昨日に引き続き快晴だが,午後からは雲が出るらしい。昨日の水炊きの残り汁で雑炊を作ってかきこみ,今年最後の燃えるごみを出し,半年分の漫画雑誌を紐でくくり,残りの洗濯と布団干しを同時にこなす。一息ついてこれを書いているという次第。
後は仕事部屋の片付けと全体の掃除機がけ,余裕があれば拭き掃除もしたいが体力が残っているかな?
韓国のES細胞研究(Yahoo! Japan News),完全な捏造らしいという。今年はどの分野からも論文・業績の偽造・虚偽報告のニュースが満遍なく聞こえてくる。実際,研究に主軸を置いている大学・研究所における業績評価のプレッシャーはかなり強いらしいと聞くから,誘惑に抗し切れないヤワな神経の持ち主は耐え切れずに罪を犯してしまうのであろう。
このような風潮に対して批判的な向きも多いが,概して学者さんからの批判には首をかしげるものが少なくない。その大部分が,「昔は良かった,昔に帰れ」的なもので,ようは論文の本数や被引用数による締め付けを緩くしろ,というようなものであるが,それはどーかなぁと首を傾げてしまう。分野によって論文の本数には雲泥の差があるのは確かだから,その辺りは勘案されてしかるべきだが,十数年に渡って査読論文ゼロとか,研究発表も数年に一度とか,Fermatの定理の証明並みの大プロジェクト準備のためとか,健康上の理由とかでもない限り,明らかなサボりと見られても仕方のない状況にある輩を見逃すようなことになってはマズいだろう。また,高評価の論文を5年に一本書く学者と,低評価だが1年に一本論文を書く学者とは,学者としての評価は前者の方が高いであろうが,組織内における出世においては後者が早いということがあっても,それは不合理なことではない。
結局,質と量を乗じた「面積」による評価でしか,今のところ多数が納得する結論は得られないということである。これにもし合理的な教育に対する評価が加われば,「体積」評価ということも可能であろう。しかし,そのような評価によって,結果平等というものが得られるかどうかということについては,かなり怪しいといわざるを得ない。むしろ相当な格差が付くであろう。しかしながら,それをもってして「質や量」の評価を下げろ,と主張するのはどう見ても合理的とは思えない。
中島らもはワシも好きな作家だが,そのエッセイの中で「人生の晩年に老人ホームで人気者になる」という「幸せ」を提示していた。そう,人間としては合理的な業績評価とは別の物差しがあって,そーゆー幸せを求めることによって豊かな人生を送ることができるのである。
だが,専門家として,教育者として,組織内労働者としての学者という職を選択した以上,人間的な「幸せ」追求だけに偏ってしまっては,不適格の烙印を押されても仕方あるまい。そーゆー幸せは「保険」なのであって,学者としての時間ではなく,余暇に家族や友人と育むものであって,勤務時間中に掛け金を支払うものではない。
業績を偽造しちゃう方々ってのは,学者としての本来業務を軽視し,単なる書類上の項目を増やすことによって,豊かな老後を得るための資金稼ぎに執念を燃やしすぎたんじゃないのか,という気がする。それは人間としての幸せ追求の一種であろうが,明らかに学者としては失格である。
大体,学者なんてのは西部邁が言うように,村はずれの丘の上に一人住む変人なんだから,人間らしい豊かな老後なんて望む方がおかしい。そんなに人生楽しく送りたいんだったらさ,辞めなさいよ学者なんて,と言っておく。大体,そんな変人生活でも送りたいという馬鹿は引きもきらないんだからさ,アンタの代わりはいくらでもいるのである。
ぜえはぁ・・・掃除終了。拭き掃除は著しく汚いところだけをゾリゾリそぎ落とすように拭いて終了。いやぁ,床に這いつくばって濡れ雑巾を前後左右に擦る運動というものは本当に疲れる。昔の日本家屋は部屋から廊下から全てこのような重労働によって維持されていたのだなぁ。昔の女中さんは偉かった。してみれば,西洋のメイドさんなどというのは殆どが立ち仕事で済むのであるから,楽なものである。
ああそうか,ワシがメイド喫茶に並ぶ野郎どもに寒気がするのは,日本の女中さんがないがしろにされていることへの,深層心理における憤りであったのか。それに加えて,重労働に黙って耐えていた女中さんに対する敬意の念が欠けていることに対する,愛国心の表われであったのだ。
ということで女中さん喫茶を希望(違)。