ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」5巻,小学館

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」第5巻

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-860810-2, \630 + TAX

 こんなビッグネームを今更紹介してどうするとも考えたが,本作は「ヤマトタケルの冒険」以来,久々の歴史大作であるし,どうやら最新の歴史学の知見をいっぱい盛り込んだ意欲作であるし,ここで一つ「ゆうきまさみ」という漫画家についての私見をまとめておくのも一興であろうと判断,お暇ならしばしお付き合い頂きたい。

 ワシとゆうきまさみとのお付き合いは,今は亡き「アニパロコミックス」に遡る。今と違ってアニメの二次創作の商業利用にうるさくなかった時代,確か最初はガンダムパロディ漫画から漫画家としてのキャリア開始したゆうきは,オリジナル作品「ヤマトタケルの冒険」を単行本化して思春期過ぎたワシの前に立ち現れたのである。原作(古事記・日本書紀)に忠実な近親相姦ありのエロ満載な作品にワシはたちまち夢中になったのは言うまでもない。
 その後,ゆうきは少年サンデーに活躍の場を移し,「究極超人あ〜る」で人気を確立,「機動警察隊パトレーバー」以降の健筆っぷりはもはやワシが述べるまでもない。流石に今では少年誌からは活躍の場を移し,週刊ビッグコミックスピリッツで北条早雲の若き京都時代から描き起こす本作を連載中なのである。

 第一次オタクブームあたりからアニパロコミックスを経てビッグネームとなったという稀有な経歴を支えたのは,シャープな描線が特徴の絵柄の華やかさもさることながら,懇切丁寧なストーリー運びと,土俗的な常識に基づくキャラクター運びにあると考えている。その特徴を生かせるのはギャグよりはユーモア漂うシリアス,少年モノより青年モノ,現代劇より時代劇なのではないか。とかく流行と刺激を求め続けるエンタメ業界にあって,ゆうきまさみのような大御所がどっしりとその力量を発揮できるのはこのような一見地味なテーマ(北条早雲って知っている人多いか?)だからこそなのではないかとワシは考えているのである。

 室町幕府はその名の通り,京都室町に幕府(というか屋敷)を構え,天皇をガッチリガードしつつも利用することで命脈を保ってきた政治体制である。それ故に御所との関係は良好なれど,経済力の源泉であり暴力装置たる有力守護のバランスの上に成り立った幕府であるが故に,跡目争いで常にごたつく守護同士の争いが激しさを増すと,後の豊臣・徳川とは異なり,自領と自軍が脆弱な将軍家では制御できなくなり,応仁の乱を経て戦国時代へ突入することになるのである。後の北条早雲,伊勢新九郎盛時はその只中で京都で生を受け,現将軍・足利義政の元で混乱が続く政治と,父親が放置してもはや維持が怪しい領地・荏原で悪戦苦闘する・・・というのが5巻までのストーリーであるが,このややこしい状況を,近年のNHK大河ドラマよろしく蜷川新右衛門に解説させつつ,じっくりと描いていくのである。第1巻,冒頭では,姉が嫁いだ今川家の禄を食みつつ,鎌倉公方とのゴタゴタに介入していくシーンから始まるので,まずはそこまでの新九郎の活躍(ジタバタ?)っぷりを楽しんで欲しいというのが著者の狙いなのであろう。にしても5巻目でこの為体では,いつになったら早雲を名乗れるのか,気が遠くなってくるのである。・・・ま,完結しそうもない「風雲児たち」という先達に比べればまだ,カタルシスを得られる作品になる見込みはあるとは言えるか。

 しかしまぁ,この悠然たるストーリー運びに,ワシらファンは魅了されているのである。振り返ってみれば「機動警察パトレーバー」なんて,勿体付けもいいところだった。一体全体,内海は何をしたいのだとイライラしながら単行本を追いかけていたワシではあるが,あの最期に至ってようやくここまでのノタクリっぷりに「会得」したのだ。グリフォンを操ることにだけ特化して育てられた孤児を利用し,散々警察のみならず身内の企業も振り回して楽しんた結果をその身で全て受け止めた内海の行状と運命を読者に伝え納得させるには,あの長さが必要であったのだ。恐らく本作でも,ゆうきまさみは後の北条早雲を形成するための説得を,いつものようにネッチリとワシら読者に教え込んでいるのであろう。そう思えば,まぁ20巻ぐらいは付き合ってもよろしいかとワシは今後の新九郎の歩みを,諦めとともに楽しみにもしているのである。

 本年(2020年)のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公で,京都の御所と消滅間近の室町幕府が主要な舞台の一つとなっており,これらに巣食う旧来勢力と,最後の将軍・義昭を抱えて上洛した織田信長側との諍いのなかで実直な光秀が重用されていく様が描かれている。御所を中心とする「京都政界のめんどくささ」の魅力が再認識されてきたとも言えよう。「新九郎、奔る!」はそのややこしい京都のとば口を知らしめてくれる作品でもあるのだ。

 本作でも光秀よろしく,主人公たる新九郎は実直そのもので,それ故に,京都でも領地でも筋を通すことに痛みを覚えている。そういえばパトレーバーでも警察側の主人公達が職務遂行に悩む所が随所で描かれていたことを思い出した・・・つまり,ゆうきまさみは「自身の真っ当さとリアルな現実の間で主人公を悩ませる」真正のサドであり,悩むことを辞めて現実に従うだけのワシら小市民は,その痛みっぷりを共感しながら眺めて楽しむマゾ的変態であるということなのである。

映画「サイレンス」「舟を編む」

 HDDがPCのバックアップデバイスに成り下がり,メイン用途は家庭用録画機材の積読ならぬ「積録(つんろく)」のためのメディアになって久しい。我が家でも2TB・48時間分の外付USB HDDをパナソニックの旧型DIGAに取り付けてあるが,残り10数時間となっている有様であったので,この四連休中に「一回見た」「もう見ることは無さげ」なモノは消去して,「一度見ておけば消去可能」なモノを片付けることにした。映画「サイレンス」(原作・遠藤周作,監督・マーチン・スコセッシ)と「舟を編む」(原作・三浦しおん,監督・石井裕也)はそのうちの二本である。世評は高かったので,こちらの期待も高かった分,消さずに残しておいたのだが,どちらもこの期に見て良かった。ここでこの映画の感想を書きつけておく。ちなみにどちらも原作は読んでいない。

「サイレンス」

 江戸時代初期,一人のイエズス会宣教師フェレイラが日本で消息を経った。経過を記した文書にはフェレイラは棄教し,日本人として妻子と共に暮らしていると書いてあり,それも年単位で前のことだという。敬虔なフェレイラを師とする若い二人の宣教師は文書を信用できず,フェレイラの真の消息を知ると共に,神父がいなくなった日本でキリスト教を維持するために,漂流者として流されてきたキチジローを案内人として日本に密入国し,隠れキリシタンとなっていた五島列島・平戸方面で,最初は二人で,そのうち一人ずつ別れて密かに神父としての責務に励むも,そのうち幕府の役人らに信者の村人共々捉えられてしまう・・・というのが前半のストーリーだが,後半は捕まった神父の一人にひたすら棄教を迫る精神的拷問と説得に占められ,最期はフェレイラ同様,日本人として幕府の貿易業務の手伝い(キリスト教関係品の選り分け作業など)をしながら余生を過ごすことになるのだが,全編音楽なし,セミの声,波の音・・・ひたすら自然音を淡々とバックグラウンドミュージックとして用いる地味な演出ながら,深い信仰心というモノをこれでもかと突きつけてくる演出に引き込まれ,終了後はジーンと頭の中が痺れてしまったのである。
 感心したのは,残酷極まりない信徒への貼り付け,ミノ踊り(藁ミノで包んだ信者に火をつける),長く苦痛が続く逆さ吊り・・・と,神父を慕う信者の拷問を見せつけつつ,長崎奉行・井上(イッセー尾形)や配下のインテリ(浅野忠信)が叩きつけてくる「日本がこれほどキリスト教徒を弾圧する理由」の説得力の強さだ。奉行以下,江戸幕府の残酷さに憤る向きは多いだろうし,確かにそれは分かるのだが,バランスを取るように弾圧者の理屈も述べられていて,神父もその政治的理路は理解しているという描写が実に巧みである。それでいて,何度も裏切っては安直に懺悔をするキチジローが,ラストで信仰を貫いたことを見せたり,屈服した元神父は,日本の土に帰るものの,助けを求める信者や自身に対する何の救いももたらさない「神の沈黙」を受け入れ,更に深い信仰を秘めていたことを歪んだクロスに象徴させている。全く,いろんなモノを詰め込むだけ詰め込み,激しい肉体的精神的葛藤をもたらす信仰というものの正体を観客に突きつけているような映画である。
 どんな神でも,現世の人間が願う安直かつ直接的な救いなどは寄越さないものであり,それを持って神は死んだと言うのは簡単なことであるが,信仰そのものが救いどころか完全なる害悪をもたらすものであっても,それを人間は手放すことができるものなのか,ワシはかなり疑問である。ソビエト連邦ではあれだけ弾圧したロシア正教を根絶やしすることはできなかったし,隠れキリシタンも明治まで細々ながら生き残った。中国でもそう簡単にコトが運ぶとはどうしても思えない。むしろ迫害が精神的紐帯を強めてしまうことも井上ら奉行所一同はよく理解しており,それ故の神父の棄教を迫っている。だがしかし根絶やしには結果としてできなかったということの「信仰の強さ」を理解する教材として,この映画ほど雄弁に語ってくれるモノはないとワシは確信しているのである。

「舟を編む」

 広辞苑(岩波書店),大辞林(三省堂)といった分厚い国語辞典を10数年に渡り,担当編集者の世代交代を経つつも編んでいく様を淡々と描いた日本映画である。ストーリーに余計なモノを持ち込まず,適度にウェットな演出を挟みつつ,最後はハードウォーミングに落とすという邦画にありがちの映画であるが,編集責任を全うできなかった国語学者(加藤剛)が病床まで日課となった語彙再録作業を辞めなかったというあたり,つい先日に恩師を亡くしたワシとしてはちとウルっときてしまったぜよ。
 辞書編さんという,地味だが長期の取り組みが求められるビッグプロジェクトを「舟を編む」とタイトル付けした三浦しおんはさすがだなと思うが,それを主演の松田龍平,オダギリジョー,はな,宮崎あおい等の芸達者な俳優陣を揃えることで魅力的な映像に仕上げたのはさすがだなと感心させられた映画であった。

十日草輔「脱サラ41歳のマンガ家再挑戦 王様ランキングがバズるまで」イーストプレス

[ Amazon ] ISBN 978-4-7816-1890-6, \750 + TAX

 マトグロッソで連載している時から欠かさず読んでいたエッセイ漫画が一冊にまとまったのである。ワシはこの著者の「王様ランキング」の読者ではないが,面白いという評判は聞いていた。とはいえ,最近は人生の残り時間が少なくなってきたこともあり,いつ終わるともしれぬ長編マンガとお付き合いするのは控えている。気にはなっていたものの,ワシ好みの絵柄でないこともあって,手を出さなかったのであるが,お気楽にタダで読める自伝的エッセイ漫画連載が始まったのだ。ということで,物怪の幸い,毎月アップされる自己愛と羞恥心の暑苦しい発露を面白く読んでいたのである。
 従って,この238ページの単行本,書き下ろしの巻末15ページと追加15ページ以外は全部既知の内容であるが,改めて冒頭から読み直してみると,中年に至るまで,大部分の社会人が経験するであろう失敗と自己分析の部分はかなりの共感を持って迎えられるのではないかと感じたのである。ネットでバズったとはいえ,知らぬ人の多い「王様ランキング」の著者の作品であるが,割と厚めのソフトカバー単行本であるにも関わらず750円と安価であることでもあるし,「チャレンジングな人生」を送ってみたい熱量の高い向きには良い指針になること間違いない。「自分は器用な人間ではない」とお気づきの不器用な多数派の方々にはお勧めしておきたい一冊なのである。

 著者は本書のタイトル通り41歳で単行本デビューするのだが,20代で漫画家になることを一度諦めている。3年間,引きこもってひたすらマンガを描いては投稿し,時には編集部に持ち込みも行ったもののついにデビューできず,ファミレスのバイトとして社会人への一歩を踏む。その後,eMacと出会い,フォトショップやHTMLを覚えてWeb関連の仕事につく。2000年代初頭の頃なので,ようやくWebが浸透してきた時代,入り込む隙はいくらでもあったわけで,そこにコンピュータの操作を覚えることが得意であった著者はうまくハマったのだろう。社会人として会社を渡り歩きながら,イラストレーターとしても一定のレベルに到達している。とはいえ,40歳を越えたあたりで人生このままでいいのかと,絵本作家を志すが,狭き門故に諦め,一度は挫折したマンガ家に再チャレンジをするのである。
 ここで重要なのは,「会社人としての経験」と「マーケティングリサーチ力」である。前者は人様に物事を説明して仕事を進めていくコミュニケーション能力を著者に与え,後者は20代の失敗を踏まえて自分の能力を俯瞰しつつ,それを売り込むために最適なマンガサイトを見つけることを可能にしたのである。ちょうど40歳を迎えて知力も体力も経済力もある程度余裕のある最適点だったこともあり,一度は決まった単行本デビューの話も持ち前のリサーチ力故に「まだその時期ではない」と判断して蹴っ飛ばし,コツコツとサイトにマンガをアップし続けて遂には独力でバズるに至って,「王様ランキング」の単行本刊行とヒットを勝ち取るのである。

 「そうはいっても運の良い人の自慢話でしょ?」という感想は,確かに正しい。冷静な分析能力があったとしても,十日草輔のように41歳デビューできるわけではないし,確かに「運の良い人」であることは疑いようがない。しかし,失敗しては学び直し,会社でしくじれば次の会社を探し,画力がなければ読みやすいコマ割りを心がけ,読者をワクワクさせる明快なストーリーを展開し,「何だこれ?」という奇妙な描写(本書では編集者がそれ)を必ず差し込む・・・という「心がけ」は,まともな社会人なら誰しも日常的に行っている。そしてその「心がけ」の集積は確実に「運」を引っ張り込む確率を上げる。逆にそれを怠れば間違いなく人心が離れて「運」はやってこない。十日草輔の,古臭い画風で分かりやすく語ったエッセイ漫画はその当たり前の真実を,自身が身につけた漫画力でくどいほど暑苦しくワシらに伝えているのである。

 「失敗したっていいじゃない」というシンプルで誰しも聞いたことのあるセリフは,それ故に,成功者が高みからエヘンと踏ん反り返って吐かれたものではなく,生きている限りは「そうするしかない」という,実際に「そうしてきた」年長者の述懐なのである。本書の最後のメッセージは読者へのお楽しみとして実際に読んで確認して頂きたいが,それは「ありきたり」なものだ。しかし,ありきたりだからこそ,もう一度噛みしめておくべきものであることは間違いなく,十日草輔の,自身の作品に対するネガティブな反応を恐れる自信のなさと賞賛を得た時の喜びは,過去の数々の失敗を経たことで得た「ありきたり」なメッセージの重要性を表現しているのである。

松虫あられ「自転車屋さんの高橋くん」2巻,リイド社

自転車屋さんの高橋くん 2

[ Amazon ] ISBN 978-4-8458-6057-9, \630+TAX

 最近,漫画の好みの偏りが激しくて,甘々なカップル物ばかり読んでいる。複雑な現代社会を人並みに生きていくには,「家族」という最小単位のユニットを構築する必要があり,そのためには互いの信頼と愛情を土台とする二人の成人から成る「カップル」というタネを用意しなければならず,このカップルの関係性を安定的に持続させることが家族形成には不可欠である。そのためには日々勃発する外部刺激に対して対処していかねばならない。「甘々カップル物」というジャンルの読み物はそのための内的動機付け,即ち「断固として互いの結びつきを維持するのだ」という意思表示を「甘々」という,側から見れば「けっ」と言いたくなる一種傍迷惑だが,カップル当事者にとっては必要不可欠なエネルギーの発露の「源泉」を見せつけてくれる教科書なのである。
 ワシが現在読んでいる本作以外の作品では甘々表現がフェチ的セックスだったりするのだが,しかしそれとてもセックスの「源泉」がなくては成立しない。源泉とはつまり日々の外部環境対応の御礼であり,それ故の肉体的奉仕活動なのである。・・・あーもう最近お堅いお役所的文書ばかり読み書きしているから文体が硬くなっていかん,ぶっちゃけて言えば,いざという時に「わぁ素敵」とキュンとさせる白馬の王子様的行動をしてくれた,ということである。これがサラッとできる奴を「イケメン」と言うのである。これは必ずしも男でなくても良く,男女どちらかが時と場合に応じて「イケメン」でありさえすれば良い。イケメンのいないカップルはいずれ破綻することになるので,イケメン成分不足なカップルは互いに「いざという時」のため,日頃から優先順位を間違えずに行動できるよう意識しなくてはならない。銭金が惜しいから,もう少しこのYouTubeを見たいから・・・という理由で相方の危機を見過ごした結果のカップルの破綻,という話は数多存在するのだ。「イケメン」という存在は性別の男女に関係なく,カップルがカップルであり続けるためには必要不可欠な要素なのである。
 その意味で,この「自転車屋さんの高橋くん」はまごうことなくイケメンである。1巻では少し活躍ぶりが大人しかったが,2巻までくると今までの活躍ぶりに加えて,「肉体的奉仕」に対する要求の抑制っぷりが「うは〜,この状況でそこで寸止めか」と,余裕のない童貞歴が長かったワシにとっては憧れる程のカッコ良さなのである。そう,高橋くんは見栄えもさる事ながら,カップルの相方に対する奉仕を自然にやってのける能力を持つが故に「イケメン」であり,御礼としての肉体的奉仕に対しても抑制的に振る舞える,まさに地元密着マイルドヤンキーの鏡と言える存在なのである。
 もっとも,高橋くんは家庭環境の複雑さもあってか,見かけの派手さとは異なり,学校図書館に収められている漫画,マイルドな手塚治虫作品と思しき物を好んで読んでいたという内向的なところも2巻では描かれている。おそらく来年1月に出る3巻では,だんだんしっかりしてきたパン子との愛情が深まると同時進行で,高橋くんの過去が見えてくるのだろう。加えて,強固なカップルが成立するための礎としてのイケメン的行動がどのように絡んでくるのか,その結果を楽しみに,ワシは掲載Web雑誌「トーチ」は読まずに単行本の刊行を待つつもりなのである。

工藤美代子「サザエさんと長谷川町子」幻冬舎新書

工藤美代子「サザエさんと長谷川町子」幻冬舎新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-344-98584-1, \840 + TAX

 いやいやいや,久々に一気読み,面白かった。「月刊Hanada」に連載されたルポルタージュというから,コッテコテのバカ右翼,とはいかなくても,やっぱそれなりに偏っているんだろうと疑っていたが全くの杞憂であった。長谷川町子のエッセイマンガ,三女・長谷川洋子のエッセイを読んでも靴下痛痒だった所がクリアに調査されており,全部ではないが主要な「長谷川家の謎」のあらましはほぼ掴めた。つーことで,「長谷川家上京時の台所事情」「サザエさん朝日新聞移籍前の不可解な連載・休載の繰り返し」「数々の著作権裁判」「長女・長谷川毬子・町子と洋子との決裂」「長谷川町子と毬子の死」,そして本書冒頭には「長谷川町子遺骨盗難事件の顛末」が述べられている。もちろん,プライベートな三姉妹+母親で構成された結束の固い一家のこと,全てが詳らかになるわけではないが,ワシの下世話な知識欲は大方満たされたのだから,幻冬舎新書のページ水増し用としか思えない,ページ上部マージンの不自然な長さには目を瞑ってやろうというものである。

 ベテランノンフィクション作家として手堅い仕事を続けている著者であるが,保守政治家の評伝については興味が持てず,ワシがきちんと読んだのは本作が初めてである。筆力はさすがで一気呵成に読めたのは当然としても,小泉純一郎の姉とコンタクトが取れたり(花田編集長のツテか?),最晩年に近い長谷川家の内情に詳しい人物から話を聞いたりして,内容の信憑性に疑問が所が無いでは無いが,不自然なこじつけ的推理は皆無で,ははぁなるほどねぇとワシは読みながら感心しっぱなしであった。

 今よりずっと苛烈な女性蔑視的社会状況の中,父親を早くに亡くし,未亡人となった母親と三姉妹が戦争を挟んでの激動の時代を生き抜いてきたのである。尋常でない程の硬い血縁的結束があってこその,町子の「サザエさん」の成功があった訳で,莫大な収入があろうがなかろうが,自分が作ったキャラクターを無断で使用するなどということを許すことは,女性蔑視時代の昭和日本を爆進してきた長谷川家にはあり得ない選択であったのだろう。それ以上に,おしとやかな日本女性を表面的には見せていた町子の性格がかなり激しいものであることも本書には幼少期からの証拠と共に述べられており,社会的成功も数々の告発も,通底にはこの負けん気の強さ故のものであることが理解できるようになっている。

 最晩年に三姉妹が仲違いした真の理由は不明であるが,これについては当事者二人が亡くなっている以上,永遠の謎であろう。著者によれば「莫大な財産の相続」に起因すると読めるが,これについても存命の当事者が語らない以上,分からないとしか言いようがない。実は長谷川洋子の著作を読んだワシも「本当かそれ?」と疑っていたから,工藤の疑問は当然である。しかしまぁ,そのぐらいが本件については限界であろう。ワシら長谷川町子愛好者は,長谷川町子美術館,そして今度開設した長谷川町子記念館の財源になったことを寿げばいいのである。

 暴かれたくないプライベートが記述された本書に対して毬子・町子はあの世で大激怒していることであろうが,「サザエさん」(描線・風俗の変遷が凄い)や「いじわるばあさん」(孤独感の描写が良い),そして現在のエッセイマンガの元祖である「サザエさんうちあけ話」「サザエさん旅あるき」が現在に至るも面白く読める不朽の名作であることに水を差すものではなく,読了後はむしろ益々畏敬の念を持つに違いない。本書では作品論にあまり踏み込んでいない所が個人的には物足りないが,より深く長谷川一家のあらましを知りたい向きには必読の一冊であり,世間に抗いながらキャリアを重ねて生きていくことの尊さに打ち震えること間違いないのである。