6/17(火) 掛川・晴

 ん~,シンポジウムから戻ってきたら,また鬱状態になってしまった。社会的地位を皆無にするほど悪性ではないけれど,自分が興味を持つこと以外,他人からの依頼は全て「めんどくせー」状態。つまり,今のワシは大変に無愛想なのです。これは全て鬱がなしているものなので,ア○バで暴れないだけマシだとお考え下さい。つーか,暴れるほどの気力もないんだけどさ。

 山形さんの批判的書評。相変わらず面白い。これだけのものを書かせるんだから,案外名著かも,と思ってしまったりして。柳下さん紹介の本も面白そうだけど・・・鬱なので難しいものは読めそうもないのが残念。なので,ちょっと思ったことだけを書いておこう。孫請け評論だな。

 ポルポトや毛沢東の晩年は極端な左思想の,ヒトラーや日本の国家主義的抑圧体制は極端な右思想の例として取り上げられるし,実際そうなんだろうと思う。だから,そうならないように世の中,極力中庸を目指すべきで,自身の感情の発露として「ときどきラディカル」になるのは致し方ない,というのが小谷野敦の論であるとワシは理解している。これは大部分の人が納得するところだ。
 とはいえ,「ときどきラディカル」部分をきちんと論理的に語ろうとする時,無限遠点に「理想」を設定してその方向にドライブさせるように文章を持っていく,そういう論者が多い。で,その理想,極端な左右思想例に結びつきやすいものが,やっぱり多いんだなぁ。山形さんが怒っているのは左の理想に繋がるってこと。右の理想へ繋がっていると批判されるものは,まあ,沢山ある。小林よしりんへの批判は殆どこれだ。
 しかしワシはその手の,理想方向への危険性を指摘する論に少し飽きちゃっているのである。だって,ロングスパンで歴史を見ていけば,その「理想」ってのはいい方向に働く「機能」があったからこそ理想に設定されるようになったんで,そうそう代替がきくようなモンなのか,と思うのである。行き過ぎた例も出てきちゃった今では「そこそこに抑えておきましょう」という中庸路線が定着しているけど,裏を返せばその理想が持つ「機能」を否定できないから全廃できないでいる,とも言える訳だ。山形さんが中庸論者の理想として設定しようとしているのがNash均衡だが,それだって理想化された条件の元の理論でしかない。自然現象のようにどうやったって避けようのない絶え間なく外部から作用するノイズに対しても均衡をある誤差限界の範囲で維持できる「頑健なシステム」を作ることは,やっぱり歴史的検証が不可欠。思考の土台である人類が死滅するまで思考し,改善し,時には改悪しちゃってもまた復元する,この絶え間ないプロセスを続けるほかないのである。
 このプロセスに対して,極端な左右思想に繋がる理想ってのが持つ機能はそうそう否定できるものではなかろう。もちろんこういうものを対処療法的にぶったたく中庸論者がいるという前提があってこその「機能」ではあるが,うーん・・・ちょっとぶったたき方がワンパターンか過ぎないかしらん? もうちっと芸が欲しい,というのが,無責任な観客としてのワシの意見である。教師は芸人であるべきってのは森毅の思想だけど,文筆で飯を食っている評論家はまさに芸人そのものなんだから,語り口に新味を込めることを,できないまでも心がけて頂きたいモンである。

 飯食って行ってきまーす。