[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-68729-7, \700
お目当ての新刊をgetすべく書店に入ったものの見つからず,さりとて読書欲ははちきれんばかりに膨れ上がっており,このまま手ぶらで帰るわけにはいかなかったのである。本書はそんな時にふと目に入ったもので,もちろん金森の名前は知ってはいたものの著作を読んだことはなく,題名の,それも副題である「チフスのメアリー」に惹かれて買ってしまったのである。夕飯代わりのマクドナルドのフィレオフィッシュセットをパクつきながらほぼ一コマ,90分で一気に読了した後に残ったものは,ひたすら苦く,それ故に脳細胞が活性化される「問題の種」であった。
いや,これを中学生に読ませるのかい,金森先生よ。ワシとしてはその度胸を大いに買うと共に,「いいのかよ,ぉい」という一抹の不安を持たざるを得ないのである。ちょっとでもヒューマンな心を持ち,サイエンスの心得がある者であれば,それ故に,本書が提示している問題の大きさに慄然とせざるを得ないはずなのだ。道徳の教材に使える? そーね,使えるけど,教室が水を打ったようにシーンとしても知らねーぜ,オラ。
チフスのメアリーという言葉をどこで聞いたかは覚えていない。しかし,確かにどこかでチラとその意味と言葉を知って以来,脳の奥底に引っかかっていたのは間違いない。そこには不可視の病原菌への恐怖と,基本的人権を完全に否定された者への憐憫がオマケとして付加されている。
本書はその,18世紀末から19世紀初めにかけて,アメリカ合衆国に実在した「チフスのメアリー」こと,Mary Mallonの生涯を辿り,そこから現代にも未来にも通じる公衆衛生的大問題を突きつけている。
本書では触れられていないが,隔離を伴う法定伝染病として最も著名なのはハンセン病だろう。つい最近,日本政府が過去の隔離政策の行き過ぎを謝罪したことも大きく報道された。この問題に関しては,武田徹の「隔離という病」に詳しい。
感染力の強い(と思われる)伝染病が発生した時の対策として,一般社会から離れた場所に「隔離」する,ということは,まあ字面だけ見ていれば当たり前のことと思える。しかし,それによって生じる問題を考え出すとキリがない。隔離に際して発揮される強制力はどこから来るのか? また,隔離することによって確保される公衆衛生の規模はどの程度のものなのか? 隔離される患者の人権が侵されることによって得られる社会の対価は,本当に釣り合うものなのか?・・・といった難しい,そして結論が出るまでに時間が必要な問題が山ほど噴出してくるのである。普段,我々が「善意」と呼んでいるものが,スライドしてそのまま患者にぶつかり,取り返しのつかない被害をもたらしてしまうのだ。
伝染病は怖い,怖いから公権力に取り締まって欲しいと願う,その後押しを受けて隔離に乗り出した結果,医学的に正確な感染力の把握もなしに患者への差別が社会に蔓延してしまう・・・という構造を非難するのはたやすい。たやすいが,その構造こそが我々の社会を保つ源泉でもある訳で・・・あーもー,考え出すとキリがないっ・・・ということになってしまうのである。
実在したメアリーは,腸チフスの保菌者であることが断定され,ごく一時期を除き,人生の大部分を隔離された島で送ることになってしまった人物である。確かに著者の言う通り,そんなに長期間閉じ込めておく必要があったのかは疑わしく,不幸なレアケースであることは間違いない。しかしそれでも,メアリーが腸チフスを他人に感染させたことは否定できない。そんな人物を我々,いやワシやアンタは受け入れることが出来るのだろうか?
できる,と著者は言い,その実例を,Plavska一家とメアリーとの交流に求めている。家族ぐるみでメアリーを歓待しながらも,メアリーとの食事後は「お皿をごしごし洗ったり,熱湯で煮沸したりした」。しかし,続けて「それほどの懸念を押してでも,メアリーと時間を共に過ごしたいと思ったということの方が大切」(P.113)だ,と。
自分の身を守りつつも,かけがえのない友人との交流を保ち続けるという,この態度が一般常識になることが望ましいのは言うまでもないが,果たしてそれが自分に出来るかどうか。この辺が,道徳教材としては一番難しく,そして核心部であると思われる。
文章は軽快でありながら,読み進むにつれて,ドンドン自分の思考が捩れ,キリキリと音を上げだす。そんな辛くて楽しい読書は久しぶりだった。二重丸。