,「主婦感覚」と誠実さを売り物として対抗していく,という物語である。
 当時,まだ20代のワシが見ていて思ったのは,演出とストーリーがグズグズに生ぬるいということだった。「マルサの女」「同2」で期待していた緊迫感は皆無,「タンポポ」における大時代的なケレン味と文人趣味も抜けており,まるで炭酸と果汁を抜いた,甘味料だけの清涼飲料水を飲まされているような映画だった。ま,今見ればそこそこ楽しめるかも知れないが,少なくとも公開当時のワシの率直な感想は,そのようなものだったのである。そして特にワシをいらつかせたのは,宮本信子が連呼する「主婦感覚」という単語だったのだ。「そのナンとか感覚とやらは,「それだけ」のものなのか?」と。
 学校出てから15年(これは「マルサの女2」に出てきた歌の文句),そろそろメタボ体型を支えきれなくなった腰骨が悲鳴を上げるお年頃になったワシは,同じ年数をひとりものとして過ごしてきた。ズボラな男が大抵そうであるように,ワシも最初は外食とコンビニ弁当中心の生活を送ってきたのだが,カロリー量と味付けが気になるようになってからは,少なくとも朝食はかならず自炊したものを食するようになっている。
 そうすると自然,冷蔵庫にある食材を中心とした生活を送ることになり,毎週末には近所のスーパーで大量の食材確保を行う必要が出てくる。そうすると必然的にそこで購入するものの値段・新鮮さには敏感になってくる。ワシの近所には3つの民間資本のスーパー(もう一つ農協Coopがあるが,ワシは生協アレルギー持ちなのでパス)があるのだが,このうち地元資本のKスーパーは価格面で一番お得ではあるものの,生鮮食料品の質に難があり,残り二つの鉄道系資本のチェーン店は,価格面で少し高めだが質はよい,という特徴を持つ。こうした特徴付けが出来るようになったのはスーパー通いの結果,身についた感覚のおかげだが,これを単純に「主婦感覚」と言ってのけてしまうのは,何か違う,という気が,「スーパーの女」を見た当時のワシも,今のメタボ中年のワシも,している(た)のである。スーパー通いによって身についた感覚全体を「主婦感覚」と定義するとすれば,この主婦感覚,もっと複雑なものを内包しているものであり,正確に言うなら,ビンボーしみったれな人間が自然と身につけざるを得ない,傲慢さと諦めとバカさ加減をない交ぜにした知識体系というべきものなのである。
 食品偽装問題が騒がれるようになる前から,小売りスーパーで扱われている肉や魚,野菜類に関してはかなりの「偽装」が行われているという報道があった。ワシが知っているところでは,TBSの報道特集で扱われていた「タラバガニ」の問題がある。「タラバガニ」として売られているもののうち,かなりの割合で「アブラガニ」という別の種類のカニが混じっているようだ,という報道であった。他にも産地の偽りは肉にも魚にもあるという指摘がある。また,ワシの職場で遺伝子解析の専門家の方の話を聞くと,魚でも野菜でも,遺伝子レベルで解析すると本物ではないものが結構混じっているらしいのである。
 もちろん,偽装をしてはいけないことは当然であるけれど,翻って,じゃあ,毎日の食い物をスーパーで購入するほかないワシらビンボー人どもに,「本物」を見分ける五感が身についているかというと,それははなはだ心許ないのは確かだ。つーか,DNA解析しなけりゃ分からんような代物をどーやって見分けるのさ,とワシらとしては口をとがらせてぶー垂れるほかないではないか。内部告発やInternetの普及によって,不正に対しては昔より厳しい監視の目が及ぶようにはなっているのだろうし,トレーサビリティの重要性は今後も増すであろうが,しかしラベルの張り替えぐらいで利益を増やせるという誘惑に対して超然としていられる人間がそれほどいるのか? と考えると,この手の偽装を皆無にすることはできないだろうと思うのである。
 それに,仮に偽装が皆無になり,全ての食い物の値段がコストに応じたものになっていたとして,ワシらがそれに基づいて「高いブランド品」を買うようになるわけではないのだ。自らの懐具合と,ブランド品が持つ「魔術」を勘案して,高級品と低級品を買い分けるのが普通だ。衛生や健康に即時的な問題が生じるという事態でもない限り,財布の中身と精神的な満足度を秤にかけて日々必要な物を得る,というのが庶民であり,「こんな値段で本物のタラバが買えるわけないよなぁ,どーせアブラガニだろうけど,アブラだって結構うまいし,今日の所はこれにしておくか」というよーな諦観を伴った合理性に基づいて培われるのが「主婦感覚」というものの正体なのである。
 ワシが「スーパーの女」で連呼されていた「主婦感覚」は,それが内包する一部の正義感を強調するためだけに使用されており,それを聞いていたワシは「何か嘘くせー」とカチンときていたのであろう。映画を成立させるためにはそーゆー狭義性も「アリ」とは思うが,それを「アリ」と思わせるにはもう少し演出やシナリオ上の工夫が必要だったのだ。インテリだった伊丹にそれが理解出来ていなかったとはとうてい思えず,恐らくはマーケティング上の戦略として,甘ったるい娯楽映画は主婦向けには行けると考えての映画だったのだろう。
 しかしそれは「主婦感覚」を舐めていた,と言わざるを得ない。そこには「騙されていることを意識しつつもそれを楽しむ」という重要なファクターが抜けていたのだ。エンターテインメントと銘打っているのだから,むしろそちらを重視すべきであり,お気楽な専業主婦が「私向けの映画かな〜?」と見に行ったらトンでもなかった,というものを作るべきだったのである。そして,もしその専業主婦が本物の「主婦感覚」を身につけていたならば,絶対に「面白かったな〜」とウキウキして映画館を出,家でダンナに「こんな映画をみちゃったのよ〜」と報告したはずなのである。興行的には不人気だったというのもむべなるかな,なのである。
 主婦感覚を舐めてはいけない。伊丹十三の不幸は,このことを見誤ったあたりから始まったのではないか,と思えて仕方がないのである。

マンション購入記・・・無印化する内装デザイン

 大体,入居は8月下旬だった筈なのだ。それが9月になった現在でも・・・
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こんな有様である。先日,仕事に来た友人にここを見せたら,「2階建てか?」を笑われてしまった。ちなみに,私が入居を予定しているのは最上階の5階である。・・・悲しい。実に悲しいのである。
 まあデベロッパからは11月には入居できると言われているので(既に3回も延期されているのでどこまで信用できるかは疑問だが),遅くても年越しは新居で迎えられる・・・と信じたい。
 ・・・とまぁ,先行き甚だ不安な今日この頃なのだが,こればっかりは自分でコンクリートをこねて何とかなる話ではないし,あんまり急かせて手抜き工事をされても困るので(チェックの厳しい建築士に設計を依頼したための遅延でもあると説明を受けている),顧客としては待つしかない。居室のオプションもちょっとした和室の設計変更も既に依頼済みなので,もはや先方に言うべきこともなくなってしまい,こっちとしては金の算段以外,ホントーに「待つだけ」なのである。
 仕方がないので,萌えるひとりものは,自分の得意技である「萌えるための想像力」を働かせて,まだ見ぬ新居のイメージを脳内で描いて楽しむ・・・しかなかったのだが,その楽しみも今では殆ど失われてしまったのだ。
 何故か?
 それは,今の住宅内部空間の「無印化」が深刻なまでに進んでいることを痛感させられたからである。
 家を買う,という決断をする以前から,新築・中古マンションの情報を見るのは好きだった。家好きが高じて「間取りの手帳remix」や「Tokyo Style」のようにぼーっと眺めるだけの文庫も買ってしまったぐらいである。学部生の頃,バイトをしていた塾の受講生のバカガキから「女」とあだ名を付けられたほど,私の感性は女性,しかも主婦感覚というものに近いようなのだ。そして女は例外なく,家が好きなのである。
 で,見れば見るほど,内装のデザインという奴は没個性だなぁ,と思わされる。特にバブル崩壊後の失われた10年以後の物件は例外なく,「カウンター付き台所」「全室フローリング」「広々リビング」という間取りであり,内装も全体的に白っぽいものがデフォルトである。
 じゃあ,いわゆるデザイナーズ物件という奴が良いのか,となるとこれも考えてしまう。奇妙奇天烈というほどのものは少ないが,住んで快適かというと×××(ペケペケペケと読んで下さい)なのである。
 つまり,住空間が没個性なのは作る側にあるのではなく,購入者の我々の,住み良い空間という奴への想像力の欠如にあるのだ。試しに,都市型マンションに住みたいという輩に,希望の内装とはどのようなものかを聞いてみるといい。前述の三要素の一つは必ず含まれている筈だ。そして,このような没個性的住空間にフィットするのが無印商品なのである。
 いや,むしろ,無印以外はフィットしない,と言うべきかもしれない。もし無印以外のブランドでしっくりする物品があれば,それはデザインが既に「無印っぽい」のである。無印は家を丸ごと自社ブランドで固めたモデルハウスを全国で展開しているが,実は既に新築物件の大部分は最初から「無印モデルハウス」と言うべき代物なのだ。
 8月下旬に,同じくひとりものの友人(男)が買った一戸建てを見せてもらった。白い壁に淡い色の板を敷き詰めたフローリングの内装は,別段買った本人の趣味ではないようだが,やっぱり無印フィッティングだなぁと思ったが,そこには既に無印のソファとクッション,そしてベッドが置いてあった。げげ・・・しばらく気が付かなかった。
 全く違和感がなかったのである。そこにあるものが無印であることを意識させないほど,部屋に溶け込んでいたのだ。その分,異なるメーカー製造のクーラーや薄型テレビの存在が際立って見えたものだ。
 ああ,やっぱりそうなんだなぁ・・・と私は確信した。そして,新居には無印のベッドを置くしかないなぁと思っていた私の決断が,実は私ではなく,現在の没個性な内装の流行によってなされたものであることを,つくづく思い知らされたのである。
 そーいや,無印って,西武セゾングループだったよなぁ・・・してみれば,私が憎むコジャれたデザインの先駆けとして,25年以上も存在し続けているのだから大したものである。その年月を経て,実は我々の感性は西武セゾンにじわじわと浸食されてきたとも言える。堤清二は経済的に失敗したが,田中一光の精神は見事なほどの成功を収めた訳だ。
 とゆー訳で,田中一光的没個性内装にフィットする家具は無印・・・となってしまって,「家具に萌える」楽しみも失われた今,ひとりものには全くすることがなくなってしまったのであった。・・・待つしかないかぁ。

マンション購入記・・・承前

 「ひとりものの部屋はなにに似ているか? 棺桶に似ていると私は思う。」
 津野海太郎「歩くひとりもの」から
 マンションを買うことにした。もちろん,現時点では,私ひとりで住む予定である。
 独身女性は,ある程度の金が貯まるとマンションを購入する,らしい。何かの統計に基づいた意見というわけではなく,なーんとなくそういうものだと思われているようだ。
 性別は異なるとはいえ,同じ立場にある私にはその気持ち,わからんではない。わからんではないが,その行為は自分用の「棺桶」を買うのと同じように,他人,特にひとりものでない者からは見られてしまうということを,どの程度自覚しているものやら,甚だ疑問である。
 「今度マンション買うんだ!」
 「ひとりなのに? へぇ・・・」
 この「・・・」にはとてつもない同情と憐憫と冷笑が混在したものであることを,ひとりものはきちんと認識しておかねばならない。
 つまり,同情とは「ひとりで寂しいからそんなところに金をかけるしか楽しみがないんだなぁ」というものであり,憐憫とは「誰にも看取られずにそんなところで死んで腐っていくんだなぁ」というものであり,冷笑とは「高い棺桶に入るんだなぁ」というものである。
 そういう厳しい世間様の目というものを意識した上で,それでもなお,ある程度年月を経たひとりものは,金の目処さえつけば,家を買ってしまうことになるのである。たとえ賃貸に住み続けているひとりものでも,「そろそろ買わなきゃいけないのかなぁ・・・」と考える時期が必ずやってくるのである。
 理由は2つある。
 一つは経済的なものである。資産運用,というと大げさだが,年金の行く末が心配な昨今,年齢に比例してある程度は資産を積み上げておく必要はあるのだから,額の多少はあれ,誰しも自分の資産の運用についても考えておかねばならない。そして,資産運用の基本は,まずリスク分散である。株や国債などの証券,現金(預貯金),不動産等にそれなりの資産を割り振って,インフレやデフレの影響を極力少なくする。つーても,たかが知れているが,やんないよりはましだろう。そして,どうせ不動産に投資するなら,ついでに自分の居場所の確保も出来ることが望ましい。
 二つ目の理由は,切実なものである。不動産屋の立場になれば仕方のないことではあるが,どうせアパートの部屋を貸すなら,信用のおける若い日本人を優先したいという心理が働くため,年と共に部屋が借りづらくなるのだ。それでもまだは組織に属して働いているうちは,何とかなるのだ。辞めた途端,手のひらを返したように塩をまかれてしまうことになる。私の大師匠もひとりものであるが,定年になる数年前に,現在も住んでいるマンションの部屋を買い取っていた。「年寄りには部屋を貸してくれないのよ,それで仕方なく」ということであった。また,関川夏央も中年を過ぎてからマンションを買った。これも理由は同じらしい。
 そうこう考えていくと,「ぼちぼち私も・・・」と思っても仕方がないと納得して貰えるであろう。だめ? まだ三十路後半だから早いって? 
 ま,そうかもしれない。でもどうせそのうち買わなきゃならないものなら,今の時期に体験しておくのも悪くはないかと,思ってしまったのである。
 実は数年前にも,良い物件があって,モデルルームを見学しに行ったことがあるが,その時には金銭面の折り合いがつかず断念したのだ。今回は,その時よりは経済的にマシになっており,前回の雪辱を果たせるよな,ということもあって,えいやっと決断したのである。
 決断しても,「棺桶」という言葉が引っかかっている。ひとりものにとっては,何千万の物件だろうと,所詮は棺桶。だけど,棺桶がなければ火葬場にも持って行けないじゃないか。つまり,されど棺桶。
 所詮は棺桶,されど棺桶。
 同じ桶なら踊らにゃそんそん。
 そっか,踊ってみたかったんだなぁ,私。
 マンションを買いたい,と思った本当の理由は,たぶん,そーゆーことなんだろう。

無趣味なひとりものの経済

 富裕層,という言葉がある。一般的に言うところの「金持ち」のことであるが,大体,$100万の資産を持つ人のことをそう定義するらしい。日本円で言えば,約1億円ということになる。Qさんの定義によれば,資産だけでなく月額100万円の自由になるお金がある人もその仲間ということになる。確かにどちらも金持ちと呼ぶことに異論は少ないだろう。ここでは前者を「資産金持ち」,後者を「高給金持ち」と呼ぶことにする。
 ひとりものと一言で言っても,その収入や資産は様々だろう。年収が低いが故にひとりものであるケースもあれば,高くても積極的 or 消極的理由でひとりものであり続けるケースもあるからだ。しかし一般的に考えれば,馬齢を重ねるにつれて,金持ちが一人であり続けることは難しいと思われる。ホリエモンが逮捕されてから,人生は金だけではない,という当たり前のことを言う人間が増えたが,そうは言っても金の量と人を寄せ付ける魅力はかなりの相関関係があり,人と接する機会はおのずと増えるのである。性別に関わらず,多くの人間と接する機会が増えれば,ひとりものから離脱する機会も増えると考えるのが妥当だ。従って,若年者が減少し続けている今の日本では,ひとりもの全体の平均資産・年収は減少傾向にあると言えるのではないか。つまり,金持ちであれば,ひとりものであり続けることは難しく,逆に,ひとりものから脱したいと切実に思うのであれば,異性を追いかけること以上に自身の収入・資産を増やすことが必要なのだ。身も蓋もないことであるが,これは統計的事実なのである。
 よって,中年以上のひとりものの多くは金持ちではない,ということになる。そして私も金持ちではないひとりものの一人である。しかし高給取りではないものの,今のところ自分としては十分すぎる程のサラリーは貰っているので,中の下 or 下の上クラスの平凡な暮らしを維持できている。更に言えば,もし定年まで順調に勤め上げ,現状の貯蓄額を維持することができれば,退職時にはギリギリ資産金持ちになり得るのである。これは数学的事実である。あ,言っとくけど,私の貯蓄額は,友人に言わせると「その年収で,かつ,ひとりものにしてはそれ程ではない」ものらしいので,過大に思わぬように。
 何故そんなことになるのかといえば,それはひとりものであるからとしか答えられない。持ち家もなく,今住んでいる賃貸アパートの家賃を定年まで満額支払ったとしてもせいぜい2000万円未満で収まるし,扶養家族ゼロであるから,子供の教育費も専業主婦(絶滅させるべき人種であると個人的には思う)のメシ代もゼロなので,月々のサラリーすら全額使い切ることが出来ない。どーせ余るならと,積立貯金に余剰分を回しているから,月によってはカツカツだが,年単位で見れば大幅な黒字であることは間違いないのである。
 オマケに,私は金のかかる趣味を持っていない。せいぜい読書ぐらいなもんである。月々マンガ雑誌を2000円,単行本に1万円程度買い込むことが出来れば満足な人間であるから,無職になって収入がゼロになっても生活保護貰って公共図書館に毎日通っていれば満ち足りた生活が送れること間違いないのである。
 SEXの処理? そんなもん,ヤらせてくれる女性がいなければ,センズリでごまかす他ないに決まっているのである。古谷三敏の名作マンガ「寄席芸人伝」には,ケチの王道を行く万年二つ目が登場する短編があるが,この主人公は当然独身である。何故かといえば,「センズリはメシをくわねぇ!」からであるとか。私はそこまで達観できない「なりゆきシングル」であるが,この台詞は客観的真実と認めるほかない。この主人公と私の共通点は風俗に出かける趣味を持たないことぐらいであるが,理由は異なっている。この主人公はケチを通すためであるのに対して,私は単に度胸がないだけである。
 そんな訳で,私は今のところは金の使い道がなく,資産金持ちへの道を着実に歩んでいるのである。あ,石投げないでよ,まだ続きがあるんだってば。
 しかし,いいことばかりではない。私のようなしみったれのひとりものにとっては,高給を目指す動機付けが乏しいから,高給金持ちになることは難しいのである。子供や専業主婦という,どうやっても金食い虫になる要因は「愛」という厄介な太いワイヤーで結ばれているからそう簡単に捨てたり出来ない。だから,愛つき金食い虫を抱え込んじゃうと,高給取りとまでは言わないものの,彼らを養うだけサラリーは稼がねばならない。稼ぐためには出世を目指すほかなく,それが高給金持ちへの強力な推進力となるのだ。逆にそれがないひとりものは,よほど人生を賭けるだけの金食い道楽を持っているならともかく,そうでないなら日々過ごすに足るサラリーを貰っている現状の維持で十分で,せいぜい資産金持ちを目指すぐらいが関の山なのである。従って,中年以上でひとりものの高給金持ち,という存在はかなり稀有な部類と言える。たまーにそういう人間がいるらしいが,バツイチでもなく,清廉潔白な仕事を持つその手の人間が何を考えて日々過ごしているのか,私は大変興味がある。ぜひインタビューなどしてみたい。
 で,何が言いたいかというと,対した趣味のない,そしてこの先ひとりものを脱却する予定もない中年人間にとっては,資産金持ちを目指す,という生き方もそれ程悪くないのではないか,ということなのである。家を持つもよし,株を買うのもよし,芸術に走るもよし,現金を眺めるのもよし,何か自分なりの目標を持って生きることは絶対に必要なことであり,ついでに将来自分を身を守る手段としても,資産を増やすということは,人並みの老後を送ろうとするひとりものにとって必修なのではないか,とね。ま,自己肯定って奴ですね。
 実際,資産金持ちを目指すといっても,この先の人生,そう順調に行くわけがないのだ。この先,ひとりものを脱却する見込みは少ないものの,年を取れば医療費もかさむだろうし,悪い奴に騙されることもあるだろうし,せいぜい終の棲家が得られるぐらいの資産が残ればいい方であろう。しかし,ベクトルの向く角度をぐっと90度に近いレベルに維持することで「張り」が違ってくるのだから,今のところ,最後は資産金持ち,というゴールを目指す方針を変更するつもりはないのである。