内田樹「ためらいの倫理学」角川文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-370701-0, \629
 学者さんの書いた本は文章が晦渋で分かりづらいものが多い,と巷間よく言われる。ま,ね,一昔前,研究室でふんぞり返っていられた時代なら,それは権威の象徴を高める小道具になったかもしれないが,今は全く逆である。いかに分かりやすく,しかも内容のレベルを落とさずに語れるか,その能力が学者先生の評価を定める基準となっているのである。
 問題は,そーゆー,分かりやすく人に伝える文章を書く訓練を,大学とゆーところは全く教えてはくれなかった,とゆーことにある。せいぜい「ゆー」ではなく「いう」と書け,という「てにおは」チェックレベルが,卒論指導で行われる程度であった。故に,分かりやすい文章を書く能力は,分かりやすい文章をたくさん読んで自学自習で習得せねばならなかったのである。
 そこで本書の著者,ウチダは「小田嶋隆」を学習し,その結果,分かりやすい文章を身につけるに至ったのである。よって,随所にオダジマ風文章が出現することになった。
 オダジマ風文章の特徴に,吐き捨てるような短いセンテンスで改行し,ハードボイルドのパロディ的な雰囲気を出す,というものがあり,本書でも至る所で出現する。例えばP.236の
 これではブランショ的な無限後退だ。
 「おれは自分の背中を見られるぜ」
 「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
 「というおまえの背中を俺は・・・」
 うんざりだ。
 やめよう。
なんてのは正にそれである。論理的な文章の最後の締めがこれぐらいピッタリ填ってしまうと,お見事としか言いようがない。
 解説の高橋源一郎曰く,「極端ではない思想」が詰まった,コヤノが言うところの「中庸」が徹底しているオダジマ風思想書は大変に面白い評論集であった。んが,それは「極端」を知っていなければ面白がれない代物ではないかという気もする。商業的にはやっぱり薬より毒を持っている方が重宝がられるから,たくさん読むと「ああやっぱりどっちつかずの結論ね」と飽きられてしまいかねない。保守と革新(というくくりももはや有効ではないような気がするが)のどちらにもなじめず,「ああ,俺はどっちつかずの人間なんだ」と気が付いた時に本書を読めば,「それもありなのね」と気が楽になる。が,たくさん読んでは飽きてしまう。適度に服用してこそ役に立つ思想の常備薬,というのが,私にとって一番ピッタリ来る表現である。