[ Amazon ] ISBN 978-4-334-03582-2, \740
前著「高学歴ワーキングプア」に比較して,著者のライターとしての腕は抜群に上がっており,対談含めて214ページを一気に読ませる文章力はすごい。著者はパチプロ時代のエッセイ集の発行を望んでいるらしいが,ワシからも白夜書房に(光文社でもいいけど)出版をお願いしたい。読みたい。
しかしながら,本書を「オーバードクターの就職問題」を知ろうとして読む人にはお勧めしない。客観的な話は巻末の荻上チキ(司会とは思えない見事な仕切りっぷり!)×鈴木謙介(チャーリー)×水月昭道で,チャーリーや荻上の長い発言から伺えるだけで,本文中にはチラチラと触れられる程度。状況はさほど変わっていないことを考えると,前著のほうが入門書としてはずっと有効である。
結論から言うと,本書は著者の精神的マスターベーションを,読ませる文章でつづったエッセイ集というべきものである。文章力とは別に,突っ込むところが多すぎて,ワシにとってはそこも含めて面白かったが,真面目にこの問題を知ろうという向きには,まぁ,一資料としてはともかく,著者に共感しすぎてもまずかろうし,さりとて第一部の,自分を棚に上げての大学・政府への呪いっぷりには辟易させられるのではないか? 繰り返すが,やっぱり前著の方が,ワシは批判したけど,勉強のためにはお勧めである。おっと,第二部はほとんどヒーリングの世界だから,精神修養にはなっても勉強にはならないからそのつもりで。
しかし前著のぷちめれでも述べたが,なんでワシは著者のいうことに全然共感できないのかなぁ,と本書を読みながらつらつら考えてみた。もちろん,弱小とはいえ,一応専任教員という恵まれた立場であることが一番であろうけど,加えて,(1) ワシの学歴が,中堅大のDr.卒(日本大学)ってこと,(2)社会人博士であること,(3)水月の言う社会科学系ではなく,割と潰しのきく数理情報系(数学でもプログラミングでも食っていける)であること,が影響しているんじゃないかと思う。
(1)について言えば,周りにあまりDr.取得→大学教員というルートを辿った人がいない,ってことが大きいだろう。たまにいたけど,まぁハッキリ言って目立つタイプの人は少なかったので,「ああいう教員になりたい!」という憧れの持ちようがなかったってことが一番大きい。たぶん,旧帝大の大学院だと,キラ星のごとく優秀な先輩教員がいるんだろうし,実際,「この人はすげぇなぁ」という方々は確かに多い。伊藤理佐の言う通り,学歴(学校歴)は能力と「統計的に見れば」比例しているのである。そんな人々と日常的に接している環境だと,自分もきっと「ああいう活躍をしてみたい!」と思ってしまうんじゃないかな。そのあたりの感覚が,ワシのようなボンクラ私大出の世間ズレした奴には理解できないようなのである。本書ではちらっと触れられていたが,もちっとその辺の「エリート大学院」の雰囲気を別の著作で思う存分語ってほしいという気がする。
(2)ワシの場合,修士を出て就職し,能登半島に飛ばされて働きながらDr.を取ったという事情があるので(もちろん職場に許可は取ってある),そもそも「職がない」という心配は皆無である(修士の時の就職口は心配したけど)。本書には大学院重点化のおかげで東大博士号が取れたと威張り散らすオヤジが出てくるが,まぁ水月に言わせればワシも同類ということになるのだろう。・・・あっ,なんかむかっ腹が立ってきた。しかし,旧帝大出の博士なら,ワシが世話しなくてもどっか就職口はあるでしょ?・・・って,案外世間の人々は冷たいのかもしれないなぁ。実際,泣き言を言ってきた見ず知らずの大学院生のメールに身も蓋もない返事をしたこともあるし。
(3)修士課程に進む時には,研究室OBに口きいてもらって「大学院落ちたら御社に入れて下さい」という約束を取り付けておいた抜け目のないワシ。まぁ,しかし今でもWebプログラマーやデータベース屋はどこでも欲しがっているし,プログラミングをかじって使えそうな奴は学歴にかかわらずどこでも引っ張りダコである。おっと,プログラムができるかどうかは会話して作ったものを見せてもらえれば10分でわかるからね,半年経っても指導教員に手取り足取りやってもらわないと何にもできない君のことではない。・・・かように,水月のような文系・社会科学系の方々に,どれほど「腕」があるのか,ワシは問いたい。潰しがきく分野かどうかは,入る前から分かりそうなもんだが・・・社会科学って,そーゆー「リサーチ力」ってのも大事なんじゃないの?
つーことで,たぶん,本書を読んで涙する方々は旧帝大出身のエリート,ワシみたいに突っ込みどころ満載になっちゃうってのは,学歴に未練のない有象無象なんだろう。しかし日本社会を構成する有象無象はパーセンテージでは多いから・・・どーなんだろーなーと水月の今後が心配である。今は難病患者への寄り添いをテーマとするようになっているようなので,そっち方面のNPOとか立ち上げた方が,結果的に専任教員への道が開けそうな気がするんだが,どうか? 本書を含めた著作の印税もあるんだろうし,前著が売れたおかげでずいぶんコネクションができたようだし,あんまし水月が路頭に迷う姿は想像できないのだが。
最後に,あまりにも本書にはエリートな方々への具体的な方策が示されなさすぎるので,有象無象から世間に溶け込むためのアドバイス(役に立たなさそうw)をしてこう。
せっかく難しい学問や高い偏差値を収めてきたのだから,まずその辺を目に見える形で売り込んでほしい。水月のように分かりやすい入門書を書くのもよし,中小企業に入り込んで具体的なビジネスの提案をするのもよし,blogやTwitterで耳目を集める発言をするのもよし,ともかくバカにも分かる形で皆さんの能力を「広報の一環として」示してほしいのである。高い給料を望むのは,それからにしてもらえないか? ワシは城繁幸の唱える同一労働同一賃金の原則に賛成するし,日本社会は少なくとも今後はその方向に,ゆっくりではあるが賃金ベースを下げつつ流れていくものと思う。だから,たぶん,初任給の差もさほどなくなっていくものと期待する(甘いか?)。どうせ下がるんだから,待遇への不満は仕事の中身でお返ししてもらえまいか?
実際,ワシの職場でも,近年採用した若い方々の優秀さはかなり評価されている。それが実はあまたのフリーター大学院生の中,激戦を勝ち抜いて来たからという事実も,大分知られるようになっているのだ。・・・まぁ水月に言わせれば「採用する側は気楽でいいよな」というところだろうが,事実は事実。ちゃんと能力をワシらにわかる形で,そう,チャーリーが言うように「プレゼン能力」を磨いてくれれば,伝わるところには伝わるのである。
頑張っていればいつか報われる,なんて甘っちょろいことは言わないし,ワシらの給料ベースが下がることも認めるからさ(そうしないと持たないし),そっちももうちっと,頭がいいならその能力をプレゼンに回してくれないかと,フリーター大学院生の方々に対して,切に願う次第である。
F.W.J.Olver et al. (ed.), “NIST Handbook of Mathematical Functions”, Cambridge University Press
[ Amazon ] ISBN 978-0-521-140638, \4213(2010年9月現在)
SIAM News 2010 SeptemberにP.J.Davisによる本書の書評が載っていた。つらつら読んでみたら,これがなんと,Abramowitz and Stegun編集の”Handbook of Mathematical Functions“(以下,A&Sと略記)の改訂版にあたるというではないか。早速Amazonから購入ボタンをぽちっとなして,手元に届いたという次第である。
まーしかし買ってよかった。こちらはカラー刷り,CD-ROM付(原稿のPDFファイルが丸ごと入っている),さすがにデジタル版のリンクは再現不可能だが,A&Sには入っていなかった特殊関数とか,最新の文献リストまで掲載されている。時代が違うので数表はほぼ皆無になっているけど,いまだに新規参入の特殊関数が考案されるんだから,計算屋としては,やっぱ新しいものを常備しておきたい。
関数という概念が固まる以前からコンピュータが一般化するまで,数表というものは人間社会には必要不可欠のものであった。一松信によると,Napierの対数表にその起源が求められるらしい。また,科学技術が進むにつれて,近似計算でしか表現できない現象も現れてきたようで,D.A.Grierによれば,ハレーすい星の軌道計算はクレローの近似計算(離散フーリエ変換を使ったものらしい)によって実現できたが,この計算はクレローの二人の友人を巻き込んで5カ月間かかったとのこと。以来,産業革命で計算のニーズは高まり,大量の計算ニーズが生まれ,フランスの土木技術者・プロニーによって19巻の三角関数・対数関数表が作られる。もちろん,すべての計算は人力で行われていた時代であるから,大量の計算労働者を動員しての成果である。
で,ENIACから商用電子計算機=コンピュータが一般化するギリギリの時代,最後の人力計算(たぶん,機械式の手回し計算機は使っていたと思うが)による成果が,1964年に発行されれたA&S,すなわち
であった。土台はルーズベルト大統領のニューディール政策の一環として行われた関数表作成プロジェクトにある。土木工事同様,人的資源の大量導入が必須だから,景気テコ入れのための公共事業としてはうってつけだったという訳。
A&S発行後,関数計算はコンピュータで自動的に行うものとなり,以後発行される関数ハンドブックは,数表よりも,解析的性質,計算方法や近似式の記述がメインとなる。ほぼ50年ぶりの改訂版である本書はさらにその先を行き,具体的な計算方法は文献とソフトウェア(大方はNETLIBのTOMSにある)へのリンクに譲っていて,メインの記述はもっぱら解析的性質とかグラフ(3Dカラー!)である。
A&Sのガンマ関数の章を書いたDavis先生によると,そもそもA&Sの出版自体,「私たち著者は恥ずべき海賊版と考えている」(“we authors considered shamefully pirated”)だっつーんだから,穏やかでない。政府発行のものだから不満足なバージョンだったってことなのかどうか,詳細は不明である。もっともこの記述に続いて「とはいえ,法律的には文句の言いようがない」(“but that, legally speaking, were not”)とあるところや,A&SがNIST(National Institute of Standards and Technology)の前身であるNBS(National Bureau of Standards)から出ていること,そしてA&S発行後,25年間も科学書の売り上げトップになっていたことを考えると,著者らの完璧主義に付き合う余裕がないほど早期発行の要求が強かったんで,政府権限で「さっさと出さんかゴラァ」と強引に出版させたってことなんだろうなと想像する。・・・でまぁ,半世紀近く経過してようやく改訂された本書とフリーアクセスなデジタル版が出せた訳で,Davis先生の感激たるや,ワシみたいな若造には想像に余りある。
それににしても,ぱらぱら本書をめくってみると,もうすっかり時代は変わったなぁと,若造でも嘆息してしまう。数表が皆無になった代わりに,FortranやC/C++といった言語で関数計算が記述され,それをそのまま自分のプログラムに組み込んでしまえばいいってんだから。軍隊式に計算労働者を組織して検算付の超低速な並列分散処理をさせていた時代に比べると,石器時代から現代社会への移行並の大変化が,50年程度の期間に圧縮されてしまっていることになる。ワシだって標準ライブラリにない関数はごそごそTaylor展開式を引っ張り出してプログラミングしてた時代があったんだが,それもかれこれ20年近く前になってしまうのだなぁ・・・いや,年は取りたくないものである。
が,否応なくワシは,精神構造は若造のまま,肉体的には年寄りになった。本書は当初,A&Sのように完全フリーで出すことも議論したようだが,結局,CD-ROM付の印刷版も含めて著作権縛りは残し,その代わりにフリーアクセスのWebバージョンを広く公開することにした。しかし,老眼が入ってきつつあるワシの目にはちとWeb画面の数式は読みづらい。結局,印刷版を買ってみて「こっちのほうが断然きれい!」と嬉しくはなったものの,もうすっかり若くないことを思い知らされて,ちょっと気分が落ち込み気味なのである・・・ま,関数ハンドブックなんてものを面白がっていること自体が年寄りの証拠ではあるのだが。
糸井重里「あたまのなかにある公園」東京糸井重里事務所
[ 1101.com ] \1470
2007年から毎年春に一冊ずつ刊行される,糸井重里の短い言葉をまとめた単行本シリーズも4冊目となった。ワシは欠かさず購入していて,ここでも第一弾「小さいことばを歌う場所」,第二弾「思い出したら,思い出になった」を取り上げている。書いてないけど,第三弾「ともだちがやってきた」も当然購入して熟読している・・・つーか,一つ一つの言葉はやさしい単語で構成されていて短いので,普通に読めば「熟読」になってしまうのであるな。
第四弾にあたる「あたまのなかにある公園」だが,前の三冊と取り立てて変わったところはない。編集担当・永田による文章の抜粋や構成はほぼ同じで,時折,糸井が撮影して「きまぐれカメラ」に掲載した写真が挿入されたり,本の最後の方には「別れ」や,それに伴う「せつなさ」を表現した文章がまとめられているところなども同じだ。そして,毎回,「ふ~ん,これは鋭いなぁ~」と感心するのも相変わらずである。
つーことで,いくつかワシが付箋をつけた文章を引用してご紹介したい。
—-
「プレゼンテーションの時代が,終わるんだよ」
と,ある打ち合わせ中に,ぼくは言いました。
(略)
「ダメ」は,簡単にわかります。
うまく「プレゼンテーション」できればダメにならない,
なんてことは,あっちゃいけないんです。(P.54~55)
—-
そうそう。そう思うよ,昔のじぶんに賛成です。(P.157)
—-
小学校から大学にいたるまで,
学校の勉強が,
ともすれば退屈に思われやすいのは,
問題と答えの両方を知っているものが,
先生という名で,すでにいるからだ。
政治家の言葉が,
どうしてもいやらしくなるのは,
疑いの指先が,
絶対に,相手のほうにしか向いてないからだ。
ぼくが信じられるのは,
自分に疑いの目を向けられる人だ。(P.176~177)
—-
「ねばれ!」しかないんですよね。たいていのことは。
天からの啓示も,ありがたい偶然も,
ねばっている人のところにやってくるわけで,
おそらくそれは「考えつづけている」というのと,
同じことなんじゃないかなぁ。
(略)
おれも,ねばるよ。おまえも,ねばれ。(P.238~239)
—-
それぞれの胸に刻まれたことが,
あとで「よかったな」と思えるようになるといいですね。(P.299)
—-
毎年継続して4冊も購入し,読み続けているワシは,いつも読了する度に「よかったな」と思っている。経験に裏付けされた,素朴な言葉は,毎年ワシをさわやかな気分にさせてくれるのだ。
「土門拳の昭和」クレヴィス,西原理恵子「きみのかみさま」角川書店
[ Amazon ] 「土門拳の昭和」, \2100
[ Amazon ] 「きみのかみさま」, ISBN 978-4-04-874091-3, \1300
土門拳,という名前を最初に意識したのは,やはり水島新司「ドカベン」の登場人物として「土門」なるイカつい投手が現れた時だろう。デカイ体から繰り出される球はひたすら重く,ヒットを飛ばすのが至難の業,という設定だった。それ以来,「土門」=「重量感」という公式が頭にこびりついてしまい,後に,同姓の写真家がいると知ってからも,「きっと重たい写真を撮っている人なんだろう」という思い込みが定着してしまったのも,無理からぬことなのである。
でまぁ,この度,土門拳の写真展を拝見する機会があって,デカイキャンバスサイズに引き延ばされた作品をじっくり眺めることが出来たのだが・・・いやぁ,重たいどころじゃないな,この人,とワシはつくづく本物の凄みを思い知らされることになったのである。で,会場で販売していたこの「土門拳の昭和」を購入してきたのである。
思い知ったのはワシだけじゃないようで,かの大御所マンガ家・西原理恵子も,「でも土門拳の『筑豊のこどもたち』を見たときは,「こりゃ,負けたわ」って思ったけど。」(「ユリイカ」2006年7月号,P.128)とシャッポを脱いでいる。
写真展でもこの筑豊地区の炭鉱街における子供たちを撮った写真が掲示されていた。本書ではP.83~89に納められているものがそれで,腐ってボコボコになった畳のくぼみに座る女の子,両眼両鼻から液体を瀧のように垂らしてして泣く子,ボタ山の急勾配で使える石炭を拾う男の子・・・いやまぁ,ここに掲載されている作品だけでも圧倒させられる力業であることが分かる。景色の「切り取り方」が写真家の世界を形成しているわけだが,土門の目には子供たちの,仏像の,焼き物の,植物のエネルギーが迸るシャッターチャンスだけが写っていたのであろう。いや,確かにサイバラが感服するだけのことはある。
さて,そのサイバラの目にとまった「筑豊のこどもたち」が住んでいた極貧の炭鉱街ができあがった理由を,先のサイバラの発言に続いて対談相手の大月隆寛が次のように説明している(同,P.128~P.129)。
筑豊=ヤバいところ,ってのは最近また若い衆中心にいろいろ言われているようだけど,あれも実は戦後に増幅されたところあるんだけどな。明治になって炭鉱ができて流れ者の炭鉱夫が集まってきて,でも景気は良かったわけでさ。気質的には漁師と同じで「宵越しのゼニは持たん」だからバンバンカネ使うし。そんなのがわずか10年,20年で一気に廃れていったら,そりゃあ,まわりからは異様な眼で見られるよな。(中略)
業田義家の『自虐の詩』ってマンガがあるだろ。知る人ぞ知る名作。業田自身も九州の人間みたいだけど,あそこに出てくる「熊本さん」なんか,キャラとしてもディテールとしてもかなりヤバい。さっきから出てくる高知や筑豊や,なんでもいいんだけど,そういう西南日本の土地がらみ,風土がらみの「貧しさ」とそれにまつわる歴史が凝縮されてるようなところがあって,なんかもう切ないんだよね。でも,そういう「感じ」がいろいろ理屈つけなくても,ピン,とわかるのは,やっぱり西の人間なんだよなぁ。
人類全体として,20世紀に入ってからは,地域にばらつきはあるとは言え,飢餓の発生率は減っているようだし,全体として「豊か」になっていることは余り異論がなさそうだ。しかし,減ったのは絶対的貧困であって,相対的貧困はますます根を深く,全世界的に広まりつつある。
サイバラの最新絵本「きみのかみさま」は,全世界,特にアジア方面の自然風土をバックに,相対的貧困と区分されるであろう子供たちのモノローグで構成されている「絵本」である。この第3話は,フィリピンあたりの都市郊外にあるゴミの山で使えるものを探す少年が主人公だ。まさに,ボタ山を歩き回っていた筑豊の少年と同じシチュエーションである。
そう,このサイバラの最新絵本は,土門拳がかつて撮り歩いた戦後の「筑豊=ヤバいところ」と地続きの貧しさを主題とするものなのである。
前作の「いけちゃんとぼく」は正直余り感心しなかった。少女趣味がサイバラの根底にあることはいいとして,それが地に足のついていない,よくあるファンタジーに留まってしまっていると感じ,映画化したと聞いても見に行こうという気も起きなかったのである。
その反省なのかどうなのかは知らないが,本作は逆に,故・鴨志田譲と歩き回った世界各地の紛争地帯,東南アジアのディープな所に今も存在する「世界」を描いた。そこに根ざした風景に溶け込む子供たちのモノローグが,良い具合に現実とファンタジーの茫漠とした境界面を表現していて,面白く読むことが出来た。貧しい生活をしていても,現代日本で普通に豊かな生活をしていても,子供が成長する過程で必ず抱く哲学的疑問を「かみさま」に託して虚空に溶け込む様を,サイバラブルーを駆使して表現している本作は,たぶん,年寄りの方が読んでいてしっくり来るのではないだろうか。
次の日がくるように
人は生まれたり
死んだりする。
そうして
あの花のさく
向こうへ帰る。
第14話はこうして締めくくられる。
何度か倒れながらも精力的に作品を撮り続けた土門拳は,1979年に脳血栓で意識不明となり,二度と目を覚ますことなく,1989年に亡くなった。
「あの花のさく」「向こうへ帰」った土門は,サイバラにこの「きみのかみさま」を残して逝ったように,ワシには思える。この2冊を並べて紹介したのは,地続きの「世界」を表現していると,ワシは確信しているからである。
速水螺旋人「螺旋人リアリズム ポケット画集」イカロス出版
[ Amazon ] ISBN 978-4-86320-150-7, \2476
いやぁ~,恥ずかしいなぁ~↑・・・この表紙。今はやりの萌え絵から2~3世代は後退したような画風であるが,こう表紙にアーマービキニのファンタジー娘っ子を持ってこられては,なかなか本書の面白さ,速水螺旋人の真価を伝えられないのではないかと,躊躇してしまう。・・・いや,言い訳は良くありませんね,潔く言いましょう。元気な布地の少ない娘っ子の絵,ワシは好きですっ!
・・・ともかく! 本書はまず「ポケット画集」という言葉を裏切る分厚さ(324ページ!,これが入るポケットって!)と内容の「濃さ」において,2476円という,本文は完全モノクロ印刷にもかかわらずド高い定価を裏切らないものであることを,拙い文章で綴ってみたいとワシは思ったのである。
イカロス出版からは既に「螺旋人の馬車馬大作戦」が刊行されているが,これがまぁ,分厚い上に判型がデカい! しかも内容が本書の数倍詰まっているので,まぁ読みづらいったらありゃしない。いや,「読む」などという生やさしい行為を拒否しているとしか思えない作りで,さすがに螺旋人マニアの読者も,著者の同人誌以上にみっちり詰まったものは読みづらいと思ったのか,今回の「ポケット画集」はかなりすっきりした作りになっている。問題は価格で,前作が300ページもあってカラーページも含み,ポケット画集の2倍以上の判型なのに1429円,今回はカラーページなしで2476円・・・これは,プレミア価格設定なのかしらん?
価格はともかく,本書は戸田書店掛川西郷店の小さなタグにある通り,「イラスト集」と言える。TRPGのキャラクターに旧共産圏的メカデザインをまぶして中年SFファン崩れの油で揚げたようなイラストに,短いが著者の「うんちく」(偏っているけど)が入ったコメントが活字で添えられている。チマチマと手書きの小さい文字でみっちりおにゃのこの周囲に文章を書くのも良いが,近年著しく眼力が弱った中年としては,本書のように文章は立方体にゴチック体できちんと収まっている方が断然読みやすくて有り難い。本書が螺旋人を知るための教科書とすれば,前作は,更に螺旋人を探求したい人向けの資料集みたいな位置づけになろうか。
螺旋人の魅力は,宮崎駿にも共通するアナログくさい描線(とおにゃのこの可愛さ・元気さ)もさることながら,糸井重里言うところの「安売り王」であることにある。とにかくアイディアが豊富で,単に可愛いだけの萌え系イラストには15年以上前に食傷しているおっさんを魅了する,イラスト一枚に込められた「設定」の詰め込み度が尋常ではないのだ。鹿島茂のエッセイが,いちいち学術論文に展開できそうな「ひらめき」が込められていることと共通するアイディアのバーゲンセールっぷりが,この元気な娘っ子やオヤジども,軍人,丸っこくて油くさいアナログなメカから伝わってくるのである。そうでなければ単なる「イラスト集」に,しかも2476円も支払って買うわけがない。ひょっとしたら本書を刊行したことでイカロス出版が倒産するかもしれないが,そうなったらなったで,一つの物好きな出版社に自社を滅亡させるまでに惚れさせる魅力があったという証左である。ま,螺旋人の純マンガ集が出るまで潰れちゃ困るんですけどね,ワシとしては。
書き下ろしで3作,各8ページのマンガが納められている上に,螺旋人を形成した書物の紹介が巻末に入っているので,「こういうものを好む人物が日本のマンガ・アニメ文化に育てられるとこういうものを描くように成長するのだ」(そうか?)という偏見を助長するためにも,本書は日本人より諸外国で教科書として活用して欲しいものである。