黒咲練導「黒咲練導作品集 C- (シーマイナー)」白泉社

[ Amazon ] ISBN 978-4-592-71031-8, \819
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 いやまぁ,これだけ表現と内実に差がある人も珍しいのである。同じムックに連載中の二宮ひかるシギサワカヤが親しみやすくリアルなエロ表現であるのに対し,黒咲のデフォルメしまくったアーティスティックで退廃的な雰囲気を漂わせるエロ表現は誠に取っつきづらい代物なのである。しかしそこが魅力的であり,一番の特徴である・・・訳なのだが,しかしその表現で描いているのはまごうことなき「愛」を育む行為としての性愛行動なのである。この辺,二宮やシギサワが世間一般にありふれた浮気行動を軽やかに描写しているのとも対極的で,黒咲の描く恋愛はドンドン深みにはまって足抜けできない所にSEXしながら落ち込んでいく,ひたすら一途なものなのである。
 つまり,黒咲の漫画は,きちんと読まずに表面だけ眺めると本質を見失うのだ。イヤらしく爛れた肉体が組んずほぐれつ汗まみれになっている様だけ見れば「不健全図書」なのだが,愛し合う男女(ばかりではないが)が密室でどんな行為をしようとも合意の上であれば「健全で常識的な愛」の営みである。本書はそんな分かりづらい黒咲の作品と戯れるにふさわしいバラエティブックなのである。
 絵画における「エロ」ってのは大変定義が難しい。表現者による幅が大きい上に,受け取る側の性的リビドーの方向性がかけ合わさって,統計的にはかなり面積の広い,ぼんやりした偏りとしてしか民主的な合意形成としての「エロ」を定義することはできない。いわゆるデッサンがしっかりした「うまい絵」で女性の裸を描けば男のペニスが屹立するという単純なものではないのだ。鰯の頭が神々しく見えるように,欲求さえあればジャガイモでもカエルでもナマコ相手でも「おっ立つ」のが人間の不思議である。
 このあたりの事情を端的に説明した台詞が,杉浦日向子「百日紅 其の十九・色情」に載っているので引用してみる。葛飾北斎の才能を受け付いた娘・お栄の枕絵には色気がないという指摘を版元がしているところである。
 「誰しも得手不得手があるってことさね」
 「いい例が善さんだ」「春に出した枕絵が受けがいいんだ」
 「腕でいやあ まだまだお栄さんの敵じゃあない」「頭でっかちで手足の細い変な人間を平気で描いているよ」
 「でも枕絵となるとそれが妙になまめかしいんだ」
 「コウ絵が前にでてくるような力があるよ」
 「お栄さんのは逆に人は描けているがどうも色気がない・・・・・・」
 「変な人間」を描いた方がエロい(と感じる読者が多い),ということもあるのだ。裸体画でもエロさを微塵も感じさせないものもあれば,着衣であっても,いや着衣であるからこそエロい,という絵だってある。黒咲のデフォルメのきつい芸術的なキャラクターは,まさに「変な人間」になっていて,乳房は三角だし,体型は不健康なほど細くて骨張っているし,リアルな人間からはほど遠い。しかしそれがたまらなくエロかったりするのだから,芸術的表現ってホントに難しいな,と絵心のないワシは感心しっぱなしである。
 このエロさを最大限生かして,黒咲の漫画では愛を深掘りしまくるのである。巻頭の「kissing number problem」ではマグロ呼ばわりされた女性を愛する男性が,「テオブロミン」ではセックス依存症の女性を追いかける男性が,「隷属性クラブ」ではアイスをこよなく愛する女性が足で,書き下ろし作品「C-」ではマネージャーに惚れ込む女性アイドルが,どんどん相手を取り込んでセックスに勤しむのである。そして愛を深化させようとするのだ。この辺,自分の指向性故なのか,担当編集者からの入れ知恵なのかは定かでないけど,デフォルメのキツイ絵柄で愛を深掘りするという狙いはどんぴしゃり当たっていると認めざるを得ない。本書収録作品は表面的には怪しげなオーラを放ちつつ,中核には揺るがぬ「健全で常識的な愛」を据えることに成功しているのだ。
 本書の装丁や表紙カットに騙されて購入してしまった不健全図書を好む方々においては,よい機会なので,たまにはまともな愛の育み方にも触れておいて頂きたく,エロさに酔いしれながらも黒咲の卓抜した表現から学んで欲しいものである。

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