ゲーデル・林晋/八杉満利子・解説・訳「不完全性定理」岩波文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-00-339441-0, \700

不完全性定理
不完全性定理

posted with 簡単リンクくん at 2007. 5.20
ゲーデル〔著〕 / 林 晋訳・解説 / 八杉 満利子訳・解説
岩波書店 (2006.9)
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 いやー,昨年出た本だが,ほぼ同時期に出たウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」同様,解説しか読んでいない,つーか,読めていないのに,ここで紹介するのはかなりの暴挙であり,「買って読んだ」本しか紹介しないというスタンスにも反するのだが,現実逃避しながら本書(の解説)を読んであまりに感動しちまったもんだから,その「感動した所」だけをちょろっと書くことにしたい。
 ちくま学芸文庫にも野崎昭弘「不完全性定理」が近頃収められたが,昔,これを読んだ時,どーしても靴下痛痒感が拭えなかった。いや,ヒルベルトによって「数学における論理体系は無矛盾か?」という問題がクローズアップされるまでの解説は見事だし,分かりやすい・・・のだが,肝心の不完全性定理の核心部分,ゲーデル数の構築手順が示されていない(コアな考え方とゲーデル数の具体例はある)ので,「分かった」気がしなかったのである。で,そこんところをきちんと書いている本はないか・・・と捜してみても,キッチリ記号的に書いてある入門書は見つからず(つーか,それをやったら入門書にはならんしな),とはいえ,現代的な記号論理学のテキストに当たるにしても,所詮そっち方面の専門家ではないワシとしては,ロクに使いもしない記号体系に慣れるだけ無駄,という意識があって,普段使っているもの以外,殆ど探索したことがない。しかし,一応,命題論理と一階述語論理(のトバ口まで)を講義する教師としては,一度ぐらいはゲーデル先生の大定理に触れるぐらいはしておくべきだろうと,わずかながらの良心の呵責を保持し続けていたところ,昨年(2006年)に本書が岩波文庫に収められたのである。でまあ買ってはみたものの,ずーっと枕頭に積んだままほったらかしにしていて,ようやくここ数日の現実逃避の末,前書きと本書の4/5を占める分厚い解説部分に手を出した,という次第なのである。
 いやー,目から鱗,とはこの解説のためにあるような言葉である。大体,今までの古い数学史での位置づけだと,KroneckerとかBrouwerなんて,Hilbert大先生に刃向かったアホ(数学基礎論に限っての話だよ),というぐらいの位置づけだったのが,そうではない,ということをこの解説の大半を費やして説明してくれているのである。今も続く,数学理論というものに対する代表的な2大哲学,構築主義(直観主義)と形式主義という,どちらを省いてしまっても数学という太い縄を結えない大事な本質論をの片方をHilbertの対立者は担っていて,Hilbert(とその舎弟たち)も自身の理論を対立者との議論を通して強化していくと同時に,その核心部分を構築主義的なやり方で,もちろんメタな記号を導入することで作り上げていった・・・ということを,言われてみれば当然なんだけど,大量の一次資料にあたって調査した訳者らに示されると,もう説得力が格段に違うのである。
 そして,ゲーデル以来,いやゲーデルでさえも,不完全性定理は数学理論の「一面の」不確実さを述べているだけで,数学という体系自体が「殆ど至る所」不確実であるとは一言も言っていない,という主張は新鮮である。まあこれも当たり前といえば当たり前だし,野崎の本にもそんなことは書いていないのだが,どーも,この辺りの「誤解」は,不完全性定理を「また聞き」した慌て者が言い出して広めたらしい。訳者もこの点誤解しないよう警鐘を鳴らしている。
 現代の視点から,Brouwer v.s. Hilbertの議論を眺めてみると,ゲーデルの結果を知ってしまった上でも,両者の言い分が完全に間違いであった,とは言えず,むしろかなりの部分が今でも有効という結果が出ている,というのも初耳であった。つーか,ワシにとっては,「ふーん,まだそーゆーことをやっている研究者がいるのね」という驚きの方が大きい。最近は産学連携が声高に叫ばれていて,その主張の大半は正しいとは思うのだが,それを大義名分にしてあんまし理論屋さんを締め上げるのもいかがなものか,と,むかぁしちょろっと数学の水にあてられた人間としては苦い気分を持っていたので,少し安心したのであった。
 ・・・とまぁ,解説だけでも随分とワシにとってはためになった本である。で,いつになったら肝心の「翻訳」部分をきっちり読めるようになるのか・・・となると,えーと,あのー,・・・という次第で面目ないのである。ま,また現実逃避したくなったら立ち返ってみよう,ぐらいの漠然とした「希望」は持った,という辺りでご勘弁願いたいのである。

糸井重里「小さいことばを歌う場所」東京糸井重里事務所

 本書は,ほぼ日刊イトイ新聞(ほぼ日)の巻頭言や写真blogからの抜粋集である。だから,という訳ではないのだが,実はこれ,非売品・・・という言い方は適切ではないな。書店に並ぶことはないし,AmazonでもBK1でも楽天ブックスでも入手できないのだ。
 ほぼ日の直販のみ,なのである。
 ワシが入手したのは4月上旬で,既に受付は終了している。が,読者の反応が良かったようなので,今回再び直販が開始されることになったようだ。この機会を逃すと次はないかもしれないので,気になる方は是非とも申し込みされたい。
 毎日午前11時に欠かさず(過去数回意図的に休んだのを除いて)更新され続けているほぼ日の巻頭言は,今でも糸井重里自身が毎回書いているらしい。「書くことがないなんてことはない」と,言うことは簡単だが,それを実行することは困難である。その有言実行記録を続けているのはもう凄いとしか言いようがない。
 大体,1980年代の糸井重里と言えば,カリスマだったのだ。コピーライターという,あの星新一にも「少しはあの言語センスを見習え」と言わしめた,言葉の魔術師だったのである。だから,当時,千葉県流山市でウジウジとどうしようもなく陰気な大学生活を送っていたワシにとって,糸井は「地道な努力」とは最も縁遠い人と思えたものだ。
 その認識が間違っていたことを思い知らされたのは,以前紹介した「ほぼ日刊イトイ新聞の本」であり,今に続くほぼ日の隆盛である。糸井は1990年代後半から数年間,文字通り汗水垂らして「ほぼ日」の維持発展に尽力したのである。真面目に地道に全力を挙げてWebサイトを作り上げていったのだ。その過程を経て,糸井は次のような言葉を発するまでになったのだ。
 「できるまでやめなければ、できる」
 これは現在ワシの座右の銘となっている。こうして,糸井重里は「努力の人」に到達したのである。
 その糸井が毎日書いているほぼ日の巻頭言は,いつ読んでも大体面白く読める。そのアベレージの高さは,言葉のカリスマのセンスがまだまだ現役バリバリであり,そこに汗と涙(があったかどうかは定かでない)が注ぎ込まれた結果であると,ワシは勝手に想像している。
 いつかこの巻頭言をまとめてくれないかなぁ,とワシは思っていたし,多分,多くのほぼ日読者も同じことを念願していたと思うのだが,ほぼ日乗組員の永田も同じことを考えていたらしい。ただ,永田は多分,それをそのまま実行してはイカン,と気が付いたのだろう。糸井の巻頭言が高いアベレージを保っている重要な要素を取り出してみせること,これが重要だと思ったのだ(多分)。「カリスマのセンス」というダイヤを,原石を丸ごと提示するのではなく,カッティングすることによって,文字通り磨きをかけようと思ったのである。で,ほぼ日に陳列されたのが本書,という訳なのである。で,このダイヤを,糸井は「小さいことば」と呼ぶことにしたのである。
 磨きがかかっているだけあって,どの言葉もほんとうに「小さい」,つまり,短い。まるで詩である。しかし,内容は散文である。だが,それはダイヤというだけあって,意味は深い。アフォリズムになっているものも多く,気になっているところに付箋を貼っていたら,こんなになってしまった。
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 それだけ,ワシの神経にびんびんと響いてくる「小さいことば」が多い,という証である。ここで一つ二つ紹介するのはやぶさかではないが,何せ数が多すぎて絞りきれない。とりあえず,えいやっと開いたところを一つだけお見せしよう。

 都会で立ち小便が減ったのは、
 規則が浸透したからでもないし、
 よく逮捕したからでもないよな。
 街がきれいになったり、
 ひょいと使える衛生的な便所ができたからだよ。

 「ふ~ん」と感心したあなたは,是非とも入手して頂きたいのである。感心できなかったあなたにも,たぶん,一つや二つや三つ・・・自身に響いてくる「小さいことば」があるはずだ。

一松信「数のエッセイ」ちくま学芸文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-480-09041-6, \1000

数のエッセイ
数のエッセイ

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一松 信著
筑摩書房 (2007.1)
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 一松信,という存在を最初に目撃したのは,多分,日本数学会の年会,もしくは数値解析シンポジウムだったと思う。ワシが修士の頃だから,今からえーと・・・(脳細胞の劣化が激しいのでしばしお待ちを)・・・15年ほど前になるのか。数値解析シンポジウムに初めて参加したのは大学4年生の時だから,ひょっとするともうちっと前かもしれない。まあ,そんなことはどうでもいい。ともかく,一松は大変に目立つ存在だった。
 常に講演会場の大体最前列に座り,研究発表の最中,ずーぅううっと「うんうん」と例の甲高い声で頷きながら話を聞いている変なオジイサン。それが一松なのである。もちろんワシもその「うんうん」攻撃にさらされた一人であるが,慣れるとそれほどイヤではない,とゆーか,一松が居るのにあの「うんうん」が聞こえてこないと逆に不安になってくるのである。一度,某M君は講演中に「そうかな?」という一言が聞こえてきてギクリとした経験があるそうだが,ワシは羨ましいなあと思ったものだ。つまり一松に疑問を抱かせる話題を振った,という事でもあるんだから。
 聞くところによると,あの「うんうん」の癖は若い頃から続いているそうで,若かりし一松が御大から「うるさい!」と怒られたこともあったらしい。ふーん,てぇことはつまり,相手がどんな若かろうとベテランだろうと分けて立てなく攻撃(?)していたってことだ。これは,かなり凄いことである。そしてこの徹底した平等精神が,一松の存在を一種独特のものにしていると言えるだろう。
 コンピュータへの応用も広く視野に入れ,(たぶん)60年以上も縦横に活躍し,今も現役であり続けている一松の業績を,ワシごときが把握することなぞ当然できる筈もない。しかし,その「ケタ違い」の仕事ぶりの一端を知ることが出来るものとして,ワシは「数学とコンピュータ」(ちくま学芸文庫に入れてくれませんかね?)を挙げておく。これは「数学」を「コンピュータ」に載せるための2大流派「数値解析」と「数式処理(記号処理)」それぞれについて,ほぼ等分に論じた新書サイズのコンパクトな本である。だから読了するにもそれほど時間がかからない・・・と思ったあなた,それは甘い。まーなんとゆーか,話題が豊富すぎるのである。最初は「とっちらかっている」としか思えなかったが,何度も再読しているうちに,単純に知識をひけらかしているのではなく,一つの考え方に対してカウンターとなる考え方を引っ張り出してきたり,そこから派生する別の問題を引き出してきたり,つまり,実はとっちらかっているどころか,ちゃんと話題の間には繋がりがあったのである。
 大体,人間の脳に詰め込める情報量というのはそれほど多くない。それ故に,覚えておくべき情報を取捨選択する必要がある訳だが,そのためには「方便」が必要である。「バカだから覚えていられませーん」という正直さをもった人間はマレであり,普通は「なんとか主義」という奴を取捨選択のフィルタとして使用し,「ワシの主義に反する」とかなんとか言っちゃって,知識量を意図的に制限する。そうでないと脳がパンクしてしまうからである。情報が右から左へだだ漏れしてしまうのである。
 「数学とコンピュータ」は,このようなフィルタを取っ払い,字数制限いっぱいに知識を詰め込んでしまったため,ワシみたいなバカは一読してもそれを把握できず,何度も読み込まなければならない本になってしまったのである。なので,「話題の繋がり」を理解できるようになったのは三十路過ぎた頃になってしまった。不幸なことに,現在の出版状況はこのように「手強い」本の版を長期に渡って保有することが出来ず,ようよう評価が定まって来た頃には絶版になっていたりする。
 本書は30年前に出た単行本を文庫化したものであるが,さすがに一般読者を相手に書かれた短いエッセイが主体なだけあって,ワシがだだ漏れさせてしまった「話題の繋がり」を気にすることなく読むことが出来る。・・・とはいえ,π(円周率)の計算など,ワシにとっては既知の話題ならともかく,「正多角形のタイル張り」なぞは,一日潰して絵を描きながら「えーっと,これがこう繋がって・・・」とやらないと,ちゃんと理解できたとは言えそうもない。この手の結構歯ごたえのある問題も含まれていて,しかもコンピュータと数学との結節点上にあるものが多いのは,やっぱり一松らしいよなぁ,と感じる。
 ヤノケン(矢野健太郎)の「角の三等分」も先頃,ちくま学芸文庫に収められたが,そこに現代代数学からの長い注釈をつけたのも一松だった。そういや,20世紀の終り頃,岩波から応用数学のシリーズ本が出ていた時に,執筆者の一人が予定していた分が出せなくなり,急遽,引っ張り出されたのも一松だった。中国に出張中だった一松の所に電話がかかってきて大いに慌てた,というエピソードを自身が前書きに書いていたが,困った時には一松に頼め,というのは今も続く出版界・学界の伝統のようである。まあそれだけ懐が深く,書いたものに信頼がおける,という証でもある。最近はあの「うんうん」があまり聞けなくなってちょっと寂しいが,執筆活動ではまだ当分引退ということはありそうになく,心強い限りである。すいませんが,もう少しこのバカにも理解するための時間を頂きたく,末永くお付き合いさせて頂きたいと思う次第である。

最相葉月「星新一 一〇〇一話をつくった人」新潮社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-10-459802-1, \2300

星新一
星新一

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最相 葉月著
新潮社 (2007.3)
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 星新一のショートショートと初めて出会ったのは,多分,小学生高学年か中学生の頃である。教科書に載っていたものを読んで嵌ったのか,別の文庫か単行本で出会ったのかは定かではないが,旭川の中学校に転校してから,そこの図書館に所蔵されていた新潮社の星新一作品集全一八巻(ということも本書にはちゃんと書いてある)を読破して以来,1001編達成の少し前までは,文庫や単行本を結構集め,読んでいたという覚えはある。
 「1001編達成少し前まで」というのは,さすがに作品が面白くなくなってきたことと,高校生の頃に筒井康隆に嵌ってからは,「おとぎ話になんてケッ」という傲慢な読者になっていたことによる。「面白くなくなってきた」という感想はワシだけではなくて,多くの読者,編集者,SF作家仲間にとっても同様だったようで,1001編達成の前後あたりの作品を読んだ筒井は「ひゃぁ,枯れてしまったなぁ」と書いていた。もちろん「枯れた」というのは褒め言葉でもあるが,「こんなんで読者がついてくるのか?」という疑問を呈した言葉と取った方がいいだろう。
 それでも,端正で難しい言葉を使わない文章を短くまとめた星の作品群,特にデビューから十数年間ぐらいのものは,年少者にはとっつきやすく,昔見離したワシみたいな野郎でも面白いと思えるものも少なくない。新潮文庫,角川文庫,講談社文庫に収められている彼の作品集が今でも版を重ね続けているのは,それだけの力量のある,特異な作家であった証拠である。本書はそんな星の生涯を丹念に追った,超力作ノンフィクションである。・・・の割には一部のSF愛好家を除いてあんまし話題になってないようだが,ああもったいないもったいない。ワシは560ページを越える分厚い本書を金曜日に東京で購入し,掛川に帰宅してから一気に引き込まれて土曜日の夜には読破してしまった。それぐらい「面白い」評伝なのである。
 ノンフィクションは,フィクションよりも著者の人柄や生きる姿勢が露わになりやすいとワシは思っている。対象に接する態度や資料調査の手法,事実をつなげる文章には,ごまかしが効かない著者本人が出るものだ。かつて歴史を扱った新書に,もんのすごく嫌みったらしい学者が書いたものがあったが,事実は事実として,そこにアンタの好き嫌いを満載しないでくれよ,と言いたくなってくる(人のことは言えないが)。
 だからワシは森まゆみの書いたものは好きなのである。対象に対して愛情を持って接していることがよく分かる文章は,読者を和ませるものだ。もちろん,それ故に相手のプライバシーに踏み込むことが出来ないこともあるのだろうが,何でもかんでも下世話に暴露すりゃいいってもんでもないだろう。適度な節度がほどよい読後感を与えてくれる,という要素も「売り物」としては重要である。
 最相(さいしょう)の単行本を読むのは今回が初めてだが,森と同様,本書には星新一や彼の家族への愛情が感じられて好感が持てる。しかし,さすがノンフィクション界に一石を投じた著作を生み出してきただけのことはあり,事実は事実としてそうとう詳細に調べあげており,しっかりと読者に提示してくれている。その例が,先に挙げた1001編間近の星の作品への評価であり,新一があれだけ擁護し続けた父・星一の事業家としての評価であり,そして,1001編に達成した後に星新一が懊悩した,自分の業績への世評(と,ここでは誤魔化しておく),である。特に最後のものについては,正直非常に驚かされた。筒井が直木賞を取れなかった事に対してウダウダ言い続けたことは有名だが,星はそれを公表しなかった分,悩みは相当深かったというのは意外であった。そーゆーものとは縁なく超然としているモンだとばっかり思っていたのである。この辺りの記述は・・・本当に読んでいて胸が痛くなってくる。そうかぁ,星さんも苦しかったんだなぁ・・・。
 今の時点では当然の事ながら,この先当分は,そして多分,将来に渡っても本書は人間・星新一全体を知らしめてくれる第一級の資料であり,とびっきり面白いノンフィクションである。何だかあんまし本屋でも扱いがよろしくなかった(丸善丸の内オアゾ店でも平積みになってなかった)ので,見かけたらささっと買っておくのがよろしかろう。まだ星新一の体温が残っているこの時代に読んでおくのが相応しい,名著であること間違いないのである。

筒井康隆「巨船ベラス・レトラス」文藝春秋

[ BK1 | Amazon ] ISBN 978-4-16-325690-0, \1143

 なだいなだの「アルコール問答」を読んで以来,ワシはアルコール中毒という病気に興味を持つようになった。これは身近にそーゆー人がおらず,その被害にあったことがない上に,ワシが下戸であるため,罹りようもない病気であるが故に他人事として気楽に受け止めることが出来た,という無責任な事情があったためである。その後,某大学の某教授は完全にアル中で,ろくな講義も出来やしない(アル中でなくてもそんな大学教員はゴマンといるが(含ワシ)),という都市伝説らしき風聞を耳にしたり,アル中で入院経験のある中島らも吾妻ひでおの作品を読んだり,小田嶋隆さんがそれに近い状態にあったらしいことを告白ったのを読んだりして,ああ,結構はまっちゃった人って多いんだなぁ,いうことを感じるようになった。
 まあ,アル中になっちゃった原因というのは一概には言えないものだろうが,小田嶋・中島・吾妻の3人の書き手に関しては,彼らが書いたものを読む限りにおいては共通する性格的な因子があるように思えるのだ。
 それは「八つ当たりエネルギー」の欠如である。
 人間誰しも肉体的・精神的に攻撃されれば,大なり小なり防御態勢を取り,反撃を行ったりする本能を持っている・・・と思うのだが,どうもこの3人にはそれが薄いように感じる。多分,彼らは内省的なインテリであるため,自分が受けた攻撃に対して反射的に行動するより先に,頭であれこれ考えてしまうのであろう。そして,一定の合理的な結論が出るまで思考を続け,結果的に反撃をしないか,しても非常に弱いものになってしまうのではないだろうか。実際,ワシはこの3人の書いたものを読むと,時折,イライラしてしまうことがある。これはワシが全然内省的でない本能と脊髄反射だけから出来上がっているバカだからであろう。そーいや,一度,三島親父に「あんたは強いね」と言われたことがあるが,ありゃ褒め言葉じゃなくって,「あんたはバカだ」の同義語だったのだな。あ,また段々腹が立ってきた,今度どうしてくれよう・・・こういう反動的エネルギーに欠ける人が,なまじアルコール耐性を持っていると,いつの間にやら連続飲酒状態になるんだろうと想像している。
 だから,怒りのエネルギーに満ち溢れている,常に頭から湯気が上がっている人というのは,高血圧でぶち切れることはあっても,アルコールに逃避したりする必要が全くないのだろう。なだいなだしかり(医者がアル中ではどうしようもないが),藤原正彦しかり,小林よしりんしかり,佐藤愛子しかり,小谷野敦しかり(下戸のせいもあるだろうが),そして我が筒井康隆もまたしかり,である。そして彼らは,高血圧の持病がない限り,憎まれっ子,ならぬ,怒りっ子として,元気に長生きするに違いないのである。そーいや,佐藤も筒井も70越えているんだよな,確か。それでもまだハイペースで新刊を出し続けているんだから,全く持って感心する。
 その筒井の最新長編が本書である(やっと本題に入れた)。この小説が連載されている時から,これは「大いなる助走」の平成版だ,という下馬評をよく聞かされたものである。確かに,今の出版不況(出版点数が多すぎて,一冊当たりの平均販売部数が減っているだけの現象なんだが)と現代文学の迷走ぶりがテーマになっているから,同じく同人誌(といってもコミケのそれではなく,昔からの地方文芸誌)から文壇デビューした男を主人公にした前作と,似ているところはある。が,「助走」は後半,かなりミステリー仕立ての部分があるのに対し,本作は真面目に(著者なりに,だが)「現代日本文学の状況を鋭く衝」(単行本の帯のあおり文句)いているところが,文学論争や差別語論争をしてきた風格を漂わせるものになっている。
 もちろん,さすが筒井だけあって読者を引き込ませる力量は健在であり,「銀齢の果て」と同様,章分割が皆無の連続性は,巨船というより長いジェットコースターに乗せられているような感覚にワシらを陥らせてくれる。現代文学とやらに全く疎いワシでも,「ああ,そーゆーことが問題になっているのか」と教えてくれる親切さも備えているから,普通にエンターテインメントとして楽しむことも可能である。
 だが,「」もそうだし「銀齢の果て」もそうだし,本作もそうなのだが,やっぱり筒井も年を取っているんだなぁ,という感想は持ってしまった。これらの近作には,四十路代に大量に書き飛ばした(という言い方は,推敲に推敲を重ねる著者に対して失礼だけど)ドタバタ短編のような,突き放した鋭さが感じられないのだ。だから,結末を読んだ後に何かホノボノとしたものを覚えてしまう。それはもちろん良いことではあるんだが,これはやっぱり「老成」と呼ぶべきものなんだろうなぁ,と思ってしまうのである。
 ま,肉体的にはまだまだ役者としても活躍できるようだし,足腰が立たなくなったら,芸能界のあれこれを語ってくれると予告しているし,根性の悪さも相変わらずである。高校生の時に全集を読破して以来,その魅力に取り付かれたワシとしては,是非ともこの反動的エネルギーを持続させて頂きたいと,切に願っているのである。