菅野彰×立花実枝子「あなたの町の生きてるか死んでるかわからない店探訪します」新書館

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-22049-5, \800

あなたの町の生きてるか死んでるかわからない店探訪します
菅野 彰文 / 立花 実枝子絵
新書館 (2007.1)
通常24時間以内に発送します。

 酒井順子が「負け犬どもよ,仕事に生きよ」と高らかに負け犬党宣言して以来,世の負け犬,つまり仕事持ちの独身女性達は,マルクス酒井の教えを忠実に守り,身の危険も省みず,勝ち組への道を歩んでいる。で,以前より更に負け犬達から相手にされなくなったオスの負け犬どもは,相変わらず日本の少子化に拍車をかけつつ,自らの不満をコメントもトラックバックも受け付けない無愛想なblogに書き付けるしか手がなくなってしまったのである。
 菅野彰(すがのあきら)と立花実枝子(たちばなみえこ)はそんな負け犬(と言うにはまだ若いのかな? 特に後者は)党の忠実なる突撃隊であり,正に身を挺して,この日本の社会問題に深く切り込む名エッセイをものにしたのである。この僥倖に接することのできたワシは,是非ともこの感動を全世界の日本語を解する方々と分かち合うべく,本記事を配信することを決意したのであった。
 日本の中小規模の市町村中心街における商店街の衰微は,地方と大都市との格差を象徴する視覚物としてメディアに取り上げられることが多い。実際,ワシが現在住んでいる静岡県西部の人口10万程度の小都市でも,ここ十数年来,駅前商店街の寂れ方といったら凄まじいものがあり,休日の昼間の寂しさといったら,オスの負け犬の寂しい神経を逆なでしちゃう程なのである。そこを散歩しながら,ああこれが有名な「シャッター通り」という奴なんだな,と妙な感心をした覚えがある。
 ところが,平日昼間に有給休暇を取って,同じ商店街を歩いてみると,これが何と,死んだと思っていた商店の半分ぐらいは煌々と明かりをつけ,営業しているではないか。かつてのスーパーらしき廃墟・・・と思っていたバラックが主婦の店しているのを見ると,まるで大東亜戦争後の廃墟から立ち上がって活況を呈している闇市のようである。つまり,殆ど瀕死状態と思われていたこの商店街はまだ半死半生状態であり,いまや絶滅危惧種たる専業主婦のライフスタイルに合わせて営業していたのであった。この21世紀のグローバリゼーションが進みつつある現在において,かようにドメスティックかつクラシカルな商売がかろうじて成立しているのは,いかなる事情によるものなのか?
 一言で言うと,彼ら商店主は

やる気がない

のである。山っ気がない,というと褒め言葉になるが,彼らは単純に自らの国民年金を補うぐらいの食い扶持があればいい,と思っているだけなのである。大体,ワシの居住するこの中程度の都市は,大企業の工場が結構集約されており,人口自体はわずかながらも増えているのだ。かつて駅前にあったユニーが国道沿いに移転してしまったことが商店街衰微の直接的原因であるのは確かだが,それなりに人口規模がある場所において,しかも駅前という一等地にあることを考えれば,商売が成り立たない筈がないのである。大体,この21世紀の日本において,土日は営業しなくていい,とふんぞり返る神経が信じられない。共働きのサラリーマン家庭に背を向けて商店街活性化など片腹痛い。やはりこれは
やる気がない

と判断せざるを得ない。そしてそーゆー
半死半生な店

を多数抱えた商店街が本当のシャッター通りと化すのは,至極当然のことなのである。
 そこで疑問が沸くのだ。やる気のない商店の生死をどのように見極めることができるのか。特にそこが飲食店である場合,生き死にを判断する基準は,単に営業しているかどうかを見るだけではダメなのだ。
注文を出し,食ってみる

ことでしか,分からない真実というものが厳然として存在するのだ。日本には一応,食品衛生法なるものがあり,保健所の検査というものがある筈なのだが,それが有効に機能していないケースがあるようなのだ。更にいうなら,衛生的に合法的であっても
味覚的に非合法

なケース・・・これは相当存在すると思われる。そして多くの場合,これが原因となって客が引き,店主のやる気を殺ぎ,店の生死が不明確となるようなのだ。
 ・・・とまあ,かように文章にしてみれば,当たり前のことなのだが,この事実を身をもって証明した,奇跡の体験エッセイをまとめたのが本書,即ち「あなたの町の生きてるか死んでるかわからない店探訪します」,略して「生死探訪」なのである。これを読むことによって,ワシは自らを被験者としてこの事実を体験しなくて良かった,と心底安堵したものである。だから,読者に対して「生死不明の店をめぐるスタンプラリー」というキケンな企画を立てるのは,是非とも止めていただきたいのである。
 彼女らは,かような生死不明の飲食店の生死を決定すべく,立ち上がったのである。攻・・・じゃないBL小説家・エッセイスト・菅野彰,受・・・じゃない漫画家・立花実枝子は,ウンポコの締め切りを間近にしてエッセイの企画に悩み,友人・月夜野亮に助言を乞うたのである。そして,月夜野は恭しく御宣託を彼女らに下したのだ。
半死半生の飲食店の生死を見極めよ

と。後の始末は・・・読者自ら本書を購入され,確認されたい。
 恐ろしい・・・何と恐ろしいことをするのだ,この負け犬共は。ワシのような小心者のオスの負け犬は,このような行為が蔓延し,日本の少子化と地方商店街の衰微が更に進展しないことを祈るだけである。

3/21(水・祝) 東京->掛川・晴

 昨日・本日は神保町と秋葉原で久々に物欲が爆発し,一万円の図書カードと樋口一葉女史一名が行方知れずとなる。あんまりにも買い込みすぎたので,宅配便サービスを利用する。
 12時に浅草へ行き,久々にブラック師匠の独演会を堪能しようとするも,例の立候補に関して注目が集まったせいか,あのタダでさえ狭い小ホールに120名近くがすし詰め状態となる。ワシは運良く最後列の椅子に腰掛けられたが,中程の座椅子に座った方々は四方八方身動きが取れない状態になる。ま,ブラック師匠も気を使って2時間40分の熱演,古典3席(あの「桃太郎」を古典と言うべきかどうかは微妙だが)とこれから選挙活動に向けて封印するというネタを披露してくれたのでよしとしよう。・・・げ,もう今日の高座の音声がupされてる安達先生,仕事早いな~。
 16時過ぎに大師匠の所へ顔を出し,最近の仕事を報告。今年は大師匠の精神を少しは受け継ぐ研究を進める予定なので,その承諾も得させて頂く。
 さて,22時過ぎに掛川に帰ってメールをチェックしてみると,
 ・青春の残滓33箱を売り飛ばした古本屋から,到着の連絡メール
 ・青春の残滓の残りカス7箱を寄贈した所から,到着の連絡メール
 ・SciCADE07へのsubmit,あっさり通ってしまった。「だからサッサとregistしろよ」とだめ押しされる内容のメール
 
が届いていた。ふー,これで明日からは仕事に邁進せねばならぬな。ここ5年が勝負だと思っているので,気合いを入れて頑張ろう。とりあえず,3月中に論文一本仕上げて投稿せねば。
 うーん,鴨志田穣さん死去。最近,アル中治療が終わってサイバラ家に戻って幸せに暮らしていると思っていたら・・・。ご冥福をお祈り致します。今日のコラムの花道で勝谷さんが追悼していた。
 寝ます。

3/20(火) 掛川->東京(予定)・晴

 予定通り,青春の残滓の残りカスである段ボール7箱を先方へ発送する。先方にはいつ送ったらよいのか,お伺いを立てていたのだが返事がないので問答無用で送りつけることに。まあ良いわ,これで青春の残滓の残りカスの絞り汁までなくなったワイ。とはいえ,青春の(中略)の気配ぐらいは残してあるけどな。
 それにしても,さすが段ボール40箱を越える分量のものがなくなると,すっきりするモンである。昔,高橋留美子のエッセイマンガで,腐海と化した仕事場を掃除した後,「おおっ,まっすぐ歩ける!」と感動しているシーンがあったが,ワシも今,同じ感動を味わっているのであった。
 その後,アパートの部屋に掃除機をかけたりあれこれ買い物したり銀行へ行ったり灯油を買ってきたりしてドタバタしながら,先日,当研究室のお二人に取ってきて貰った小生御大の映像をDVDへ落としていたりする。これが終わったら新幹線に乗り込むのだ。
 ・・・が,今日といい昨日といい,運動不足と中性脂肪だだ漏れの中年親父には疲れる作業や行事が満載だったので,もう疲労のピーク。このままホテルにチェックインしてシャワー浴びたら2時間ばかり昼寝する予定。だめだ~,疲れた~,でも行く。
 では行ってまいります。

3/19(月) 掛川・?

 昨日から作業を開始し,本日午前中に,全ての青春の残滓をクロネコヤマトに託すことができた。しめて段ボール33箱。ゆっくり別れを和む,などという詩的な時間を持つ余裕などなく,ひたすらクソ重い段ボールを,屈強なクロネコ3人に託すだけである。送り先(神保町の某書店)にメールを出して,この件は落着。
 が,勢いというものは急には止まらないもんで,この機会にと一気に青春の残滓の残りカスを束ねて括って古紙再生業者の所に持っていった。これで後は寄贈する某雑誌(創刊号から10年分)を明日7箱出せば,きれいさっぱり,ワシの青春は霧消するはずである。・・・単に古雑誌・古本を整理しただけなんだけどな。
 午後は,移設したPentium III clusterのcablingをキレイにやり直し,戻ってきた英文校閲の膨大な,文字通りの赤字を眺めつつ,某国際研究集会用のabstractをボチボチ修正。いい加減いやんなった頃,先方へメールしてsubmit処理完了。screeningされるので,落っこちたら行かないだけで済むが,受かっちゃうと補助金申請やら出張届けやら休講・補講の処理やら面倒なことが多数待ち受けているのだなぁ。ま,来週には結果が判明するじゃろ。
 夕方からは,関西の大学へ移られる先生の送別会に出席。卒業生も乱入してとても賑やかになる。中締めと共にサヨナラして,ワシはひとり帰宅したのであった。
 明日は東京・・・へ行く前にあれこれ処理しなきゃな。重いものを持つやら立ちっぱなしで40本ものtwisted pair cableと格闘するやらで腰がだるい。明日遠出した途端に腰骨が崩壊・・・なんてことにならなきゃいいが。
 腰を休ませるために寝ます。

吉本敏洋「グーグル八分とは何か」九天社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86167-146-9, \857

グーグル八分とは何か
吉本 敏洋著
九天社 (2007.1)
通常2-3日以内に発送します。

 アマゾンの書評を見る限り(2007年3月16日(金) 20:29時点),本書に対する評価はまっぷたつに分かれている。支持する向きは本書が「Google八分」なるものを公の場にさらしたことを評価し,そうでない向きは著者の一方的な感想を書き連ねただけの本だと批判する。
 ワシの結論は,

両者の言い分はどちらも正しい

ということに尽きる。本書を読むことなしに「Google八分問題」を語ることは,他に類書が少ない今の時点では片手落ちと言わざるを得ない。しかし,本書の言い分だけで「Google八分問題」を結論づけてしまうのもまた片手落ち,なのだ。
 著者は,その筋では有名なサイトである「悪徳商法?マニアックス」を主催する管理人beyond氏である。サイトの文面や本書の記述を読む限り,飄々とした2ちゃんねるのひろゆき氏とは正反対の熱血漢とお見受けする。そして,詐欺的な商売をする輩を糾弾する姿勢,度重なる圧力や抗議にもめげず,サイトを維持し続けている姿勢は尊敬に値すると,これはイヤミでもなく褒め殺しでもなく,そう感じる。
 そして,本書を書くきっかけとなったGoogle八分は,この著者のサイトの情報に関連して起こったものであった。実際,「悪徳商法?マニアックス」でGoogleると今でも(2006年3月16日(金)現在),削除された情報がある旨が検索結果の下に表示される。どうも,著者のサイトにある某詐欺的商法の情報に対して抗議を受けた事による「Google八分」であるらしい。
google_8bu_for_akutokushouhou20060316.png
 著者はGoogle日本法人への問い合わせを行い,名誉毀損の疑いありと判断されてしまったことを確認したが,どのように該当ページを修正すれば再掲載されるのかを問うてもはかばかしい返事は得られない。佐々木俊尚氏がこの件に関してGoogleにインタビューを行った結果,Googleとしても判断を迷った削除であることは判明したものの,上記のように,今現在もGoogle八分状態は変わっていないのである。
 本書にはそれ以外のGoogle八分事件が紹介されているが,中国政府による検閲・朝日新聞による削除養成に関する報告を除けば,大部分のGoogle八分の事例は「悪徳商法?」に関連している事例である。それに気が付いたあたりから,ワシは「これは・・・自分の受けた被害を肯定する資料を積み重ねるだけの本か?」という疑念がついて回り,本書のタイトルから受けていた「Google八分問題を総合的視点から議論する書」というイメージがガラガラと崩れるのを感じたのである。
 従って,
議論の底が抜けている

という印象を受けた読者が批判的な書評をするのは,至極自然な成り行きなのである。
 第4章の「グーグル八分と表現の自由」では,弁護士と図書館協会の方にインタビューを行っているが,ここが本書で最も議論が開かれている部分である。ここがなければワシは本書を「Google八分が理解できる本」として紹介することはなかった。そして,このお二人の話を総合して
 ・Google八分の問題は,そもそもサーチエンジン市場におけるGoogleの占有率が高いことに起因している
 ・Googleは情報を削除する基準が曖昧であり,それ故に「表現の自由」を犯す危険が高い
 ・Google八分そのものが悪いというのではないが,可能な限り,情報は検索・閲覧できるようにしておくべきである
という,かなり多くの賛同を得られるであろう主張を取り出すことができるのである。逆に言えば,この辺を立脚点にして議論を進めていけば,Amazonの書評のように評価が分かれる本にはならなかったのではないか。更に逆に言えば,このような客観的な視点が少ないということが,本書の一番の特徴であり,好き嫌いの別れるところなのであろう。
 個人的には,「そもそも何でGoogleだけが情報削除を叩かれるのか?」という疑問が拭えないのだ。それを言い始めると,Yahoo!のカテゴリに自分のサイトが登録されないなんてことは日常茶飯事なのに,何で問題にならないの?,という反論がされるに決まっている。実際,前述の最初の論点に挙げたように,確かにGoogleのシェアは高くなってはいるが,アメリカでも約47%,日本ではトップがYahoo! Japanの約62%で,Googleは本家とあわせても28%に過ぎないという調査結果がある。現状,日本では,ことさらGoogleの「八分」だけを問題視する客観的理由は薄弱なのである。中国の有力サーチエンジン「百度」が近々日本にも上陸するらしいから,今のうちに独占禁止法的な枠組みを議論しておく必要はあろうが,基本的には私企業に対して,商売を度外視して「表現の自由の番人たれ!」とせっつく主張がどこまで強制力を持っていいのか,ワシにはよく分からない。
 してみれば,本書はやはり自分のサイトがGoogle八分されたことによる「私憤」をぶちまくための場なのであろう。しかし,全ての「公憤」は,「私憤」を種として発芽し,そこに第三者の共感を得て育っていくものである。本書は,かなりひん曲がっちゃってはいるものの,第4章の助力も得て,私憤が育った苗にはなり得ている。これがそのうち巨大な,それこそクローバルスタンダードとしての公憤の大木に育っていくのか,それとも著者個人とその周辺だけの私憤として収束していくのかは,ワシにはこれもよく分からない。
 しかし,今のサーチエンジンの周辺事情に興味のある向きは,必ず読んで,手元に置いておく必要があるだろう。そして,年月が経過した後,再び本書を紐解いて,著者の主張がどのような結果に結実しているかを確認すべきである。世の中には時間でしか解決できない物事が山ほどあるが,たぶん,著者が投げかけたのも,その中の一つなのである。