久住昌之(原作)・水沢悦子(漫画)「花のズボラ飯」秋田書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10452-4, \900
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 えらい評判になっている漫画なんだが,秋田書店のレディース漫画雑誌に連載されていた作品というので買ってみたのだが,確かにこれはスマッシュヒット,人様がほめるだけのことはあるワイと感心した。そーいや,今日マチ子の「cocoon」も話題になったが,これも同じ秋田書店のレディーズ雑誌に掲載されてたな。夢路行の長期連載「あの山越えて」もそうだし,坂田靖子先生もご推薦の「嫁姑の拳」もここ。漫画家再生工場・秋田書店と言われるだけあって,他社から移籍組が多いが,それ故に計算外としか思えないような意外なヒットが生まれるのであろう。
 で本作だが,なるほど面白い。どう面白いかというと,ちゃんとレディース漫画の特徴であるところの芳醇なエロスを意識した表現に満ちており,いちいち主人公のハナコが「うまい~」とグルメ漫画の決めゼリフを叫ぶ顔のアップが濡れ場のエクスタシー表情になっているのである。それでいて三十路過ぎの立派なオバハンも,お隣の40年前にタイムスリップしたようなネイチャーカップルも,離れて暮らすハナコの両親も全員5~6等親の可愛らしく,暖かみのある柔らかい描線で描かれており,料理も背景もみっちり書き込まれていて,雰囲気としては「レディース版クッキングパパ(女性だけど)エロス入り」なのである。これなら普段レディース漫画を読み付けない男どもにも抵抗なく読んでもらえる。久住昌之と水沢悦子のコンビを誰が思いついたかは知らねど,この相性の良さを見抜いてのこととすれば,かなりの慧眼の持ち主である。偉い。あ,今気がついたが,ワシが好きだった「ビンボー生活マニュアル」とも似ているよなぁ,この画風と雰囲気は。
 ワシが購入したのは第4刷。こりゃ間違いなく秋田書店内部はおろか,漫画業界全体としてもヒット作である。久住昌之+谷口ジローによる「孤独のグルメ」に代わり得る本作,続編を期待して待ちたい。

[映画]「毎日かあさん」監督・小林聖太郞/主演・小泉今日子

[ 公式ページ ]
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 正直言って,全然期待していなかった。どーせベタベタの人情くさい演出のファミリー映画なんだろうと高をくくって観に行ったのである。
 そしたら全然裏切られてしまったのだ。ベタベタどころかウェットに描くべき所もさらりと流し,淡泊な引きの画面にサイバラブルーの海を重ね,静かに情景を描写するのだ。そう,だから,文芸映画っぽいなぁ,というのが第一印象。もちろん,ストーリー自体は4コマ漫画が原作の「がんばれ!!タブチくん!!」「ホーホケキョとなりの山田くん」同様,細かいエピソードは原作から拝借してちりばめつつ進んでいく型を踏襲しているのだが,ギャグを強烈にアピールするような演出は一切なし。クスッと笑ってもらう程度のおとなしい,平板なものになっているのだ。
 それ故に,原作の第4巻のエピソードを中心に,アルコール依存症になってしまった,永瀬正敏演じる鴨志田氏のダメっぷりと,自身のダメさ加減にうんざりしながらも家族を想い続ける様子が印象に残るのだ。
 脇を固める俳優陣が結構豪華で芸達者なのに(柴田理恵,鈴木砂羽,大森南朋,古田新太),はっちゃけた演技はさせていない。主演の小泉今日子と永瀬一家のの営む日常の風景の中に自然と溶け込んでいて,かえってこの監督の個性が光っているなぁと感じられたものである。
 西原家の長男/長女を演じる子役の二人の舌っ足らずさだけが唯一ベタさを加えていたが,あまり嫌みさを感じさせないのも良し。
 しかし,ジャージ姿の小泉今日子をはじめとする中年女優陣,みんな色っぽかったなぁ・・・。着飾った化粧べたべたの女性よりよっぽど魅力的に見えたのは,監督の演出のせい,というより,ワシ個人の好みなんでしょうけどね。
 原作を漫画に頼るTV資本の作品ばかり蔓延る昨今の邦画界の風潮にはあまりいい感じがしなかったのだが,観ずに批判するのは良くないな,と反省させられた佳作であった。原作には描かれていないリアルなアルコール依存症の描写,治療の風景も挿入されているから,アルコール依存ぽい家族がいる人にも参考になる点が多いだろう。その点もよく練られた作品と言える。二重丸。

P.B.MacIntyre, 長尾高弘・訳,PHP –The Good Parts–, O’Reilly Japan

[ Amazon ] ISBN 978-4-87311-478-1, \1800
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 UNIXのテキストを書き直している。まだ作業途中ではあるが,まぁ型は決まってきたのでとりあえず公開してある。これから更に2章分追加して全体を整えて,最終締め切りが2週間後,2/18(金)なので,そこまでギリギリと作業を行うつもりである。
 UNIXテキストとか言いながら,実質はC/PHPプログラミングのワークブックであって,演習のための最低限のCUI操作を教えたあとは,文法なんか後回し,とりあえずこう書けばこう動く!,分かったらちみっとカスタマイズしてこういう動作をするようにしてごらん,という調子で自学自習ができるようになっている。・・・というのが謳い文句だが,正直言ってこういう作りのワークブックを大学のテキストとして用意するってのはどーなんだと思わなくはない。
 高校までの数学を単なる計算演習だと思い込んで疑わない層に,定理の証明を考えて次の定理を導く手がかりにし,理論体系の構築まで理解させる,とゆー本来の数学を教えることは至難の業である。プログラミングも同様で,文法を教えてサンプルプログラムを実行してその動作を理解し,言葉だけで書いてある演習問題を自力で解かせる,とゆーごく普通の「学習」が可能なのは結構まともなレベルなのである。試行錯誤を自分で行えない,つまり,躓いたら起き上がれない状態の子供に,「自分で立て!」とスパルタ教育をしたところで虐待,下手すりゃアカハラになる。「昔はこうやって鍛えられたもんだ」などという世迷言は通用しない。職のない優秀な若いDr.はゴマンといるんだから,昔を懐かしむだけの馬鹿ジジイはさっさと引退して席を作ってやれ。
 今求められているのは,学生個々人のレベルに合わせた学習であって,逆に言えば,学習の「結果の平等」は二の次でいい,ということでもある。受講生の満足が第一なのだから,満足した結果が世間的にまるで通用しないレベルであってもそれは「自己責任」。ただし,世間並みの知識は与えましたよ,拾わなかった(or 拾えなかった)のはそちらの責任でしょ?,という説明責任を果たすぐらいのことは教師の最低限のモラルである。安くない学費を貰っているんだから,当然である。
 だから,このスタイルのワークブックが,現時点でワシが考えるベストな形なのである。とりあえず書いてある通りに打ち込めばコマンドもプログラムもスクリプトも動く。でも,打ち込みながら「どういう原理なんだろう?」という「学習意識」が働かなければ,単なるキーパンチャーとして半期の講義を終えることになる。逆に,きちんと理屈の理解ができていれば,文法理解は荒っぽいけど,「こーゆーことができるんだ!」という,それなりに有用な経験として作用するはずである。この学習効果の差を,逐次レポートや提出課題を出させて確認し,成績を付ける。キーパンチャーでも真面目にやっていればC,そこそこ理解できていればB,完璧に理解して少し抽象度を上げた課題もこなせるようならA,という感じである。・・・ま,そーゆー講義ができているか,この評価基準がしっかり守られているかと言われれば,マダマダ,なのであるけれど,理想はそんな感じ。それを実現するためのテキストが自作のワークブックなのである。
 しかしながら,本来のプログラミング教育ってこんな安易なモンじゃないだろう,という割り切れない気分はまだ残っている。本書は,O’Reillyのプログラミングテキストとしてはかなり薄手ながら,ワシが未だに未練を残している「本来のプログラミング教育」を実現したものとして,折に触れて読み返したい「スタイル」を持ったお手本なのである。
 PHPのテキストと言えば,同じくO’Reillyから出ているPHP本が筆頭であろうが,これをテキストとして使うのは,少なくとも日本の2流以下大学では無理である。せいぜい参考書として紹介し,その中から適切な解説を抜粋して講義のネタに使うぐらいが関の山だ。O’Reillyに限らないが,邦書のPHP本でも講義テキストとして使える適度な厚みを持ったものは殆どない,とゆーのがワシの実感である。分厚すぎるのである。
 その点,本書は理想的だ。本文は158ページしかないが,PHPの文法の解説からデータベースプログラミング,クラスの例示,JpGraphによるグラフ作成からPHP 5.3の新機能の解説まで,短いが要点を踏まえた文章で綴っている。欧米人の書いたものってホント分厚くて嫌になることが多いんだけど,これは真逆。まぁ,「言いたいことはコードに書いてあるから読み取って」とゆーことなんだろーな。具体的な例を次々に”Good Parts”として紹介していくのはコギミ良くて素敵だ。
 何よりいいのは,ちゃんと解説文を読み解いて「機能」を頭の中で咀嚼して進んでいかないと,まるで学習ができない,という点である。打ち込めば動作するコードが書いてはあるのだが,文章による解説の補完という程度のものが多く,それらのコードの動作を理解するためにはそれ以前の記述をきちんと頭に入れておかないと理解不能という構造になっている。普通のプログラミングのテキストってこーだったよな,と思い起こさせてくれるスタイルの入門書なのだ。
 PHPに限らないが,オープンソースな開発環境はリファレンスを必要なときにオンラインで参照するのが普通だ。検索するのは当たり前だし,PHPなら公式マニュアルを使わない開発者は皆無だろう。だから分厚い解説書はもはや不要・・・とは思わない。むしろ,きちんとした解説をしたいと思うのなら,ますます分厚いICT本にならざるを得ないのだ。
 それは,断片的な知識を探すことが容易になった今だからこそ,それらを有機的につなげる糊としての解説がますます重要性を増しているからに他ならない。誰でも容易に入手して使えるパーツがゴマンとあるからこそ,それらの組み合わせの数は膨大なものになるのだ。どれをどう組み合わせてどういうことができるのか?・・・初心者であればあるほど,自身にあったレベルの入門書が,このインターネットに散らばる知識の集め方と使い方を例示してくれる最初の羅針盤として不可欠なのだ。羅針盤としての入門書としては,しかし,薄いに越したことはない。・・・このあたりのサジ加減が難しい。
 ワシが書いているワークブックは最底辺層を掬い上げて,情報社会に飛び込むための助走をさせる程度を目指している。しかしそれでは「やりがい」を見出せない,学習の甲斐がない,というちょっと意欲のある向きが最初にPHPに取り組むための入門書として,良いパーツ(The Good Parts)を手際よく解説している本書はお勧めのものと言えるだろう。

横田増生「潜入ルポ アマゾン・ドット・コム」朝日文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-02-261684-5, \880
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 下世話なタイトルだなぁ・・・というのが本書を文庫新刊コーナーで見たときの第一印象である。きっとグローバルスタンダード許すまじ,派遣労働者搾取ハンターイとゆー聞き飽きたスローガンで終わるのであろうと思いつつ,生まれつき下世話なワシはいそいそと本書をレジに運び,この正月に読み始めたのである。で,一気呵成。ゲスな好奇心もある程度は満足させてくれるが,それよりも,予想外に客観的データの裏付けがしっかりなされた論考が多くて,う~む,さすがアメリカ仕込みのジャーナリズム作法を身に付けた著者だけのことはある,と感心させられる。
 毎週ほぼ欠かさず視聴しているvideonews.com主宰の神保哲生曰く,ジャーナリストの基本は「一歩前へ」だそうで,この「一歩前」の意味は,著者・横田増生がディズニーランドにほど近いAmazon.comの物流センターで,一アルバイトとして「潜入ルポ」したことはもちろん,もっと深いAmazonの売上高の調査等,客観情勢の「分析」も含んでいる。文学的修飾詞が少なく,イデオロギー的ドグマ臭も皆無である本書は,「一歩前へ」踏み込んだジャーナリストの成果物としてはもってこいのお手本教材なのでは,と思えてくる。
 ちょろっとネットを検索してみれば分かるが,Amazonの物流センターの様子は結構あちこちから発信されている。もちろん匿名情報だし,信頼性については疑問符が付くような自己擁護的物言いが多いが,その中でもVIPのこれは,回答者が分かりやすく的確に短い受け答えをしていて感心させられた。で,本書の記述と比べながらざっと読んでみたが,センターの規模は売り上げに比例して大きくなっているようだが,基本的に派遣労働者によって支えられている職場であり,冷暖房なしで立ちっぱなし,とはいえ無体で過酷な労働かというとそうとも言えない,という点は著者が潜入した2003年末~2004年とあまり変わっていないようである。人の入れ替わりが激しい,ということは褒められた話ではないが,誰でも来る者拒まずで受け入れ,短期で働きぶりを見た上でこまめに労働契約を結びなおす,という点ではコスト削減に忙しい昨今の日本の労働環境とさほど変わらないとも言える。
 本書の記述で何より面白いのは,冷暖房のない職場にぶーぶー言いながらも資料集めにAmazonを使いまくる著者の矛盾的姿勢だ。とにかくAmazonぐらい顧客サービスが徹底している通販も珍しいのである。
 ワシの経験を紹介しよう。Amazon立ち上がってまだ日本法人もなかった20世紀末,注文したものと違う洋書が送られてきたことがあった。早速メールで問い合わせると,お知らせいただきありがとうございます,返送は結構ですので,ご不要ならばどっかの図書館に寄付して下さい,という返事が来て感動した覚えがある。まぁ返送してもらうよりは正しい注文品を再度送った方がコスト的に安いってことなんだろうが,横田が本書で指摘する通り,かつての日本の書店の態度の悪さ,発注のめんどくささ・不正確さに比較すると天と地の差があるなぁと思ったものである。以来,ワシは毎月なにがしかの商品をAmazonに発注するようになったが,今のところトラブルにあった経験はない。本書に記述はないが,Amazonに日本進出を決意させた理由は,送料が高いにもかかわらず洋書の注文が日本から大量に来た,ということも大きかったようである。こんだけサービスが良いんだから,横田に限らず,書籍資料が必須な商売でAmazonを利用したことのない人間は皆無であろう。
 著者は言う(P.101)。

 私はその後も,何人もの(注:同じAmazonの物流センターで働く)アルバイトに「これまでアマゾンで買い物をしたことはあるか」と事あるごとに尋ねてみたが,「買ったことがある」と答えたアルバイトは一人もいなかった。
 (中略)
 つまり,センターを這いずり回るようにして本を探す人と,自宅のパソコンから本を注文する人とは違う人たちなのだ。アマゾンの安くて迅速なサービスを享受する人と,それを可能にするために労働力を提供している人たちとは,ある意味別な階層に属している。
 以後,私の心の中には,職場としてはこの上ない嫌悪感を抱きながらも,一方利用者としてはその便利さゆえにアマゾンに惹きつけらていくという相反する気持ちが奇妙に同居していく。
 そしていつまでもその気持ちに,居心地の悪さを感じていた。

 本書読了後,ワシは何の躊躇もなくアマゾンに発注できなくなっている(でもしちゃうけど)。その時の気分は,全く上記の通りである。
 Amazon創業者のペゾスが目指した顧客第一主義は正しい,コスト削減努力も正しいし,正社員登用という餌も冷暖房もない物流センターの環境に希望はないにしろ非人道的というほど過酷であるとも言い切れない。しかしAmazonが躍進した結果,解説で北尾トロが指摘するように,書籍販売の業界は,古本も含めて「緩やかな自殺」をしているような有様である。
 誰が悪い,という話ではないことは確かだ。本書は「一歩前へ」進んで調査した結果を提示し,多分,ワシらに処方箋を見つけさせるという,「一歩前へ」進むための思考回路を開いてくれたのである。

須藤真澄「ナナナバニ・ガーデン 須藤真澄短編集」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375982-2, \838
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 ここんとこ,毎年大晦日にご紹介する作品は,ファンタジー漫画と決めている。特に理由があるわけでなく,好きな漫画に少女マンガ系統のファンタジーが多いこと,そしてそれを一年の締めくくりの日に紹介することが相応しいように思えてきた,という程度である。
 「ファンタジー」の定義は人それぞれで,SFチックな妄想から,限りなくノンフィクションに近いものも含まれてしまう。しかしその幅広い定義に共通する「芯」に当たるものに,「「こうあってほしい」という願望が含まれていること」があると,ワシは確信しているのである。それは宗教に通じる,古来から人間が抱き続けてきた根拠なき期待であり,翻ってみれば,思うようにならない現実世界からの逃避願望というものかもしれない。在野の人々の根拠なき希望,無責任な逃避願望を肯定してくれる存在の一つとして「ファンタジー」というジャンルの読み物は今も昔も支持されている(きた)のだとワシは思う。だから「癒し系」という呼び名が登場した時は,「うん,ぴったり!」と広く受け入れられたのだ。
 その意味では,須藤真澄はまごうことなき「ファンタジー」漫画家である。エッセイ漫画を描いても,フィクションを描いても,須藤真澄の作風は微動だにしない。いや,デビュー間もない時期の作品(「マヤ」に収められているよ!)は,大きな揺れが見られ,あの独特の描線「つーてん」(主線が,長く伸ばした水滴のような形の点線になっている)も,試行錯誤の結果生まれてきたもののようだ。しかし一度固まった芸風は,わずかに変化しつつも(つーてんがちょっと間延びしてきた等),そのまま今に至っている。本書に収められた作品は2002年から2010年までの短編であるが,正直,読んだだけではどれが最新作でどれが8年前のものだか全然分からない。掲載誌も,まんがライフオリジナル(竹書房),アフタヌーン(講談社),徳間書店とバラバラであるが,全く変化というものが見られない。つか,須藤真澄という一個人一ジャンルが確固として確立していて,「ますび先生の作品を載せたい」という依頼をしているようにしか思えない。「ますび先生に細かい注文出しても無駄」と思われているのだろうか。いや,多分,「ますび作品」が読みたい読者がいて,それに応えようとしての掲載なのだ。BLを描こうと男女エロ(読んでみたい・・・)を描こうとミステリーを描こうとSFを描こうと,それはすべて須藤真澄ファンタジーになってしまうのである。
 だから,「須藤真澄ファンタジー=ハッピーエンド」というステレオタイプな理解は間違っているのだ。どんなエンディングであれ,ますびファンタジーの作用によって,ハッピーと思わされてしまうのである。それが一番よく分かるのは,飼い猫との別れを描いた名作「ながいながい散歩」であるが,本書でも,最新作「サンドシード」は,結構悲劇的な話にも演出できるだろうに,須藤真澄はそれを決してしない。何故か?
 それこそが須藤真澄を不動の「ファンタジー」作家と屹立させている源泉なのだ。どんな現実であっても,希望に満ちたエンディングに収めてしまう,その「力量」こそが須藤真澄をして20年以上もポツポツと作品を生み続けさせているのだ。その「希望に満ちたエンディング」こそが,「ファンタジー」の確信であり,だからこそ,須藤真澄はファンタジー作家の代表格と言えるのである。
 この年末,気温も財布も寒い一方であるが,まずは飯が食えて生きて年が越せることを「ハッピーエンディング」と考えれば,来年への希望を託す意味でも,本書を読みながら須藤真澄の描く「バニ」に乗ってゆらゆらとこの2010年最後の一日を過ごしてみるのは悪いことではない,と,ワシは思うのである。

2010年,皆様から受けたご恩顧に感謝します。
来年2011年も,よろしくお願い致します。