映画「素敵なダイナマイトスキャンダル」

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 原作は読んでいたし,原作者・末井昭の警察との珍妙かつ熾烈なやり取りを描いた南伸坊「さる業界の人々」も読んでいたので,その辺のリアルな時代的描写を期待して見に行った。その辺は期待通りであったが,映画全体のトーンは,予告編の軽い調子とは真逆,冒頭から不穏な空気を漂わせる。明るいバブルのサブカルブームを描きつつも,その立役者の一人である末井昭の通底にある退廃性を最後の最後まで,セリフではなく映像で描き切っている。ワシにとって,良い意味で期待を半分裏切ってくれた傑作であったが,一緒に見に行った神さんは大分映画にあてられたらしく,狂気に満ちた芸術性が嫌いな常識人には向いていない映画であるらしい。

 原作については,カラッとした文章で衝撃的な母親の爆死について述べており,あまり深刻なものを感じさせないものであるが,どうやら監督はそう考えていなかったようで,末井昭の狂気の情念の根本をこの事件の凄惨さに求めている。そう,お気楽なバブル映画を期待していた向きはのっけから浮ぎられて沈鬱な気分にさせられる。論理的な物言いのできない朴訥な父親の存在が,輪をかけて重く苦しい青年前期を形成しており,後年のエロ・サブカル雑誌の編集長として大ヒットをかっ飛ばす原動力となったというのが本映画で監督が示した回答なのであろう。

 近年は暇で寂しい人間が増えたせいか,やたらに倫理性とか左右イデオロギーに基づく道徳を解く向きが多いようだが,世の面白い活動は訳の分からない狂的人間が発する情念に支えられているものである。本作はそのような狂的人間の面白さを表面的に示しつつ,狂気の根本にあるものを観客に刷り込ませる。その象徴は汚れて曇った眼鏡のレンズであり,そのような見えづらい眼鏡で日々を過ごす警察官,キャバクラの店長,そして父親なのだが,それは他ならぬワシら自身でもあり,昨今の小うるさい道徳主義者もそのような曇ったレンズから世を眺めているに過ぎないのだ。末井昭の生き方は透明でうその混じりけのない純粋無垢の狂気に貫かれており,狂気の情念が輩出した面白いコンテンツの出所を同時に見せる本作は,間違いなくフェリーニ的な傑作であると言えるのである。

内田春菊「がんまんが ~私たちは大病している~」ぶんか社

[ Amazon ] ISBN 978-4-8211-3566-0, \1000 + TAX

 内田春菊のエッセイ漫画に外れはない。流麗なペンタッチが白い画面に艶めかしい柔肌を描き出す。それでいて,内容はシビアで容赦ない。ダメンズを次々に恋人にして子供を作り,ダメと分かった時点で放り出す。内田本人の生命力・経済力が図抜けている分,割り切り方はスッパリしていて小気味良い。ワシはその力強い生き方を描いたエッセイ漫画である「私たちは繁殖している」は読んではいたものの,途中で脱落していたが,続刊が次々に出ているのを見るにつけ,このまま佐藤愛子か瀬戸内寂聴のように「完成」していくのであろうなと思っていたら,大腸がんになってしまったという。その顛末を,手術直後まで描いているのが本書である。その後については連載中なのでまた続刊が出るとのことである。

 20年以上前,オストメイトの方と仕事をしていたことがある。当時は人工肛門をサポートする技術が未熟だったらしく,アンモニアの匂いが漏れてはた目から見てても気の毒であった。さすがに最近は匂い消しフィルター付きの排便袋になっているらしく,昔よりずっと活動しやすいようである。その辺の事情については,内田のインタビュー記事((1)(2)(3)(4))を読むとよい。本書を買って読む気のない人にはこちらを勧める。

 しかし,ワシとしては,本書まるごと読まれることをお勧めしたい。ガン発覚のいきさつから,治療方針が決まるまでの医療機関とのゴタゴタ,そして最終的に人工肛門を形成するに至るまでの一部始終が流麗なタッチで描かれていることが,がん治療というものの真実を知るいい資料になっていると感じるからである。

 内田春菊は我慢しない。言いたいことは言うし,やりたいことはやる。それ故に医者との軋轢もあったりするが,そのおかげで信頼できる医師とはしっかりしたコミュニケーションが取れており,家族(子息)からサポートも篤い。科学を無視した耳障りがいいだけの暴論がSNSに蔓延る昨今,客観的な科学の知識に基づき,自分の意志の表明を躊躇なく行うことの重要性を知らしめる本書は,がんを含めた病とともに生きていくワシら中高年にとっては,良い資料となるに違いないのである。

キュン妻「日刊ヤンデレ夫婦漫画」メディアファクトリー

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-068157-3, \600

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 ちょろっと面白そうな「熱愛夫婦エッセイマンガ」なんだろうなと思って読んだら何とこれ,「因果は巡って丸く収まりました」的急展開が挟まっていたのでワシはびっくらこいたのである。

 最近は紙媒体の雑誌が全然ダメなので,もっぱらWeb上で連載を持たせて単行本にするケースが増えている。ただ,ネット上だと今度はその「雑誌」という範囲で読むことは少なくなり,お気に入りの特定作品のみ読む,というスタイルになってしまう。この辺が,読んでいる時には「冊子」という単位でページを繰ることしかできない紙媒体とは異なるWeb媒体独特の難しさである。その分,ストレージと帯域が許す限り大量に掲載はできるわけだから,ちょろっと良い新人がいればすぐさまスカウトして連載を持たせることはできる。ただそれだとツマラン連載も増えるわけで,ますます「たくさん作品はあるけどどれがいいのかわかりづらい」媒体に成り下がっていき,「とりあえずエロなら読んでくれるかな」的作品が増えていくわけである。
 その分,個人単位で好き勝手できるblogだのpixivだので独力でのし上がって単行本掲載まで辿り着くケースが増えている。ここで紹介した「旦那が何を言っているかわからない件」はその最高峰で,今や作者は何本の連載を抱えているのかわからないほどの人気っぷりである。

 本書もその一つであるらしく,作者・キュン妻は夫ともどもtwitterアカウントを持ち,自身のWebサイトだけでなく,pixiv,アメブロ,ニコニコ静画で本書に収められているエッセイマンガを連載している。その人気っぷりに目をつけたメディアファクトリーが作品をまとめて単行本を出版するに至ったようだ。そういうケースは最近目立って増えてきたし,目利き編集者がワザワザ赤字になる危険を冒してまで単行本を作ろうと考えるからには凡百のエッセイマンガにはない「特徴」がきちんと備わっているものが多い。ということで,大量のWeb媒体掲載作品を渉猟するよりはリアル書店の新刊平置台をチェックしている方がハズレが少ない,という事情は現在も変わらないのである。

 前置きが長くなったが,ワシが本書を手に取ったのは「幸せな夫婦のエッセイマンガ」という理由以上のものはない。なんせ表紙は文字ばっかりだし,作者は完全匿名。pixivで人気があっても相性合うかな?,と半信半疑ではあったものの,「実録熱愛夫婦モノ」で世の草食系男女を啓蒙する活動に日々勤しむ既婚者のワシとしてはネタの一つになるかなぐらいの感覚で買ってみたのである。そしたらそんなものを大幅に上回る「感動」を覚えたのであるから,これは紹介せねばとMacBook Airを開いたという次第なのである。ちなみにワシは本書を読む前は作者のtwitterもpixivも全く知らなかったし,本稿を書くにあたっても全くそれらを見ていない。以下で述べるのはあくまでこの単行本だけ読んだだけの一読者の感想に過ぎないことをお断りしておく。

 本書はゆるふわキュン妻とがんじがらめに妻を縛り付けたい夫との熱愛ぶりを描いた緩い4コマから始まる。といっても肉体的精神的DVではない。DVとは受けた本人が苦痛に覚える場合にのみ適用される用語であり,キュン妻は夫の締め付け的愛情に呼応して愛を育んでいるのだから何の問題もないのである。以前,大手小町で夫による外出禁止令を疎ましく思う妻からの相談があり,それに対する女性からの回答の一つに「妻が愛している限りなんの問題もない」というものがあってびっくらこいたことがあった。まぁ夫婦や愛というものはいろんな形があるので第三者の感想とは全く別物なんだなぁとワシは認識を新たにし,本書で描かれるサドマゾベストカップルは実在するのであろうなと首肯するしかない。

 しかし本書はそれだけにとどまらない「因果」を描いている。キュン妻のマゾ的愛情受け入れの態度は過去の家庭環境を起因とするものであり,それ故にサド的夫の愛情表現が,夫婦生活を営み,2子を育むために必須のものであった,という衝撃の展開が明かされるのである。ふえ~・・・まさに急転直下,放置すると因果は巡り,巡る因果を断ち切るには「愛」しかないのだなと,ワシはこの下手糞ながら可愛げのある漫画表現に納得させられたのである。まさに「愛は地球を救う」んだよなぁ。

 本書の帯には「読めば読むほどやみつきになる,究極の夫婦生活をおとどけします」とあるが,これは宣伝文句としては申し分ない,まことにワシにとっては「究極の夫婦生活」しか持ちえない「愛の効用」を知らしめる教材になったのである。Web時代ならではの大競争時代からこそ浮上してきた傑作,そして草食系男女の背中を蹴り上げて「オラ結婚しろ!」と本書を投げつけてどやし付けるにふさわしい作品なのだ。傷をつけるのが対人関係ならそれを癒すのも対人関係なしではあり得ない,アドラー心理学的真理に基づく本書は,まさに時代にふさわしい傑作エッセイマンガと言えるのである。

山本さほ「岡崎に捧ぐ①」「同②」小学館

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① [ Amazon ] ISBN 978-4-09-179207-5, \787 + TAX
② [ Amazon ] ISBN 978-4-09-179209-9, \787 + TAX

 帯の煽り文句に「WEBサイト[Note]で短期10,000,000 viewを記録した話題作」とあったので,てっきりまた一迅社やメディアワークスあたりがトチ狂ってWeb漫画をまとめたのかなと思ったのだが,出版したのは天下の小学館,今はビッグコミックスペリオール誌で連載中というのだから,Web漫画の成り上がりぶりには慣れているワシとても素直にすげぇえなぁと感嘆したのである。
 で,買って読んでみたら確かに面白い。基本的には作者・山本の小学校~中学校時代の思い出話を描いているのだが,リアリティに溢れすぎていて現実のアンチクライマックスぶりに左頬の筋肉が引き攣る程だ。しかもこれ,10年ぶりに描いた漫画だというのだからビックリだ。一応美大を目指していたぐらいだから,絵心はあったろうが,面白い漫画を描く才能はそれとは別のものなのだから,漫画の執筆を勧めた同級生の杉ちゃんや岡崎さんは偉大だなぁ,持つべきものは友達だ,としみじみ感じ入るのである。
 糸井重里のマンガ読み能力は年季が入っているだけあってさすがと唸らされることが多い。本年も山本さほにとよ田みのる,simico,小山健の3人を加えて催された「私(し)まんが座談会」を催しており,よく読んでいるなぁと感心させられた。そこで糸井は次のようにこの4人が描いている「私まんが」を次のように定義している。

私小説(ししょうせつ)という言葉がありますよね?
「わたくし」の身辺や考えを
書いていくのが私小説だとすると、まんがにも
そういうものがあるんじゃないでしょうか。

 私小説と言えば,猫猫先生こと小谷野敦が盛んに門人を集めては執筆を勧めている文芸作品である。文学に造詣が全く深くないワシとても,「へぇ~この人がねぇという下種の勘繰りを満たしつつ,ひょっとして自分もこういうことをやらかしそうだという共感神経を逆なでする,事実に基づくエッセイやマンガが大好きなのだが,それ以上に浅はかな作り物を超えた不条理的ストーリー展開に魅せられるのだ。本作を含む「私まんが」が糸井重里翁のトレンディアンテナに引っかかったのも,過剰なフィクションに食傷したワシら日本のマンガ読みの秘せられた欲求を満たす一筋の光をそこに見たからではないか。ワシはそう確信しているのである。

 本作,「岡崎に捧ぐ」は「ちびまる子ちゃん」のようにマンネリ化したホームドラマでは決してない。そこに描かれるのは赤裸々な凡人たる主人公=作者・山本の平凡ぶりであり,それを際立だせる親友・岡崎さんの存在なのである。家庭環境が荒れている岡崎さんは,それに対抗するように屹立した個人として成長していく。対して山本は平和な家庭環境で平々凡々と日常を過ごし,平均値を脱しないまま2巻の最後で岡崎さんと同じ高校受験して失敗する。描かれているのは,当時の中三の山本のお気楽な態度なのだが,それを描いている作者・山本はその後の人生の波乱を経験しているだけに作中の山本に突っ込みを入れまくるのだ。気楽な思いでエッセイマンガの体裁をとっているのだが,ワシも含む大多数の煩悩を断ち切れない凡人の大人は,自身の若い頃をのぬるま湯っぷりを思い出してしまい,ある意味,読んでいて辛くなる作品でもあるのだ。

 中核となる山本と岡崎さんを取り巻く人間模様もまことにアンチクライマックスで,劇的感からほど遠い。教師に暴力をふるった不良学生は感動的な許しを請うも「お前らまたやるだろ」の一言で警察に通報され,更生の機会を逃すことになるし,所有しているプレステ目当てで家まで上がり込んだ同級生に対しては,ゲームをクリアした後の付き合いをあっさり絶ってしまうし,まことに「あったあった!」というエピソードに満ちている。人格円満でないワシら凡人にとってはちと切ない,思い出したくもない記憶を掘り出してしまう効果が高い漫画なのである。

 新年を迎えるにあたり,それにふさわしいファンタジー漫画を毎年大みそかに紹介している訳だが,本書は心をシバキ倒した擦過熱で熱くなる作品であるから,まぁ一種のブラックユーモア的ファンタジーと言えないことはない。今後の山本と岡崎の関係が大いに心配になるが,それは2016年に刊行される第3巻以降で次第に明らかになるであろう。つまり,来年が待ち遠しくて仕方なくなるシャブのような効果のある作品でもある。まことに新年を迎えるにふさわしい強烈な「ファンタジー」ではないか。ヘタウマ的センスあふれる山本さほの今後の活躍に期待しつつ,2015年を〆ることにする。

 本年は誠にありがとうございました。
 来年もよろしくお願いいたします。

戸川隼人「マトリクスの数値計算」オーム社

Matrix Computation

(絶版) [ Amazon ] ISBN 4-274-07008-5, \4301 + TAX

 Wikipedia風に本書の著者紹介をすると次のようになる。

戸川隼人(1936 – 2015) 1958年早稲田大学第一理工学部数学科卒,1971年まで科学技術庁航空宇宙技術研究所(現JAXA)研究員,1976年まで京都産業大学助教授→教授,2000年まで日本大学理工学部数学科教授,その後,尚美学園大学,サイバー大学で教鞭を取る。数値解析,数値計算,プログラミング, CG,情報処理全般の著作多数。

 理工系大学・専門学校でプログラミングを学んだ,現在40歳以上の元学生の諸氏は,C, Fortran, Visual Basic等のテキストの著者として認知しているのではないかと思われる。特にサイエンス社からは多数の書籍を出しており,関連会社の数理工学社のテキストや「数理科学」の表紙絵も描いていた。個人的には器用で世渡りのうまいタイプの秀才だったという認識を持っている。

 本書は著者自身による著作リストにも入っていないオーム社からのロングセラーで,ワシの手元にあるのは平成4年(1992年)の「第1版第17刷」である。現在は絶版品切れ状態だが,21世紀になってもひょっとしたら生き残っていた可能性もある。第1刷が刊行されたのが昭和46年(1971年)だから,かれこれ40年以上も継続して読まれ続けたということは,ことこの分野の書籍としては異例で,しかも第1版のまま改定もされずに生き残っていたのだから,記述そのものがそれほど古びなかった,ということである。内容は「マトリクス」(行列)ということから類推できる通り,連立一次方程式と行列の固有値問題がメインであるが,執筆当時は最先端の話題であった区間演算,キングサイズ(今でいう大規模問題)向けの計算法,疎行列の扱い・・・に加えて「高次代数方程式」(第4章),「常微分方程式の初期値問題」(第5章)まで扱っており,内外の文献を集めまくって精力的に執筆を行ったことが巻末の膨大な文献リストからも伺える。実際,現代でもこの分野の勉強の一環として本書に目を通す価値はあるだろう。但し,あくまで参考程度に留めるべきである。

 著者の履歴を眺めていて気が付くのだが,本書刊行時点ではまだ博士号を取得しておらず,母校・早大から博士論文「ロケットの運動の数値解析的研究」が認められたのが4年後の昭和50年(1975年)である。多分,本書の記述に使われた膨大な文献は,航空宇宙研在籍時からのものも含め,博士論文執筆のために存分に利用されたのだろうと推察できる。
 残念ながら,その後,本書は改版されることなく,当然その後の研究の進展も,Linpack, Eispack,そして統合されたLAPACK/BLASと派生ライブラリの高速性については全く触れられないままとなってしまった。書籍ではありがちのことではあるが,科学技術計算基盤が大型計算機からワークステーションやパソコンに移ってしまった1990年以降の技術動向を著者は全くフォローしていなかったようなのである。

 実はワシはちょうどその時期に博士号の取得のために永坂秀子先生の実質的な指導の下,著者に主査をお願いしていたのだが,研究そのものについての役立つアドバイスは皆無であり,博士号取得の要件となる査読論文はほぼ全部,ワシと永坂先生との共著として出版したものである。とはいえ,いざ博士号の審査となれば,著者の顔の広さを存分に発揮して頂き,副査として日大工学部に移っていた田中正次先生と,物理学科の川上一郎先生という大御所を付けて頂いたことは今でも感謝している。しかし,肝心の論文の中身についてのアドバイスは地に足のついたものではなく,正直イラつくことが多かった。当時は数値解析よりもCGやプログラミング言語の方に著者の関心が移っていたことも原因であろうが,やっぱり,数値線型代数に関する最新知識の習得は怠っていたのかなぁと思わざるを得ないのである。

 本書に関しては,今でも内容的に使えるところが結構ある反面,更に高度に発展した技法があり,それを取り込んだLAPACK/BLASが既に無料で入手できる状況にあることを鑑みると,歴史的価値以上のものを見出すことは難しいというのが今の偽らざるワシの感想である。理論的な記述,本書で言うとQR法の収束の解説などはさすがに心血を注いでいるだけあって分かりやすいが,同様のものは森正武「数値解析」(共立出版)にもあるので,本書が唯一無二の数値線型代数中心のアルゴリズム解説書であるという記述はそんなに多くはないのではないか。それよりは1970年代初頭の段階でのこの分野の動向,そしてその当時の著者の博覧強記ぶりを知るための歴史的資料として捉えるべきであろう。

 ワシが現在刊行を目論んでいる「LAPACK/BLAS入門」(仮)は,実は本書の記述に対する一種の「恩返し」の意味合いも込められている。まことに嫌味で反抗的だった院生として著者に対し「先生の書いた数値線型代数の技法は全てLAPACK/BLASにつぎ込まれて更に洗練されてますよ」と言いたくて書いているところもあるのだ。ちょうどその執筆に苦しんでいる時期に著者が亡くなっていたことをこの年の瀬に知ったこともあり,博士号取得に際して散々お世話になった「お礼」も兼ねてこの小文を書くことにしたのである。