秋月りす「35歳で独身で」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-364681-8, \952
 あじ・・・あじ・・・。まあ8年前に買ったクーラーだし,所詮は8畳用だから仕方ないとはいえ,設置してあるリビングの窓を明け放しておいた方が風が通るだけいくぶんマシ,という状況はどうかと思うよ。だから電気屋を呼んでいるんじゃないか。時期が時期だけに忙しいので,今日の午後5時までに来訪する,という以上の約束はできない,というのも,まあ分かるよ。こっちも三十路後半の宮仕えの立場だからさ,お互い大変だねぇという感じで穏やかに「分かりました」と言いましたよ,確かに,ええ。しかし遅いよな・・・暑いのを我慢して待っているんだから,理性では分かっていても,この中年太りした脂肪層からにじみ出る中年臭い汗の不快さには我慢しかねるんだよなぁ。早く来ないかなぁ。分解掃除したところで効果の程はたかが知れているんだろうけどさぁ,早く来て欲しいよなぁ,ホントに。
 ・・・秋月りすは,好きですよ。うん。たぶん,今の日本でいしいひさいちと双璧をなす四コマ作家といえば,彼女しかいないんじゃないかな。
 もちろん,毎日新聞で連載を持っている森下裕美や,北海道新聞の新田朋子もかなりのもんだ。静岡新聞の吉本どんども結構面白い。しかし失敗例もある。さくらももこが佃公彦の跡を継いで4コマに進出したけど,ありゃあ空前絶後の酷いシロモンだ。あれを見れば,エッセイで名をなしたプロ作家でも平均的に面白い4コマ作品を生み出し続けるのがいかに難しいか,よくわかるんじゃないのかな。
 だから,いま名前を挙げた森下・新田・吉本は日本の新聞四コマのスタンダードと考えていいと思うのだけれど,秋月は当然そのレベルに達しているだけじゃなく,いしいが持っている冷徹な知性も兼ね備えているんだ。だてに手塚治虫文化賞を受賞していない。連載していたのが朝日新聞だったという事情を差し引いても,あの小うるさい審査員から特に反論はなかったというぐらいだから,実力は万人が認めていると言っていい。
 その秋月が今も連載を続けているのが「OL進化論」だ。あの入れ替わりの激しい青年誌で生き残っているだけでも大したモンだけど,「OL」なんて言葉をまだ生き延びさせていることはもっと喧伝されていいと思うな。今時,まともなレベルの教育を子供に授けようと思えば,両親共働きが当たり前で,男女とも正社員なら,女性だけを「OL」と呼ぶことはないんじゃないかな。大体,僕の世代だと「OL = 結婚前の腰掛け」というニュアンスだったモンなぁ。未だにそーゆー目で女性を見る会社もあるそうだけど,少子高齢化が進むこの日本が移民政策をとらない限り,いずれその手の古い体質の会社は人材確保に苦労すると思うね。ザマミロ。
 まあでも,2007年8月現在で27巻も出ている作品だし,秋月りすが面白いと気が付いたのはごく最近なので,僕が持っているのは「かしましハウス」(全8巻)と「おうちがいちばん」(1巻, 2巻)ぐらいかな。たぶん,「OL進化論」は往年の「サザエさん」のように,病院の待合室に鎮座していて,時間があればつい読破してしまう,というスタンダードな読み方をされているのだと思う。だから全巻揃えているという人は案外少ないんじゃないかな。で,多分,全巻読破しているような人は,この「35歳で独身で」シリーズをそれほど重要視していないのではないかと思うんだ。膨大な数の平均的に面白い4コマ作品集の中では,多分埋もれてしまってそれほど印象には残らない筈だよ。
 だけどさ,それを今更ながらほじくり出してやろうという,偏屈な編集者が講談社にはいたんだよなぁ。もちろん同じ講談社から出てヒットした「負け犬の遠吠え」の影響が大きいんだろうけどさ,「我が社にはあれがあった!」と気が付いたのは大したモンだと思う。多分そいつも負け犬なんだろうけど(違ったらゴメン),いや,こうして一冊にまとめてみると,まーなんというか,秋月りす恐るべし,と誰しも,特に負け犬はそう感じるんじゃないのかなぁ。
 初出が全く書かれていないのでよく分からないんだけど,ここに収められている10章・135作品はここ10年以内に描かれたものから抜粋したようだ。絵柄的に安定しているから,多分そう。で,このうちオスの負け犬が主人公の作品は13作品しかない。圧倒的に(メスの)負け犬が多い訳だ,この「35歳で独身」な連中は。まあ秋月が女性だからという理由なんだろうけど,それに加えて,オスの負け犬に対する世間のイメージが「おさんどんしてくれる人がいなくて可愛そう」と固着化されていることが大きいと思うな。つまり,同じ「35歳で独身」でも,男に対しての哀れみのパターンが少な過ぎるんだよ。逆に言えば,女性に対してはいろんな見方をされるということでもある。もちろん「伴侶が居なくてかわいそう」と同情される一方で,「ダンナと子供に縛られずに自由でうらやましい」という見方もされるワケ。後者は多分少数派だとは思うけどね,でも既婚者からはそう言われることが多いと酒井順子は書いていたな。それも表面だけのことで,内心は違うと酒井は断言してたけど,そーでもないんじゃないのかなぁ。それもまた偽らざる本心の一部だと,僕は思いますけどね。
 だから,負け犬でも35歳でもない(もっと上)秋月でも,負け犬を主人公にした方がネタが作りやすいんだよ。本人もあとがきで「いつもネタ出しには苦しんでおりますが,このシリーズは案外スムーズにできあがります」って言っているモン。本人は「タイトルがよかった」せいだとして,「35歳で独身で」が「ぴったりくる,と思」ったそうだけど,このぴったりという感覚は,女性に対してのものだ,と僕は思いますね。世間が感じている「35歳で独身」女に対するさまざまな思いをすくい取ってネタにするのは,秋月の冷徹な目があればさほど不自由しないんだろう,きっと。
 でまあ,このシリーズだけ抜粋された本書を読み終わって,つくづく「38歳で独身」の僕としては,つまらんなぁ,と思う訳ですよ。いやこのマンガは面白いよ。そうじゃなくって,さっきも言ったように,中年独身「男」に対する世間のステレオタイプなイメージが,だよ。
 中年独身男ってのは,いろんな「ダメさ」の固まりなんですよ。そこんところを枡野浩一小谷野敦が一生懸命布教してくれているのだけれど,結局,受け取る方はダメさの差違という奴にはからっきし鈍感でね。「ダメさ」は一つしかないと思っているんだよ。いや,「ダメさ」ってのは見習うべきモンじゃないから,そう深く考えたくないのは当然だろうけどさ,見方を変えればマーケティングにも使えそうだし,いわゆるエンターテインメントの多くが同情と憐憫と嘲笑をベースとして成立していることを考えれば,「ダメさ」の用途はいろいろあるんじゃないのかなぁ。だからもっと世間にアピールできるメディアを持つ人に「ダメさ」を喧伝して欲しいと願うワケなの。秋月さんなんかがもっとたくさんの「35歳で独身」ダメ男を描いてくれるとありがたいんだけど,まだ男尊女卑思想が根強い日本では難しいのかしらん?そうなると・・・どなたか適当な人,いませんかねぇ?
 ・・・とグダグダ書いていても,まだ電気屋さん,来ないなぁ。・・・暑い。うー,そろそろ麦茶,冷えたかなぁ。・・・暑いなぁ。

伊藤智義「スーパーコンピュータを20万円で創る」集英社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-720395-0, \680
 伊藤智義・作,森田信吾・画「栄光なき天才たち」は,大学学部時代に愛読させて貰った漫画である。ワシが現在も持っている単行本は7巻までだが,第1巻の刊行が1987年11月25日付,第7巻は1989年11月25日付なので,ちょうど学部1年生から3年生になるまでこの漫画とつき合っていたということになる。漫画家・森田のデビュー作はこの第7巻に納められているコメディタッチのSF短編だが,このいかにもマンガ的なノリの軽さに,少し劇画調のリアルさを加えた森田の演出力が「栄光なき天才たち」を優れたエンターテインメントにさせたことは疑いない。この7巻のうち伊藤のクレジットが入っていない第5巻と第7巻も,主人公こそ学者や技術者ではなく,映画人(グリフィスとマリリン・モンロー)とアスリート(円谷幸吉とアベベ)だが,他の巻と遜色がない出来であり,面白く読んだ記憶がある。なので,失礼ながら伊藤の名前はあまり良く覚えていなかった。今回,本書の著者名に引っかかりを覚えググってからようやく「ああ,あの『栄光なき・・・』の?」と合点がいった訳である。実際,本書によれば,この作品以外で原作者としての活動は止めてしまったとのことなので,漫画界からは忘れられてしまったのも当然である。
 その伊藤が東大でGRAPEの立ち上げ時にハードウェアの開発を担っていた,ということを本書で初めて知らされて,いやぁ,何というか,世間は狭いというか,才能ある人は何でも出来ちゃうんだなぁと,改めて感心させられたのである。こういうと「努力の人」伊藤にはイヤミに聞こえるかもしれないが(その意味もあるが),少しずつでも自らを磨きながら努力を積み重ねるということは,それなりに「才能」を要するものなのであり,残念ながら誰にでも出来ることではないのだ。
 GRAPEのPCボード版は,実はワシの研究室にも一台転がしてあるのだが,正直,非才なワシには使いこなせないなぁ,とサジを投げてしまっており,殆ど活用していない。それだけ扱いづらい特殊用途のハードウェアなのだが,その特性を生かすアプリケーションがあれば,GPUベースの並列演算アクセラレータやPhysxのような物理演算ボード以上の働きをさせることができる・・・らしい。ワシはとうにアカデミックな流行を追うのを止めてしまっているので,その意味でもあまり魅力を感じないのだが,ハイパフォーマンスを求めてやまない熱心な計算機屋さん達にとっては格好の研究活用対象であるようで,本書には書いていないが,次期スパコン計画にも組み込みが検討されているようである。
 本書において伊藤はそのGRAPEの生い立ちを,プロジェクトリーダ・杉本の学問的出自まで遡り,小説仕立にして語っている。さすがジャンプ編集部のお眼鏡にかなうだけのことはあって,その筆力は読者を引き込む力を持っており,ワシが3時間ほどで本書を一気読みしたぐらいだ。その分,学問的資料としての価値は若干薄いと言わざるを得ない。どうしてもプロジェクト内部に身を置いた人物・伊藤の主観に負う記述が多くなってしまうため,客観的資料はそれほど豊富ではないのだ。計算機に縁のない読者には,何故専用ハードウェアがソフトウェアに比べて高速なのか,本書を読んでもさっぱり分からないだろう。
 しかし,だからこそ逆に,学問の先端を行くプロジェクトに身を置いたメンバーでしか知り得ない「体感」と「汗の湿り気」を存分に味あわせてくれるのだ。作者ご本人は現在千葉大の教授に就任されているので,今の時点ではとても「栄光なき」天才とは言えないが,海のものとも山のものともしれない時期の専用計算機開発時においては,伊藤が描いた過去の研究者・技術者達の焦燥と情熱が入り交じった感情を,伊藤自身も存分に味わったに違いない。

「伊藤(著者)は,漫画原作者としての評価と実収入に一旦終止符を打って,GRAPE開発に取り組んでいた。そこには,一般の学生にはない,強い自覚と自負があった。」(p.132)

 この「強い自覚と自負」の形成には,おそらく,「栄光なき天才たち」への偽りのない共感が寄与しているのだろう。
 GRAPE自体を知るには,本書の参考文献に挙げられているものを読むのがベストだろうが,研究活動の「実感」を知るには格好の一冊である。

藤原カムイ×大塚英志「アンラッキーヤングメン1・2」角川書店

1巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853724-7, \1200
2巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853725-4, \1200


 明治の半ばから終わりにかけて,ため息と共に詩を詠んでいた,うだつの上がらぬ男がいた。生前は小説で身を立てることも夢想していたようだが叶わず,貧窮の果てに死んだ後,彼の詩は世の大多数の「うだつの上がらぬ」男たちに支持され,今も生き続けている。国語の授業では必ず彼の詩の一つや二つは取り上げられるようになって久しいが,女性の感覚では「ダメ男の自己憐憫なんかにつき合ってられっか」と一刀両断の元にうち捨てられるのが常のようで,ついぞ好意的な感想を聞いたことがない。
 彼の,ひたすら享楽的で,家族を慈しまない生活態度は,いつの時代も「健全」とは相反するものであることは確かだ。そして,彼の詩は,そのどうしようもない彼の生活態度と,社会的に認められないという嘆きを源として沸いてきたものである以上,「健全」でない部分を持つ世の男どもの琴線に触れないはずがないのである。
 石川啄木は,つい最近も離婚した(させられた?)嘆きを女々しく愚痴る現代短歌作家によって光が当てられたが,そんなことに関係なく,人間の虚栄心と自己愛と競争心が消滅しない限り,彼の詩は人々の口の端から漏れるつぶやきとして残っていくに違いないのである。
 母親に捨てられた若い男・Nがいて,ヒロシマで放射能を母親の胎内において受けた若い女・ヨーコがいて,人生の第一歩を踏み出せず躊躇しているTがいて,Nを思慕しながらも満たされないセーラー服の女・ヨーコがいて,革命を夢想しつつ権力に凭れるSがいて・・・まあつまり,背負ってきた人生は様々なれど,「青春のモラトリアム」がもたらす焦燥感にさいなまれている若い衆が昭和40年代に生きていれば,こういう嘆息調の啄木の詩がぴったりくるということなのだろう。大塚によれば,彼らの「内面」は啄木に託されたようなもんであるから,物語はどうしたって「やるせなさ」の固まりとならざるを得ない。誰一人として,筋書きがあらかじめ決まった映画のようには行動できず,短期的な目的を持った途端に結果に裏切られるのだ。
 啄木なのである。
 彼らは別段特別な存在ではなく,ごく普通の,どこにでも存在するアンラッキーな十把一絡げのサンプルに過ぎないのである。啄木は,そんなサンプル達のつぶやきを短く的確な詩に残してのたれ死んだ,これも明治のサンプルの一人だったのである。大塚英志は,そんなサンプル達を,この時代に発生した事件・事象をうまく絡めて物語を紡いだのである。
 藤原カムイはデビュー以来培ってきた表現力を,我々が持っている「青春のモラトリアム」という共同幻想の構築に注いだ。昭和40年代の人物や背景を,軽みを帯びた陰鬱さのスモッグの中に配置できたのは,大塚の原作と注文(ATGの映画のように,とか,永島慎二や宮谷一彦のように,等)に因るところが大きいのだろうが,画力がなければ間違いなく失敗していたに違いない。
 初期のSF短編とは別の,雰囲気を醸し出せる的確な表現力は,谷口ジローと双璧をなすところまで行き着いた。しかも,全編に渡って手を入れ直したというだけのことはあって,あまり画面にむらがなく,至極安定している。静謐な雰囲気を壊さない微妙なタッチを,700ページを超える長編で維持できた藤原の力量があってこそ,この作品は傑作たり得ているのだ。
 分厚さを感じさせない大作である。啄木を堪能しつつ,読むべし。

二宮ひかる「おもいで」ヤングキングコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-7859-2805-6, \552
 肉欲を排除した恋愛はあり得ない,ということを断言していたのは北杜夫だった。何となく,SEX抜きの「純粋恋愛」というものが至高のものだという意識があったウブな頃にそれを読んだので,えらく感心したのを覚えている。
 20年ぐらい前の少女漫画界にはSEXがタブーという雰囲気が濃厚で,既に名をなした大家以外で「まがい物でない恋愛」を描いた作品はほとんどなかったと記憶している。BSマンガ夜話で,大月隆寛が「少女漫画はいつからエロくなったのか」と問題提起をしていたが,全体としては「やおい」の流れと,小学館が先鞭をつけた「初体験ドキドキ路線」(と先達は申していた)が合致して,1990年代前半から「エロくなった」んじゃないかと思っているがどうなんだろう。
 しかし北杜夫の言葉を借りれば,エロ化とは恋愛のリアル化に他ならない。いろいろな経緯と辿りつつ,最終的には男は女にSEXさせろとせがみ成就する,というのが「普通の恋愛」のあり方であり,べたべたした両思いにたどり着きながらキスだけしておしまい,などというマンガが流行っちゃったために日本の少子化路線が定着したのだ・・・というのは妄想であるが,まあつまりは日本のマンガもようやくリアルな恋愛が主流になった訳で,まずはこのことを言祝ぐべきである。最近では「ラブロマ」が,SEXというベタになってしまった用語を廃しつつ「みかん」に至って完結したが,さて童貞マンガの巨匠とも言うべき植草理一の「謎の彼女X」がどういう決着を見せるか,今から楽しみである。
 ・・・話が逸れたが,何を言いたいかというと,二宮ひかるは男性誌で長く活躍しながら,リアルな恋愛を書き続けてきたマンガ家であり,その祖先はやはり少女漫画なのだ,ということなのである。
 二宮の存在は割と早くから知っていたように思う。しかし,ちゃんと単行本を買って読んだのはつい最近,それもキングからアフタヌーンに場所を移した第一作「犬姫様」からである。結局この作品は人気がなかったためか,はたまた作家本人の事情か,うやむやのうちに単行本一冊にまとまる分量で連載が終了してしまったのだが,エロいロマコメとしては十分面白い作品になっていた。
 以来,気になる作家の一人だったのだが,どうも新作が見あたらず,記憶の隅に追いやられていた。今回久しぶりの単行本が出たので,迷わずレジに持って行ったのである。そして期待は裏切られることはなかったのだ。良い機会なので,この際,ワシのSEX観も絡めて二宮作品を論じたい。
 これは個人的なことなのだが,最近はすっかりAVがダメになってしまったワシなのである。このAVとはAudio Visualのことではなくて,Adult Videoの略称である。とにかく最近のAVは全然ものの役に立たないのだ。
 いや,EDになってしまったという訳ではない。それはワシではなくて×義○である。とにかく近頃のAVときたらフェラチオばっかりで,現実のSEXからは遊離しすぎている・・・いや,世間のカップルの多くがフェラっているというなら話は別だが,恋愛初期のさかりがつきまくっている一時期ならともかく,慣れ親しんだ時期のそれは
 「・・・いい?」
 「え~,するのぉ?」
 「あ・・・やめとく?」
 「う~・・・ま,いっか」
 ・・・ってなもんで,例え法的に夫婦となっていても,女性の「ご許可」を頂かねばおいそれとはできない代物であるらしいのだ。まあこれは当然のことで,DV(家庭問題の用語は何故2文字が多いのだろうか)状態ならいざ知らず,男女同権を重んじる現代人が営むカップルは,まず第一にきちんとコミュニケーションを取り,両者の合意の元に全ての物事がなされるべきと考えるのが普通だろう。
 今のAVにはそーゆー「普通のSEX」がなさ過ぎるのである。もちろん,縄で縛ったりつるしたりするのが好きだという御仁も相当数いるのだろうが,ワシにとっては痛々しすぎて見るに耐えない。うぐいすみつるが力説するように,SEXは男女のコミュニケーションの一手段なのであり,恋愛活動の一環として行われるべきものである・・・というのがワシの持論なので,どうも性的感情を高ぶらせる前の精神的前戯という奴が全くないAVはワシの実用には適さないようなのである。
 で,二宮作品であるが,一見するとお気楽なお色気マンガに過ぎないと見られがちである。しかし,作者本人としてはSEXを全面に据えつつ,自身が理想とする究極の恋愛の姿を描写したいのだろう。それ故に,ワシにとっては2Dでありながら,十分,実用AVとして使える(何にだよ)作品に仕上がっているのである。作者は怒るかもしれないが,「愛のある実用AV」とは,ワシにとっては最高の褒め言葉であるので,どうかご寛恕願いたい。
 本書は5シリーズから成っている短編集である。著者のあとがきによれば,いろいろと事情があり,なかなか作品が描けなかったようだが,そのようなスランプを感じさせないみずみずしさは健在で,どれも良い短編である。ワシの好みは物書き女性とそのペット(若い男)のシリーズなのだが,二宮の「恋愛観」を知るには,姉×弟というカップリングの2短編「とうきび畑でつかまえて」(二宮は道産子か?)と「あおぞら」を比較するのが一番分かりやすいと思われる。
 二宮は男女の思いやりの深さが同程度になることが最高の恋愛だと考えているようだ。常識的だが,まあ世の中そううまくはいかないもの。逆にそれが達成されていれば,近親相姦もタブーではないということなのだろう,この2作品には背徳感を全く感じない。しかし,「とうきび畑・・・」がコメディなのに対し,「あおぞら」が暗く沈んだ雰囲気なのは,前者が二宮の理想に達しているのに対し,後者はどうも姉のそれに対して弟の思いは薄いのではないか,と,少なくとも姉はそう感じている,という点が雰囲気の差を生じさせているのだろう。弟に押し倒され,あらがうそぶりだけする姉は,肉欲以外の真の愛情を欲するために泣くが,それが更に弟の欲情を増すことにしか繋がらないのだ。・・・こう書くとまるでポルノだが,姉の思いは結局通じず,空に舞い上って胡散霧消するだけという様が描かれると,ポルノとは縁遠い作品と言わざるを得ない。やはり本作も含め,二宮は一貫して「まるごとの恋愛」を追い求める作家なのだ。
 Gペン(?)によるごっついペンタッチを持ちながら,白さをうまく使う画面構成や,SEXの細かい描写をせず,抱き合っている様を上品に描くところは,完全に少女漫画テイストである。前述した恋愛観も合わせると,やはり二宮の出自は少女漫画と言わざるを得ない。今も男性誌において「愛情の伝道師」たり得ているのは,「エロくなった少女漫画」がそれだけ男性にも支持されるリアルさを獲得するようになったということなのであろう。ファンタジーに走りすぎたAVにカツを入れるべく,二宮には末永く,愛を書き続けて欲しいと念願する次第である。

唐沢俊一「新・UFO入門」幻冬舎新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-344-98035-8, \720

 格差社会という言葉が蔓延って久しい。さりとて,全ての格差をなくすことは不可能である。今問題にされている格差とは,「自宅」を持たないホームレス・ネットカフェ難民・ニートと,「普通の生活」が可能な層とのギャップが広がっていることを指しているようだ。確かにこの格差社会は問題だが,定職を持って働いてさえいれば人並みの生活ができるようになればよし,というのが一応の合意点であり,すべての労働者を一律の経済力に揃えるなんてことを今の日本で望んでいる人は,まあ殆どいないだろう。
 逆に言えば,どんな好景気であろうと,定職を持てない人を皆無にすることもまた,不可能である。これも少数ではあるが,知能も健康にも問題はなくても,性格的にどうやっても真面目に働くことができない人種というものはいる。ワシは教師であるから,こういう言説を吹聴してはいかんのかもしれんが,やはり「社会的不適応者」をゼロにすることは不可能と言わざるを得ないのである。そしてこの社会的不適応者の中に,自分への社会的評価というものを客観視できない人たちがいる,ということは間違いない。
 人間誰しも欠点はある。日本人の健常者なら誰でも東京大学に入学できるわけでも,オリンピックに出場できるわけでもない。誰だってできないことはあるのだが,それに対する「お前はダメな人間だ」という評価がなされてしまうと,これはなかなか辛い精神状態になる。試験で赤点を取る,転んだわけでもないのに徒競争でビリになる,飛んできたボールを受け損なう,大学入試に失敗する,入学しても留年してしまう,入社試験にしくじる,取引先と悶着を起こす,営業成績がビリになる,リストラされる・・・などなど,もう言い訳のしようのない辛い事実と付き合っていかなければ人生を全うすることなぞできはしないのだ。だから,徹底した楽天気質か自分を客観視する回路がイカれた人間でなければ,「人生は大変だなぁ」とため息をつきながら日々をやり過ごさねばならない。逆に言えば,その事実を受け入れることができさえすれば,まともな人生を送ることができるのである。内田樹がいうところの「正しいおじさん」(or おばさん)とはそのような悟りを持った人たちのことなのだろう。さらに逆に言えば,「正しいおじさん」になり損ねた人種の,更に一部が社会的不適応者になってしまうのである。もっと詳しく言うと,人間誰しも社会的不適応な部分は持っており,これを人生経験を経ることで少しずつ軌道修正していくことで,正しいおじさんへの方向付けを行っていくというのが,「普通の人」の人生なのである。
 本書を読むと,どうやらUFOを目撃した人々のうち,特にトンデモなことを言い出す人はこの「普通の人」への方向付けをたまたま,あるいは意図的に間違ってしまった人種のようである。人生の悩みを超常的な存在に託してしまう,というのはワシも高校生ぐらいまではやっていたし,まともな社会人の中にも霊感があるとぬかしよる輩はいる。しかしまぁ,そーゆー非科学的とされる存在にはあまり深入りしない方が人生にとってはよさそうだな,と,普通の人は年とともに悟っていくものだ。そこを掛け違ってしまって,しかもそのような存在を信じ続けてしまうと,と学会メンバーの格好の餌食になってしまう訳なのだ。
 人生とは辛いものなのだ,とは藤原正彦の言だが,これは,特別な能力に恵まれず超人的な努力も苦労もできやしない普通の人間にとっては,自身の至らなさを客観視しつつ,世間との折り合いをつける作業そのものが人生なのだ,ということを言っているのだ。もうスッカリUFOとも霊現象とも超能力とも縁遠くなってしまったワシであるが,それはつまり,正しいおじさんの道を歩めているということでもある。その意味では自分に対して少しは褒めてやりたい気分になってきたところである。
 本書に関しては引用ミスの問題があったし,事実の羅列が多くて唐沢俊一の地の文章が少なく,ワシにとっては物足りなく感じるところはあるものの,トンデモな人達にも我々と大いに共通する部分があることを優しく述べているところはもっと喧伝されていい本である。異性人の来訪を信じている人には全然期待はずれの本ではあるが,UFO事件をいぶかしげに眺めていた多数の方々にとっては「そーか,そーゆーことなのか」と膝を打てる,人間精神の一端を垣間見せてくれる良書である。