藤子不二雄A「藤子不二雄Aのブラックユーモア [黒イせぇるすまん]」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-183778-3, \1400
fujiko_fujio_a_black_humor_1st.jpeg
 本書に収められている「マグリットの石」(P.239),最後の台詞が昔読んだものと違っているような気がする。「マグリットの石」に押し潰された主人公にかけられる無慈悲な野次馬の言葉は「ヒキガエルみたい」というものだった筈なのだが,本書では「まるで岩にでもつぶされたみたい」と,より穏当なものになっている。・・・といってもワシの曖昧な記憶では,ということなので,単なる勘違いなのかもしれないが,しかし,あまり良い気分はしないのである。
 藤子不二雄Aのブラックユーモア短編は何度か編み直されている。今回は「画業60周年」と銘打っての読みやすいA5サイズ,値段相応の適度なボリューム(436ページ)という単行本形式なので,定価がちと高いのは玉に瑕だけど,紙質も良いので,保存用としても申し分ない。このあと続刊が何冊続くのかは不明なれど,少なくとも今月(2011年4月)28日には2冊目の「無邪気な賭博師」が出るようなので,2冊以上であることは間違いない。「笑ゥせぇるすまん」や「魔太郎がゆく」のような長編シリーズものとは別系統の秀作をおさえそこなったと思われる向きは是非ともこの機会に入手されたい。
 「ブラックユーモア」の定義は人それぞれ異なっているのだろうが,ワシはいつも阿刀田高「恐怖コレクション」(新潮文庫)に納められている「ブラック・ユーモア私論」で引用されているフロイトの解釈を思い出す(P.199)。

 そもそもフロイトは,ユーモアというものを(ブラック・ユーモアと言い換えてもいいのだが)”苦痛によって余儀なくされる精神的消耗の節減を目指す思考の一形式”と考えていた。
 つまり,苦痛によって人間の精神は一定のダメージを受ける。そのダメージをできるだけ少なくするように,あらかじめ(あるいは事後に)講ずる防衛手段,それがユーモアである,ということだ。

 阿刀田高のエッセイは,池上彰並にかみ砕いた分かりやすい古典文学等の解釈で有名だが,この「ブラック・ユーモア私論」でも,上記のフロイトの解釈をより丁寧に解説している(P.203)。

 そもそも笑いというものが,なんらかの意味で精神のゆとりの産物である。
 悲劇の渦中にある人間は笑うことができない。
 だから笑えるようになれば,悲劇を客観視し始めた証拠なのだが,人間はいつの頃からかこの心理作用を逆手に利用することを覚え,悲劇の中でも無理に笑えば,おのずとそこにゆとりが生まれるという方法を会得した。
 なんとか心理的に恐怖を軽減したいという欲求と,この方法とが結びついたとき,そこに黒いユーモアが誕生した,と言っても過言ではあるまい。

 この私論は,漫才ブーム華やかな頃,ビートたけしが「赤信号,みんなで渡れば怖くない」という毒のあるギャグで売り出し中の時代に書かれたもので,たけしが生み出したこれらの毒,阿刀田言うところの「ブラック・ユーモア」の紹介から始まっている。たけしのギャグのどの辺がこのブラックユーモアの効用,つまり「心理的に恐怖を軽減」できるものなのかという結論については文庫本を読んでもらうとして,ワシが一番気になるのは藤子不二雄Aのブラックユーモア短編群がこの定義に当てはまるものなのかどうか,ということなのである。
 ワシは藤子不二雄を構成するF(藤本弘)成分もA(安孫子素雄)成分のどちらも大好き,というより,それらをアニメとかコロコロコミックスから吸収しながら育ってきた世代なので,精神を構成する中核に据え付けられているのである。故に,F先生のSF短編集も,このA先生のブラックユーモア短編集も折に触れて読んでいる。リイシュー版が出るたびに,何度も何度も再読しているのである。
 本書に納められている短編群は,割と初対面というものが多いのだが,それでも「黒ィせえるすまん」や「ひっとらぁ伯父さん」シリーズ,海外カジノでオケラシリーズ(今名付けた),「ブレーキふまずにアクセルふんじゃった」,「北京填鴨式」,そして「マグリットの石」,これらの作品群は既読,それも繰り返し読んだ部類である。ワシは血なまぐさいリアルな描写のホラーが苦手なのだが,ファンタジーまで昇華したものは割と好む方である。江戸川乱歩しかり,乱歩作品を漫画化した丸尾末広しかり,そしてこの藤子不二雄A作品もしかり,である。
 藤子A作品のブラックユーモア短編は,ちんちくりんで丸っこい,いかにも児童漫画然としたキャラクターなのに,所々,写真を白黒のコントラストをきつくしてゼロックスコピーしたようなリアルなコマが挿入されることによって,重苦しくも不思議な味を演出している。野暮ったい,とも言えるかもしれない。新しい世代のスピーディーでスタイリッシュな漫画作品が生み出される時代になっても,いや,そういう時代であるからこそ,この野暮ったさが魅力になっているとも言える。そしてこの野暮ったい作品には,世間的にはいじめの対象となる,気弱で内心鬱々としたものを抱えている主人公達が多く登場し,野暮さをさらに増幅させる。そして主人公の多くは内心の鬱屈をバネとして,間違った方向に跳躍してしまうのだ。しかし方向はともかく,その「跳躍」っぷりには共感してしまうことが,少なくともワシにはよくあるのだ。海外でギャンブルにのめり込んでオケラになったり,普段から邪険にされている人間に復讐したくなったり,そんな様が野暮と言われるほど分かりやすくユーモラスに描かれることによって,ワシも含めた読者の内側に「おのずとそこにゆとりが生まれる」ようなのである。やはり藤子A作品は阿刀田高が定義する「ブラック・ユーモア」に当てはまるものなのである。
 「マグリットの石」もそうだ。浪人して一人暮らしの陰気な青年が古本屋でマグリットの画集に嵌まる。そこに描かれた一枚の絵に彼は魅了されるのだ。それが空中に浮かぶ巨大な岩を描いたシュールな作品,それが「ピレネーの城」。海上に浮遊する巨大な縦長の岩,そこには城が乗っている,というもの。彼はその不思議な岩に魅了され,ついには・・・というストーリーである。不安定な立場から心理的に追い込まれていく人間が救いを求めた先がこのピレネーの城を頂く「マグリットの石」ということになる。まさしくブラックな笑いを求めるにふさわしいシチュエーションではないか。
 だからこそ,彼はこの岩に押し潰されて死ぬべきだったのである。そして,「ヒキガエル」のようにみっともなく他人から嘲笑されるべきなのである。誰からも顧みられず,寂しく,しかもとびっきり醜く死ぬべきだったのだ。それでこそ,ブラックユーモアの「効用」は最高に高まるのだ。藤子Aはブラックユーモアの本質を理解し,それ故に良識を持つ人達が眉をひそめる台詞を最後に選んだのだ。いや,そうでなくてはならないのだ。
 より穏当な台詞に置き換えられた「マグリットの石」は,それ故にブラックユーモアの「効用」を減じてしまった。ワシにとってはそれが残念なのであるが,ひょっとしたらそれはワシの単なる勘違いなのかもしれない。しかしそれが勘違いかどうかは問題ではないのだ。「あまり良い気分がしない」こと自体が,「黒いユーモア」を求めてしまうワシの精神の有り様を映し出したものであり,最後の台詞が主人公にとってより残酷なものであることを欲してしまうほど,「心理的な恐怖」を抱えていると言えるのである。

3/29(火) 掛川・曇

 そろそろ静岡のソメイヨシノは咲き出しているようなのだが,職場の桜並木はまだつぼみ。3月に入ってから寒気が継ぎ目なく押し寄せてきて,開花を妨げているようだ。来週にはお掃除の神が我が家に滞在される予定なので,その時には満開になっているといいな。
 福島第一原発,タービン建屋に溜まった水の処理で立ち往生らしい。放射能を含んだ汚水を貯めこむために近場のタンクをやりくして排水するようだ。色々批判する声はあるが,初動を誤ったツケが大きいので,今となっては場当たり的なのは当たり前で,抜本的に一気に解決するはずもない。地道に頑張ってもらうしかないよな。でもまぁ爆発的現象はなんとか食い止めているようなので,ハラハラすることはなくなったかな。時間が経過して再臨界が起きなければ熱量が上がることはないので,事故の収束にまだ時間はかかるだろうが,フランスに助けを求めたようだし,まぁ先行きそんなに心配はしていない。原発周辺の土地も産業もパーになったし,尖閣諸島とその周囲の国土を失ったことは取り返しのつかない大失敗だが,「原発依存」という病からは解き放たれたと思えば,まぁいい転換点かも。・・・それにしても損失は計り知れないけどな。
 原発にかまけて・・・という訳ではないが,明後日締め切りの原稿,とても書く気にならず,依頼主に「すいません,できません」というお詫びメール送ったら,一月伸ばしてやる,というご返事。諦めて清々しい気分になっていたら,もっと頑張れと言われたわけで・・・ハイがんばります~。
 大震災以来,ここのNHK・JCO事故報告本の記事へのアクセスがドカンと増えた件。ヒット数のグラフを描いてみた。
000778_about_JCO.PNG
 建屋の水素爆発が起こってからは徐々に減っていたのだが,東京で水道水から基準値以上のヨウ素131が見つかってドカンと増え,検出されなくなったらまた減っているという状況。まぁ分かりやすいというか,この程度の知名度しかないサイトの記事でも世の中の動きのサンプリング調査は可能なんだな,ということがよく分かるな。
 しかしまぁ,JCO事故もそうだけど,原発の現場って,ことに作業員と指揮系統との「デバイド」がひどいように感じる。ハッキリ言えば,知識量と学歴の差が激しいような感じ。メディアではこの話題を避けているようだけど,原発事故の現場で働いている人たちと,本社で記者会見に出てくるような人たちとのデバイドはずいぶん深いように思えるのだ。誰かこの辺の事情を調べて書いてくれる人いないかなぁ?
 どのみち,チェルノブイリ以降,原子力のイメージは決定的に悪くなってて,若い世代が好んで就く仕事ではなくなっている。今回の事故で更に原発で働こうとする人はいなくなる・・・となれば,もう現状動いている原発を維持する人員を確保するだけで精いっぱいなのでは? ワシには「もう無理である」という声が聞こえて仕方ないのである。
 さて,風呂入って寝ます。明日は静岡で昼食会なのである。黙々と飯を食う予定。

3/24(木) 掛川->東京・曇

 ちょっと肌寒いかな~,という空気の中,掛川から東京に向かう。今週は丸ごと有給休暇消化に充てており,スケジュール通りの小旅行なのだが,3・11このかた,意味が変わってしまった。おまけに東京では一部で乳幼児には適さないレベルの放射能・ヨウ素131が検出され,沈静化していたミネラルウオーター買い占めがまた復活してしまったようだ。つーことで,明日の大師匠訪問時のお土産として,南アルプスの天然水1.5lを2ボトル持っていくことに。そーいや,2001年問題が過剰に騒がれた時にも備蓄用に一本買ってたっけ。10年ぶりの水買い出し。しかも闇市買い出し(買ったのはコンビニだけど)の如く,長距離移動で物品を運ぶのである。
 午後4時過ぎに東京駅到着。薄暗い他はあまり変わった印象なし。年度末のウィークデーだってのに,人出が少ないかなぁ,とは思うが,西行きの新幹線も疎開する人々で予約一杯,ということもないようだ。
reservation_status_of_shinkansen2011-03-24.JPG
 エスカレーターの止まった東京駅・両国駅を経由してホテルへ。
announcement_of_stopping_escalator.JPG
 両国駅も照明が消えてて薄暗い。
inside_of_ryogoku_station2011-03-24.JPG
 しかし,ミネラルウォーターが店頭から消えている以外は至って普通。まぁ当たり前なんだが,高齢化社会が進展しているせいで諦観や達観が蔓延しているのかしらん?
 荷物を置いて,久々に鈴本。
entrance_of_suzumoto_hall.jpg
 ラインナップはかなり豪華。ワシ好みで外れなしだ。
suzumoto_program2011-03-24.JPG
 トリの文左衛門師匠が目当てであるが,その他の出演者もワシ好み,外れなし。志ん輔師匠とロケット団が一番受けてた。
 トリネタは「文七元結」。なるほどなあ,今まで聞いてきた文七とはだいぶ趣が違って,解釈が面白く,結構緻密。40人ばかりの客しかいなかったが,文左衛門ファンと思しき女性陣が最前列を陣取っていたのが印象的。あの熱心さなら,毎日通っててもおかしくないなぁ。
 寝ます。

3/21(月・祝) 掛川・雨

 どーもいかん。震災この方ずーっと福島第一原発が気になってしまい,TwitterとWebにかまけて何にも進まん。いい加減にしないとイカンのだが気になるものは仕方ない。疲れるまで追いかけてやろうと3連休はこれで完全につぶれてしまった。後はNHKに任せたぞ(何を?)。
 原発の事故以来,放射線を気にする人激増らしい。ウチのJCO事故報告本の記事が事故以来1500以上の閲覧数を記録。アレ読んでも心配になるだけだと思うが,ともかく皆さん怖いが先に立って,政府発表より悪いことを書いた(と読めてしまう)Webが気になるようだ。少しは「統計的所見」って奴もついでに解説してやれ。ちょっとでも放射線を浴びたら全員がんになるとでも? 原発反対派の方々が被曝の恐ろしさを説くのは良いが,がんの発生率が上がる閾値についてはまだ議論があるみたいだし,それ以下の放射線で騒いでいるのはちと見苦しい。小さいお子さんを持つご両親が体内被曝を気にするのは分かるが,もう50以上の年寄りは放射線気にするより高血圧とかメタボ体型を何とかした方が良いのでは?
 鎮静剤,と言うわけではないが,とりあえずほぼ日の東日本大震災特集記事のバナーを右のメニューに追加しておいた。これ読んでも安心できないってのは分かるが,パニックになるのは福島第一原発の圧力容器が水蒸気爆発したとか燃料棒が溶けて底に貯まって再臨界が止まらない(チャイナシンドローム状態)になってからでも遅くはないぞ。それでも気になるなら日本から出て行け。
 しかしまぁ,電力に関しては東日本だけでなく,全国的にシビアなことになりそうだなぁ。新規原発を作れるはずもないし,今稼働中の原発だってそうそう日持ちしない。代替エネルギー開発待ったなし,スマートグリッドの実用化も必須,その上で節電を続けていかなきゃ。人口減少時代に入っているから,需要予測をきっちりやれば安定的に着地できるとは思うが・・・先は長い。
 静岡では開花宣言が出た。本州では一番早いとのこと。早咲きの桜はすでに咲いてたりする。
cherry_blossom@ecopa.JPG
 季節は春。
 Mさんから大量のブロッコリーを頂いたが,食する手段がない。チマチマ塩ゆでしたものを食っていたのでは追いつかない。一気に消費するレシピとしては何が良いかな~,とCookpadを漁ってクリームソースパスタを見つける。明日作って8割は使いたいな~。
 ぷちめれ祭り,力尽きたので今回はこの辺で終了。適宜追加して書きたいが,どーも鬱が取れないようで本もろくすっぽ読めてないって状況。まぁ大厄も済んだようなので,少しずつ復活したいものである。
 ボツボツやって寝ます。

幸谷智紀・國持良行「情報数学の基礎」森北出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-627-05271-0, \2310
intro_discrete_math_cover.png
 いやぁ~,長かった長かった~。一年半余り,艱難辛苦を乗り越えて(大げさ)やっと書き上げ,推敲し,出版の運びとなったのである。・・・って,矢先に東日本大震災に見舞われてしまい,流通経路が怪しいという状況。版下は完成していても発売がいつになるやら分からないのである。まぁしかし当初予定の4/15は怪しいとしても,近刊には間違いないのであるから,ここで宣伝も兼ねてあれこれ思い出すことなどを書き出しておく。ちなみにサポートページを作ったので,bug情報はこちらに随時更新して書き出しておく予定。
 本書の章立ては次の通りである。
   第1章 情報数学基礎への準備
   第2章 数の表現方法
   第3章 命題と論理演算
   第4章 集合
   第5章 写像
   第6章 関係
   第7章 述語と数学的帰納法
   付録A コンピュータ内部での小数表現
   問題の略解/章末問題の略解/参考文献/索引
 ワシ世代(高校で数学I・基礎解析・代数幾何・微分積分を履修した世代)なら,第6章の関係を除いて全部高校数学ので扱う内容であることに気が付くだろう。今更そんな初歩的なことを大学でやるのかと,古い世代の人達からは言われそうだが,実際やる必要があるんだから仕方がない。コンピュータというものを理解するために必要不可欠なN進表現,命題論理,集合,写像・関係,帰納法という離散数学の初歩知識を得るためのテキストとして本書は執筆されたのである。
 とはいえ,まるっきり数学的素養のない人間にも腑に落ちる名解説があるかと言われれば?である。中学校の数学で躓いた数学大嫌い人間にとっては本書の解説は苦痛以外の何物でもない筈で,当方としてもそういう人間は相手にしていない。不可能なことは不可能なのである。正直に言えば,そーゆー方々は,少なくともプログラマーにはならないで下さい,なろうとしないで下さい。迷惑だし金の無駄だ。本書の位置づけは,高校までの数学知識が怪しくても,数学を受け取るだけの地頭のある人,かつ,意欲がある人向けに,コンピュータ,特にプログラミングで必要となる知識を得るための基礎教養を身につけるためのものなのである。
 このテキストは次のような流れでできあがってきたものである。

  1. 情報システム学科(現・総合情報学部)1年生向けの必修科目として「情報数学基礎」が設置される
  2. 幸谷,國持がそれぞれ「情報数学基礎」用のテキスト(大学内でのみ使用)を執筆
  3. 幸谷・國持バージョンをマージして「情報数学基礎」(大学内でのみ使用)を作成
  4. 出版社・営業さんに出版を持ちかけ→出版計画スタート
  5. 執筆

 まず1から説明する。全国的に旧帝大・早慶クラス以下の大学では入学者の多様化・・・つまり低レベル化が進み,高校での数学知識をアテにできなくなってきた。本学もご多分に漏れず。数学知識が必要な科目では独自にフォローアップを図ってきたがそれも限度があり,「これを知らなきゃテキストも読めないぞ!」という最低限の離散数学の知識と,それを身につけるための基礎教養を身につけるための科目を設置することになった。これが「情報数学基礎」である。少人数クラスできめ細かくフォローアップをする,という目的で4人の教員が分担して1年生全員の面倒を見ることになったのである。
 とゆーことで2のように各教員がテキストを作って教えだした訳だが,同じシラバスなのにテキストがばらばらでは困る,少しはテキストの種類を減らせという上からの指示があり,3のようにワシ(幸谷)と國持のテキストをマージしてLaTeXテキストを作った訳である。
 しかしこのマージしたテキスト,お世辞にも出来がいいものとは言えない代物であった。ワシは高校数学,とゆーよりは中学生にも分かる程度のごく簡単な定義と演習問題を付けた薄いものを使っていたのに対し,國持の方ではもっと本格的かつ標準的(本学レベルだと難しいもの)な離散数学の立派なものを使っていたのである。それを無理矢理一緒にしてマージしたモンだから,数学用語の一本化は不十分だし,説明の仕方もまるで異っているものがそのまま残ったという体たらく。ま,それでもテキストの種類は減った訳だから,これで当分は凌ごうと二人で3年程使っていたのである。
 そんな折,毎年本学に営業に来られていた森北出版の方に「こーゆーレベルのテキストない?」と,暗に「これをお前のところで出版してくれたら使ってやらんでもない」と交渉してみたら思いのほか良い感触が得られたのである。最終的には,編集担当のKさんと営業のEさん,それと森北社長と面談し,「とぉおおっても易しい,高校数学の教科書スタイルのテキストに書き直してくれるならいいよ」ということで企画がスタートしたのである。これが4。
 そっからが苦難の道,っつーか,書き直し作業は困難を極めたのである(自己評価)。マージしたテキストを土台として書き直しするので,題材は揃っている。しかし,水と油のような記述が残っているものはそのままでは使えない。結局,原型は章立てと題材の順番がにその痕跡を留めている程度で,冒頭の説明や簡単な演習問題は全部書き直しとなった。その作業が1年あまり。そっからKさんの閻魔様のような書き直し要求が立て続けに押し寄せ,思考力をなくした著者二人はひぃひぃ言いながらもほぼ「仰せのままに」書き直し作業を進めたのである。それが大体2月上旬には終了した訳である。
 しかし運命は(と勝手に責任転嫁するが)皮肉なもので,最後の最後,あと一歩で完成稿だ,というところでトラブルが発生した。ちょっとした行き違い,というレベルではなく,二人で異なる数学用語の定義を使い,そのずれを放置したままだったのが露見したのだ。それが判明した結果,最終段階の書き直し作業を行っていたワシがストレスに耐えかねて爆発してしまったのである。どういうズレだったのかについては後ほど書くことにするが,まぁそれからは何だかんだあって,何とか収束,ようやくアトは印刷にかけるだけという最終稿が仕上がりつつある(←今ココ)。
 以上で愚痴は止めるが,ともかく普通の共著のように,各章で分担を決めて個別に書いたものをマージした,というものではなく,共著者がお互いに互いの原稿を丸ごと手を入れながら作ったのが本書なのだ。故に,真の意味での共同作業(+喧嘩成分入り)なので,まぁどっちの負担が大きかったとかどっちが主担当だとかと揉めることはない。完全イーブンの関係で本書はできあがったのである。 だから,かえって記述内容は易しくしようとして失敗している感じもする。自分の数学観を確認しながらの解説は,結婚式における年寄りのスピーチの如く,回りくどくてすぐに頭の中には入りづらい・・・かも。本書のタイトルは最初「かんたん」とか「やさしい」という冠を付けたものを提案されたが,類書に比べて実際簡単かというとそうでもなさそうな気がしてきたので,形容詞抜きのシンプルなものになった。しかしながら(我ながらくどいが),扱っている知識量はごく少ないものに留めてあるので,まぁ,半期の我慢の結果はしっかりと定着させたいという狙いは貫徹できたかな,と思っている(ワシだけかも)。
 あくまで本書は数学のテキストである,という方針を貫くため,コンピュータとの関連については章末にコラムという形で触れておく程度に留めた。ちょっとこじつけ的な説明になっちゃったかな,というものもあるが,どこに役に立つ知識であるか,その例示ぐらいはしておかないと情報系学部における「情報数学基礎」の意味がなくなるような気がしたので,付録以外の全章分に書き下ろすことにしたのである。
 抽象的な概念の提示より先に具体例が示される,という書き方は森北社長からの入れ知恵であるが,それなりに忠実に従って書いたつもりなので,「高校数学の教科書スタイルのテキスト」には一応なったかな,とは思う。それが果たして「わかりやすさ」に繋がっているかどうかは不明だが,とかく概念理解が苦手な低レベル(って断言しちゃうけど)学生への配慮としてはこれが限界だろう。うまい例示が見つかれば「記述の改善」はできるだろうが,学生さんの頭の中に手ぇ突っ込んで知識を大脳新皮質に塗り込むことができない以上,抽象的概念の獲得は自力でやって貰わねばならない。そこが厳しいようであれば,もう技術職としてのプログラマーは諦めて欲しい,というのがワシの考える「最低ライン」としての「情報数学」の「基礎」確認作業であり,本書はそのために執筆された,最低ライン確認用ツールなのである。