[ Amazon ] ISBN 978-4-87311-478-1, \1800
UNIXのテキストを書き直している。まだ作業途中ではあるが,まぁ型は決まってきたのでとりあえず公開してある。これから更に2章分追加して全体を整えて,最終締め切りが2週間後,2/18(金)なので,そこまでギリギリと作業を行うつもりである。
UNIXテキストとか言いながら,実質はC/PHPプログラミングのワークブックであって,演習のための最低限のCUI操作を教えたあとは,文法なんか後回し,とりあえずこう書けばこう動く!,分かったらちみっとカスタマイズしてこういう動作をするようにしてごらん,という調子で自学自習ができるようになっている。・・・というのが謳い文句だが,正直言ってこういう作りのワークブックを大学のテキストとして用意するってのはどーなんだと思わなくはない。
高校までの数学を単なる計算演習だと思い込んで疑わない層に,定理の証明を考えて次の定理を導く手がかりにし,理論体系の構築まで理解させる,とゆー本来の数学を教えることは至難の業である。プログラミングも同様で,文法を教えてサンプルプログラムを実行してその動作を理解し,言葉だけで書いてある演習問題を自力で解かせる,とゆーごく普通の「学習」が可能なのは結構まともなレベルなのである。試行錯誤を自分で行えない,つまり,躓いたら起き上がれない状態の子供に,「自分で立て!」とスパルタ教育をしたところで虐待,下手すりゃアカハラになる。「昔はこうやって鍛えられたもんだ」などという世迷言は通用しない。職のない優秀な若いDr.はゴマンといるんだから,昔を懐かしむだけの馬鹿ジジイはさっさと引退して席を作ってやれ。
今求められているのは,学生個々人のレベルに合わせた学習であって,逆に言えば,学習の「結果の平等」は二の次でいい,ということでもある。受講生の満足が第一なのだから,満足した結果が世間的にまるで通用しないレベルであってもそれは「自己責任」。ただし,世間並みの知識は与えましたよ,拾わなかった(or 拾えなかった)のはそちらの責任でしょ?,という説明責任を果たすぐらいのことは教師の最低限のモラルである。安くない学費を貰っているんだから,当然である。
だから,このスタイルのワークブックが,現時点でワシが考えるベストな形なのである。とりあえず書いてある通りに打ち込めばコマンドもプログラムもスクリプトも動く。でも,打ち込みながら「どういう原理なんだろう?」という「学習意識」が働かなければ,単なるキーパンチャーとして半期の講義を終えることになる。逆に,きちんと理屈の理解ができていれば,文法理解は荒っぽいけど,「こーゆーことができるんだ!」という,それなりに有用な経験として作用するはずである。この学習効果の差を,逐次レポートや提出課題を出させて確認し,成績を付ける。キーパンチャーでも真面目にやっていればC,そこそこ理解できていればB,完璧に理解して少し抽象度を上げた課題もこなせるようならA,という感じである。・・・ま,そーゆー講義ができているか,この評価基準がしっかり守られているかと言われれば,マダマダ,なのであるけれど,理想はそんな感じ。それを実現するためのテキストが自作のワークブックなのである。
しかしながら,本来のプログラミング教育ってこんな安易なモンじゃないだろう,という割り切れない気分はまだ残っている。本書は,O’Reillyのプログラミングテキストとしてはかなり薄手ながら,ワシが未だに未練を残している「本来のプログラミング教育」を実現したものとして,折に触れて読み返したい「スタイル」を持ったお手本なのである。
PHPのテキストと言えば,同じくO’Reillyから出ているPHP本が筆頭であろうが,これをテキストとして使うのは,少なくとも日本の2流以下大学では無理である。せいぜい参考書として紹介し,その中から適切な解説を抜粋して講義のネタに使うぐらいが関の山だ。O’Reillyに限らないが,邦書のPHP本でも講義テキストとして使える適度な厚みを持ったものは殆どない,とゆーのがワシの実感である。分厚すぎるのである。
その点,本書は理想的だ。本文は158ページしかないが,PHPの文法の解説からデータベースプログラミング,クラスの例示,JpGraphによるグラフ作成からPHP 5.3の新機能の解説まで,短いが要点を踏まえた文章で綴っている。欧米人の書いたものってホント分厚くて嫌になることが多いんだけど,これは真逆。まぁ,「言いたいことはコードに書いてあるから読み取って」とゆーことなんだろーな。具体的な例を次々に”Good Parts”として紹介していくのはコギミ良くて素敵だ。
何よりいいのは,ちゃんと解説文を読み解いて「機能」を頭の中で咀嚼して進んでいかないと,まるで学習ができない,という点である。打ち込めば動作するコードが書いてはあるのだが,文章による解説の補完という程度のものが多く,それらのコードの動作を理解するためにはそれ以前の記述をきちんと頭に入れておかないと理解不能という構造になっている。普通のプログラミングのテキストってこーだったよな,と思い起こさせてくれるスタイルの入門書なのだ。
PHPに限らないが,オープンソースな開発環境はリファレンスを必要なときにオンラインで参照するのが普通だ。検索するのは当たり前だし,PHPなら公式マニュアルを使わない開発者は皆無だろう。だから分厚い解説書はもはや不要・・・とは思わない。むしろ,きちんとした解説をしたいと思うのなら,ますます分厚いICT本にならざるを得ないのだ。
それは,断片的な知識を探すことが容易になった今だからこそ,それらを有機的につなげる糊としての解説がますます重要性を増しているからに他ならない。誰でも容易に入手して使えるパーツがゴマンとあるからこそ,それらの組み合わせの数は膨大なものになるのだ。どれをどう組み合わせてどういうことができるのか?・・・初心者であればあるほど,自身にあったレベルの入門書が,このインターネットに散らばる知識の集め方と使い方を例示してくれる最初の羅針盤として不可欠なのだ。羅針盤としての入門書としては,しかし,薄いに越したことはない。・・・このあたりのサジ加減が難しい。
ワシが書いているワークブックは最底辺層を掬い上げて,情報社会に飛び込むための助走をさせる程度を目指している。しかしそれでは「やりがい」を見出せない,学習の甲斐がない,というちょっと意欲のある向きが最初にPHPに取り組むための入門書として,良いパーツ(The Good Parts)を手際よく解説している本書はお勧めのものと言えるだろう。
横田増生「潜入ルポ アマゾン・ドット・コム」朝日文庫
[ Amazon ] ISBN 978-4-02-261684-5, \880
下世話なタイトルだなぁ・・・というのが本書を文庫新刊コーナーで見たときの第一印象である。きっとグローバルスタンダード許すまじ,派遣労働者搾取ハンターイとゆー聞き飽きたスローガンで終わるのであろうと思いつつ,生まれつき下世話なワシはいそいそと本書をレジに運び,この正月に読み始めたのである。で,一気呵成。ゲスな好奇心もある程度は満足させてくれるが,それよりも,予想外に客観的データの裏付けがしっかりなされた論考が多くて,う~む,さすがアメリカ仕込みのジャーナリズム作法を身に付けた著者だけのことはある,と感心させられる。
毎週ほぼ欠かさず視聴しているvideonews.com主宰の神保哲生曰く,ジャーナリストの基本は「一歩前へ」だそうで,この「一歩前」の意味は,著者・横田増生がディズニーランドにほど近いAmazon.comの物流センターで,一アルバイトとして「潜入ルポ」したことはもちろん,もっと深いAmazonの売上高の調査等,客観情勢の「分析」も含んでいる。文学的修飾詞が少なく,イデオロギー的ドグマ臭も皆無である本書は,「一歩前へ」踏み込んだジャーナリストの成果物としてはもってこいのお手本教材なのでは,と思えてくる。
ちょろっとネットを検索してみれば分かるが,Amazonの物流センターの様子は結構あちこちから発信されている。もちろん匿名情報だし,信頼性については疑問符が付くような自己擁護的物言いが多いが,その中でもVIPのこれは,回答者が分かりやすく的確に短い受け答えをしていて感心させられた。で,本書の記述と比べながらざっと読んでみたが,センターの規模は売り上げに比例して大きくなっているようだが,基本的に派遣労働者によって支えられている職場であり,冷暖房なしで立ちっぱなし,とはいえ無体で過酷な労働かというとそうとも言えない,という点は著者が潜入した2003年末~2004年とあまり変わっていないようである。人の入れ替わりが激しい,ということは褒められた話ではないが,誰でも来る者拒まずで受け入れ,短期で働きぶりを見た上でこまめに労働契約を結びなおす,という点ではコスト削減に忙しい昨今の日本の労働環境とさほど変わらないとも言える。
本書の記述で何より面白いのは,冷暖房のない職場にぶーぶー言いながらも資料集めにAmazonを使いまくる著者の矛盾的姿勢だ。とにかくAmazonぐらい顧客サービスが徹底している通販も珍しいのである。
ワシの経験を紹介しよう。Amazon立ち上がってまだ日本法人もなかった20世紀末,注文したものと違う洋書が送られてきたことがあった。早速メールで問い合わせると,お知らせいただきありがとうございます,返送は結構ですので,ご不要ならばどっかの図書館に寄付して下さい,という返事が来て感動した覚えがある。まぁ返送してもらうよりは正しい注文品を再度送った方がコスト的に安いってことなんだろうが,横田が本書で指摘する通り,かつての日本の書店の態度の悪さ,発注のめんどくささ・不正確さに比較すると天と地の差があるなぁと思ったものである。以来,ワシは毎月なにがしかの商品をAmazonに発注するようになったが,今のところトラブルにあった経験はない。本書に記述はないが,Amazonに日本進出を決意させた理由は,送料が高いにもかかわらず洋書の注文が日本から大量に来た,ということも大きかったようである。こんだけサービスが良いんだから,横田に限らず,書籍資料が必須な商売でAmazonを利用したことのない人間は皆無であろう。
著者は言う(P.101)。
私はその後も,何人もの(注:同じAmazonの物流センターで働く)アルバイトに「これまでアマゾンで買い物をしたことはあるか」と事あるごとに尋ねてみたが,「買ったことがある」と答えたアルバイトは一人もいなかった。
(中略)
つまり,センターを這いずり回るようにして本を探す人と,自宅のパソコンから本を注文する人とは違う人たちなのだ。アマゾンの安くて迅速なサービスを享受する人と,それを可能にするために労働力を提供している人たちとは,ある意味別な階層に属している。
以後,私の心の中には,職場としてはこの上ない嫌悪感を抱きながらも,一方利用者としてはその便利さゆえにアマゾンに惹きつけらていくという相反する気持ちが奇妙に同居していく。
そしていつまでもその気持ちに,居心地の悪さを感じていた。
本書読了後,ワシは何の躊躇もなくアマゾンに発注できなくなっている(でもしちゃうけど)。その時の気分は,全く上記の通りである。
Amazon創業者のペゾスが目指した顧客第一主義は正しい,コスト削減努力も正しいし,正社員登用という餌も冷暖房もない物流センターの環境に希望はないにしろ非人道的というほど過酷であるとも言い切れない。しかしAmazonが躍進した結果,解説で北尾トロが指摘するように,書籍販売の業界は,古本も含めて「緩やかな自殺」をしているような有様である。
誰が悪い,という話ではないことは確かだ。本書は「一歩前へ」進んで調査した結果を提示し,多分,ワシらに処方箋を見つけさせるという,「一歩前へ」進むための思考回路を開いてくれたのである。
須藤真澄「ナナナバニ・ガーデン 須藤真澄短編集」講談社
[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375982-2, \838
ここんとこ,毎年大晦日にご紹介する作品は,ファンタジー漫画と決めている。特に理由があるわけでなく,好きな漫画に少女マンガ系統のファンタジーが多いこと,そしてそれを一年の締めくくりの日に紹介することが相応しいように思えてきた,という程度である。
「ファンタジー」の定義は人それぞれで,SFチックな妄想から,限りなくノンフィクションに近いものも含まれてしまう。しかしその幅広い定義に共通する「芯」に当たるものに,「「こうあってほしい」という願望が含まれていること」があると,ワシは確信しているのである。それは宗教に通じる,古来から人間が抱き続けてきた根拠なき期待であり,翻ってみれば,思うようにならない現実世界からの逃避願望というものかもしれない。在野の人々の根拠なき希望,無責任な逃避願望を肯定してくれる存在の一つとして「ファンタジー」というジャンルの読み物は今も昔も支持されている(きた)のだとワシは思う。だから「癒し系」という呼び名が登場した時は,「うん,ぴったり!」と広く受け入れられたのだ。
その意味では,須藤真澄はまごうことなき「ファンタジー」漫画家である。エッセイ漫画を描いても,フィクションを描いても,須藤真澄の作風は微動だにしない。いや,デビュー間もない時期の作品(「マヤ」に収められているよ!)は,大きな揺れが見られ,あの独特の描線「つーてん」(主線が,長く伸ばした水滴のような形の点線になっている)も,試行錯誤の結果生まれてきたもののようだ。しかし一度固まった芸風は,わずかに変化しつつも(つーてんがちょっと間延びしてきた等),そのまま今に至っている。本書に収められた作品は2002年から2010年までの短編であるが,正直,読んだだけではどれが最新作でどれが8年前のものだか全然分からない。掲載誌も,まんがライフオリジナル(竹書房),アフタヌーン(講談社),徳間書店とバラバラであるが,全く変化というものが見られない。つか,須藤真澄という一個人一ジャンルが確固として確立していて,「ますび先生の作品を載せたい」という依頼をしているようにしか思えない。「ますび先生に細かい注文出しても無駄」と思われているのだろうか。いや,多分,「ますび作品」が読みたい読者がいて,それに応えようとしての掲載なのだ。BLを描こうと男女エロ(読んでみたい・・・)を描こうとミステリーを描こうとSFを描こうと,それはすべて須藤真澄ファンタジーになってしまうのである。
だから,「須藤真澄ファンタジー=ハッピーエンド」というステレオタイプな理解は間違っているのだ。どんなエンディングであれ,ますびファンタジーの作用によって,ハッピーと思わされてしまうのである。それが一番よく分かるのは,飼い猫との別れを描いた名作「ながいながい散歩」であるが,本書でも,最新作「サンドシード」は,結構悲劇的な話にも演出できるだろうに,須藤真澄はそれを決してしない。何故か?
それこそが須藤真澄を不動の「ファンタジー」作家と屹立させている源泉なのだ。どんな現実であっても,希望に満ちたエンディングに収めてしまう,その「力量」こそが須藤真澄をして20年以上もポツポツと作品を生み続けさせているのだ。その「希望に満ちたエンディング」こそが,「ファンタジー」の確信であり,だからこそ,須藤真澄はファンタジー作家の代表格と言えるのである。
この年末,気温も財布も寒い一方であるが,まずは飯が食えて生きて年が越せることを「ハッピーエンディング」と考えれば,来年への希望を託す意味でも,本書を読みながら須藤真澄の描く「バニ」に乗ってゆらゆらとこの2010年最後の一日を過ごしてみるのは悪いことではない,と,ワシは思うのである。
来年2011年も,よろしくお願い致します。
島本慶「一食100円の幸せ」バジリコ,得能史子「ペリーさんちの、おきらく貧乏ごはん」ぶんか社,
「一食100円の・・・」 [ Amazon ] ISBN 978-4-86238-172-9, \1000
「ペリーさんちの・・・」 [ Amazon ] ISBN 978-4-8211-4301-6, \952
年末恒例のぷちめれ祭り・・・と息巻いたのはいいものの,今回はペースが思いっきり乱されて元通りにならず,やっと書く気になったと思ったらもう大晦日。今回は短いものを幾つかご紹介して〆させて頂く。
つーことで第一弾は,「意外な人が書いた料理レシピ本」2冊。不況不況といわれて久しい日本であるが,この先のばーっと景気が良くなるという見込みはゼロ,むしろ日本国民全員,そーゆー一方向を目指して熱狂するという行為自体を忌避しているような印象がある。秋月りすが指摘するように,20年も不況を続けられる底力こそが,日本の本当の強みなのかもしれない。
とはいえ,国全体がビンボ臭くなっていることは事実である。デザイン能力だけで糊塗した新規開店のチェーン店の看板は,ちょっと時間が経てばすぐに安っぽい材料で作ったことがバレ,老いも若きも人件費の安い国で生産した衣料品を身にまとっている。こういう状況では,たとえ余裕のある金持ちでもバブルっぽい振る舞いは躊躇してしまうだろう。金持ちであればあるほどパーッと金を使ってもらわないと一国の経済は回らないのだが,横目で隣人の一挙一動を監視して細かいスキャンダルを炙りたてようとする貧乏人根性が蔓延する昨今では,それも難しい。せいぜいコンビニで550円の弁当を買って顕微鏡サイズの満足を得るのが関の山。いい加減,この国の経済をダメにしているのは自分らの行いにあるのだと気が付かないとまずいだろう。
そんな雰囲気であるから,本来ならバカでスケベな金持ちがド嵌りするはずの風俗業界も不況のあおりをもろに食って,なめだるま親方こと島本慶も,穏当で貧乏人に媚びたエッセイを書くようになってしまったようだ。それがこの「一食100円の幸せ」である。ワシは本書を「一般」新刊コーナーで見つけ,びっくりして10食分もする大枚を払って本書を購入してしまったのである。ええええぇっ,あのなめだるま親方が「作る幸せ,食べる幸せ。」だとぉう! 親方なら「舐める幸せ,突っ込む幸せ。」だろうっ! こっ,こんなの,親方じゃないっ!
つーことで,プリプリ怒りながら読んだのだが,これがなんと,面白いのだ。風俗ライター業がうまく回らず,こういうエロ抜き穏当エッセイを書くようになっちゃったという「言い訳」はあるのだが,「・・・親方,頭下げながら舌出してるでしょ?」と言いたくなるのはワシの勘ぐりすぎか。いや,やっぱり本書のコンセプトである「1食100円」レシピの紹介は,単なる貧乏自慢・貧窮礼賛とは受け取れないのだ。中年オヤジの無駄な抵抗,そしてスケベ心に満ちている,と言わざるを得ない。レシピの考案から,いしかわじゅんに感心されたイラストによる解説,そして料理にまつわるエッセイの生き生きした表現・・・どれをとっても枯れていない,いや,スケベなエネルギーに満ちている。大体,結構手間暇のかかる料理を100円程度で自炊してしまうということ自体,相当めんどくさい作業であり,「生きる力」に満ちていないと出来ないことである。
本書は描き下ろしのようであるが,その割には薄味になっておらず,適度にメリハリが効いている構成になっている。なめだるま親方に免疫のない人でも,「あ,ちょっとスケベそうなおじさん」ということが本書の記述からも伺える程度なので,安心してお読みいただきたい。
さて,次にご紹介するのは,年末も押し詰まったこの時期に刊行された,得能史子の「ペリーさんちの、おきらく貧乏ごはん」だ。得能史子と言えば貧乏,貧乏と言えば得能,というぐらいワシ的には公式が出来上がってしまっている漫画エッセイストなのであるが,本書はその肩書を日々の「料理」を前面に出すことで強化している内容となっている。なめだるま親方の本が,あくまで料理レシピ&作り方主体のレシピ本なのに対し,本書はレシピはつけたしっぽい扱いで,むしろ,いつもの得能スタイルエッセイ漫画のオマケとしてくっついている感じ。料理の作り方はレシピに文章でさらりと書いているだけなので,絵解きの料理本と勘違いすると失望するかもしれない。あくまで得能史子のエッセイ漫画を好む人向けのマニアな一冊なのである。どういう漫画かは以前にもご紹介してるので,そちらを参照されたい。
タイトルにある「ペリーさん」は,得能の旦那である内気なNew Zealerのこと。とはいえ,旦那のためにせっせと愛妻料理を作る・・・という感じではなく,自分が好きな和食を作りつつ,旦那の好みも勘案して最適化を図る,という程度。よくもまぁこれだけ和食テイストな食事を食わされ続けて飽きないな,と同情してしまうほどだ。たまぁにステーキが食いたいとダダこねたり,グリーンピースをそのまま頬張ったりするぐらいで我慢できること自体が奇跡である。いくら貧乏でも,牛肉ぐらいは食わせてやっても罰は当たるまい。本書の印税が少しでも得能夫婦の懐をあっためる役に立てば幸いである。
つーことで,2010年に出た,「意外な人が書いた料理レシピ本」2冊,おせちに飽きた正月の暇な時間に読んで,一つ二つお試し頂くと,この貧乏な日本にも豊かな内的幸せが低価格で得られることが実感できる・・・筈である。
山川直人「澄江堂主人 前篇」エンターブレイン
[ Amazon ] ISBN 978-4-04-726899-9, \740
ワシは文学に暗い。芥川龍之介なんて,せいぜい国語の教科書に載っていた「杜子春」「鼻」ぐらいしか読んだことはない。本書のタイトルだって「すみえどうしゅじん」と読んでいたぐらいだ。正しくは「ちょうこうどう」であるらしい。従って,この主人公たる「澄江堂主人」,すなわち芥川龍之介をモデルにした本作に,どこまで山川の「創作」が混じっているのかを判断するだけの知識をワシは持っていないのである。だもんで,以下のうだうだは全て純然たる山川直人のマンガとしての記述である。文学史的なウンチク話はよその誰かにお願いしたい。
で,山川直人だ。古くから創作系同人誌即売会「コミティア」では異彩を放っていた作家である。プロデビューも1988年と古く,実力は古くから一部では知られていた・・・筈であるが,少なくともつい最近になるまで,ワシはあまり興味がなかった。ペンによるカケアミを多用した温かみのある画面に,ビンボ臭い2頭身キャラ達が物憂げに人生を送っている,という文学的童話に似た作品は,つげ義春を知ってしまったワシにとってはちと物足りないものを感じさせたのである。つげ作品が「悲惨な街の安全運転」(by 赤瀬川原平)と形容されるのであれば,山川作品は「暖かい街で飲むほろ苦いコーヒー」という「程度」なのである。どちらがいいというものでもないが,ある程度以上の年齢の大人が安心して読める読み物としては山川作品に軍配が上がり,もっと「深淵」を覗きたい向きが否応なく求めてしまう「文学」がつげ作品なのだ,と,ワシは感じているのである。
とはいえ,山川作品は,同じペン画であるにしても,つげ作品にはない暖かさと豊かさを感じさせる独特の魅力的な画を持っていて,これが一番の強みであることは確かだ。近著である「ハモニカ文庫」は,掲載誌が生ぬるい4コマ雑誌だから仕方ないとは言え,ちと甘すぎかなと思えたけど,「ほろ苦さ」は効いており,そこそこ面白く読める。・・・なんかワシ,持って回った言い方で微妙に批判をしてしまうなぁ。しかし,実際,いまいち物足りないと感じているのだから仕方がない。どうも,山川直人の作風は,今の日本の重苦しさに比して「軽い」と感じてしまうワシがいるのである。だもんで,いまいち,エンターブレインから刊行されている作品集にも手が出なかったのだ。
今回,山川が差し出してきたこの「澄江堂主人」,いつもの山川作品集ならスルーしていたところであるが,一見して手にとって書店のレジに差し出したのは,帯にある「芥川龍之介」の文字が決め手となったのである。自殺した文学者を描いたドキュメンタリータッチの,シリアスな作品に挑んだのだとワシは思ったのである。
で・・・読んでみたら,う~む・・・確かに「芥川龍之介」がモデルになっていけれど,これは純然たるいつもの山川ファンタジーではないかと,ちょっと拍子抜けしてしまったのだ。どん底に陥らないという安心感漂う,温かみのある物語になっている・・・少なくとも,この「前篇」と銘打たれた本書を読む限りは,そうなのだ。ぼんやりした不安感が主人公・芥川に付きまとっていることは説明としては理解できる。しかし,幻影として芥川自身が,そして周囲が見る「死」の表現は,どこかユーモラスなのだ。いい枝ぶりの木で縊死している芥川の姿には「ぶら~ん」という能天気な擬音が付き,やせ細った姿を見た子供に「オバケ!!」と叫ばれた芥川は,おどけた姿で「ひょい」っと「オバケ~」とポーズをとって見せる。どれもジョークには至らない,ブラックユーモア「風味」なのだ。この表現は何なのだ? ・・・とワシにはまだ解せないものが感じられる。きっとこの先,中編,後篇(まさか完結編まで行くんじゃないだろうな?)・・・と物語が進展するにつれて,この明らかな作為の所以がワシら読者に示されるのであろう。現時点ではそう解釈しておくことにしたい。
そうそう,「作為」と言えば,最大のものがあった。この「澄江堂主人」に登場する明治・大正・昭和初期の文人たちは全員,「漫画家」なのである。「吾輩が猫である」も「羅生門」も漫画であり,短歌や詩は四コマ漫画に置き換えられている。今のところ,文学作品を漫画作品と置換しているだけのように見えるが,これも何かの仕掛け,なのであろう。その謎もそのうち明らかに・・・なるんでしょうね? 山川先生。
従来の山川作品に満足していなかったワシを,どう引き回してくれるのか,それとも「やっぱりいつもの・・・」で終わるのか,その帰趨を見るためにも,ワシは続刊を3年ばかり追いかけてみようと思っているのである。結論は,完結した後に書くことにしたい。