「あがってしまった」年寄り問題

 先週書くつもりだったが,締め切り仕事に追われて遅くなってしまった。何とか「UNIXマガジン」のバックナンバーを漁って該当のエッセイを見つけたので,忘れないうちに書いておくことにする。

 「あがってしまった」研究者,特に役職の上がった年長者について述べている故・山口英の「UNIX Communication Notes 120」(UNIXマガジン 1998年6月号, pp.11-19)の当該箇所を以下に引用しておく。

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老け込むには早すぎる

 私の周りで,研究環境の現場から離れ,プロジェクト・マネージメントの仕事をするようになってしまったエンジニアや研究者に対して「あの人はあがってしまった」と言う輩が多い。大学では,研究グループを率いていた教官が,大学や学会の仕事が増えるにつれて研究現場から離れがちになる。そのようなとき,口の悪い学生が「あの先生はもうあがっちゃってるから,直接指導を受けられることはめったにないね」というふうにつかう。

 先日,私の研究室の学生たちと,”あがってしまった研究者”の特徴をめぐって語り合う機会があった。議論百出だったが,情報工学分野ではプログラムを書かなくなるのが最大の特徴だろうという結論になった。たしかに,忙しくなるとプログラム開発にまとまった時間が割けなくなる。プログラムを書く時間がとれない研究者は,明らかに”あがってしまった”と言えるだろう。

 持ち歩いているラップトップPCにWindows95だけインストールし,

・電子メールの処理
・ワードプロセッサと表計算ソフトウェアを駆使した予算書作成や経費計算
・プレゼンテーション・ツールによる資料の作成

だけのために使っている研究者も”あがっている”と多くの学生が指摘していた。

 振り返って自分自身のことを考えると,最近はPerlを使ってちょっとした処理をするプログラムを書いたり,あるいはLaTeXのマクロやスタイルファイルを作るぐらいしかできなくなってきた。さいわい,他の人が書いたほかの人が書いたプログラム・パッケージを読む機会はまだまだ多いが,C言語で大きなパッケージを書くような時間はほとんどとれない。持ち歩いているラップトップPCの用途にしても,学生たちが挙げた条件にぴったりあてはまってしまう。彼らの指摘が私の現状を言い当てているような気がして,胸にグサリとくる時間であった。

山口英, UNIX Communication Notes 120, UNIX Magazine, ASCII, 1998.06.

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 「Windows95」とか「Perl」という用語が出るあたり,20年前という時代を反映しているが,内容的には今でも十分通じる。大体,50過ぎたあたりでデカいライブラリを書くような仕事はそうそうできなくなるってのは当たってる。体力に加えて集中力も落ちるし,何より新しい物事を咀嚼して受け入れることが苦痛になってきたりする。頑迷固陋に自説に固執して専門家仲間からは相手にされなくなる(批判するだけ時間の無駄だから無視がデフォルト)のに,それがかえって世間的にはbuzzったりするとトンデモ退治が厄介だ。とかく「あがっちゃった」研究者は,社会的な影響力はある分,メンドクサイ存在になり果てるものである。

 人は誰しも年は取るし,大なり小なり「あがってしまう」のはやむを得ないが,組織内でも結構な問題になったりするのは困りものだ。何より,ワシがいるような小規模な組織では,学生数は少ないしスタッフのなり手もいないし,頼りになるのは研究室を主催する教員の個人的な頑張りだけだったりする。プログラミングテクニックが多少落ちようが,アイディアをきちんと動作するコードに落とし込むぐらいのことは教員がやらないと,研究そのものが進まない羽目になる。この点,まだ実験系の理工系他分野の研究者よりは恵まれているとは思う。何せ,昔のCコードも,Fortranコードだってまだ最新のWindows (+ Ubuntu on WSL)で動作するのだから,昔とった杵柄の持ち上げ方を思い出しさえすれば何とかなるからである。

 つーことで,まだまだ昔の杵柄を振り回しつつ,Pythonのような最新の杵柄の使い方を覚えようとしているワシは「あがっているのに藻掻いている」浅ましい年寄りであるなぁと自覚しつつ,最晩年までExcelのVBAと戯れておられた森口繁一先生のようになりたいなぁと,偉大すぎる先達に思いを馳せる今日この頃なのである。