「土門拳の昭和」クレヴィス,西原理恵子「きみのかみさま」角川書店

[ Amazon ] 「土門拳の昭和」, \2100
[ Amazon ] 「きみのかみさま」, ISBN 978-4-04-874091-3, \1300
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 土門拳,という名前を最初に意識したのは,やはり水島新司「ドカベン」の登場人物として「土門」なるイカつい投手が現れた時だろう。デカイ体から繰り出される球はひたすら重く,ヒットを飛ばすのが至難の業,という設定だった。それ以来,「土門」=「重量感」という公式が頭にこびりついてしまい,後に,同姓の写真家がいると知ってからも,「きっと重たい写真を撮っている人なんだろう」という思い込みが定着してしまったのも,無理からぬことなのである。
 でまぁ,この度,土門拳の写真展を拝見する機会があって,デカイキャンバスサイズに引き延ばされた作品をじっくり眺めることが出来たのだが・・・いやぁ,重たいどころじゃないな,この人,とワシはつくづく本物の凄みを思い知らされることになったのである。で,会場で販売していたこの「土門拳の昭和」を購入してきたのである。
 思い知ったのはワシだけじゃないようで,かの大御所マンガ家・西原理恵子も,「でも土門拳の『筑豊のこどもたち』を見たときは,「こりゃ,負けたわ」って思ったけど。」(「ユリイカ」2006年7月号,P.128)とシャッポを脱いでいる。
 写真展でもこの筑豊地区の炭鉱街における子供たちを撮った写真が掲示されていた。本書ではP.83~89に納められているものがそれで,腐ってボコボコになった畳のくぼみに座る女の子,両眼両鼻から液体を瀧のように垂らしてして泣く子,ボタ山の急勾配で使える石炭を拾う男の子・・・いやまぁ,ここに掲載されている作品だけでも圧倒させられる力業であることが分かる。景色の「切り取り方」が写真家の世界を形成しているわけだが,土門の目には子供たちの,仏像の,焼き物の,植物のエネルギーが迸るシャッターチャンスだけが写っていたのであろう。いや,確かにサイバラが感服するだけのことはある。
 さて,そのサイバラの目にとまった「筑豊のこどもたち」が住んでいた極貧の炭鉱街ができあがった理由を,先のサイバラの発言に続いて対談相手の大月隆寛が次のように説明している(同,P.128~P.129)。

 筑豊=ヤバいところ,ってのは最近また若い衆中心にいろいろ言われているようだけど,あれも実は戦後に増幅されたところあるんだけどな。明治になって炭鉱ができて流れ者の炭鉱夫が集まってきて,でも景気は良かったわけでさ。気質的には漁師と同じで「宵越しのゼニは持たん」だからバンバンカネ使うし。そんなのがわずか10年,20年で一気に廃れていったら,そりゃあ,まわりからは異様な眼で見られるよな。(中略)
 業田義家の『自虐の詩』ってマンガがあるだろ。知る人ぞ知る名作。業田自身も九州の人間みたいだけど,あそこに出てくる「熊本さん」なんか,キャラとしてもディテールとしてもかなりヤバい。さっきから出てくる高知や筑豊や,なんでもいいんだけど,そういう西南日本の土地がらみ,風土がらみの「貧しさ」とそれにまつわる歴史が凝縮されてるようなところがあって,なんかもう切ないんだよね。でも,そういう「感じ」がいろいろ理屈つけなくても,ピン,とわかるのは,やっぱり西の人間なんだよなぁ。

 人類全体として,20世紀に入ってからは,地域にばらつきはあるとは言え,飢餓の発生率は減っているようだし,全体として「豊か」になっていることは余り異論がなさそうだ。しかし,減ったのは絶対的貧困であって,相対的貧困はますます根を深く,全世界的に広まりつつある。
 サイバラの最新絵本「きみのかみさま」は,全世界,特にアジア方面の自然風土をバックに,相対的貧困と区分されるであろう子供たちのモノローグで構成されている「絵本」である。この第3話は,フィリピンあたりの都市郊外にあるゴミの山で使えるものを探す少年が主人公だ。まさに,ボタ山を歩き回っていた筑豊の少年と同じシチュエーションである。
 そう,このサイバラの最新絵本は,土門拳がかつて撮り歩いた戦後の「筑豊=ヤバいところ」と地続きの貧しさを主題とするものなのである。
 前作の「いけちゃんとぼく」は正直余り感心しなかった。少女趣味がサイバラの根底にあることはいいとして,それが地に足のついていない,よくあるファンタジーに留まってしまっていると感じ,映画化したと聞いても見に行こうという気も起きなかったのである。
 その反省なのかどうなのかは知らないが,本作は逆に,故・鴨志田譲と歩き回った世界各地の紛争地帯,東南アジアのディープな所に今も存在する「世界」を描いた。そこに根ざした風景に溶け込む子供たちのモノローグが,良い具合に現実とファンタジーの茫漠とした境界面を表現していて,面白く読むことが出来た。貧しい生活をしていても,現代日本で普通に豊かな生活をしていても,子供が成長する過程で必ず抱く哲学的疑問を「かみさま」に託して虚空に溶け込む様を,サイバラブルーを駆使して表現している本作は,たぶん,年寄りの方が読んでいてしっくり来るのではないだろうか。

 次の日がくるように
 人は生まれたり
 死んだりする。
 そうして
 あの花のさく
 向こうへ帰る。

 第14話はこうして締めくくられる。
 何度か倒れながらも精力的に作品を撮り続けた土門拳は,1979年に脳血栓で意識不明となり,二度と目を覚ますことなく,1989年に亡くなった。
 「あの花のさく」「向こうへ帰」った土門は,サイバラにこの「きみのかみさま」を残して逝ったように,ワシには思える。この2冊を並べて紹介したのは,地続きの「世界」を表現していると,ワシは確信しているからである。

速水螺旋人「螺旋人リアリズム ポケット画集」イカロス出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-86320-150-7, \2476
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 いやぁ~,恥ずかしいなぁ~↑・・・この表紙。今はやりの萌え絵から2~3世代は後退したような画風であるが,こう表紙にアーマービキニのファンタジー娘っ子を持ってこられては,なかなか本書の面白さ,速水螺旋人の真価を伝えられないのではないかと,躊躇してしまう。・・・いや,言い訳は良くありませんね,潔く言いましょう。元気な布地の少ない娘っ子の絵,ワシは好きですっ!
 ・・・ともかく! 本書はまず「ポケット画集」という言葉を裏切る分厚さ(324ページ!,これが入るポケットって!)と内容の「濃さ」において,2476円という,本文は完全モノクロ印刷にもかかわらずド高い定価を裏切らないものであることを,拙い文章で綴ってみたいとワシは思ったのである。
 イカロス出版からは既に「螺旋人の馬車馬大作戦」が刊行されているが,これがまぁ,分厚い上に判型がデカい! しかも内容が本書の数倍詰まっているので,まぁ読みづらいったらありゃしない。いや,「読む」などという生やさしい行為を拒否しているとしか思えない作りで,さすがに螺旋人マニアの読者も,著者の同人誌以上にみっちり詰まったものは読みづらいと思ったのか,今回の「ポケット画集」はかなりすっきりした作りになっている。問題は価格で,前作が300ページもあってカラーページも含み,ポケット画集の2倍以上の判型なのに1429円,今回はカラーページなしで2476円・・・これは,プレミア価格設定なのかしらん?
 価格はともかく,本書は戸田書店掛川西郷店の小さなタグにある通り,「イラスト集」と言える。TRPGのキャラクターに旧共産圏的メカデザインをまぶして中年SFファン崩れの油で揚げたようなイラストに,短いが著者の「うんちく」(偏っているけど)が入ったコメントが活字で添えられている。チマチマと手書きの小さい文字でみっちりおにゃのこの周囲に文章を書くのも良いが,近年著しく眼力が弱った中年としては,本書のように文章は立方体にゴチック体できちんと収まっている方が断然読みやすくて有り難い。本書が螺旋人を知るための教科書とすれば,前作は,更に螺旋人を探求したい人向けの資料集みたいな位置づけになろうか。
 螺旋人の魅力は,宮崎駿にも共通するアナログくさい描線(とおにゃのこの可愛さ・元気さ)もさることながら,糸井重里言うところの「安売り王」であることにある。とにかくアイディアが豊富で,単に可愛いだけの萌え系イラストには15年以上前に食傷しているおっさんを魅了する,イラスト一枚に込められた「設定」の詰め込み度が尋常ではないのだ。鹿島茂のエッセイが,いちいち学術論文に展開できそうな「ひらめき」が込められていることと共通するアイディアのバーゲンセールっぷりが,この元気な娘っ子やオヤジども,軍人,丸っこくて油くさいアナログなメカから伝わってくるのである。そうでなければ単なる「イラスト集」に,しかも2476円も支払って買うわけがない。ひょっとしたら本書を刊行したことでイカロス出版が倒産するかもしれないが,そうなったらなったで,一つの物好きな出版社に自社を滅亡させるまでに惚れさせる魅力があったという証左である。ま,螺旋人の純マンガ集が出るまで潰れちゃ困るんですけどね,ワシとしては。
 書き下ろしで3作,各8ページのマンガが納められている上に,螺旋人を形成した書物の紹介が巻末に入っているので,「こういうものを好む人物が日本のマンガ・アニメ文化に育てられるとこういうものを描くように成長するのだ」(そうか?)という偏見を助長するためにも,本書は日本人より諸外国で教科書として活用して欲しいものである。

山科けいすけ「サカモト」新潮文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-130391-8, \514
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 今年(2010年)のNHK大河ドラマが,福山雅治主演の坂本龍馬だというので,ドラマ開始前からドカドカ便乗本が出版された。柳の下に何万匹のドジョウがいるのか知らないが,一応,出す側も少しは頭を使っているようで,差異化を図るべく,個性を出そうとしている様子は見られて微笑ましい。個人的に気になったのは,「坂本龍馬ってホントはどうだったの? 何をした人なの?」という素朴な疑問に対して答えるもので,結局ワシは買わなかったのだが,TBSラジオ Digでは2010年5月7日放送分のPodcastで聞いた,加来耕三さんの言説が面白かった。これ聞いていると,ちゃんと弾道計算が出来た理系頭のやんちゃ者ってイメージが生まれてきて楽しくなる。司馬遼太郎の小説で過大評価され過ぎって指摘はその通りで,それはやっぱり「龍馬がゆく」が小説として出来が良かったせいなんだろうなぁ。
 でまぁ,その数ある便乗本の中で,群を抜いて下らない(褒め言葉です)ものが新潮文庫から出たので,忘れないうちにご紹介しておく。それがこの「サカモト」だ。新潮社の意図として,本書を刊行すること自体がギャグになっていることは間違いない。ワシは書店でこれが並んでいるのを見て心中大笑いし喝采を新潮社に送り,さっさとレジに運んだのである。
 もともと新潮社には山科けいすけをしっかり押さえている編集者がいるようで,小説新潮で連載を持たせ,恐らくは全く売れなかった(と思われる)短編集「タンタンペン」も刊行している。ワシはこの,かつての大人マンガのナンセンステイストを保持しつつ,いしいひさいち以来のキャラ者ギャグも取り入れたセンスが大好きで,見かける度に読んでいたのだが,まさかこの「サカモト」が新たに新潮文庫から,新潮装幀室のデザインセンスを疑わせるダサい表紙でまとめ直されるとは思いも寄らなかった。ここで謹んで,NHKと福山雅治に感謝しておきたい。
 内容はというと,トンデモ学説に染まった勝海舟に師事したピストルマニア・坂本龍馬が,サツマイモと金玉の大きさにしか興味のない西郷隆盛や,コスプレのために潜入生活を送っているとしか思えないデカ頭の桂小五郎(木戸孝允),バイセクシャル・土方歳三に言い寄られるデブの沖田総司らと縦横無尽に交わって幕末を混乱に陥れるギャグ4コマ作品である。・・・いや,何が何やら分からない紹介文だが,分からないなら読んで下さい。ともかく下らないので,ワシは大好きである。
 ・・・などと言いつつ,ワシはどちらかというと,戦国時代の武将たちを弄んだ「SENGOKU」の方が,ナンセンス度合いが高くて好きだった。キャラクターの数もイマイチ「SENGOKU」に比べるとこの「サカモト」は少ない。時代が近いせいでちょっと遠慮した・・・とも思えないが,ちょっとテンションが下がったような気がして,ワシは本書の前に刊行された竹書房バージョンの単行本は買わなかった。
 しかし,このたび読み直してみると,これはこれで少し「枯れた」感じがあって,山科けいすけを初めて読む読者には向いているかもしれない,と思い直した。久々に読んだこともあって,この手のギャグをびしっと決めつつ,絶対にシリアスに流れない潔さを持った4コママンガ家は少なくなったなぁと,別の感慨も沸いてきた。いしいひさいちが新時代を切り開き,業田良家がドラマを持ち込んだ4コママンガの本流とは別に,山科けいすけはマイペースに自分の世界をギャグだけでコツコツ作り上げてきたのだ。細く長く,映画化ともアニメ化とも縁なく,淡々とプロの仕事を積み上げてきた山科の大人としての態度にワシは敬意を表するべく,このぷちめれをアップしておく次第である。

森毅「魔術から数学へ」講談社学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 4-06-158996-2, \700
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 2010年,森毅が亡くなったので,何か追悼代わりにぷちめれを書こうかと思ったが,なかなか,愛読者としてはこれ一冊というのが絞れない上に,何を書いていいものやらまとまりがつかなくて困っていた。そんなときに,ちょっとTwitter上で絡んだ文章について,書いた方とのやりとりがあったので,これに絡む森の言説を引用しようと思いついた。
 つーことで,数ある著作のうち,一番,学者としての考え方に関して影響を受けた本書,「魔術から数学へ」をご紹介したい。
 きっかけになったTwitterはこれ↓である。

議論の中身はいいんですが,結論の「科学の方が圧倒的に説明能力が高いのだから、私たちは科学の方を信じるべきではないだろうか」ってのは違和感が・・・。 ポパーの「反証可能性」と真っ向から異なるような? RT @apj: 自分用メモ。http://bit.ly/duhzf4

posted at 13:20:38

 今から思えば突っかかるほどの内容ではないし,そもそもこれは結論の文章であって,そこに至るまでの解説は全面的に納得できるものであった。しかし,このTweetを書いた時点でのワシは「違和感」を持ったのだ。それは,本書の最初の方で述べられている下記のエピソードに基づいていると思われる(P.21~22)。

 実際に,小学校の先生から,水と塩の足し算で相談されたことがあった。やけに暑い日だった。
 「水に10グラムの塩を入れて,なんグラムになるか,言うたら,100グラムとちょっと,とても110グラムまではいかん,言いおるねん。それで,そんなら実験して見せたる,でやったんやけど,そのときの子どもの反応が,『インチキや』『手品や』言いおるねん」
 「へェー,おもろいもんやな(それにしても,暑いな)」
 「こんなん,どないしたらええねんやろな。ケッタイやけど110グラムになる,ちゅうことなんやろか」
 「なるほどケッタイと思いおるか。ケッタイやと思うもんは,そらしゃあないことで,まあ,ケッタイなことに110グラム,でええのんと違うか(どうにも,暑い)」
 「そしたらやねえ,その子が大きくなって学校の先生になるとするわな」
 「フン」
 「そのとき,ケッタイやけどこないなっとる,ちゅうて教えるのん?」
 「(暑い,ヤケクソや)そや,断乎として『ケッタイやけど110グラムになる』いうて教えるんや」
  あとで考えてみると,この時の問答は当日の気温に左右されていたようでもあるが,案外に正解を言っていたような気がしないでもない。少なくとも,「110グラムになるというのは,自然の真理であって,真理の前には何人も拝跪せねばならない」なんて,真理のオシツケをするのは,いちばんよくないことだ。

 で,この後,110グラムになるとういうことを納得するための「イメージ」が,原子論に基づくもので,それを知識として持っているからこそ納得できるのだという解説が入る。
 はんなりした関西言葉のせいもあるだろうが,ワシはこの会話がとても印象的だった。「ケッタイやけど」という接頭語は生徒個人の拭いがたい感想,しかし理論的にも客観的にも「正しい」ことが示されている事柄はきちんと伝えなければならない。感想はそのままにしておけ,という著者のメッセージは重要なことで,本書のタイトルである「魔術から数学へ」に込められた,近代数学概念の形成の鍵となるものなのだ(以下,P.25)。

 塩も水も,鉛も団子も,ものみなすべて,共通の尺度ではかれて,その<物質>の量を重さで考えられる世界,それが<近代>なのである。抽象的な表現をすれば,<普遍的尺度の支配する世界>が,最初からあるわけではなかった。中世にあっては,事物はもっと固有の事件と結びつき,固有の質と密着していたのだ。塩には塩の世界があり,水には水の世界があり,そして塩水には塩水の世界がある。
  もちろん,人間はさまざまな事柄を,いくつかのコアのまわりに分け,いわば分節化しつつ,そこに普遍的なものを見ようとはしていた。たとえば古代の元素説。(中略)しかしそれは,近代科学ではない。<水>とか<火>とか<土>などのメタファーに,森羅万象を関係づけようとしただけだった。

 「ケッタイやけど110グラムになる」という言葉は,素朴な直感に由来する古代の考え方をぶら下げつつ,近代に確立した「理論体系」に依拠した事実を伝えるものだと,ワシは解釈したのである。森は古代の考えを「真理のオシツケ」で否定したりしない。古代には古代なりの合理性があってその概念を育んだのであり,論理的な繋がりを整えようという歴史的努力の中で徐々に否定・修正され,近代の概念が形成されてきたのだ。そんな歴史的な歩みを本書で噛んで含めるようにワシらを「説得」してくれるのである。「ケッタイやけど」という接頭語は,そう思った本人が成長するにつれて徐々にこの近代への歩みを知り,あるいは追体験することで溶解し消えていくものだ,という妙に若い世代の自主性を信用した物言いを,ワシはとても好ましいものと思ったのである。前述のTweetも,「科学の方を信じるべき」という言い方に引っかかりを感じたために発言したものだが,それはこの森毅の「オシツケ」を排する態度に共感していたから,なのである。そもそも現在の科学は「真理のオシツケ」で成立したものではない。個別に,個人が客観的事実と,それを成立させる理論体系を交互に関連させて理解し,それらをまとめて社会的に共有化し,構築「されて」きたものなのだから。
 本書は本文220ページと,とてもコンパクトなものでありながら,的確かつ大雑把なまとめ的文言に満ちていて,読み返してみると,改めて,自分の口で常々喋っていることの多くが本書由来のものであることを思い知らされる。
 例えば,日本において和算が明治に至るまで「近代数学のような成熟をとげなかった」(P.116)理由を,妄想的な世界観の欠如によるものだとして,次のように説明する(P.117)。

和算の未成熟の原因は,普遍理念よりは個別的現実を重視した東洋文化の一種の現実主義から,コスモモロジーにいたる妄想力が欠如したからではなかったか。和算の場合,数学が世界観に及ぶとは,おそらく考えられなかったのだ。
 ヨーロッパでは,ギリシャ学にしろ,スコラ学にしろ,なにより世界観学だった。コスモスを構想するものとして数学を考えること,それはいかに妄想であろうとも,学問の性格をすっかり違うものにする。その意味で,神秘主義的妄想家であったぶんだけ,いわば中世人であったぶんだけ,ケプラーは新しい時代にふさわしかったのだ。

 近代への架け橋は,前近代の遺物によって渡される,という一見矛盾しているようでいて,実は当たり前の歴史的事実を,すらっと短く,それでいてむやみに簡素化せずにまとめているのは,今読んでみてもすごいと感じる。もちろん,ここでいう「世界」ってのは,自然科学全体で支えていたもので,数学だけ取り出してんなこと言っていいんかいという批判はあろうけど,概ね,この理解は正しいと言えるのではないか。こういう文言は,豊かな教養主義に支えられた京都学派の中で育まれたものなんだろう。ワシの見立てでは,研究者系列としては山口昌哉が育てた一派が,今の日本の数理科学の理論面を支えているように思えるのだが,その一端は間違いなく森毅にも繋がっているのだ。
 数学という学問の性格上,どうしても哲学との関係が深くなる。つまり,論理体系を作ると同時に,その論理体系を支える「論理学」の素養も必要となる。概念構築の土台を絶えず気にしながらその上に数学という建屋を造るということになる。 ワシは残念ながら数学も論理もろくすっぽ習得できずに今に至っているが,せめて既存の構造物ぐらいは理解したいなと思っている。
 今,トンデモ学説と呼ばれているものの大多数と,怪しげな星占いにも凝ったケプラーや錬金術にも執念を燃やしたニュートンとの違いは,その時点で知られていた学問の土台を踏まえているかどうか,その一点に尽きる。残念ながら,数学に限らず現在の自然科学は「事実」もさることながら,それを支える論理体系,それも,大学基礎教養レベルの連続・離散数学知識の習得が不可欠で,それを無視してはまともな学問扱いされない。ケプラーやニュートンが,現代の目から見て怪しげな部分を抱えていたのは当然で,現在のワシらだって,何十年,何百年後の学者から見れば,何を馬鹿なことをやっているのかと嘲笑されるものを持っている筈なのだ。それでも,その時点においてはまぁこのぐらいの学問レベルは習得していて,それを踏まえて研究活動をしていますよ,ということは,ワシらだって,もちろんケプラーもニュートンも胸を張って宣言できる。
 怪しげな部分を持っていても,いや,持っているからこそ,学問の土台に乗っていれば,その「上に」積み重ねが可能になる,ということを伝えてくれる本書は,ワシの数学史の参考書であり,これからもたびたび引用していくことになる筈だ。
 (暑い,ヤケクソや)と言いたくなる猛暑が続く2010年8月である。謹んで,森毅先生に哀悼の意を表し,このぷちめれを締めることにする。合掌。

今日マチ子「cocoon」秋田書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10490-6, \950
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 読了後のワシの感想は,「な~るほど・・・そうきたか」,である。詳細は述べないが,本書は「面白いマンガ」である。ある種の「道徳」「イデオロギー」を説くにはまるで役に立たない,エンターテインメント作品である。
 以前,おざわゆき「凍りの掌」を紹介した文章でも引用したが,第2次世界大戦における日本の敗戦時の出来事を題材に取った「作品」を評価する軸として,いしかわじゅんの提示した「基準」がある。ここでもう一度繰り返して引用しておく。

 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。

 さて,本作「cocoon」だが,舞台となった場所や,主人公が女子学生たちであることから,明らかに沖縄戦におけるエピソードに基づいて創作されたものだと判断される。しかし,作中では一切,状況説明がなされないのだ。恐ろしい状況下で煩悶し,倒れていく人間たちを描きながら,主人公・サンのモノローグだけが白い画面に響くのだ。
 これは,少女マンガだ,とワシは気がついた。成長する若い血潮を極限状況で迸らせる青春「恋愛」マンガなのだ。戦争は舞台に過ぎない。今日マチ子はサンとマユと中心とした女子学生のグループを巡る物語を語るに相応しい舞台として,沖縄戦を選んだのだ。
 してみれば,本作は戦争マンガの範疇に入れて良いものかどうか,ちょっと悩んでしまう。それぐらい,よくある「メッセージ」は全く語られないのだ。206ページもの物語をすれっからしのマンガ読み中年に一気に読ませてしまう力業を持った本作は,間違いなく,いしかわじゅん言うところの「表現」に昇華していると言える。
 本作を読みながら,ワシはアニメにもなった絵本(つーより漫画作品だが)「風が吹くとき(When the wind blows)」を思い出した。あの作品も,ト書きによる状況説明は一切なく,ただ,核戦争が始まったという「ニュアンス」だけを描写しつつ,人の良い老夫婦が放射能に冒されていく様を描いたものだった。あの作品が全世界で話題になってから既に20年以上経っていることを考えると,戦争という悲惨さを描く技術はどんどん進化し,ワシらの日常感覚にジャストフィットするリアルさを獲得しているのだなぁと,つくづく思い知らされる。
 「風が吹くとき」と「cocoon」は,老夫婦と女子学生という対比はありながら,戦争という極限状況を「利用」しつつ,「生」すなわち,生きる,ということを鮮やかに浮かび上がらせているという共通点がある。表現手段として戦争をあまり多用しすぎるのもどうかと思うが,表現が真摯であり,結果として面白い作品になっていれば,少々「あざとい・・・」とは感じつつも,同時に,「やられた!」とも思うわけで,読者にそう感じさせる出来であれば,ワシは大いに支持していきたい。
 本作にはしかし,「風が吹くとき」にはない「仕掛け」があって,ワシはそこにも大いに感心した。ま,ミステリー好きの奴なら即座に見抜いてしまうものなのかもしれないが,今日マチ子が描きたかった,女子高生を包む繭(cocoon)をなす重要なパーツとしての機能もあるので,読了後は「なるほどね・・・」と思い知らされることになる。あまり描くとネタバレになるのでこのぐらいにしておくが,仮にこの仕掛けに対して「悲惨な沖縄戦を商売の種にしている!」と憤る純粋まっすぐ君がいたとしたら,「商売になるぐらい広く読まれることにこそ価値がある!」と擁護しておきたい。