緑のルーペ「こいのことば」太田出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-7783-2235-9, \1000+TAX

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 本書は太田出版のWebマンガサイト「ぽこぽこ」で連載されていた作品で,ワシは毎回更新されるたびに読んでいたのである。理由は表紙絵を見れば一目瞭然,エロいからである。で,そのエロさに騙されて読み進むにつれて次第に「これは一筋縄にはいかない作品だな」ということが分かってきたのである。後にこの著者の作品群のAmazonレビューで読んでわかったのだが,この「緑のルーペ」という著者,元々そういう「純粋なエロを目指してきた読者に衝撃を与える」タイプのようで,本作も連載途中から感じた疑問を解決することなく,一応の大団円を迎えたように思わせておいて,単行本のために書き下ろされたおまけマンガにおいて「ああやっぱり」という・・・まことに底意地の悪い「オチ」を用意しているのである。まぁこちとらも一応年季の入ったマンガ読みだからして,大方そんなところかと納得はしているが・・・それにしてもまたレビューの難しい漫画にしたもんだよなぁとワシはつくづく感心しているのである。

 難しい漫画が増えた,というのはワシの歳のせいだけではなく,日本の漫画表現が格段に進化していることが一番の理由だろう。漫画に限らず,全世界的にThe Internetを通じて伝播しやすい五感に訴えるメディア表現が恐ろしい勢いで拡散し共有され昇華されたものを更に目の肥えた読者が評価して優れたものをまた拡散する・・・という動きが全世界的に定着している。そのような流れはもはや止めようがなく,どんな独裁政権ですら抗えないものになっている。
 日本の漫画に限ってみても,コンピュータの導入によって作画過程がデジタル化されてカラー表現が進化するとともに,漫画作品の,少なくとも広告媒体としての流通の主流がPIXIVのような作品投稿サイトや,出版各社が展開しているWebマンガサイトに移りつつある。マネタイズ方法としては今だ単行本が主であるとはいえ,物理的な場所を取る書籍の出版点数が増える一方の昨今,読者の持つ物理スペースに限りがある以上,Kindleをはじめとする電子書籍に移行していかざるを得ないであろう。
 そのような時代状況にあって,ただ長いだけの作品の単行本の巻数を増やすだけで読者がどの程度ついてくるのか,かなり疑問だ。少なくとも長編の実績が皆無の新人作家に関しては,まず短編集,そして単行本1冊で収まる物語をコツコツ積み重ねて自身の作品世界を豊潤にしていくことが不可欠ではないか。そしてそれはベテランになっても変わらず,いずれは今の小説界のように物語としての完成度がまず真っ先に求められるようになるとワシは確信しているのである。
 その意味で,本書のようにWeb連載をしつつ,単行本一冊で収まる分量の重層的な漫画作品をコツコツと生み出している作家・緑のルーペの次回作にワシは大いに期待しているのである。

 で,本作なのだが,未読の読者にはとりあえず「エロ漫画」というのが一番分かりやすい端的な説明となる。しかし「読後感は,人によるが,良くない,かも」という奥歯にものの挟まった言い方をせざるを得ないところに本作の一番の特徴があるのだ。

 主人公は三十路少し手前のエロ漫画描き「藤之助」と,出会った時には中学三年生の巨乳美少女「悠里」。二人のエロ睦まじい性生活と,悠里の複雑な家庭環境・友人関係が織り込まれた豊潤な物語だ。それ故に,読む人によっては単なるエロとしても「使える」であろうし,切ない青春の恋物語としても読めるし,寂しい学生生活と寂しい漫画家の「幻想的な」恋物語としても読むことができる。ワシのように卓抜な「エロ表現」にWebから導かれた愚かな読者は,これらの重層的な構造に取り込まれて落ち着いて読めなくなってくるのだ。これは特に「幻想的」な部分が強調されてくる,二人のひなびた温泉街への逃避行において顕著になる。いやそもそも本書の導入部からして,「これはひょっとして藤之助の物語世界か?」というニュアンスもあり,途中からは「寂しい悠里が紡いだ幻想?」という感じもあり,最後の最後では「やっぱり藤之助の・・・?」で「オチ」をつけてしまっている。まぁ乱暴に言うと,筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」のようであり,押井守の「ビューティフル・ドリーマー」のようでもあるのだ。

 考えすぎ?・・・そうかもしれない。今年はシギサワカヤ「バーチャルレッド」全3巻を読んで頭が混乱した影響もあり,「卓抜なエロ表現で編まれた幻想譚」に敏感になっている影響もあるだろう。しかしそれは表現者の描く物語世界が重層化し,それを支えるだけの表現技法が定着しているという証でもある。その高度な技法を育んだワシらを取り巻く電脳社会が,もはや通り一遍の単純なストーリーでは飽き足らない読者を育て,そのような読者を満足させるさらに高度な物語を展開する作家を育成し,高度すぎる表現を更に進化させるループを形成した結果,ワシらを取り巻くこの現実社会に奇妙な浮遊感覚をもたらしたと言える。電脳空間を飛び交う情報にどっぷりつかった生活になればなるほど地から足が浮く,そんな感覚を持つに至る。そう,性欲ですら,今や現実世界との接点とはならず,電脳世界からの情報を消費するだけで解消できてしまうのが現代なのだ。

 エロですら現実へとワシらを繋ぎ止める事ができなくなっているという現代の浮遊感覚。それ故に,「繋ぎ止めてくれ!」と「乞い」願う物語。これを今流に的確に表現した本作は,真に今の時代を象徴する豊潤な物語世界を的確に表現した傑作なのである。

おざわゆき「あとかたの街 1巻」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-376999-9, \580+TAX

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 本書については既に「凍りの掌」で賞を取った程の定評あるベテランだし,完結するまで黙っているつもりだった。しかし,つい最近(2014年6月8日),長崎の原爆被害者の語り部に中学生が暴言を吐くという事件があり,これは「個人的な体験」のぶつかり合いだなぁと気が付いた。それ故に,本書が刊行されたこの機会にかこつけて「個人的体験」について語っておこうとこの記事を書き起こした次第なのである。

 「個人的な体験」は強い。つか,ワシらの脳内に形成される記憶は自分が経験したことの集積であり,ワシらが物心ついてからのあらゆる行動は,食欲性欲といった本能を骨格とし,個人的体験から形成された欲望が筋肉となって引き起こされるものなのである。従って,原爆の被害者が語るものも,それを聞いた中坊が「うぜえ」と感じて暴言を吐くのも,全ては己の個人的体験という筋肉が引き起こす行動に他ならない。社会的儀礼として,真剣に語っている人に対して非難をすることは責められて当然であるが,「うぜぇ」と思うこと自体は自由だ。多分この中坊には当て嵌まらないだろうが,そもそもそれ以前に散々あちこちの書物やらアニメやら小説やら教科書やらで「戦争体験」を聞かされてきた真面目な中学生・高校生であれば,同じような体験談は退屈と受け取られても仕方ない。以前にも,沖縄の戦争体験を聞いた高校生が批判的な文章を書いたことが話題となったが,己の個人的体験は語り口をよほど工夫しない限り,相手の個人的体験として染み込ませることはそう簡単ではない。「学習」という名の強制力は,少なくとも不良がかった相手に対しては効かないものなのである。
 このような個人的体験同士のディスコミュニケーションは我々の社会にはつきものであり,ことに人口に膾炙した日本の被害者的戦争体験をそのまま伝えるということは,少なくとも国際環境が変化した21世紀においてはかなり難しく,単純に戦争反対9条護持安倍政権批判に繋げようという向きは,その目的を貫徹するためであればなおさらその語り口を考える必要がある。つか,ボチボチ戦争体験だけを切り口とした左翼的運動は退屈なので,国際環境と経済動向を土台とした現実的で地に足の着いた安全保障論に基づいた議論をしてほしいモンだ。

 とはいえ,戦争体験者の「個人的体験」自体はすこぶる面白いものを含んでいる。水木しげるの従軍記は泥臭くてとてもリアルで芳醇だ。中沢啓治の鬼畜米英的怨念のこもった原爆体験は力強くワシらの精神を鼓舞する。手塚治虫の「紙の砦」は戦争が終わり表現の自由がやってきた喜びとその犠牲になった人々への慈愛が込められている名作である。表現形式もさることながら,それぞれが魅力的なマンガ作品になっているのは,そこで語られている個人的体験が,現代の消費社会に生きるワシらにも共通する汎用的な物語を提供しているからである。・・・え,違うって? じゃぁ何で,風の谷に生きる人々を魅力的に描いた宮崎駿や,人食い巨人に囲まれて生きるひ弱な人類の戦いを描いた諌山創の作品がヒットしているのであろうか? あんな空想上の非常体験でもワシらが共感するのは,そこに共通する己の個人的経験を見出しているからである。
 そう,戦争をリアルに体験していない1945年以降に生まれたワシら日本人の大部分にとって,戦争も風の谷も巨人の国もさして変わらない,想像上の状況下の「物語」に過ぎないのだ。それは誰か別の人間から伝えられた物語であり,それはリアルな個人的体験でない以上,受け取るかどうかの取捨選択に対しての自由は厳然として存在する。どんな悲惨な個人的体験であろうと,自分の個人的体験を通じて共感できる部分がない限り,受け入れることはできないのである。

 おざわゆきの作品,世に広く認められた「凍りの掌」,そして本書「あとかたの街」は,戦争体験記ではあるけれど,きわめて個人的経験に基づく漫画作品であり,それ故に,ワシらの個人的経験の共通部分を刺激する魅力的な「物語」を提供している。つまりは,あとがきにあるように,この2冊,おざわの両親の体験談に基づく作品であり,父のシベリア抑留体験を描いた「凍りの掌」に続いて,母親の名古屋空襲体験を描いたら「ここ(書店の平積み棚)に「父」と「母」の本が並んでいたら面白いかも!?」という思いつきによるものであり,悲惨な戦争体験が自分の作風にマッチしているということを知っているからである。悲惨な状況下におけるパンドラの箱に残った希望を描くことを,ストーリー漫画のライフワークとしてるからであろう。多分マゾだ。

 まだホンバンの空襲が始まる前の時代状況をじっくり描く本書でも,そのマゾっぷりはたっぷり発揮される。貧乏な両親に4人姉妹の家族という状況が既に悲惨だ。兵隊となり得る男手のない家族はネチネチと婦人会から詰られるし,主人公の次女「あい」は貧乏ゆえに女学校に通えない。国にすべてをささげる愛国少女にもなり切れない少女あいは,時代に翻弄されつつも精神の自由を手放せないワシら大部分の姿にも重なる。さてこの先いかなる悲惨な出来事が待っているのかと,ワシはドキドキしているのである・・・不謹慎? だったら「物語」じゃなくて客観的事実の羅列だけで読者が付いてくるのか,それで次世代に自身の体験を伝えることができるかどうか,やってみるといい。学者としての仕事ならともかく,そんな退屈な代物,講談社が万単位で刷るとは思えない。個人的体験を伝えたいと真剣に思うのであれば,その「物語化」についても真剣に考えてほしいものである。

 ということで,ホンバンは2巻以降にお預けとなっている「あとかたの街」,本格的にお勧めするのは2巻が出てから・・・という気もしているが,ちょっと古めの少女漫画の愛好者(つまりオッサンオバサン)には,こういうけなげな少女が出てくる物語が結構嵌るのではないか。派手とは決して言えない画風に騙されて,まずは1巻を流しておくと,2巻以降の「パンドラの箱」が楽しめるハズなのである。期待を裏切らない作品になることを期待しつつ,まずはけなげ少女あいの境遇に個人的体験を絡めて共感し,待つことにしたい。

武田徹「暴力的風景論」新潮選書

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-603749-8, \1200+税

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 「風景」という言葉に,ワシはずっと引っかかっていたのである。発端は森毅「ボクの京大物語」(1992年刊行)にある次の文章だ。(以下,(注)と太字はワシによる)

 69年(注 1969年)になって,大学がひっくり返った時はおもしろかった。何がおこるかわからない状態は,ボクにはすごくおもしろい。誰もがはずみと言うか,ノリで動いているし,ケッタイなことがいっぱいおこるし。京大には未だに(注 1992年現在のこと)ヘルメットを被っている学生がいる。2,3年前の新入生歓迎パンフレットに,ノンポリ(注 政治向きのことに関心のない普通人の意)の子が「ヘルメットも見慣れれば風景になる」と書いたら,ヘルメットのお兄さんに睨まれたという。そこでボクはお節介ながらヘルメットの親分のところへ乗り込み,説教した。
「おマエら,何考えてるんや,20年前はアンタらが風景になったからノリが出たんや。今は風景にならんからノリが悪いんで,風景になったと書かれて怒るアホがおるか」(P.72)

 この文章に出てくる「風景」というキーワードには様々な意味が込められており,それを折々に思い出してその含むところを自分なりに解釈していたのである。この度,武田徹が上梓した本書は,そんな森毅が表現した「風景」という語の持つ含意を,日本の20世紀後半の歴史的事象を語る文章の中に織り込んでいるのである。

 先に引用した森の文章は,1960年代から70年代にかけて日本の大学を席巻した学生運動を記述する章の冒頭のものである。ワシ自身は1987年,バブル絶頂期に千葉の私大に入学したので,学生運動(の余韻)についてはせいぜい成田闘争に出かけてゆく同級生を見かける程度にしか知識がない。そうそう,北大で共通一次試験を受験したときに,正門のところでがなり立てている怖いヘルメット姿の方々も見かけたっけ。ま,せいぜいその程度の「風景」しか知らない。そんなワシらバブル世代が怖いヘルメット姿の大先輩に対してオズオズと大学全体の印象の中に織り込んで語るとすれば,「ヘルメット姿が闊歩する大学のキャンパス」を「風景」と称するしかない。バックグラウンドとなる歴史的背景を知らない若輩者としては,惰弱さを伴ってはいるものの,最大限の敬意を払った表現と言える。
 しかし,逆にそれは学生運動の真っただ中に投げ込まれてそれを戦った世代にとって感情を刺激する表現でもある。1960年代のの安保闘争から,本書の第二章で取り上げられている連合赤軍事件(1972年)に至るまで燃え盛った「革命の風景」を,バブルの喧騒に埋もれる現代消費社会の腐敗集漂う「風景」と同一視して欲しくない,あくまで我々は革命を目指しているのであり,今のキャンパスがヘルメットを含めての定常状態と結論付けてはならない・・・多分,ヘルメットの方々はそう言いたかったのではないか。

 だが,現実の「風景」はそう単純にヘルメットの方々も,バブル世代の我々を回収してはくれない複雑さをはらんだものである。武田はまず日本的風景の源泉として明治期に刊行された志賀重昂の「日本的風景論」を解説する。現代にもつながる「日本的風景」の源泉となる書に込められたナショナリズム高揚の意図を述べると共に,「風景」という語の孕む人間の思考方向について,本書の随所で指摘しまくっているのである。そしてその「風景」が形成された歴史的経緯を述べつつ,田中角栄も,あさま山荘に立てこもった4人も,宮崎勤も,酒鬼薔薇聖斗も,村上春樹も,麻原彰晃も,加藤智大も,森稔も,そして著者の武田徹を含む現代社会を生きる我々も,共通の「風景」を育みながらその中に生きていることを本書はこれでもかこれでもかというしつこい語り口でワシらに語り掛けてくるのである。

 本書を通じて日本社会を取り囲む環境と,日本社会が成立してきた歴史的位相の複雑さの一端を触れるにつれ,「風景」の持つとてつもないメンドクササが襲ってくる,まことに疲れる一冊である。森毅の言う「風景」がその場限りの場当たり的なノリとして機能する事態もあり得る以上,高度だが事後的な分析のみから成り立っている本書は日本社会の今後の「風景」がどうなっていくのかを占う一冊とはなり得ない。しかし,何年か先に訪れた「風景」の成り立ちを紐解くための方法論を今から予習しておくための学習ツールとしては最適だ。故に,特に若い方々に「暴力的風景論」をお勧めする次第である。

位置原光Z「アナーキー・イン・ザ・JK」集英社

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-879834-9, \514

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 だからさっきから何度も言うように,この位置原光Zってのは変態なんだよ変態っ。描く方も描く方だが読む方も読む方で間違いなく変態。今月(2014年5月)の発売からそうそう日もたってないのにもう重版がかかったというから,この日の本は糸井重里による「ヘンタイよいこ」宣言以来,変態だらけになっちゃったんだよなぁ。この位置原初の商業単行本はヘンタイよいこが繰り広げるラブコメ,しかもかなり射程の狭い短編が140ページ詰まっているわけだ。・・・何で顔そむけるんだよお前。小悪魔淫魔のくせに内向的ってのがいかにも位置原が好みそうなキャラだよなぁ。

 スクリーントーンを使わないから妙に白い画風,ヨワヨワしい描線でへろへろフリーハンドで書いているくせに,女の子がやけに艶めかしくてキュート。画力が無いようでいて表現力抜群,そこに予測不可能な転がり方をするナレーション皆無・会話主体の読ませるストーリーが繰り広げられている・・・そうだろ? いや,だって,表題作の主要キャラである一つ目JK,変態兄貴(マゾ)を持ち,いつも眼帯を外せない実質一つ目のJK,丸くてチンチクリンの可愛いだけのJK,仲間内でただ一人彼氏持ち(女装マニア)のJK・・・全然背景の説明がないんだぜ,こんなに謎の多いキャラを出しておいてそりゃねぇだろうと言いたくなる。こんだけ変なキャラを作っておきながら放置プレイ,そこに妙な独特の雰囲気,「位置原ワールド」ができちゃうんだよな。そういう場に癖の強い変態キャラを引っ張り出してくるから,読み切り短編マンガとしての切れ味が良くなるんだろうな。・・・聞いてんのか? 

 しかしこの位置原のマンガを読んでいると,モロ出しより,チラリズム的にチマチマ出した方がエロいってことがよく分かるよな。この単行本と同時に「コミティア30thクロニクル1」って分厚いアンソロジー集が出たんだけど,そこにも位置原の同人作品「博士と助手」が掲載されている。読んだか? 面白い? ・・・いや,最初のうちは普通のコメディかと思っていたら,マニアックな性的言語表現が出てきて,特に生身の助手(女性)が出てきて妙な雰囲気になってきた辺りから身につまされて・・・何ニヤついてるんだよっ! そうだよ,段々博士が女性に押し切られつつある雰囲気が臨場感っつーかリアルすぎて笑えない感じになっちゃったんだよっ。

 大体,位置原の作品の多くがこのパターンが多いんだ。主客逆転して最後は男が女に羽交い絞めにされるってのが。サキュバス,そう,お前が出ている「小悪魔淫魔サキュバズちゃん♡」が一番ツボ・・・じゃない,身につまされてちょっと怖い・・・。だっておずおずしてて内向的な小悪魔が時々主人公の男に説教されて「たゆん」とか・・・何笑ってるんだよ・・・わっ。やるな,やるなってんだよ。そうだよ,俺だって,いや俺に限らないっての,今の日本の草食系男子は「誘うのは気が引けるが強く誘われるのはやぶさかでない」って奴らの総称,俺もその一人って訳で・・・だからその「たゆん」は止めろっ止めろってのわーっ・;ふぃあぴれ34う@うr0く9・・・。

木尾士目「Spotted Flower 1巻」白泉社

[ Amazon ] ISBN 978-4-592-72066-0, \550

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 新婚三年目ともなれば,お互いヤルことヤリ尽くしているから,そりゃぁまぁヤリたくないのも分からなくはないけど・・・頭では理解できてもやっぱりしてほしいときはある訳で,「立たない」って一言で済む話じゃないと思うんだけどなぁ。どこの夫婦もそんなもんなのかしら?

 昔は「大人マンガ」というジャンルがあって,長谷川町子先生みたいにピューリタン的なユーモア漫画だけを描く人は少数派,何だかんだ言っても中年以上の昭和の男ども向けに艶笑漫画を生産していたみたい。手塚治虫も一時はその手の漫画を描いていて,西洋ジョークのように洗練されてはいたけれど,下世話なものという以上のものではなかったような。男どもはその手の漫画を,対して喜びはしてなかったとは思うけど,週刊誌や夕刊紙で目にする機会は多かったんじゃないのかな。
 対して女性向けの艶笑漫画ってのは基本的に皆無で,レディースが隆盛になった1980年台以降,言い方は悪いけど,私たちがおぼこい少女時代に読んでいた少女漫画家が流行から遅れ出して嫁姑モノとか,熟年夫婦の葛藤を主婦側から描いたものを書き出したのが最初じゃないかと思う。もちろん,今に続く下世話な女性週刊誌の伝統ってのものはあったけど,良妻賢母をかなぐり捨ててあからさまに女性の欲望を満足させるような記事が増えてきたのも大体同時期ぐらいじゃないのかなぁ。その辺よく分からないけど,やおい・・・じゃ分からないか,今のBLの源流にあたる漫画が隆盛になったのも,1976年の「風と木の詩」以降だから,そのあたりの流れともかぶるのかなぁと思う。ともかく,男の慰み者でしかなかった「エロ表現」が女性にも開放されてきたってのは1980年以降ということでいいみたいね。
 でまぁ,解放されたのはいいとして,反動が来ちゃったのかしら? 男どもがちっとも手出ししてくれなくなっちゃいました。「シテシテ女」って意味で普通に性欲がある女性を肉食系とかいうけど冗談じゃない! 手を出すのは男が先でしょう! 何よ草食系って? だらしなくなっただけじゃない! 今じゃコンドーム会社の調査おかげで,日本はセックスレス大国として世界に知れ渡るようになっちゃって,私ら日本の女性は世界から同情される存在になっちゃったわけ。経済的に破たんしちゃったギリシアがあんなにヤリまくっているってのは,つまり他に楽しみがないせいなのかしらとか言いたくなっちゃうけど,それなら北朝鮮の方がよっぽど娯楽が限られる分,お楽しみがそれしかない!状態なんじゃないかと想像・・・どうなのかしらね。

 御多分に漏れず,ウチの旦那も世間並,いやそれ以下かな?・・・同類相哀れむつもりなのか,「げんしけん」でメジャーになった木尾士目のこんな漫画を買ってきちゃいました。まぁオタクなのは知ってたけど,ここまで自虐的な性格とは思わなかったなぁ。ハラボテ状態の妻に全く手出しできなくなった夫(ウチの旦那より大分若いけどその分可哀想)の「ヤル気」をあの手の手で引き出そうとするけなげな妻が主人公の漫画です。全編そればっかってのが凄いよね。「やる気まんまん」と真逆だけど方向のブレなさ加減は同じ同じ。それじゃ妻がヤリマンなのかっていうとそんなことは全然なくて,単純に「寂しい」のよ。これから初の出産を控えて不安なことが多いってのに,肝心の旦那が寄り添ってくれるのかどうか,それを確認したいだけなのに全然相手してくれなくて不安になってる。ギャグっぽいシチュエーションだけど,可憐な切なさが漂っていて,その辺が昔の下世話で絵がヘタクソだった大人マンガとは全く違うわね。いつもの木尾士目よりも掲載媒体が「楽園」という少女漫画ベースのムックだから,特に最初の頃はお目目キラキラ,線も細くて気合入っているなぁと思いました。

 ということで,一話10ページ程度の短編をまとめたこの漫画,うちの宿六はずいぶんお気に入りのようだけど,妻への感情移入がイマイチなようなので,あえてコメントしてみました。漫画一冊で我が家のコミュニケーションが円滑になるもんじゃありませんが,エロの究極にある夫婦の性生活,特にそこにおけるディスコミュニケーションを活写した作品ってのは貴重だなぁ・・・と,ウチの宿六はまるで他人事のように語っているのが腹立たしい妻なのでした。

[注] 本文面に関しては今後一切のコメントを拒否するものであります。