R. T. Kneusel, “Numbers and Computers”, Springer

R. T. Kneusel, “Numbers and Computers”, Springer

[ Amazon ] ISBN 978-3319505077, \8000ぐらい?

 「多倍長数値計算(仮)」という本を刊行すべく原稿は何とか仕上げたものの,果たしていつ頃完成するのかは全然見通せない今日この頃,いつになったら版下ができるんでしょうか? ・・・ま,予定より1年以上完成が遅れたワシには急かす権利はありませんな。

(追記: 今年秋頃に出るそうです。ワシがサボらなければ。Mさん,慌てさせてすいません。)

 つーことで,いわゆる多倍長計算,GNU MPとかMPFRとかQDとかで,どういうC/C++プログラムを書いたら長い桁数で計算がすいすいできるようになるのかなぁ~という方への(刊行予定の立たない立った)入門書を書いたわけだが,そーゆー本が,この世にないわけではない。日本より何十倍も読者がいる英語の本ならありそうなもんだが,これが案外ない。もちろんこの分野の専門家の書いた”Modern Computer Arithmetic” (by R.P. Brent & P. Zimmermann)とか,”Handbook of Floating-point Arithmetic” (by Muller, et. al.)なんてのがあるんだが,これはゴリゴリの専門書であって「入門書」ではないのである。

 「入門書」とは何か? それは敷居を極力低くした,底の浅い記述に満ち溢れたお手軽な本のことである。「LAPACK使う必要があるんだけど,ググったら大量の解説ページやマニュアルが出てきてゲンナリ」という向きに,お手軽な「とっかかり」を提供すること,そのためには分厚さで圧倒してはならず,古老の如きウンチクを傾けてはならず,記述は簡潔にしたペラペラな本が望ましい・・・という自虐はこの辺にしておくけど,必要以上に厚くする必要はない,つか,「ほんとにその分厚さ必要なの?」というプログラミング書籍が多くてちょっとゲンナリしているのは確かなのである。「敷居を低く,底は浅く」書く,その上で「ストーリー」があれば言うことなし。入門書との相性は,著者が提供するこの「ストーリー」と波長が合うかどうか,そこに尽きるとワシは確信しているのである。

 「ストーリー」とは何か? それはその入門書の目的を完遂するための「流れ」と言い換えることができる。本書の場合,「数とコンピュータ」というタイトルが物語る通り,整数,有理数,浮動小数点数,固定小数点数,区間演算(Pythonによる実装とMPFIの解説がある)などなど,「コンピュータ上で数をどのように取り扱うか?」ということを理解させるべく,その本質的な記述を心掛けつつ,短く適切なプログラム例を織り込んでおり,プログラミングを通じて目的を完遂しようというストーリーがあるのだ。

 これ,ワシにとっては理想的なストーリーなんである。で,ワシもそれに従って・・・といきたいところだが,いかんせん教養がなく,仕方がないので自分なりに持っているノウハウの引き出しをぶちまけた「GNU MP, MPFR, QDプログラミング入門書」になってしまったのは致し方ないところ。それなりにストーリーを作ったつもりであったが,どーもワシの悪癖である「書いてあるからプログラム読めば?」というところが随所に出てしまってかなり解説が舌足らずになってしまっている。・・・という反省ができるのも,先達である本書が優れたストーリーを見せてくれたからである。

 まさに「先達はあらまほしき」なのである。まぁバリバリプログラミングしたい向きにはちと物足りないところはあれど,現代的に「数」の扱いはどうなっているのか,俯瞰的に知りたい向きには程が良い「入門書」と言えるのである。

映画「スターリンの葬送狂騒曲」(原題:The death of Stalin)

Blu-ray, The death of Stalin

[ Amazon ] \2500 + TAX

 いやいや予想外に面白かった。予告編で見た時にはちょっとふざけたテイストで,正直三谷監督作品「清須会議」並みの凡作を予想していたのだが,いやいやどうしてどうして。シビアな政治闘争と苛烈な情報統制・集団指導体制のもろさをシリアスに演出することで,ブラックユーモア的な戯画を作り上げることに成功した佳作である。10連休という史上最も政治的な意図で弛緩しまくった日本の一般家庭に息つく暇を与えぬ豊かな時間を与えてくれた本作に献杯すべく,ぷちめることにしたという次第である。

 古来,「集団指導体制」というものぐらい脆弱かつ笑える政治装置はない。その渦中に入ってしまい,権力闘争に巻き込まれた当事者にとっては悲劇であろうが,遠目で眺めていられる部外者にとってはこの上ない「喜劇」だ。安定しているようでいて,複数メンバーの力の作用反作用によって辛うじてバランスを保っている状態は積み木細工に例えられる。疑心暗鬼の末にバランスがいったん崩れると,崩れきるまで闘争が続くことになる。日本の歴史で言えば,鎌倉幕府初期,源氏の将軍三代から北条氏の執権政治体制に移行するまでは将軍家を巻き込んだ御家人の権力闘争に明け暮れ,まさにこのグラグラな積み木状態が続いていたと言える。嫉妬からくる讒言の果てに殺し合いに至る過程は竹宮惠子「吾妻鑑」でたっぷり堪能できるのでお勧めの歴史漫画である。

 ソビエト連邦の大祖国戦争,米国で言うところの太平洋戦争,日本でいうところの大東亜戦争を強引な恐怖政治と指導力で乗り切った独裁者・スターリンが突然死するところから本作の幕が開ける。スターリンの下で集団指導体制を形成してきた幹部の重しが突然崩れ,一応の後継となるマレンコフは単なる忠実なスターリンの部下でしかなく,当然,独裁的な決断などできるはずもない。となれば・・・ということで,赤い国の歴史に詳しい向きは当然結果は知っている訳であるが,刑事コロンボの例にもれず,犯人が分かっていても逮捕までの過程がスリリングでありさえすれば面白い作品になることは周知の事実。本作も,「マレンコフにいち早くすり寄って一番手にいたはずのあのデブがどうやって除かれちゃうのかしらん?」という下種的興味にキチンとした回答を与えてくれるのである。

 本作の原作はフランス戯曲だそうだが,イギリス人監督が仕切ってくれたおかげで,いわゆる日本凡作(そこそこ楽しめるから駄作とは言うまいよ)にありがちの「どうせ最後はホノボノ落ちか?」と感じさせる嫌な伏線は一切なく,「あのデブ」の末路が一番のクライマックス,怒涛の如く最高幹部会議が展開していくのである。筋書きは歴史に則っているけど,「あのデブ」の最期はヒトラーのそれだよなぁ・・・実際にはもっとスマートなやり方で排除されたのだと思うけど,その辺は限られた舞台俳優だけで物語が進むように「脚色」されている。権力者が自分の手を汚さずに物事を進めることは政治の常道・・・などと野暮なことは言うまい。テンポの悪さをホノボノで誤魔化す癖のある国産ドラマの安っぽさとは対極のシビアな舞台を作り出すことで,それを遠景で見る観客にブラックユーモアテイストを与えてくれる本作は,安直な国民的長期休暇に堕したワシら日本国民に活を入れてくれる傑作なのである。

[絵・文] 速水螺旋人・[文]津久田重吾「いまらさらですが ソ連邦」三才ブックス

[絵・文] 速水螺旋人・[文]津久田重吾「いまらさらですが ソ連邦」三才ブックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-86673-081-3, \1500+TAX

 年末から正月にかけての時間は貴重な読書タイムである。浮世の流行とは無関係に,今の自分の興味だけを追いかけることができる訳で,「ワシ以外の一体全体誰がこんな本を望んでいるんだろう・・・クスクス」などとうそぶきながら,極私的な至福の時間を過ごすことができるのである。そんな一冊がこの「いまさらですが ソ連邦 (ソビエト連邦の略称) 」で,ホント,タイトル通り,今更誰が消滅した,現ロシア連邦の上に乗っかっていた社会主義国家のことを知りたいと思うのか,本書を企画した三才ブックスの編集者の脳天をかち割って見てみたいものである。さらに恐ろしいことには,本書は販売直後に予想外に売れ,慌てて増刷したという,データサイエンスに基づくマーケティングの限界を知らしめた曰く付きのアイテムなのだ。その証拠に,ワシが入手できたのは2018年10月19日の第2刷である。全く,今の日本には変な人種が,少なくとも本書の発行部数程度に存在していると言うことを知らしめたのである。

 1945年5月にナチス・ドイツが降伏し,1991年にベルリンの壁が崩壊するまで,第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカとソビエト連邦は,睨み合いながらも直接武力を交えることなく,互いの同盟国と共に冷戦という競い合いを続けてきた。本書はその米ソ冷戦の一方の極であるソビエト連邦について,基礎的な地理や民族についての知識,ロシア革命からエリツィンに至るまでの歴史,軍事や庶民生活について,速水螺旋人の愛とユーモアに満ちたイラストと偏執狂的な細かい肉筆による文章と,津久井重吾の簡潔な解説によって余すところなく開陳している希有な入門書なのである。速水のぎっちり詰まった文章入りイラストを読みこなすのにえらく時間のかかる厄介さはあるものの,それ故に入れ込んでしまうワシのようなファンも結構いるようで,本書が予想外に売れたのはソ連への郷愁を感じる向きより速水ファンが多数存在していたせいだろう。

 速水のソ連のアンバランスな人工国家への思い入れっぷりは並ではなく,漫画作品,特に近作はモロに大祖国戦争(ソ連における第2次世界大戦に対する呼称)を題材に取った「靴ずれ戦記 魔女ワーシェンカの戦争」は当然として,官僚主義が蔓延る「大砲とスタンプ」も,ソ連の国家体制に詳しい速水ならではのギミックがいっぱい詰まっている秀作である。かようなフィクションのベースは,本書で開陳されているソ連に関する豊富な実知識であり,それ故に,シビアな現実を踏まえた骨太なストーリーを編むことができ,浮つかないユーモアを醸し出すことにも成功しているのである。

 基本,長続きしている国家体制は,外部者にはうかがい知れない生活習慣や社会システムが複雑に絡まって一定のバランスが取れているものである。かの北朝鮮ですら,中国,アメリカという2大国の対立という地政学的要因もさることながら,非道ではあるけれど強烈な思想的締め付けと,小国故に可能な,死なない程度に生きていける食料配布のシステムがあったればこそ,キム王朝が三代に渡って続いているのである。当然,冷戦の1極であったソ連は,資本主義に対するアンチテーゼとしてのマルクス主義と,ロシア独特の農奴制に対するアナーキズム的反発という激烈な社会要因があって構築された人工国家だけあって,理想主義的な行き過ぎはあっても,見果てぬ夢を追いかけ続けるという大義に殉じて果てるまでは続いたのであるから,ソ連側の言う「正論」には一定の説得力はあるに決まっている。本書はそのソ連の正論を,現在の視点から見て分かりやすく津久田の文章がまとめ,速水のイラストが醸し出すユーモアを交えた語りで示してくれる,時流を顧みない良書なのである。

澤江ポンプ「パンダ探偵社」リイド社

澤江ポンプ「パンダ通信社」リイド社

[ Amazon ] ISBN 978-4-8458-6007-4, \670+TAX

 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

 2019年冒頭のぷちめれに相応しい一冊をご紹介したい。内容的には,手塚治虫の「きりひと賛歌」とつげ義春の「鳥男」をミックスしたような動物変化SFモノかと思い,ネットで見かけた第1話を読んでその意を強くしたのだが,今回,第5話まで収録した単行本を読んでみたら大分印象が変わったのである。もちろん,作者が意識したかどうかは不明なれど,本作の世界観は過去の大家の秀作に共通したものがあるが,現代社会を覆う閉塞感の中に清涼なユーモアをまぶしたファンタジー的ミステリー作品なのである。白さを生かしたセンスの良い画風は女性マンガを思わせる品の良さがあり,現代日本マンガがいかに高い峰を築いているか,世界に向けて印籠のように振りかざすに相応しい作品と言えるのである。

 リイド社といえば「さいとうたかを」抜きでは語れない。つーか,ゴルゴさいとうを支えるための会社であったものが,大御所の引退後を見据えたのか,単に経営陣がトチ狂ったのか,伝統的劇画路線とは真逆のマニアックな(かつての)ガロ的漫画作品を出しまくる「トーチweb」サイトを構築したのである。ネットで作品をバラまいてはTwitterで周知しまくるという地道ながらもウザい戦略で,正直,ワシの好む作品はそんなにない・・・つーか,本作以外にちゃんと読みたい作品と言えば佐藤秀峰と肋骨凹介ぐらいかなぁ。特段マニアな人間ではないワシは,作家の本能に忠実なゲージツ的作品ってのが苦手なのである。エンターテインメントに徹した,面白くて読み飛ばせる分かりやすいストーリー運びとコマ割りでないと,近寄りがたいものを感じてしまうのである。

 その点,この澤江ポンプの本作は,ギリギリ受け付けることができるゲージツ性を持ちつつ,しっかりエンターテインメントとして機能しており,マニアでない読み手でも面白く読めるだろう。画力の高さが目を引きつけるのか,読了までに時間はかかったが,それは,白いながらも「意味」を込めた優れた絵に魅了されるところが多いせいだろう。動物や植物にDNA的に変化してしまう奇病が蔓延る閉鎖的雰囲気漂う社会を描写しながら,だから何?と言わんばかりの運命の美しさを表象する。羽を広げた鳥少女(第1話),躍動する水泳アスリートの逞しい肉体(第3話)、ギガンテウスオオツノシカに変化しつつある半獣半人の老人の不気味さと完全に獣化した姿の神々しさ(第4話),抗えぬ運命の果てに現れる美は,エンターテインメントを越えたゲージツ的なものに昇華しているのである。

 主人公はパンダ化しつつある青年であるが,病気のために教職を首になった彼を雇った竹林も実は・・・というところで第一巻は終わっている。続きは今年の秋に出る2巻を待つか,Webで読むしかないようなのだが,ワシは単行本を待とうと思っている。今年の世界は混迷を深めるに違いないので,現実世界に不安を感じつつ本書の続きを読むべきと考えているからだ。マゾ? そう,本書はゲージツ的ムチを振るいながら読者の目を引きつけ,エンターテインメントの渦に放り込んでくれる傑作であるからして,リアル社会にきりきり舞いしていた方が,竹林の抱えている不安と伴走する楽しみが倍増するに違いないのである。

津野海太郎「最後の読書」新潮社

津野海太郎「最後の読書」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-318533-8, \1900+TAX

 齢50近くなると読みたい本の大半が「著者指名買い」で占められてしまって,購入に迷いというものが無くなりつつある。それなりに読書経験を積んできているから,自分の嗜好に合う本の傾向が固定化され,ついには「この著者の本を見かけたら即買い」するだけで月々の書籍代が尽きてしまうのである。マンガならとり・みき,ゆうきまさみ,速水螺旋人,みなもと太郎,吉本浩二,シギサワカヤ,・・・切りがないから止めるけど,エッセイストなら津野海太郎が筆頭に来る。ここでも散々ネタにしてきたので,入れ込みっぷりはそちらをご覧頂くとして,ワシが一番気に入っているのは,津野の達観というか俯瞰というか,自身の立ち位置を慎重に確認しながら書き進んでいく老成した文章スタイルなのである。

 津野自身は齢80歳,老成は当然・・・なのであるけれど,ワシが一番入れ込んで読んだ「歩くひとりもの」の時点で既にこの文章スタイルは確立されていたから,50歳代にはもう老成が完遂していた感がある。本書のタイトル「最後の読書」は,自身の年齢からして,長年続けてきた読書も「最後」かなぁという達観に由来するものである訳だが,老成的な物言いは今に始まったことではなく,年と共にできなくなることは増えつつあっても,できる範囲でやってきましょうという老師的物言いは,ワシみたいな年寄りの序の口に立ったばかりの人間にある種の安心感を与えてくれるのである。

 例えば,冒頭の鶴見俊輔の最晩年の「知的活動」について述べた文章は,悲しみよりも希望を感じさせてくれる前向きなものだ。病魔に冒された結果,声も手も動かなくなった鶴見だが,アウトプットはできなくなっても,読書というインプットは最後の最期まで行っていた,という記述に込められた希望的結論「鶴見さんも半睡半醒のまま笑っていたんじゃないかな」(P.18)は,単なる津野自信の勝手な思い込みではない。アウトプットができる時につけていた鶴見のメモ「もうろく帳」の記述に基づく実証的なものなのである。京都の良心的な書肆がまとめた「もうろく帳」を繰りながら,ははぁ・・・なるほど・・・こうかな・・・どうかな・・・そうか,なんて考えなら思考を繋げていく,その過程を読者に開陳しながら説得力と同時に希望を運んでくれるんだから,名人芸だなとため息が出てしまう。

 紀田順一郎の蔵書一括処分についての記述は,紀田に同情しつつも,まぁ年なんだし仕方ないんじゃないの,という恬淡としたもので,「紀田さんは三万冊の蔵書をなんとかみごとに処分してのけた。八十歳でも,やろうと思えばやれる。そのことを身をもって証明したといってもいい。その意味で紀田さん,あなたは大量の蔵書に悩む人びとやその家族にとっての老英雄なのですよ。」(P.107)となる。電子書籍がその福音となるべきところ,それも期待できないという現状ではねえ・・・と,津野の文章は続いていくのだが,この辺の感想については,既にマンガや専門書をKindleで140冊買っているワシは少し異なる。とはいえ,その年齢層なりの達観なのであろうということはワシも同意するのである。

 老人の賭場口に立つワシとしては,現状でもかなり物忘れや流行への対応能力の欠如に嫌気が差しつつあるのだけれど,本書に収められた文章に示される津野のゆったりした構えを見習えば,老いぼれたとて,そんなに悲惨なもんでもないのかもなぁと少し安心するのである。読み応えのある堅い本を読みこなせなくなる代わりに,ゆったりしたペースで古典に親しむことができる,というメリットも示されており,2008年に和光大学を七十歳で定年退職した時に「出版であろうと大学であろうと,他人といっしょにやる仕事はもういいだろうと,心底,そう思った」(P.99)今後の著作を楽しみにして「著者指名買い」していきたいと思っているのである。

 2018年にお世話になった方々に厚く御礼申し上げます。来年もよろしくお願い致します