おざわゆき「あとかたの街 1巻」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-376999-9, \580+TAX

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 本書については既に「凍りの掌」で賞を取った程の定評あるベテランだし,完結するまで黙っているつもりだった。しかし,つい最近(2014年6月8日),長崎の原爆被害者の語り部に中学生が暴言を吐くという事件があり,これは「個人的な体験」のぶつかり合いだなぁと気が付いた。それ故に,本書が刊行されたこの機会にかこつけて「個人的体験」について語っておこうとこの記事を書き起こした次第なのである。

 「個人的な体験」は強い。つか,ワシらの脳内に形成される記憶は自分が経験したことの集積であり,ワシらが物心ついてからのあらゆる行動は,食欲性欲といった本能を骨格とし,個人的体験から形成された欲望が筋肉となって引き起こされるものなのである。従って,原爆の被害者が語るものも,それを聞いた中坊が「うぜえ」と感じて暴言を吐くのも,全ては己の個人的体験という筋肉が引き起こす行動に他ならない。社会的儀礼として,真剣に語っている人に対して非難をすることは責められて当然であるが,「うぜぇ」と思うこと自体は自由だ。多分この中坊には当て嵌まらないだろうが,そもそもそれ以前に散々あちこちの書物やらアニメやら小説やら教科書やらで「戦争体験」を聞かされてきた真面目な中学生・高校生であれば,同じような体験談は退屈と受け取られても仕方ない。以前にも,沖縄の戦争体験を聞いた高校生が批判的な文章を書いたことが話題となったが,己の個人的体験は語り口をよほど工夫しない限り,相手の個人的体験として染み込ませることはそう簡単ではない。「学習」という名の強制力は,少なくとも不良がかった相手に対しては効かないものなのである。
 このような個人的体験同士のディスコミュニケーションは我々の社会にはつきものであり,ことに人口に膾炙した日本の被害者的戦争体験をそのまま伝えるということは,少なくとも国際環境が変化した21世紀においてはかなり難しく,単純に戦争反対9条護持安倍政権批判に繋げようという向きは,その目的を貫徹するためであればなおさらその語り口を考える必要がある。つか,ボチボチ戦争体験だけを切り口とした左翼的運動は退屈なので,国際環境と経済動向を土台とした現実的で地に足の着いた安全保障論に基づいた議論をしてほしいモンだ。

 とはいえ,戦争体験者の「個人的体験」自体はすこぶる面白いものを含んでいる。水木しげるの従軍記は泥臭くてとてもリアルで芳醇だ。中沢啓治の鬼畜米英的怨念のこもった原爆体験は力強くワシらの精神を鼓舞する。手塚治虫の「紙の砦」は戦争が終わり表現の自由がやってきた喜びとその犠牲になった人々への慈愛が込められている名作である。表現形式もさることながら,それぞれが魅力的なマンガ作品になっているのは,そこで語られている個人的体験が,現代の消費社会に生きるワシらにも共通する汎用的な物語を提供しているからである。・・・え,違うって? じゃぁ何で,風の谷に生きる人々を魅力的に描いた宮崎駿や,人食い巨人に囲まれて生きるひ弱な人類の戦いを描いた諌山創の作品がヒットしているのであろうか? あんな空想上の非常体験でもワシらが共感するのは,そこに共通する己の個人的経験を見出しているからである。
 そう,戦争をリアルに体験していない1945年以降に生まれたワシら日本人の大部分にとって,戦争も風の谷も巨人の国もさして変わらない,想像上の状況下の「物語」に過ぎないのだ。それは誰か別の人間から伝えられた物語であり,それはリアルな個人的体験でない以上,受け取るかどうかの取捨選択に対しての自由は厳然として存在する。どんな悲惨な個人的体験であろうと,自分の個人的体験を通じて共感できる部分がない限り,受け入れることはできないのである。

 おざわゆきの作品,世に広く認められた「凍りの掌」,そして本書「あとかたの街」は,戦争体験記ではあるけれど,きわめて個人的経験に基づく漫画作品であり,それ故に,ワシらの個人的経験の共通部分を刺激する魅力的な「物語」を提供している。つまりは,あとがきにあるように,この2冊,おざわの両親の体験談に基づく作品であり,父のシベリア抑留体験を描いた「凍りの掌」に続いて,母親の名古屋空襲体験を描いたら「ここ(書店の平積み棚)に「父」と「母」の本が並んでいたら面白いかも!?」という思いつきによるものであり,悲惨な戦争体験が自分の作風にマッチしているということを知っているからである。悲惨な状況下におけるパンドラの箱に残った希望を描くことを,ストーリー漫画のライフワークとしてるからであろう。多分マゾだ。

 まだホンバンの空襲が始まる前の時代状況をじっくり描く本書でも,そのマゾっぷりはたっぷり発揮される。貧乏な両親に4人姉妹の家族という状況が既に悲惨だ。兵隊となり得る男手のない家族はネチネチと婦人会から詰られるし,主人公の次女「あい」は貧乏ゆえに女学校に通えない。国にすべてをささげる愛国少女にもなり切れない少女あいは,時代に翻弄されつつも精神の自由を手放せないワシら大部分の姿にも重なる。さてこの先いかなる悲惨な出来事が待っているのかと,ワシはドキドキしているのである・・・不謹慎? だったら「物語」じゃなくて客観的事実の羅列だけで読者が付いてくるのか,それで次世代に自身の体験を伝えることができるかどうか,やってみるといい。学者としての仕事ならともかく,そんな退屈な代物,講談社が万単位で刷るとは思えない。個人的体験を伝えたいと真剣に思うのであれば,その「物語化」についても真剣に考えてほしいものである。

 ということで,ホンバンは2巻以降にお預けとなっている「あとかたの街」,本格的にお勧めするのは2巻が出てから・・・という気もしているが,ちょっと古めの少女漫画の愛好者(つまりオッサンオバサン)には,こういうけなげな少女が出てくる物語が結構嵌るのではないか。派手とは決して言えない画風に騙されて,まずは1巻を流しておくと,2巻以降の「パンドラの箱」が楽しめるハズなのである。期待を裏切らない作品になることを期待しつつ,まずはけなげ少女あいの境遇に個人的体験を絡めて共感し,待つことにしたい。