吉本敏洋「グーグル八分とは何か」九天社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86167-146-9, \857

グーグル八分とは何か
吉本 敏洋著
九天社 (2007.1)
通常2-3日以内に発送します。

 アマゾンの書評を見る限り(2007年3月16日(金) 20:29時点),本書に対する評価はまっぷたつに分かれている。支持する向きは本書が「Google八分」なるものを公の場にさらしたことを評価し,そうでない向きは著者の一方的な感想を書き連ねただけの本だと批判する。
 ワシの結論は,

両者の言い分はどちらも正しい

ということに尽きる。本書を読むことなしに「Google八分問題」を語ることは,他に類書が少ない今の時点では片手落ちと言わざるを得ない。しかし,本書の言い分だけで「Google八分問題」を結論づけてしまうのもまた片手落ち,なのだ。
 著者は,その筋では有名なサイトである「悪徳商法?マニアックス」を主催する管理人beyond氏である。サイトの文面や本書の記述を読む限り,飄々とした2ちゃんねるのひろゆき氏とは正反対の熱血漢とお見受けする。そして,詐欺的な商売をする輩を糾弾する姿勢,度重なる圧力や抗議にもめげず,サイトを維持し続けている姿勢は尊敬に値すると,これはイヤミでもなく褒め殺しでもなく,そう感じる。
 そして,本書を書くきっかけとなったGoogle八分は,この著者のサイトの情報に関連して起こったものであった。実際,「悪徳商法?マニアックス」でGoogleると今でも(2006年3月16日(金)現在),削除された情報がある旨が検索結果の下に表示される。どうも,著者のサイトにある某詐欺的商法の情報に対して抗議を受けた事による「Google八分」であるらしい。
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 著者はGoogle日本法人への問い合わせを行い,名誉毀損の疑いありと判断されてしまったことを確認したが,どのように該当ページを修正すれば再掲載されるのかを問うてもはかばかしい返事は得られない。佐々木俊尚氏がこの件に関してGoogleにインタビューを行った結果,Googleとしても判断を迷った削除であることは判明したものの,上記のように,今現在もGoogle八分状態は変わっていないのである。
 本書にはそれ以外のGoogle八分事件が紹介されているが,中国政府による検閲・朝日新聞による削除養成に関する報告を除けば,大部分のGoogle八分の事例は「悪徳商法?」に関連している事例である。それに気が付いたあたりから,ワシは「これは・・・自分の受けた被害を肯定する資料を積み重ねるだけの本か?」という疑念がついて回り,本書のタイトルから受けていた「Google八分問題を総合的視点から議論する書」というイメージがガラガラと崩れるのを感じたのである。
 従って,
議論の底が抜けている

という印象を受けた読者が批判的な書評をするのは,至極自然な成り行きなのである。
 第4章の「グーグル八分と表現の自由」では,弁護士と図書館協会の方にインタビューを行っているが,ここが本書で最も議論が開かれている部分である。ここがなければワシは本書を「Google八分が理解できる本」として紹介することはなかった。そして,このお二人の話を総合して
 ・Google八分の問題は,そもそもサーチエンジン市場におけるGoogleの占有率が高いことに起因している
 ・Googleは情報を削除する基準が曖昧であり,それ故に「表現の自由」を犯す危険が高い
 ・Google八分そのものが悪いというのではないが,可能な限り,情報は検索・閲覧できるようにしておくべきである
という,かなり多くの賛同を得られるであろう主張を取り出すことができるのである。逆に言えば,この辺を立脚点にして議論を進めていけば,Amazonの書評のように評価が分かれる本にはならなかったのではないか。更に逆に言えば,このような客観的な視点が少ないということが,本書の一番の特徴であり,好き嫌いの別れるところなのであろう。
 個人的には,「そもそも何でGoogleだけが情報削除を叩かれるのか?」という疑問が拭えないのだ。それを言い始めると,Yahoo!のカテゴリに自分のサイトが登録されないなんてことは日常茶飯事なのに,何で問題にならないの?,という反論がされるに決まっている。実際,前述の最初の論点に挙げたように,確かにGoogleのシェアは高くなってはいるが,アメリカでも約47%,日本ではトップがYahoo! Japanの約62%で,Googleは本家とあわせても28%に過ぎないという調査結果がある。現状,日本では,ことさらGoogleの「八分」だけを問題視する客観的理由は薄弱なのである。中国の有力サーチエンジン「百度」が近々日本にも上陸するらしいから,今のうちに独占禁止法的な枠組みを議論しておく必要はあろうが,基本的には私企業に対して,商売を度外視して「表現の自由の番人たれ!」とせっつく主張がどこまで強制力を持っていいのか,ワシにはよく分からない。
 してみれば,本書はやはり自分のサイトがGoogle八分されたことによる「私憤」をぶちまくための場なのであろう。しかし,全ての「公憤」は,「私憤」を種として発芽し,そこに第三者の共感を得て育っていくものである。本書は,かなりひん曲がっちゃってはいるものの,第4章の助力も得て,私憤が育った苗にはなり得ている。これがそのうち巨大な,それこそクローバルスタンダードとしての公憤の大木に育っていくのか,それとも著者個人とその周辺だけの私憤として収束していくのかは,ワシにはこれもよく分からない。
 しかし,今のサーチエンジンの周辺事情に興味のある向きは,必ず読んで,手元に置いておく必要があるだろう。そして,年月が経過した後,再び本書を紐解いて,著者の主張がどのような結果に結実しているかを確認すべきである。世の中には時間でしか解決できない物事が山ほどあるが,たぶん,著者が投げかけたのも,その中の一つなのである。

本秀康「アーノルド」河出文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-309-40834-7, \560

アーノルド
アーノルド

posted with 簡単リンクくん at 2007. 3. 8
本 秀康著
河出書房新社 (2007.2)
通常24時間以内に発送します。

 先日,浜松で開催された立川流家元・立川談志の独演会に行ってきた。チケットは数ヶ月前に入手していたが,独演会当日まで,実は少し不安であった。
 家元はまだ元気だとはいえ,御年70を越えている。家元の落語を最後に聞いたのは2002年3月だったが,その時は「五人回し」を一通りやった後で,自分の落語の講評を始めたのに面食らったものだ。最近の家元の落語は抽象絵画のようだ,というのは唐沢俊一の評だが,この独特のスタイルは確かに「芸術」の域に達していると言えると同時に,ワシのような素朴かつ保守的な,ふつうのスタイルの落語を聞きたい客にとっては難解な「抽象絵画」のようなものになっているとも言えるのである。
 今回聞いた家元の落語は,更に抽象絵画に近づいていた・・・いや,もうこれは「抽象」そのものである。中入りを挟んで二席やったのだが,一席目は先頃引退を表明した圓楽の批評をした後で,世界のジョーク,それもかなりキツイのからハイブロウなものまでをマシンガンのように乱射する。二席目は少し短めの「らくだ」だったが,割とふつうに演じているな・・・と安心していたら,下げの後,また落語の批評が始まったのである。それはいいのだが,家元が尊敬する志ん生のイリュージョン的くすぐり,「へびが何でへびって言うかというと,なんてこたぁない,あれは昔,「へ」といったんですな。「へ」ですから,「びっ」ていう・・・だから「へび」」,で大爆笑を取ったかと思う間もなく,切々とした人情を語り出す。笑いの天井から悲しみの谷底へ突き落とされるような感覚に陥って戸惑い,自分の反応の鈍さをつくづく思い知らされた。「俺は年寄りの慰み者みたいな芸人とは違うからな」という言の通り,確かに「今」を感じさせるものになってはいるものの,家元が褒めちぎる弟子・志の輔のオーソドックスな感情表現とは正反対の難解さは,ワシにとってはちょっと縁遠いものかな・・・と,独演会開催前に抱いていた不安の一部が的中し,複雑な思いで独演会の会場を後にしたのであった。
 何故長々と落語の話をしたのかというと,本職イラストレータ,たまーに漫画家の本秀康の傑作を集めたこの「アーノルド」を読了し,家元の落語を聞いた後と似た感想を持ってしまったからなのである。
 本(もと)のマンガ,特に本書に収められた短編は,いずれも同じ特徴を持っている。
 まず,作品の舞台やキャラクターは,乱暴に言うと「ガロ系」,これは杉浦茂のキッチュさと共通するものがある。脳が6個ある六頭博士や,金星人の金子君や伝吉,50人の息子がいる岡田幸介・・・等々。奇妙奇天烈な奴らばかりが登場する。
 しかし,ストーリーで展開されるのは,とてもベタな感情表現だ。自分が作ったロボット・アーノルドに愛情を抱く六頭博士と,とてもいい奴なアーノルドとの心の交流の切なさ,岡田幸介が50人の息子を持つに至った経緯,山田ハカセの作ったロボット・R-1号がスクラップにされるまでの心の揺れ・・・,キッチュなキャラクターたちがいるために誤魔化されるが,一昔前のストーリーマンガには当たり前にあった「感動」がそこにあるのだ。
 じゃあ,感動ものとして読むことが出来る作品なのかというとさにあらず。最後のどんでん返しは見事であり,シニカルでもある。杉浦茂をもっと緩くしたような可愛い素朴な絵柄であっても,大人の鑑賞に十分堪えうるものに仕上っているのだ。
 しかし,やはりマンガに対しても保守的なワシは,笑うべきキッチュさと,感動すべき表現とが混在したこれらの作品に対して,どのような感情を抱くべきなのかがよく分からないのである。面白いのは確かだし,ストーリーや場面作りは今風だから,間違いなく「今」の作品なのである。なのであるが,もしかすると先を行きすぎているのかも知れないのだ。そう,この方向で進化していくと,家元落語に通じる「抽象」性が強まってしまうのである。今でもワシにはその香りが感じられるが,本書レベルであれば,まだ純粋に感動マンガとして,当方が幾分か努力すれば,楽しめるのである。
 うーん,ワシも年だな,と思うと同時に,本のようなマンガが広まっていくことで,日本のマンガも変わっていくのだろうな,と少しセンチメンタルになってしまうのであった。

岸本佐知子「ねにもつタイプ」筑摩書房

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-81484-5, \1500

ねにもつタイプ
ねにもつタイプ

posted with 簡単リンクくん at 2007. 3. 7
岸本 佐知子著
筑摩書房 (2007.1)
通常24時間以内に発送します。

 今日はCD-Rを243枚焼いた。
 自慢するわけではないが,私の勤務するこの職場で,CD-Rを焼ける光学ドライブを持ったPCを12台所持している研究室はウチだけのはずだ(違ったらごめんなさい)。もちろん,これらのPCはCD-Rを焼くために揃えたものではない。全ては研究のため,高性能計算という崇高な仕事を遂行するための機械である。高性能なPCが必要であったために,光学ドライブまで「たまたま」高性能になってしまっただけのことである。
 その貴重なPCを,CD-Rの大量焼きのために利用しようと言うのだから,当然,彼らの怒りといったら尋常ではない。
 「なんてことを」
 「計算なら2スレッドまでバリバリに2.8GHzの性能を出せるのに」
 「そんな円盤にレーザーを照射するために俺たちはここにいるんじゃない」
 「PC権侵害だ」
 「無体な」
 「DVD-Rならまだしも」
 彼らの叫びは当然ではあるが,当方にも都合というものがある。ここは電源管理者の特権を振りかざして押さえつけねばならない。
 「うるさい,Intelが失敗作と烙印を押したCPUを載っけているくせに,人間並みに喚くんじゃない。ぐずぐず言うと,電源ケーブル引っこ抜くぞ」
 540MBのISOイメージをGbE経由で奴らのローカルハードディスクに転送し,CD-R焼き作業を開始する。それでも彼らは黙っていない。
 「熱い熱い熱い」
 「たかだか7千円のドライブのために身を粉にして働かされるなんて」
 「せっかくのデュアルコアCPUなのに,それが全く生かせない仕事をさせるとは」
 「ドライブが逝かれたら交換してくれるんだろうな」
 「PC権侵害PC権侵害」
 「エロDVDならまだしも」
 6台のPCをほぼ切れ目なく使いこなして3時間後,ようやく243枚のCD-R焼き作業は完了した。うち1枚はエラーが出て読み取りできない失敗作となった。まあ0.4%程度のエラー率は仕方がない。彼らのせめてもの反逆心なのだろうし。
 「よくやったな,おまえたち」
 お褒めの言葉にも反応しない,6台のPCが静かに電源ファンの回転音のみを響かせて,鎮座している。
 ・・・というのが,所謂「妄想系」と呼ばれるエッセイらしい。三浦しおんのそれは絶対BL由来のものだろうが,端正な(見たことないけど)知性の持ち主の翻訳家・岸本佐知子の「妄想癖」はどこから来たものなのだろうか? トイレットペーパーに何かトラウマでもあるのだろうか? そもそも「べぼや橋」とはどこにあるのか?
 読めば読むほど疑問が渦巻く謎なエッセイである。第一弾も面白かったが,「ちくま」連載のこれも負けず劣らず素敵である。
 ところで,現在も連載中の本エッセイのタイトルは「ネにもつタイプ」である。「ネ」から「ね」への変更に,どのような意味があるのだろうか? ・・・と,疑問は尽きない。

瀬戸内寂聴「孤高の人」ちくま文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-42310-8, \580

孤高の人
孤高の人

posted with 簡単リンクくん at 2007. 3. 4
瀬戸内 寂聴著
筑摩書房 (2007.2)
通常24時間以内に発送します。

 本書は,瀬戸内が私淑していたロシア文学者・湯浅芳子(1896~1990)に関する短いエッセイをまとめたものである。ワシは「ちくま」連載中からちょくちょく読んでいたが,このたび文庫化されたので早速買い求めて再読したという次第である。
 湯浅という人は,まあインテリにはありがちではあるけど,レズビアンだったということを差し引いても,相当変わった人である。彼女の人生全体を貫いた姿勢こそ,確かに本書のタイトルになっている「孤高」という形容詞がぴったりであるが,その性格はかなり「狷介」,つまりキツイのである。ストレートに他人の論評をするところなぞは,まあ何と言うか,「図太い」瀬戸内のような人だからこそ耐えられたのであって,日和見的に生きている一般人にはとうてい付き合える相手ではない。
 ただ,そういう人に限って,どういうわけか,そのようなキツイ自分を受け入れてくれる度量のある人間をかぎ分ける嗅覚が発達するらしく,湯浅は最晩年に至るまで,かいがいしく自分の面倒を見てくれる友人知人に事欠くことはなかったようだ。このあたりは,破滅型の人間にはない,本能を抑えきるインテリジェンスを感じさせる。周囲にとってははた迷惑ではあるが,一本筋の通った哲学を護持できたのはそれ故なのであろう。
 文学史に疎いワシでも知っている作家らと親交のあった湯浅の人生と恋愛遍歴の一端を教えてくれる貴重な資料であると共に,「何故こんなメイワクな人がこの世に存在するのだろう?」という疑問を解消する一助になりそうなエッセイ集である。瀬戸内の法話が今も人気を博しているのも,湯浅のような人との交友の蓄積があるからなんだろうな,きっと。

えみこ山「懐疑は踊る 3」ディアプラスコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-66140-8, \580

懐疑は踊る 3
懐疑は踊る 3

posted with 簡単リンクくん at 2007. 2.19
えみこ山
新書館 (2006.5)
通常2-3日以内に発送します。

 どうもこの先きちんとしたぷちめれを(「きちんとした」もんあったのかという突っ込みは聞かないぞ)書くのが難しくなりそうな感じなので,この際,お蔵出しを兼ねて,昔から愛読している作家の作品を紹介することにしたい。
 その第一弾としてご紹介するのが,えみこ山である。「えみこさん」ではなく「えみこやま」と発音する。昔風の言い方をすれば,典型的なやおい作家,ということになるのだが,今やBLとか耽美とかモーホー(古いか)という,区分があるんだかないんだかワケワカのジャンルが勃興しているから,もはやかつての「やおい」という単語が持っていた雰囲気を伝えられる時代ではなくなっているのかも知れない。「やおい」で通じるような方々は既にオジサン・オバサンと呼ばれる歳になっている筈だ。
 「やおい」に関しては,例えば三崎さんの記事とか,Comic新現実 Vol.4の佐々木悦子「やおいの起源概論」を参照して頂きたいが,思いっきり簡単かつ乱暴に言うと,「美少年( or 美青年)がいい雰囲気になってあーだこーだする」,主として女性作家によるフィクションであり,1970年代後半から商業作品・同人誌上を席巻,今のBLというジャンルを形成する原動力となった一大ムーブメントでもあった。
 その中で,同人誌から商業誌へとデビューしていくものも多く,メジャーどころとしては坂田靖子から始まってCLAMPまで多数挙げられる。えみこ山も小説担当のくりこ姫と合同でサークル「えみくり」を主催し,かなりの人気サークルになったが,商業誌デビューは1990年代に入ってからと,かなり大器晩成的にデビューした漫画家である。
 ワシとえみこ山の初邂逅はほぼ商業誌デビューの時期と同じである。ただ,初めて手に取ったのは,えみくり発行の同人誌で,くりこ姫の方がメインの旅行記「中国トラベルトラベリング」であった。これはまだ手元にあるので,写真を貼り付けておく。
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 この中にえみこ山もカットや短いエッセイマンガを寄稿している。
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 確か本書は即売会の会場ではなく(壁際サークルで近寄るのも憚られたと記憶する),金沢のブック宮丸で入手した筈である。就職早々,能登半島のど真ん中へ左遷されて腐っていたこともあって,給料はたいて様々な少女漫画を買い漁っていた時期があり,その頃に購入したものと思われる。ワシが持っているのは1992年の奥付がある奴だが,着任したのがちょうどその年であった。
 で,すぐに嵌った,という訳ではない。くりこ姫のエッセイはそれなりに面白かったが,入れ込むほどのこともなく,えみこ山の絵に好感は持ったものの,ストーリー仕立てのきちんとした作品ではなかったため,これも追っかけるほどには至らなかった。ファンになったのは,新書館で単行本が出る前に,アンソロジーとしてまとめられて商業ルートに乗ったものを読んでからだと思う。それでも通販をしてまで手に入れたいという程ではなかったので,しばらくは疎遠になったものの,1996年に新書館から初単行本「抱きしめたい」(現在は品切らしい)が出て,商業単行本のみであるが,追っかけとなったという次第である。
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 以来,ずーっとえみこ山の単行本が出るたびにgetしているのだが,あんまり人に勧める気にはならないのだ。何故かといえば,これはあとり珪子の作品にも共通しているのだが,「ヌルい癒し系」でカテゴライズされそうな感じがしているからである。まあ,えみこ山当人も「男の子同志で悩みもせずにラブラブ」(「ごくふつうの恋」1巻あとがき)する作品だと言っているぐらいだから,そのように一括りにされたとしても怒りはしないと思うが,愛読者からすると,それだけでは済まされない魅力を全く無視した暴論であると言わざるを得ないのである。
 大体,「ヌルい」作品ばかりかというと,そうではないのだ。最近の商業作品にはその傾向が顕著だが,同人誌に載せた作品群には結構感情を揺さぶられるものが見られる。例えば新書館刊行の第二弾作品集「月光オルゴール」に収められた表題作は,ゲイカップルにおける家族愛をテーマとした大河ドラマっぽい作りの大作だし(羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」より短いけど),続く第三弾の「約束の地」は「泣けるやおいマンガ」の筆頭だと思う。絵の雰囲気が1970年代風の,まだ基礎がしっかりしていない黎明期の少女漫画っぽいものであるので,精密な描写を伴うべき場面はかなり弱いものになってしまうが,物語全体に漂う雰囲気は坂田靖子によく似ていて,「空気」を伝えるには適しているものである。
 たぶん,えみこ山は正統的な少女漫画,それも「やおい」が成立する以前から培われてきた「時代の空気」を会得していて,それが自分の生理とぴったり一致しているが故に,そこから外れるような作品を描くつもりは全くないのだと思う。この頑固さは夢路行にも共通していて,彼女の場合は商業的に干されていた時期においても,同人誌で全く商業作品と変わらぬテイストの作品を描き続けていたぐらいである。同じやおい市場から登場したCLAMPとはその点全く異なっている。これはどっちが良い悪いの問題ではなく,プロとしての資質と姿勢の違いであって,CLAMPのようにふるまえば必ず売れるという保証もないし,えみこ山や夢路行のようにしていればメジャーになれない,という訳でもない。
 ・・・なんだけど,このえみこ山の「成長のなさ」加減は,もう何というか,呆れるという他ない。これは褒め言葉でもあると同時に,もうちっと新機軸を出してくれないかなぁ,という希望でもある。本作は売れない絵描きのチョンガーとその2人の息子たちが主人公の長編「懐疑は踊る」の最終巻であるが,ミステリーの香りを漂わせているにも関わらず,その謎解きの部分がよく分からないまま終わってしまっているのである。その香りは独特の雰囲気にマッチしていていいのだが,描写力(説明力)の欠如がワシのようなオジサンうるさ方には残念に思われるのである。
 長く活躍を続ける作家に対しては,「昔の方が良かった」という意見が必ず出るものである。しかし,「マンネリ」を続けるにはそこに芸がなければならず,商業作品である限り,エンターテインメントとして成立するためには変化をつけ,退屈になってはいけないのだ。えみこ山の場合,その点がちょっと気がかりではあるが,このオールドテイストは日本漫画界の天然記念物として保存しておくべきものであるとも思うのだ。「変わって欲しい」ものと「変わって欲しくない」ものを同時にかなえることの難しさをつくづく思い知らされる,アンビバレンツな感情を引き起こす貴重な作家,それがワシにとってのえみこ山,なのである。