十日草輔「脱サラ41歳のマンガ家再挑戦 王様ランキングがバズるまで」イーストプレス

[ Amazon ] ISBN 978-4-7816-1890-6, \750 + TAX

 マトグロッソで連載している時から欠かさず読んでいたエッセイ漫画が一冊にまとまったのである。ワシはこの著者の「王様ランキング」の読者ではないが,面白いという評判は聞いていた。とはいえ,最近は人生の残り時間が少なくなってきたこともあり,いつ終わるともしれぬ長編マンガとお付き合いするのは控えている。気にはなっていたものの,ワシ好みの絵柄でないこともあって,手を出さなかったのであるが,お気楽にタダで読める自伝的エッセイ漫画連載が始まったのだ。ということで,物怪の幸い,毎月アップされる自己愛と羞恥心の暑苦しい発露を面白く読んでいたのである。
 従って,この238ページの単行本,書き下ろしの巻末15ページと追加15ページ以外は全部既知の内容であるが,改めて冒頭から読み直してみると,中年に至るまで,大部分の社会人が経験するであろう失敗と自己分析の部分はかなりの共感を持って迎えられるのではないかと感じたのである。ネットでバズったとはいえ,知らぬ人の多い「王様ランキング」の著者の作品であるが,割と厚めのソフトカバー単行本であるにも関わらず750円と安価であることでもあるし,「チャレンジングな人生」を送ってみたい熱量の高い向きには良い指針になること間違いない。「自分は器用な人間ではない」とお気づきの不器用な多数派の方々にはお勧めしておきたい一冊なのである。

 著者は本書のタイトル通り41歳で単行本デビューするのだが,20代で漫画家になることを一度諦めている。3年間,引きこもってひたすらマンガを描いては投稿し,時には編集部に持ち込みも行ったもののついにデビューできず,ファミレスのバイトとして社会人への一歩を踏む。その後,eMacと出会い,フォトショップやHTMLを覚えてWeb関連の仕事につく。2000年代初頭の頃なので,ようやくWebが浸透してきた時代,入り込む隙はいくらでもあったわけで,そこにコンピュータの操作を覚えることが得意であった著者はうまくハマったのだろう。社会人として会社を渡り歩きながら,イラストレーターとしても一定のレベルに到達している。とはいえ,40歳を越えたあたりで人生このままでいいのかと,絵本作家を志すが,狭き門故に諦め,一度は挫折したマンガ家に再チャレンジをするのである。
 ここで重要なのは,「会社人としての経験」と「マーケティングリサーチ力」である。前者は人様に物事を説明して仕事を進めていくコミュニケーション能力を著者に与え,後者は20代の失敗を踏まえて自分の能力を俯瞰しつつ,それを売り込むために最適なマンガサイトを見つけることを可能にしたのである。ちょうど40歳を迎えて知力も体力も経済力もある程度余裕のある最適点だったこともあり,一度は決まった単行本デビューの話も持ち前のリサーチ力故に「まだその時期ではない」と判断して蹴っ飛ばし,コツコツとサイトにマンガをアップし続けて遂には独力でバズるに至って,「王様ランキング」の単行本刊行とヒットを勝ち取るのである。

 「そうはいっても運の良い人の自慢話でしょ?」という感想は,確かに正しい。冷静な分析能力があったとしても,十日草輔のように41歳デビューできるわけではないし,確かに「運の良い人」であることは疑いようがない。しかし,失敗しては学び直し,会社でしくじれば次の会社を探し,画力がなければ読みやすいコマ割りを心がけ,読者をワクワクさせる明快なストーリーを展開し,「何だこれ?」という奇妙な描写(本書では編集者がそれ)を必ず差し込む・・・という「心がけ」は,まともな社会人なら誰しも日常的に行っている。そしてその「心がけ」の集積は確実に「運」を引っ張り込む確率を上げる。逆にそれを怠れば間違いなく人心が離れて「運」はやってこない。十日草輔の,古臭い画風で分かりやすく語ったエッセイ漫画はその当たり前の真実を,自身が身につけた漫画力でくどいほど暑苦しくワシらに伝えているのである。

 「失敗したっていいじゃない」というシンプルで誰しも聞いたことのあるセリフは,それ故に,成功者が高みからエヘンと踏ん反り返って吐かれたものではなく,生きている限りは「そうするしかない」という,実際に「そうしてきた」年長者の述懐なのである。本書の最後のメッセージは読者へのお楽しみとして実際に読んで確認して頂きたいが,それは「ありきたり」なものだ。しかし,ありきたりだからこそ,もう一度噛みしめておくべきものであることは間違いなく,十日草輔の,自身の作品に対するネガティブな反応を恐れる自信のなさと賞賛を得た時の喜びは,過去の数々の失敗を経たことで得た「ありきたり」なメッセージの重要性を表現しているのである。

松虫あられ「自転車屋さんの高橋くん」2巻,リイド社

自転車屋さんの高橋くん 2

[ Amazon ] ISBN 978-4-8458-6057-9, \630+TAX

 最近,漫画の好みの偏りが激しくて,甘々なカップル物ばかり読んでいる。複雑な現代社会を人並みに生きていくには,「家族」という最小単位のユニットを構築する必要があり,そのためには互いの信頼と愛情を土台とする二人の成人から成る「カップル」というタネを用意しなければならず,このカップルの関係性を安定的に持続させることが家族形成には不可欠である。そのためには日々勃発する外部刺激に対して対処していかねばならない。「甘々カップル物」というジャンルの読み物はそのための内的動機付け,即ち「断固として互いの結びつきを維持するのだ」という意思表示を「甘々」という,側から見れば「けっ」と言いたくなる一種傍迷惑だが,カップル当事者にとっては必要不可欠なエネルギーの発露の「源泉」を見せつけてくれる教科書なのである。
 ワシが現在読んでいる本作以外の作品では甘々表現がフェチ的セックスだったりするのだが,しかしそれとてもセックスの「源泉」がなくては成立しない。源泉とはつまり日々の外部環境対応の御礼であり,それ故の肉体的奉仕活動なのである。・・・あーもう最近お堅いお役所的文書ばかり読み書きしているから文体が硬くなっていかん,ぶっちゃけて言えば,いざという時に「わぁ素敵」とキュンとさせる白馬の王子様的行動をしてくれた,ということである。これがサラッとできる奴を「イケメン」と言うのである。これは必ずしも男でなくても良く,男女どちらかが時と場合に応じて「イケメン」でありさえすれば良い。イケメンのいないカップルはいずれ破綻することになるので,イケメン成分不足なカップルは互いに「いざという時」のため,日頃から優先順位を間違えずに行動できるよう意識しなくてはならない。銭金が惜しいから,もう少しこのYouTubeを見たいから・・・という理由で相方の危機を見過ごした結果のカップルの破綻,という話は数多存在するのだ。「イケメン」という存在は性別の男女に関係なく,カップルがカップルであり続けるためには必要不可欠な要素なのである。
 その意味で,この「自転車屋さんの高橋くん」はまごうことなくイケメンである。1巻では少し活躍ぶりが大人しかったが,2巻までくると今までの活躍ぶりに加えて,「肉体的奉仕」に対する要求の抑制っぷりが「うは〜,この状況でそこで寸止めか」と,余裕のない童貞歴が長かったワシにとっては憧れる程のカッコ良さなのである。そう,高橋くんは見栄えもさる事ながら,カップルの相方に対する奉仕を自然にやってのける能力を持つが故に「イケメン」であり,御礼としての肉体的奉仕に対しても抑制的に振る舞える,まさに地元密着マイルドヤンキーの鏡と言える存在なのである。
 もっとも,高橋くんは家庭環境の複雑さもあってか,見かけの派手さとは異なり,学校図書館に収められている漫画,マイルドな手塚治虫作品と思しき物を好んで読んでいたという内向的なところも2巻では描かれている。おそらく来年1月に出る3巻では,だんだんしっかりしてきたパン子との愛情が深まると同時進行で,高橋くんの過去が見えてくるのだろう。加えて,強固なカップルが成立するための礎としてのイケメン的行動がどのように絡んでくるのか,その結果を楽しみに,ワシは掲載Web雑誌「トーチ」は読まずに単行本の刊行を待つつもりなのである。

工藤美代子「サザエさんと長谷川町子」幻冬舎新書

工藤美代子「サザエさんと長谷川町子」幻冬舎新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-344-98584-1, \840 + TAX

 いやいやいや,久々に一気読み,面白かった。「月刊Hanada」に連載されたルポルタージュというから,コッテコテのバカ右翼,とはいかなくても,やっぱそれなりに偏っているんだろうと疑っていたが全くの杞憂であった。長谷川町子のエッセイマンガ,三女・長谷川洋子のエッセイを読んでも靴下痛痒だった所がクリアに調査されており,全部ではないが主要な「長谷川家の謎」のあらましはほぼ掴めた。つーことで,「長谷川家上京時の台所事情」「サザエさん朝日新聞移籍前の不可解な連載・休載の繰り返し」「数々の著作権裁判」「長女・長谷川毬子・町子と洋子との決裂」「長谷川町子と毬子の死」,そして本書冒頭には「長谷川町子遺骨盗難事件の顛末」が述べられている。もちろん,プライベートな三姉妹+母親で構成された結束の固い一家のこと,全てが詳らかになるわけではないが,ワシの下世話な知識欲は大方満たされたのだから,幻冬舎新書のページ水増し用としか思えない,ページ上部マージンの不自然な長さには目を瞑ってやろうというものである。

 ベテランノンフィクション作家として手堅い仕事を続けている著者であるが,保守政治家の評伝については興味が持てず,ワシがきちんと読んだのは本作が初めてである。筆力はさすがで一気呵成に読めたのは当然としても,小泉純一郎の姉とコンタクトが取れたり(花田編集長のツテか?),最晩年に近い長谷川家の内情に詳しい人物から話を聞いたりして,内容の信憑性に疑問が所が無いでは無いが,不自然なこじつけ的推理は皆無で,ははぁなるほどねぇとワシは読みながら感心しっぱなしであった。

 今よりずっと苛烈な女性蔑視的社会状況の中,父親を早くに亡くし,未亡人となった母親と三姉妹が戦争を挟んでの激動の時代を生き抜いてきたのである。尋常でない程の硬い血縁的結束があってこその,町子の「サザエさん」の成功があった訳で,莫大な収入があろうがなかろうが,自分が作ったキャラクターを無断で使用するなどということを許すことは,女性蔑視時代の昭和日本を爆進してきた長谷川家にはあり得ない選択であったのだろう。それ以上に,おしとやかな日本女性を表面的には見せていた町子の性格がかなり激しいものであることも本書には幼少期からの証拠と共に述べられており,社会的成功も数々の告発も,通底にはこの負けん気の強さ故のものであることが理解できるようになっている。

 最晩年に三姉妹が仲違いした真の理由は不明であるが,これについては当事者二人が亡くなっている以上,永遠の謎であろう。著者によれば「莫大な財産の相続」に起因すると読めるが,これについても存命の当事者が語らない以上,分からないとしか言いようがない。実は長谷川洋子の著作を読んだワシも「本当かそれ?」と疑っていたから,工藤の疑問は当然である。しかしまぁ,そのぐらいが本件については限界であろう。ワシら長谷川町子愛好者は,長谷川町子美術館,そして今度開設した長谷川町子記念館の財源になったことを寿げばいいのである。

 暴かれたくないプライベートが記述された本書に対して毬子・町子はあの世で大激怒していることであろうが,「サザエさん」(描線・風俗の変遷が凄い)や「いじわるばあさん」(孤独感の描写が良い),そして現在のエッセイマンガの元祖である「サザエさんうちあけ話」「サザエさん旅あるき」が現在に至るも面白く読める不朽の名作であることに水を差すものではなく,読了後はむしろ益々畏敬の念を持つに違いない。本書では作品論にあまり踏み込んでいない所が個人的には物足りないが,より深く長谷川一家のあらましを知りたい向きには必読の一冊であり,世間に抗いながらキャリアを重ねて生きていくことの尊さに打ち震えること間違いないのである。 

幸谷智紀「多倍長精度数値計算」森北出版

幸谷智紀「多倍長精度数値計算」森北出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-627-85491-8, \4200 + TAX

 いやぁ長かった長かった。本来なら昨年のうちに発売されているはずのものが,「可能な限り厚く書け」という方針に変更され,巻末のGNU MP(抜粋),MPFR(完璧),__float128(完璧)のリファレンスまで付録に付くことになってしまったからさぁ大変,シコシコ作業してどーにかこーにか248ページの,ワシの単著としては最大のページ数を誇るテキストが出来上がってしまったのである。担当編集者が途中交代したりして「こりゃ出ないかな?」などと疑心暗鬼になりつつも何とか今日の晴れの日を迎えたのだからとりあえずは良しとしよう。表紙のプログラムが本文で使っているC, C++プログラムとは似ても似つかぬものになっているなどと無粋なことをいう奴は嫌いなので無視することにして,ワシはこの分厚くてド高いテキストをしみじみ眺めて悦に入っているところなのである。

 そう,本書は高価である。税抜き4200円! 吉野家の牛丼並を10杯食える値段になってしまった理由はただ一つ,特殊過ぎて売れそうにないからである。・・・んなことは分かっている,だからペラい「LAPACK/BLAS入門」程度でいいんじゃないかという提案もしていたのだが,「あれじゃペラ過ぎて演習書としては物足りない」とぬかす向きがあったらしく,「どのみち売れないんだから,そんなら分厚くしてくれ」ということになった由。開き直った結果の高額書籍なのである。つーことで,長い数字並べてヘラヘラ楽しめる,そう,「π 円周率1,000,000桁表」などをお持ちの方に置かれましては是非とも座右に置かれることをお勧めしておく。何を隠そう,ワシも本書を座右にたくさん置いているのであるからして(当たり前だ),数字マニアにおかれましては,スクラッチからプログラミングする非効率さも知っておかれては如何かと思う次第なのである。

 そう,今時,多倍長計算,即ち,標準的な整数型(int, long)や実数型(float, double)を越える桁数の計算を四則演算レベルから作成するなどということは止めた方がいいのである。趣味で作るならご自由であるが,それにしても,GNU MP(GMP)やMPFR, QDといった高速かつ機能豊富なオープンソース多倍長演算ライブラリがタダで自由に使えるご時世に,それらの機能を一顧だにせずに唯我独尊的なプログラミングをすることは労力の無駄,車輪の再々発明よりたちが悪い暴挙と言わざるを得ない。本書はこれらのライブラリの解説と関数一覧(QDは初めてかしらん?),CやC++のプログラミング例を豊富に取り揃えて,あまつさえ,手間のかかるベンチマークテストまでやってお示ししているのであるから,買えとは言わないけれど(買ってくれると嬉しいけれど),スクラッチから多倍長精度プログラミングをやろうという方は一通り目通ししておくべきであると断言しておく。まぁ,Webの世界には既にこれらのライブラリをベースとした,MPACKみたいな高速計算ライブラリも多数あるので,そちらを見てもらうのも良いが,高度過ぎる複雑なライブラリを見るより,単純なCやC++テンプレート例を読んだ方が取り掛かりには良いのではないか・・・どうかは皆様で判断して頂きたい。ま,当面売り切れる本ではないので,多倍長数値計算をする必要が出てきたら,ちらとでも眺めて頂ければ幸いである。

 

春日太一(聴き手・構成)「黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄」文藝春秋

春日太一(聴き手・構成)「黙示録 映画プロデューサー・奥山和由の天国と地獄」文藝春秋

[ Amazon ] ISBN 978-4-16-391108-3, ¥1900 + TAX

 いやぁ,他ならぬ春日太一の著作だし期待外れになることはない,とは思っていたけれど,書店で手にとって驚いたのはその分厚さ。本文419ページ! もちろん,全く映画ファンではない一般ピーポーであるワシでも「奥山和由」という名前は知っていたし,著者がまえがきで述べているように,その電撃的な松竹からの解任劇についても,TVや新聞を通じての報道はワシもリアルタイムで見聞きはしていたが,そこに至るまでの狂気的な映画への奉仕者・プロデューサーとしての仕事っぷりがこれほど凄まじいものだとは,想像の範囲を超えていたのである。分厚いことは分厚いが,その熱量と読みやすさに当てられて,即位礼の儀を横目に一日で読んでしまったぜよ。しかしまぁ,解任される直前に自分から辞めることを考えていたというのは本書を通じて初めて知り,そこまで思い悩むまでの入れ込み具合が放逐される原因なんだろうなぁと,奥山の主観に満ち溢れた本書の記述を通じてボンヤリ浮かんでくるあたりが,聴き手・構成を通じてしっかり春日太一の著作になっているという証にもなっているのである。

 ワシは大変下世話な性格なので,成功者の自慢話より挫折経験者の失敗談の方を好む。組織に馴染めず辞めてしまったり,放逐されたりした経験が自分にとって一番身になる知識だと感じているのである。奥山和由という人の絶頂期,バブルの勃興期から崩壊して失われた数十年に入りかけのプロデュースした映画の本数は60本を超えているが,直接見た映画は少ないにもかかわらず,恐らくはTVを通じてだろうが,そのタイトルは結構覚えている。TV番組にも露出するし,派手なプロデューサーだなという印象は持っていたが,その分,世間,というより松竹という古い体質を持つ大会社内部からの風当たりは相当強かったようで,アゲンストの風に向かいながらグングン上昇していく凧のような存在だったのだろう。才能はあってもそれ以上に癖の強い映画監督や俳優と議論したり宥めすかしたりしつつ,身内からの足の引っ張り合いにも揉まれながら,それらのゴタゴタをエネルギーに変換して疾走する様は凄まじいの一言に尽きる。語りっぷりに熱がこもっているのはもちろんだが,どのぐらい春日の手が入って整理されているのかは定かではないけれど,かなり映画に対する審美眼が一貫していて,作品の善し悪しを客観的に評価しているし,それでいて興行師としての仕事もおろそかにしておらず,ヒットを飛ばすことでしか,やりたい仕事ができないということも「ハチ公物語」の大当たりを通じて学んでいる。ワシはこういう体験を通じての学習というものしか信用していないので,毀誉褒貶はあるにしても,この奥山和由の経験談はかなりワシ自身の身になるものになると確信しているのである。

 ・・・という本書の語りの面白さはピカイチで申し分ないけれど,ワシの下衆根性は奥山の松竹放逐の原因にやっぱり興味があり,その辺りをズバリ知りたい向きには不満が残るのかなぁと感じる。奥山当人はあまりに変わらない松竹の体質に嫌気が差して放逐される前に辞めることも考えていたようだが,さて額面通り取っていいものかどうか。組織人として生きていれば,辞めたいと考えることは当然ありがちではあるし,父親が最初から重役として,最後は社長として君臨している会社で,自分も重役として引き立てられている立場であったことを考えると,その立場を生かしての活躍ができているメリットも大いにあったわけで,何となく言い訳めいているとも感じる。しかしその点を追求することは本書の目的ではない。組織人であれば,放逐する方もされる方もそれぞれ言い分があり,片方が一方的に悪いというキレイな話にはならないということも承知していることである。そんなことより,奥山という稀代のプロデューサーの持つ危うさと熱量,そしてその疾走してきた歩みを本人に語らせることで生きた日本の映画史を読者に提示することにあり,映画のプロデュース業というものの過酷さと面白さが生み出すダイナミズムを体感させることにある。ワシはすっかり本書に当てられ,この浮かれた休日に熱くなってしまったのである。