粟岳高弘「鈴木式電磁気的国土拡張機」コスミック

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7747-3007-6, \952

鈴木式電磁気的国土拡張機
粟岳 高弘
コスミック出版 (2006.8)
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 オリジナル同人界では著名な「たばなくる」主催者の,商業作品集としては2冊目となる単行本である。時折,Webページで公開される短い作品は眺めていたが,まとまった作品を読むのは今回が始めてである・・・が,まあいつものテイストであることは言うまでもない。西島大介の推薦文が帯にあるのが,らしいというか,大物になったな(西島が)という余計な感想はあるが,作品集そのものからは期待した以上でも以下でもない感想を持っただけである。それよりも「漫画の読み方」という奴を再認識させられることになったのであった。
 同人誌を読むようになったのは10年ぐらい前からである。それ以前から,メジャーな漫画作品に一種の嫌悪感を持つようになっていたので,大学入学以来,段々とマイナーな作家の作品にシフトしていった。おそらくそこに漂う,作家自身が望んでいない作り物っぽい雰囲気がそうさせたのであろう。
 そんな時に同人誌と出会ったのであるから,あまり違和感もなく入っていけたのは当然である。とはいえ,同人誌といえどもメジャー商業作品並みにワシを嫌な気分にさせるものもあり,ふーん,この世界もいろいろあるんだなぁと思ったものであるが,そーゆーモノとは付き合わないようにして,好きなことを描いている同人誌と付き合ってきたのである。
 最近は体力と時間と金(トホホ)がないせいで,なかなかコミケやコミティアには出かけられないでいるため,作者から直接同人誌を購入する機会が得られないでいるが,そーゆー傾向の漫画作品ばっかり読む習慣は今も変わらずに続いている。
 ただ,作者が好きなことを描いていると,どうしても読者という存在がおろそかになり,読みやすさが犠牲にされがちである。昔と違い,今の漫画編集者は,作者の持つ独特の世界観を生かしつつ,ユーザビリティは最低限保たせるための助言を惜しまないと思われるが,そーゆー助言が得られない同人作家の多くはどうしてもメジャー作品と比べると「読みづらい」のである。粟岳のこの本に納められている作品は,同人作品としてはかなりユーザビリティの高いものであるが,それでも細かい視線の誘導とか,キャラクターの表情の変化に若干の違和感を感じてしまう。この辺を「作者の持ち味」と見るか,「メジャー指向への障壁」と見るかは立場によって異なるだろうが,これがサークル「たばなくる」が発行する同人誌であれば,ワシは前者と思っていただろうことは間違いないのである。つまり,ワシにとって同人誌とは,読者が作者の思いを最大限汲み取るべき作品集,であり,商業作品集とは,作者が読者を楽しませてしかるべき作品集,なのである。最初に述べた「漫画の読み方」の違いとは,この同人誌と商業作品集との読み方の違いに起因するものなのであった。
 本書は秋葉原の有隣堂で購入した,純然たる商業作品集である。そのため,読み方もそのようになってしまい,割と慣れ親しんでいる作品世界にも拘らず,敷居の高さを感じてしまったのであった。いい悪いは別として,このテイストを手放さない頑固さが,この著者の個性という奴なんであるからして,気に入るかどうかは,あんたの嗜好次第,なのである。
 試される漫画,それが本書を読んだ結論である。こころしてふんどし少女を堪能せよ。

吾妻ひでお「うつうつひでお日記」角川書店

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853977-9, \980

うつうつひでお日記
吾妻 ひでお〔画〕
角川書店 (2006.7)
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 一言で言えば,Making of “失踪日記“と読書日記。Comic 新現実で連載が始まった時には,「何で2004年から始めるの?」と疑問に思ったのだが,意図したのかどうかはともかく,原稿がコアマガジンからイーストプレスへ渡って「失踪日記」が発売される直前,2005年2月まででぴたりと記述が終わっている。出版社の意図としては失踪日記に便乗する形で売り上げを伸ばしたいと思ってのことだろうが,B6版のオレンジ装丁,しかもタイトルよりも「吾妻ひでお」の文字がやたらにでかい所なんぞは,あざとさの極みというべきであり,あきれるよりも笑ってしまう。この先も同様の尻馬本が出版されるようで,著者も自身のWebページで「オレンジの本を何冊出すんでしょう」と自嘲気味に語っている。
 これで思い出したのが,「寅さん」として生涯を終えた俳優,渥美清のことである。小林信彦の「おかしな男 渥美清」では,寅さんのイメージ一色になってしまったことを悔いているようなニュアンスが強かったが,実際はそれだけでもないようで,先日放映されたNHK-BSのドキュメントでは,寅さんのイメージを崩すことを恐れて,盟友の早坂暁の脚本によるTVドラマの主演をドタキャンした,というエピソードが紹介されていた。松竹の意向も強かっただろうが,本人としては,映画会社の大黒柱を支える当たり役を勤めることに対して,違和感と共に誇りも感じていたというのが実情だったのではないか,と思えるのである。
 古くからの吾妻マニア(何せ「ビッグ・マイナー」だからな)にとっては「失踪日記の吾妻ひでお」になることは耐え難いかもしれないが,当の本人はどう思っているのだろうか。今後の吾妻ひでおの活動を占うのは,充電期間中に読み込んだ作品群の蓄積と,そのあたりの心持ちにかかっているように思えてならない。

二階堂正宏「のりこ」新潮社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-3015520-7, \950

のりこ
のりこ

posted with 簡単リンクくん at 2006. 8.13
二階堂 正宏著
新潮社 (2006.6)
通常2-3日以内に発送します。

 前作の極楽町一丁目シリーズで主役を張っていた,のりこさんと旦那さんの母親との闘争劇を更に「過激に」した,書き下ろし単行本・・・なのだが,正直,不満である。いや,のりこさんは前作より色気が増しているし,意味もなく胸をはだけたり全裸になったり,いわゆる読者サービスはたっぷりあるし,少なくとも前作よりは面白い。しかし,基本的にはナンセンス漫画であって,その枠をぶち壊すほどの過激さは感じられない。まあ,旧世代の大人漫画家にそこまで期待する方が無理ということは分かっているが,本書中で過激さを自己宣伝しまくっているために,その割には大したことないな,と思ってしまうのである。
 のりこさんがどれだけ残虐にお舅さんをいたぶろうと,最後は生き返ってしまうのでは,どうやってもナンセンスの枠にとどまってしまうに決まっている。大体,介護すべき親を殺してしまうなんていうレベルの過激さだったら,とっくに山科けいすけが漫画にしている。一番の問題は,この程度のナンセンス漫画をすぐに没にするマスコミの脆弱さにあり,それ故に著者や編集者が作品のレベルを過大評価してしまうのだろう。
 そんな程度の漫画であるから,現在老人介護の真っ最中でストレスを溜めまくっている方も,介護される側の方も,安心して読んで頂ける筈である。え? 実際に事件が起きたらどうするのかって? 大丈夫,介護する側もされる側も,望んでいるのは合法的な安らかな死であって,この作品にあるような舅殺しなんて面倒な犯罪は所詮,ナンセンスに過ぎないのだ。つまり,当事者にとっては2重に意味でナンセンスな,安全安心な作品なのである。
 本書で物足りない方には,ヘルプマン!をお勧めする次第である。

内田樹「私家版・ユダヤ文化論」文春新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-660519-4, \750

私家版・ユダヤ文化論
内田 樹著
文芸春秋 (2006.7)
通常24時間以内に発送します。

 うーん・・・,敬愛するウチダ先生の力作であるが,力作過ぎて,ワシにはよく理解できなかった,というのが正直な感想である。正確に言えば,本書を構成する4章,「第一章 ユダヤ人とは誰のことか?」「第二章 日本人とユダヤ人」「第三章 反ユダヤ主義の生理と病理」「終章 終わらない反ユダヤ主義」のうち,終章の「5 サルトルの冒険」と「6 殺意と自責」の部分が,一度さらっと読んだだけでは分からなかったのである。とりあえず「7 結語」を読んで,まあ分かったような気分にはなったかなぁ,というところである。サルトルのユダヤ人論の中で最大の瑕疵と著者の言う,反ユダヤ主義者がユダヤ人を成立せしめた,という主張を,レヴィナスの論を引きつつ修正する,という作業をしているらしいのだ。たぶん。この辺りが「私家版」と銘打った一番の所以であろうが,悲しいかな,そこのところをすんなり理解する頭をワシは持ち合わせていなかったのである。
 それでも,他の3章は既存のユダヤ人関連の事項が要領よくまとまっていて,ためになる。特に第二章はトンデモ本では一ジャンルを築いているユダヤ陰謀論の出所が歴史的経緯を踏まえて語られており,その方面に興味を持つ人は必読である。本書の帯にある養老孟司の言う「自己と世界,両者の理解を深める」確信である終章部がよく理解できなくても,本書を通じてユダヤ人というものの概要を知ることは十分に可能である・・・とワシは自分を慰めているのであるが,どうであろうか?

Pet Shop Boys, “Fundamental”, EMI

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 ここ数年間のPSB(renewalしてからPopup Windowがうぜってぇ)のアルバムの中では,一番安心して聞くことができた,かなぁ。Bilingualでラテンに傾倒したかと思えば,エレキ主体の曲に凝ったり,1990年代後半は冒険をしていたのが,21世紀(誰も使わなくなったな,この言葉)に入ってからは「普通にシンセ」(テクノって死語かなぁ)しているように感じる。
 といって,1980年代の頃に先祖がえりしたのではない。あの頃の”Two Divided by Zero“なんかと聞き比べてみれば,前面に出た電子音は同じテイストを持っているが,その奥に潜む高周波音には明らかに深みが出てきている,つーか,深みを持たせるべく,音の重ね方の熟練度が増している。だからワシみたいな年寄りでも飽きずに聞いていられるのだろうな。小室なんか,今聞くとやたらに古臭く聞こえるもん。
 男同士の夫婦生活(だよなぁ)も長くなって,倦怠期を乗り越えた厩火事えげれすミュージシャンコンビも円熟味を増している。死ぬまでピコピコいわせて頂きたいものである。