6/23(日) 駿府→掛川・曇時々雨

 朝っぱらからどんよりしてな一日。梅雨らしくジメッとした重苦しい空気が漂うが,暑さはさほどでも無し。夏の太平洋高気圧が蒸し暑い空気を運んでくるのはまだ先になりそうである。

 Windows 10 1903へのアップグレード,こちらの Tweetに書いた通り

という結果になった。昨年買った F通マシンに何故か1903がやって来ないのである。まぁこれは待つしかない訳だが,どういう順序で1903が回ってくるのか,神ならぬ MSしか分からんわな。つか,MSすら把握できてないかもなぁ。

  Blue Screenになったのは,BootCampを仕込んだMacBook Air 2011。前々から Windows 10環境下でSkypeがコケるなど,挙動が変だったので,いよいよハードウェア的にダメになったのかと思い,最後にmacOS環境を復帰させてHigh Sierraにアップデートしたら何のことは無い,シャキシャキ動くじゃないの。

 そろそろ新しいMacBookが欲しいなぁと思っていたが,この古いAirが使い物になりそうなので,当分お預けかしらん。Mojaveなんて要らんしな。

  やはりMacはmacOSで使うべきなのであるな,と認識を新たにした日曜日でありました。

 風呂入って寝ます。

「あがってしまった」年寄り問題

 先週書くつもりだったが,締め切り仕事に追われて遅くなってしまった。何とか「UNIXマガジン」のバックナンバーを漁って該当のエッセイを見つけたので,忘れないうちに書いておくことにする。

 「あがってしまった」研究者,特に役職の上がった年長者について述べている故・山口英の「UNIX Communication Notes 120」(UNIXマガジン 1998年6月号, pp.11-19)の当該箇所を以下に引用しておく。

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老け込むには早すぎる

 私の周りで,研究環境の現場から離れ,プロジェクト・マネージメントの仕事をするようになってしまったエンジニアや研究者に対して「あの人はあがってしまった」と言う輩が多い。大学では,研究グループを率いていた教官が,大学や学会の仕事が増えるにつれて研究現場から離れがちになる。そのようなとき,口の悪い学生が「あの先生はもうあがっちゃってるから,直接指導を受けられることはめったにないね」というふうにつかう。

 先日,私の研究室の学生たちと,”あがってしまった研究者”の特徴をめぐって語り合う機会があった。議論百出だったが,情報工学分野ではプログラムを書かなくなるのが最大の特徴だろうという結論になった。たしかに,忙しくなるとプログラム開発にまとまった時間が割けなくなる。プログラムを書く時間がとれない研究者は,明らかに”あがってしまった”と言えるだろう。

 持ち歩いているラップトップPCにWindows95だけインストールし,

・電子メールの処理
・ワードプロセッサと表計算ソフトウェアを駆使した予算書作成や経費計算
・プレゼンテーション・ツールによる資料の作成

だけのために使っている研究者も”あがっている”と多くの学生が指摘していた。

 振り返って自分自身のことを考えると,最近はPerlを使ってちょっとした処理をするプログラムを書いたり,あるいはLaTeXのマクロやスタイルファイルを作るぐらいしかできなくなってきた。さいわい,他の人が書いたほかの人が書いたプログラム・パッケージを読む機会はまだまだ多いが,C言語で大きなパッケージを書くような時間はほとんどとれない。持ち歩いているラップトップPCの用途にしても,学生たちが挙げた条件にぴったりあてはまってしまう。彼らの指摘が私の現状を言い当てているような気がして,胸にグサリとくる時間であった。

山口英, UNIX Communication Notes 120, UNIX Magazine, ASCII, 1998.06.

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 「Windows95」とか「Perl」という用語が出るあたり,20年前という時代を反映しているが,内容的には今でも十分通じる。大体,50過ぎたあたりでデカいライブラリを書くような仕事はそうそうできなくなるってのは当たってる。体力に加えて集中力も落ちるし,何より新しい物事を咀嚼して受け入れることが苦痛になってきたりする。頑迷固陋に自説に固執して専門家仲間からは相手にされなくなる(批判するだけ時間の無駄だから無視がデフォルト)のに,それがかえって世間的にはbuzzったりするとトンデモ退治が厄介だ。とかく「あがっちゃった」研究者は,社会的な影響力はある分,メンドクサイ存在になり果てるものである。

 人は誰しも年は取るし,大なり小なり「あがってしまう」のはやむを得ないが,組織内でも結構な問題になったりするのは困りものだ。何より,ワシがいるような小規模な組織では,学生数は少ないしスタッフのなり手もいないし,頼りになるのは研究室を主催する教員の個人的な頑張りだけだったりする。プログラミングテクニックが多少落ちようが,アイディアをきちんと動作するコードに落とし込むぐらいのことは教員がやらないと,研究そのものが進まない羽目になる。この点,まだ実験系の理工系他分野の研究者よりは恵まれているとは思う。何せ,昔のCコードも,Fortranコードだってまだ最新のWindows (+ Ubuntu on WSL)で動作するのだから,昔とった杵柄の持ち上げ方を思い出しさえすれば何とかなるからである。

 つーことで,まだまだ昔の杵柄を振り回しつつ,Pythonのような最新の杵柄の使い方を覚えようとしているワシは「あがっているのに藻掻いている」浅ましい年寄りであるなぁと自覚しつつ,最晩年までExcelのVBAと戯れておられた森口繁一先生のようになりたいなぁと,偉大すぎる先達に思いを馳せる今日この頃なのである。

6/15(土) 駿府・雨

 肌寒い一日。山松ゆうきちのマンガの擬音「ざかざんざかざん」という感じの強めの雨が散発的に続く梅雨らしい一日。今年は冷夏になるという予測も出ているようだが,さてどうなるかな。

 ARITH26で短い講演とポスターセッションをこなしてきた。論文は後で公開されるみたい。

ARITH26の看板
ワシのポスター(プレゼン10分の後にQ&A代わりのポスターセッションがあったのだ)

 日本人が少ないのかと思っていたら,参加者数としてはフランス人19人に続いて15人と,そこそこ来ていた模様。Arbの作者の講演がBest Paper Awardを取っていたが,まぁ圧倒されるよなぁ。才能と体力と勢いがあることを知らしめるのものであった。ワシも慌てて今までの仕事をまとめておくことにしようと決意させられた。

 しかし捨てる神あれば拾う神ありで,昨年プレゼンした内容をRejectされて腐っていたら,今回採択されたりするので,何事もやっておくものであると思った次第。「多倍長精度数値計算入門(仮)」の最終章の予定になっていたものの,Rejectされて削除しようとしていたら,このタイミングで出版社から「ページ数的に問題ないので予定通り書いて下さい」という依頼が来たので,まぁ採択された内容ではあるし,結構ブラッシュアップしたし,大師匠へのご恩返しという意味もあるので,「やっぱり書きます」とお返事しておいた。この先,日本語で査読論文書くつもりもないので,丁寧な解説を書き下ろすつもりで頑張りますです。来週にはゲラが届くそうなので,7月中旬ぐらいまでは校正作業に集中せんとなぁ。Python原稿はそれから頑張りますので見捨てないで下さいまし。

 MPFRのメイン開発者の一人が,マルチコンポーネント型の多倍長複素数演算の基礎固めをやっていたのも印象深かったな。どうやら多倍長FFTみたいなものを作るようで,MPCより軽くしたいらしい。なんかワシの予定にかぶりそうな予感がするので,こちらも進めておかんとなぁ。できれば9月下旬にはお披露目したいところ。

 三日間の京都出張は刺激的だった。あいにく数値解析シンポジウムは行けなかったが,行かずに正解,帰ってきたらガックリ疲れたから,掛け持ちしてたら間違いなく死んでた。体力落ちたことを実感。つーことで直前まで迷って失礼しました。>F先生

 次は7月下旬の北見,9月上旬の東京,9月下旬の京都。これ以外はどこにも行かないようにしたい。何せ,今回の出張で,額縁ょ~が不在だと周囲への迷惑の掛けっぷりが半端ないことが判明したからだ。つーても,Academic Career終了して良いわけでもないので,無理のない範囲で出掛けていきたい。

 明日は「上がっちゃった研究者問題」について書きたいけどどうなるやら。

 寝ます。

藤生「えりちゃんちはふつう」白泉社

藤生「えりちゃんちはふつう」白泉社

[ Amazon ] ISBN 978-4-592-71152-0, \830+TAX

 齢50のオヤジにもヒリついた感情を引き起こすエッセイマンガだ。タイトルからして人をイラつかせるところがある。「ふつう」って何だよそれ? 良くも悪くも金持ちでも貧乏でもないと言いたいのか? ・・・まずは読んで頂き,どう感じたかを皆様からお伺いしたいという欲求を抑えられないワシなのである。

 エッセイマンガの読み方は難しい。ワシは「ふつう」に,エッセイマンガの主人公を著者の投影として解釈するが,果たしてそれでいいのかどうか。本書の場合,幼い頃の思い出を描いた後,実態は違っていたというネタバレが含まれていたりするから用心しなくてはならない。そのネタバレ直後に著者は

「えりちゃんちはふつう」は実際にあったエピソードを元に構成したフィクションです

藤生「えりちゃんちはふつう」P.34より

とお断りを入れているのである。しかしワシはどうしても,著者の藤生と本書の主人公である「えりちゃん」を切り離すことができないのである。それは,本書に収められている20本の短い「フィクション」から,この上ないリアルな感情の揺さぶりが与えられるからである。

 「えりちゃんち」は,三人兄弟故なのか,ケーキは特別な日しか買ってもらえないという程度にちょっと貧乏である。父親は成績が悪いと手が出る程度に乱暴で,母親は兄弟の真ん中である「えりちゃん」への愛情が今ひとつ薄い。なるほど確かに,どこの家庭にもある多少の歪みを抱えた「ふつう」ではある。あるけれど,自己主張が不得手で内向的な「えりちゃん」には少々辛いことが日常的に降ってくるのである。曰く,何でもいいと言われて買ってきたラーメンに文句を言われる。曰く,自分だけ幼稚園での送別会をやってもらえない。曰く,全く母親から期待されなかった高校に合格した結果,同級生から八つ当たりされる。・・・等々,日本の義務教育における女子共同体のメンドクサさに起因するヒリついたエピソードが,ワシみたいなオヤジにもいちいち響いてくるのである。マンガである以上,脚色はあるだろうが,とても単なるフィクションとは思えず,故に「えりちゃん」の健気さは,(お会いしたことはないので勝手に想像した結果の)腺病質な藤生に通じるモノがあると結論付けざるを得ないのである。

 藤生の絵はセンスあふれる白くて細い描線で構成されている。「えりちゃん」も,不登校気味だった中学生時代から同人活動に目覚め,ハブられるだけだった学校とは別の同人コミュニティの元で人生を歩み出していくのだが,同時に,ヒリついた学校生活を突き放して観察する視点とテクニックを得た訳である。BL由来の繊細なキャラクター描写は,空白の美の中のなかで起きる感情の爆発や達観を的確に表現するに相応しいものになっているのである。

 本書を編むのに要した6年間,「楽園」を一人で背負うI田編集長は藤生,いや「えりちゃん」に「なんでもいいからとにかく描け」と言う。そして描いたものは「なんでもいい」日常的ではあるが,ヒリついた感情を惹起させる物語であった。これからも編集長は末永く「描け」と,藤生じゃない「えりちゃん」に命じて頂き,ワシらに「えりちゃん」の何でもなくない「ふつう」な出来事をマンガで与えていただきたいと念願しているのである。