ふひー,何とか講演とポスターセッションを終えて無事帰宅しました。
ああシンドぉ~。これで次週の京都行きを終えれば死のロードも終了である。もーこれであと2週間はどっこも行かないぞ。自宅と職場と浜松の往復だけで平穏無事に過ごすのだ。
今回の情報教育研究集会の会場は広島大学東広島キャンパス。広島市から近いのかと思ったら,最寄り駅は西条。広島駅から普通電車で30分以上もかかる。その上,西条駅からバスで20分ほど走ったところにある山の中なのである。
金沢大学もそうだったが,老朽化した建物群を修繕するのではなく,キャンパス丸ごと郊外へ移転というパターンのようだ。旧帝大のように歴史としがらみがあって,図体がでかいと,そうそう引っ越しはできないが,そうでない国立大学は政治の都合でホイホイと移転させられちゃうんだろうなぁ。建物が新しいのは結構だが,こう遠いと・・・ねぇ。
風呂入って寝ます。
11/24(金) 掛川->浜松->広島・?
広島の小ぎれいなビジネスホテルでこれを書いている。できて間もない新築らしく,フロントから部屋の中に至るまで全てピカピカ。最近のはやりなのか,大浴場(人工カルシウム温泉だそうな)があったので,ざぶんと浸かり,ヒトゴゴチついてこれを書いている。
最近はどこのホテルにも無線・有線LANが整備されているが,OCNがやたらに多いような。このホテルもOCNだし,先日の函館で泊まったホテルもOCNだった。まあワシもOCN会員だから帰ってありがたいぐらいだが,インターネット勃興期にはあれほど乱立していたISPも,大手の寡占化が進んじゃったのだなぁ,と時代の流れをつくづく感じてしまう。
何とかポスターを印刷し,PPT資料を名古屋から広島まで乗ったのぞみ車中でっち上げた。しかしPPT資料はスカスカのいい加減なもの。明日の講演までに少しはブラッシュアップしなきゃなぁ。
広島までの往復乗車券を買ったら,広島エリアは特定都区市内エリアの設定がされていることに気がつく。山陽本線岡山方面では瀬野駅がその一番端にあたるようだ。会場は西条からバスなので,帰りの切符は瀬の駅まで買えばいいわけね(ケチくさ)。
お,イグノーベル賞候補研究。是非とも日本の科学技術研究に足りないギャグ成分を若人に培っていただきたいものである。
さっさと寝て英気を養います。
11/22(水) 掛川・?
わーっ,査読締め切り忘れてた~・・・訳ではなくって,ずーっとここ一週間ほど間欠的に悩んでいたのである。だーかーらー,ワシにボーダーライン上の論文査読させるんじゃないっ。決断力がないんだからさー,グズグズと時間だけが過ぎていくんだってばさ。
ボーダーラインってのは2種類あって
A) 面白い提案だが,論拠が不十分
B) 面白くも何ともない提案だが,論文の書き方はバッチリ
のケースに限られる。大部分の論文はBにカテゴライズされ(ワシのものも含むがね),まーよっぽど人の剽窃っぽいものじゃなければ,rejectする理由がないので,グダグダ難癖は付けつつも,大概オッケー(条件付き採録)となる。
問題はAのケース。今回のはそれだった。面白さの基準ってのは美術評論とかSEXの相性みたいなモンなので,個人差が非常にでかい。だから,査読者によっては評価がまっぷたつに分かれることも珍しくない。「面白くない」と評価されればボーダー外で即rejectだが,「面白い」となれば,後は論拠の不十分さがどの程度かで判断することになる。全面書き直しが必要だなぁ,となれば惜しいけどreject,部分的な追加や修正で何とかなりそうなら条件付き採録となる。
とゆー訳で,今回のワシの判断は「全面書き直しが必要」ってことで,残念ながらreject。数値計算法としては難点がいっぱいありそうだけど,提案そのものは弄くりがいがありそうなので,もったいないとは思うものの,まだ数値例での検証が不十分で,解法が正しいかどうか判断しかねる,この次を期待します,ってことですね。
しかし判断は分かれそうだなぁ。理論屋さんは条件付き採録と判断するかもしれないし,最終判断がどうなるかはメタレビューアのS先生次第だなぁ。ま,やることはやったので(締め切り過ぎたけど),後はよろしくお願いします。
ぐわー,今日の午後はポスターセッション用のポスターの印刷だった。まだポスターの影も形もデータもないぞ。ってことで早速出勤して頑張ります。
11/20(月) 掛川・?
ぱっつんぱっつん状態未だ去らず。あああ,明日にはe-Learning教材のビデオ撮りして会議出てデータ取りして25日のプレゼン資料とポスター作って22日には印刷して・・・ダメだ,もうワシはダメだ。
へー,三菱東京UFJ銀行がコンビニATM手数料を無料化ねぇ。地方銀行は以前からやっておったが。都市銀行もやっと重い腰を上げたか。
PC Watch 10th Anniversaryだそうな。月日が流れるのは早いなぁ~。早朝の秋葉でWindows 95を購入してからもう10年以上にもなるのか。そのわりにゃぁ,何か革新的な事が出来るようになったとも思えないのだが。湯水の如く,マシンパワーをつぎ込んだ計算をするようになったぐらいかのう。すっかり老人気分。
へー,慶応が共立薬科大を吸収ねぇ。ガタイが違いすぎて合併とは言えないよな。慶応クラスなら単独でも薬学部ぐらい作れそうなもんだが,文科省が大学定員をガッチリ押さえ込んでるからねぇ。吸収するのが手っ取り早いか。
大学もそのうち銀行のように,「日東駒専大学」とか「大東亜帝国大学」(弱者連合かよ)になってしまうんだろうかねぇ。まあワシとしては研究と教育と給料さえ貰えれば名前なんかどーでもいいけどね。
ダメなので寝ます。
得能史子「まんねん貧乏」ポプラ社
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-591-09509-6, \1000
このエッセイ漫画を発見したのは,いや,正確に言えば,発見「させられた」のは,先日訪れた札幌の,程なく閉店するという書店においてであった。
この書店は,2階が漫画専門フロアになっているのだが,ここの品揃えは全国的に見ても面白いものであった。今や落ち目になっている漫画家や,ほとんど無名と思われる漫画家の作品が妙に目立つ配置になっていたりして,高校生の頃からちょくちょくチェックさせてもらっていた。いや,勉強させて頂いていたのである。
本書もそこでドカンと平積みになっていたのである。特等席ではないものの,一番店の奥の台に,この白い,それでいて何か惹かれる絵の表紙のこれが積まれていたのであった。
不幸にしてその時ワシはあまり持ち合わせがなくてスルーしてしまったのだが,本日(11/18),紀伊國屋書店新宿南店にて本書と再び邂逅したため(平積みではなかった),無事ゲットして,帰りの新幹線車中で読了したという次第である。これは札幌の閉店書店がもたらした「縁」という他ない。
札幌で本書を手にとって気に入った理由は四つある。
一つは,著者の得能(とくのう,と読む)がワシとほぼ同年配の女性だったということである。大体,どーゆー訳か,自分の生年すら明らかにしない女性漫画家の何と多いことか。特にBL系は惨憺たるもので,そんなに三十路過ぎて男×男を描くのが恥ずかしいんだったら描くのを辞めたらどうか,というぐらい多い。それに引き替え得能のこの開けっぴろげな態度は素敵である。
二つ目は,最近結婚した相手がNew Zealerにも関わらず,それを一切ネタにしていない,ということである。こんなおいしいネタを持っていれば,ポプラ社の小栗左多里にもなれるというのに,何と慎ましいことか。・・・最も本書がそこそこ売れて,続編が執筆されるとなれば変わってくるのかもしれんが。
三つ目は,絵がうまいということである。今日日,女性のエッセイ漫画家は掃いて捨てるほど出版されており,絵の巧拙は,素人に毛が生えた程度から,西原理恵子,黒川あづさ級まで,天と地の差がある。もちろん,それと内容の面白さは別物であるが,読者だってそう安くない金を払って本を買うのであるから,絵がうまいに越したことはないのである。
得能の絵は,2~3頭身の丸くて簡素なものであるが,立体を立体としてキチンと捕らえており,それでいて適度な湿り気を感じさせる優れたタッチも備えている。本書が刊行されることになったのは,ポプラ社の編集者が偶然,Webページに掲載されていた得能の4コマ漫画を発見したことが切っ掛けとなったのであるが,編集者の「目に止まった」ということが,絵の魅力を物語っているとも言える(たぶん)。カラーページは皆無な愛想なしのエッセイ漫画であるが,多分それはこの描線の持つ魅力を最大限引き出すための仕掛けであって,決して得能がメンドクサがったわけではないと思いたいのだがどうなんだろう。
しかし,最大の理由は,何と言ってもタイトルにある通り,自分のビンボウ暮らしを描いている,ということである。
今日日,日本社会,いや先進諸国は「下流化」「二分化」が社会問題のパラダイムになって久しく,それを冠した書物は沢山出版されている。しかし,「下流」人間の当事者からの生の声を,2,3行のインタビューの抜粋ではなく,ごそっと固まりで差し出してくれるものを,ワシは見たことがなかった。本書は20代から30代を「フリーター」として,本人曰く「人生をなめてかかって」過ごしてきた下流人の生の声が詰まっている希有なものなのである。
多分,編集者も著者も,ライトなエッセイ漫画を描いて出版したつもりなんだろうし,概ねそのような記述が多いのだが,結構,ちくちくと胸を刺すエピソードがちりばめられていて,三十路過ぎのフリーターに対する世間の厳しさが伝わって来るのである。その結果,ワシにとってはとてもライトエッセイ漫画と呼べる代物ではなく,得能の丸い自画像の,欠けたラグビーボールのような目の奥に潜む,マリアナ海溝より深くて暗い何かを見てしまったような,そんな大仰な形容詞を使いたくなるような感想を抱いてしまうのである。
一番うるっときたエピソードは,小銭を貯めて美容院に行く話である。内容は本書を読んで確認して頂きたいが,ワシはこのユーモラスな記述の奥にある,悲しみの大きさに感動してしまったのであった。これって,勝海舟が貧乏だった幼少の頃,餅をもらいに行った帰りに落っことしてしまい,それを拾おうとして自分の惨めさに気が付き,餅を川に投げ捨てたっていうエピソードとよく似ているんだよなぁ。大金持ちでもない限り,誰しも似たような「惨めさ」は味わっているのではあるまいか。
貧乏とは,金がない苦しさではなく,将来に対する不安だ,というのは誰の言葉だったか。簡素な絵でそれを背後に感じさせてくれるこの作品は,一定レベル以上の画力があってこそのものである。得能の「だらしない私を笑って」というへりくだった態度は日本の強固な伝統に基づくものであるけれど,多分,「だらしない私」を一番いとおしく,悲しみをたたえた存在であると知っているのは,得能自身なのだ。そして,それに共感している同世代の中年たるワシも,収入の違いこそあれ,「だらしない私」を抱えていること間違いないのである。
ワシの考え過ぎなのだろうか? それは本書を御一読の上,各自で確認して頂きたい。
