小谷野敦「反=文藝評論」新曜社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7885-0859-1, \2400
 コヤノ先生の本は,いつ出版されたのか,その動向が掴みづらい。筑摩書房のように,新刊情報が手に入りやすい大手(でもないか)の出版社なら何とかなるのだが,単行本onlyのマイナー系出版社だと,こちらがWebをマメにチェックする必要がある。で,本書も長らく出版されていることを知らず,仕事が一段落して欲求不満を解消すべく,八重洲ブックセンター本店に突入して目を皿のように棚をサーチしている時に発見したのである。ん,もう,コヤノ先生ったら水くさい(誰に言っているのか)。
 何でこんなにコヤノに入れ込むのか,というと,文章の面白さ,論理思考の強さと共に,感性が自分と似通っている,という点も大きいようである。本書は「反」文藝評論と銘打っているが,それは自分が「文藝評論家ではないから」ということであって,内容は文藝の評論,そのものである。相変わらず,わし自身はここで取り上げられている小説をまるで読んでおらず,村上春樹も右に同じという有様である。んで,小説の内容に照らしてコヤノ先生の論旨がどうなのか,ということを論評する立場にはない。が,コヤノ先生の文章そのものは全面的に肯定し,面白いと感じる。これじゃまるでパロディの元ネタを知らずに,パロディそのものを楽しんでいるようではないか。しかしそれが可能なぐらい,コヤノ節は世間に認知されているのである。そうでなければこれだけ多くの著作を世に出そうと,出版社が考えるはずがない。
 にも関わらず,コヤノ先生は「作家専業でやるつもりはない」とおっしゃる。理由はあとがきに書いてあるので,ここでは触れない。しかし・・・うーん,才能のカケラもないわしからみると,誠にもったいない。生活はそれほど豊かではなさそうであるが,一応食えているのであれば,小熊英二が「本とコンピュータ」最新号で述べているように,そのままフリーの学者,ときどきエッセイストとして活躍した方がいいように思えるのだが・・・というのは,学校出てからこのかたずーっとサラリーマン生活をしている者の「隣の青い芝」的考えなんでしょうかねぇ?
 本書の内容そのものについては,前述の通り,論評する立場にないので触れない。しかし,取り上げられる評論家の言い分をあれこれと詮索し,比較し,反駁する,という「文系」のガクモンの有り様が炸裂していることだけは述べておきたい。学者先生稼業は頭の勝負と思われがちだが,旺盛な脳細胞の活動を支える「体力」の方が,実は重要なのである。軟弱者を自認するコヤノ先生であるが,こと本業に関する限り,恐ろしく精力的なのである。

小林よしのり責任編集「わしズム Vol.8」幻冬舎

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-344-00390-X, \952
 戦争論3が出版されて,編集長の漫画二編が無事帰ってきた。これが一番の目当てなんだから,休まれては困る。後の連載は後回し。
 んが,ボチボチ主張が固まってきたこともあって,繰り返しが多くなってきた。故に,読者としてはちと飽きてくる。今は中断している仏教論をまとめて一冊にしてくれないものか。
 戦争論3出版後のよしりんは相変わらず忙しく全国を飛び回っているようだ。金沢の護国神社へ行ったと思えば,新装開店して大にぎわいのJR札幌駅隣接のホテル日航に一泊し,洞爺湖のウィンザーホテルに宿泊したとのこと。
 それはいいのだが,洞爺湖の豪華ホテル,拓銀破綻を知るものとしては複雑な感慨を持ってしまう。カブトデコムに膨大な資金融資を行った結果,取り返しの付かない不良債権を背負ってしまったのが直接の原因なのだが,その投資先の一つがこのホテルなのである。
 今は普通に運営されているようで喜ばしいが,その豪華さの裏には札幌に本店があった唯一の都市銀行の倒産劇があったのだ。それを思うと,今回のゴーマニズム宣言EXTRAを素直に楽しめないのである。ま,よしりんに罪はないのだけれど・・・ね。

桂米朝×筒井康隆「対談 笑いの世界」朝日選書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-02-259835-2 \1200
 人間国宝&文化功労者の噺家と,シュバリエ賞&紫綬褒章作家との対談をまとめたもの。筒井によれば,新聞に掲載されたのはこれのダイジェスト版で,「限られた紙面」であったために「面白い部分は大きく割愛」されたものだったそうである。4時間に渡る長丁場の対談にしては「朝日の謝礼というのは失礼ながら恐るべき低額」なので,本にすべきと筒井は主張し,もう一度対談を重ねて本書が出版されるに至った。
 米朝という人は,私がものごころついた時には既に上方落語のの大御所で,オーソドックスな噺家というイメージがあった。が,噺を聞いてみると,マクラでは時事ネタを織り込んで観客を引きつけるだけの現代性を持っており,伝統芸能としての落語をタダ語るだけの人ではない,ということが段々と分かってきた。「大物」というのはこーゆー人のことなのであるな。小松左京と親交があるだけあって,SFを含めて本をよく読んでいるよなあ,と感心する。本職の落語に至っては,ちくま文庫から自身の解説付きの選集が発行されているが,まあ底知れない知識があって,弟子のざこばに言わせると「広うて深うてむちゃくちゃやしね」となる。
 といっても,それだけ深いと自らその知識を披露するにも限界があり,引っ張り出すだけの力量を持った相手が必要である。本書の対談は,勿論,大御所同士のタッグを見せる目的で設定されたものであろうが,さすがに筒井は一歩引いて,米朝の底知れぬ知識を読者に開陳するべく,楽しみつつも奮闘しているように感じた。
 んで,読んでいる方と言えば,古典芸能には全くもって暗い上,大阪の知識が皆無であるから,脚注は充実しているとはいえ,よく分からない部分が多い。それでも,語られるエピソードの多くに感心したりにやりとしたりさせられ,一気読みしてしまった。「分からない部分もあるけど,そこも含めて面白い」という楽しみ方が出来れば,なおよし,という本である。

内田樹「ためらいの倫理学」角川文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-370701-0, \629
 学者さんの書いた本は文章が晦渋で分かりづらいものが多い,と巷間よく言われる。ま,ね,一昔前,研究室でふんぞり返っていられた時代なら,それは権威の象徴を高める小道具になったかもしれないが,今は全く逆である。いかに分かりやすく,しかも内容のレベルを落とさずに語れるか,その能力が学者先生の評価を定める基準となっているのである。
 問題は,そーゆー,分かりやすく人に伝える文章を書く訓練を,大学とゆーところは全く教えてはくれなかった,とゆーことにある。せいぜい「ゆー」ではなく「いう」と書け,という「てにおは」チェックレベルが,卒論指導で行われる程度であった。故に,分かりやすい文章を書く能力は,分かりやすい文章をたくさん読んで自学自習で習得せねばならなかったのである。
 そこで本書の著者,ウチダは「小田嶋隆」を学習し,その結果,分かりやすい文章を身につけるに至ったのである。よって,随所にオダジマ風文章が出現することになった。
 オダジマ風文章の特徴に,吐き捨てるような短いセンテンスで改行し,ハードボイルドのパロディ的な雰囲気を出す,というものがあり,本書でも至る所で出現する。例えばP.236の
 これではブランショ的な無限後退だ。
 「おれは自分の背中を見られるぜ」
 「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
 「というおまえの背中を俺は・・・」
 うんざりだ。
 やめよう。
なんてのは正にそれである。論理的な文章の最後の締めがこれぐらいピッタリ填ってしまうと,お見事としか言いようがない。
 解説の高橋源一郎曰く,「極端ではない思想」が詰まった,コヤノが言うところの「中庸」が徹底しているオダジマ風思想書は大変に面白い評論集であった。んが,それは「極端」を知っていなければ面白がれない代物ではないかという気もする。商業的にはやっぱり薬より毒を持っている方が重宝がられるから,たくさん読むと「ああやっぱりどっちつかずの結論ね」と飽きられてしまいかねない。保守と革新(というくくりももはや有効ではないような気がするが)のどちらにもなじめず,「ああ,俺はどっちつかずの人間なんだ」と気が付いた時に本書を読めば,「それもありなのね」と気が楽になる。が,たくさん読んでは飽きてしまう。適度に服用してこそ役に立つ思想の常備薬,というのが,私にとって一番ピッタリ来る表現である。

加藤唯史(画)・光瀬龍(作)「ロン先生の虫眼鏡 1」秋田文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-253-17881-2, \657
 いやあ懐かしい懐かしい。週刊少年チャンピオン黄金時代の良心的漫画作品がついに文庫化された。原作者は逝去されてしまったが,わたしゃこの人の名ををこの作品で知ったので,つい最近までSF作家という認識がなかったぐらいである。
 ロン先生という渾名(本名は如何に?)のビンボー学者が主人公の地味な作品であるが,脇役に元太というコメディリリーフと,洋子という色気のあるヒロインを配置して,生物にまつわる知識を織り込みつつ,オチのある質の高いユーモア短編になっている。コドモだったわしは楽して知識を得られる学習漫画が好きだったが,これは「学習」という意識を全く持つことなく,純粋なエンターテインメントとして楽しんだことを覚えている。
 惜しむらくは,時代を先取りしすぎていて,相応しい評価を得られずに連載が終了してしまったことにある。岡崎二郎がきちんとした科学知識を織り込んだ短編でそれなりにヒットしたことを思えば,漫画の人気が絶頂期を終えた1990年代後半あたりに登場していれば,楽にどっかの漫画賞を獲得していただろう。
 前述の通り,原作者は逝去されているから,今となっては作品を継続することは不可能である。んでも,こうやって文庫化されて,旧作といえども復活したのであるから,是非ともここでこの作品の先見性を評価してやろうではないか。日本にも誇るべき「ファーブル昆虫記」に匹敵する漫画があったのだ,と。