武田徹「暴力的風景論」新潮選書

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-603749-8, \1200+税

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 「風景」という言葉に,ワシはずっと引っかかっていたのである。発端は森毅「ボクの京大物語」(1992年刊行)にある次の文章だ。(以下,(注)と太字はワシによる)

 69年(注 1969年)になって,大学がひっくり返った時はおもしろかった。何がおこるかわからない状態は,ボクにはすごくおもしろい。誰もがはずみと言うか,ノリで動いているし,ケッタイなことがいっぱいおこるし。京大には未だに(注 1992年現在のこと)ヘルメットを被っている学生がいる。2,3年前の新入生歓迎パンフレットに,ノンポリ(注 政治向きのことに関心のない普通人の意)の子が「ヘルメットも見慣れれば風景になる」と書いたら,ヘルメットのお兄さんに睨まれたという。そこでボクはお節介ながらヘルメットの親分のところへ乗り込み,説教した。
「おマエら,何考えてるんや,20年前はアンタらが風景になったからノリが出たんや。今は風景にならんからノリが悪いんで,風景になったと書かれて怒るアホがおるか」(P.72)

 この文章に出てくる「風景」というキーワードには様々な意味が込められており,それを折々に思い出してその含むところを自分なりに解釈していたのである。この度,武田徹が上梓した本書は,そんな森毅が表現した「風景」という語の持つ含意を,日本の20世紀後半の歴史的事象を語る文章の中に織り込んでいるのである。

 先に引用した森の文章は,1960年代から70年代にかけて日本の大学を席巻した学生運動を記述する章の冒頭のものである。ワシ自身は1987年,バブル絶頂期に千葉の私大に入学したので,学生運動(の余韻)についてはせいぜい成田闘争に出かけてゆく同級生を見かける程度にしか知識がない。そうそう,北大で共通一次試験を受験したときに,正門のところでがなり立てている怖いヘルメット姿の方々も見かけたっけ。ま,せいぜいその程度の「風景」しか知らない。そんなワシらバブル世代が怖いヘルメット姿の大先輩に対してオズオズと大学全体の印象の中に織り込んで語るとすれば,「ヘルメット姿が闊歩する大学のキャンパス」を「風景」と称するしかない。バックグラウンドとなる歴史的背景を知らない若輩者としては,惰弱さを伴ってはいるものの,最大限の敬意を払った表現と言える。
 しかし,逆にそれは学生運動の真っただ中に投げ込まれてそれを戦った世代にとって感情を刺激する表現でもある。1960年代のの安保闘争から,本書の第二章で取り上げられている連合赤軍事件(1972年)に至るまで燃え盛った「革命の風景」を,バブルの喧騒に埋もれる現代消費社会の腐敗集漂う「風景」と同一視して欲しくない,あくまで我々は革命を目指しているのであり,今のキャンパスがヘルメットを含めての定常状態と結論付けてはならない・・・多分,ヘルメットの方々はそう言いたかったのではないか。

 だが,現実の「風景」はそう単純にヘルメットの方々も,バブル世代の我々を回収してはくれない複雑さをはらんだものである。武田はまず日本的風景の源泉として明治期に刊行された志賀重昂の「日本的風景論」を解説する。現代にもつながる「日本的風景」の源泉となる書に込められたナショナリズム高揚の意図を述べると共に,「風景」という語の孕む人間の思考方向について,本書の随所で指摘しまくっているのである。そしてその「風景」が形成された歴史的経緯を述べつつ,田中角栄も,あさま山荘に立てこもった4人も,宮崎勤も,酒鬼薔薇聖斗も,村上春樹も,麻原彰晃も,加藤智大も,森稔も,そして著者の武田徹を含む現代社会を生きる我々も,共通の「風景」を育みながらその中に生きていることを本書はこれでもかこれでもかというしつこい語り口でワシらに語り掛けてくるのである。

 本書を通じて日本社会を取り囲む環境と,日本社会が成立してきた歴史的位相の複雑さの一端を触れるにつれ,「風景」の持つとてつもないメンドクササが襲ってくる,まことに疲れる一冊である。森毅の言う「風景」がその場限りの場当たり的なノリとして機能する事態もあり得る以上,高度だが事後的な分析のみから成り立っている本書は日本社会の今後の「風景」がどうなっていくのかを占う一冊とはなり得ない。しかし,何年か先に訪れた「風景」の成り立ちを紐解くための方法論を今から予習しておくための学習ツールとしては最適だ。故に,特に若い方々に「暴力的風景論」をお勧めする次第である。