[ Amazon ] ISBN 978-4-8211-8683-9, \838
今の雷門獅篭(かみなりもんしかご)が,その昔,立川談志の前座・立川志加吾であったころ,一度だけその落語を聞いたことがある。浅草の雷5656会館の立川流一門会の,確か開口一番だったと思う。しかしその内容は皆目覚えていない。噺家らしからぬ長身のイケメンにーちゃんが出てきたなー,という印象を持った以外,その内容に感銘したとか大いに笑ったということは全くなかった。とどのつまり,まるっきり面白くなかったのだ。まあ前座の落語に面白いモノがあった試しがないのが普通なので当然と言えば当然だが,落語界の東大と呼ばれるぐらい,厳しい昇進のルールが定められた立川流の噺家ならば,前座でもそれなりに面白いかなーと期待していただけに,肩すかしを食ったというのが正直な感想であった。
故に,談志直系の前座を全員破門にしたという報道を聞いた時は,まあ当然だな,と思ったものだ。いくら昇進が厳しいとは言え,何年も二つ目になれないようなモノどもを,齢を重ねた談志が見切りを付けるのも無理はない。後に談志の高弟・談春の本を読んだら,全く同じ感想を語っていたから,世間の反応もそんなモンだったと思って頂いて間違いない。
ただ,獅篭が他のダメ前座どもと違っていたのは,四コマ漫画を講談社の青年漫画週刊誌・モーニングに連載していたこと,そして自分のWebページを持ち,ちまちまとメンテナンスを重ねていたことである。落語は面白くないが(シツコイ?),自分のパブリシティは怠りなかったのだ。それを継続せしめる「生きるエネルギー」だけは人よりぬきんでて燃えさかっており,エネルギーが余りすぎてオナホールを愛用しなければならない程なのである。
そのエネルギーを抱えた破門後のCHICAGOは,郷里・浜松からほど近い大都会・名古屋で噺家として生きていく決意をし,名古屋在住ただ一人のプロの噺家・雷門小福に入門を頼み込む。全くの偶然だが,東京で漫画もやっている噺家がいると聞くがそいつなら何とかなるかも,と小福が言ったこと(P.22)が決め手になり,その「漫画もやっている噺家」CHICAGOは新たに「雷門獅篭」として再生,潰れかけと言われて久しい大須演芸場を拠点に今日もしぶとく噺家として生きているのである。
モーニング連載時から今に至るまで,ハッキリ言って獅篭の漫画は絵が下手である。つーか,大してうまくなろうと思っていないことが見て取れる。「四コマはネタの切れ味とドライブ感が全て! 絵がうまくなっちゃったら元も子もない!」と割り切っているのかいないのか判然としないのだけれど,そう開き直っているとしか思えない進化のなさぶりなのである。しかしそれは絵についてのみ。獅篭の漫画には他の停滞した四コママンガ家にはない「魅力」があり,それは本書の前半の,特に絵が下手だった頃の作品に満ちているのだ。
実話をベースにたエッセイ漫画なので,ギャグはベタなモノが多いが,何と言えばいいのか・・・そう,ワシにとっては「共感できるもの」なのである。多分それはワシが普段から「生きるエネルギー」に渇望していて,それを発散している人物を好ましく感じるせいだろう。エリート街道まっしぐらの人生より,失敗だらけで七転八倒している様に感動するのがワシなのだ。故に,獅篭の漫画に対しては好悪の感想が相半ばするかもしれない。ぶんか社ということを差し引いても下世話なネタが多いから,上品な女性の方々にはお勧めしない方がよろしかろう。
ちょっと心配なのは,次第に獅篭の絵が整理されて見やすくなっているところ。特に最後のSCENE 17, 18辺りでは最初の頃の猥雑さがきれいに消えており,何としても笑って頂こうというサービスの度合いも低下しているように思えるところである。その分,本業の落語が面白くなっているといいのだが,ワシはまだ獅篭になってからの落語を聞いたことがないので何とも言えない。しかしblogを通じて知るところでは,結構あっちこっちの落語会に呼ばれたりしているようだから,それなりに腕は上がっていると信じたい。そのうち地元・浜松でもエンボスの社長のお眼鏡にかなって独演会が開催されるやもしれず,そうなれば本物になったと判断できるだろう。そこまで行けば,ワシとしては漫画がつまらなくなっても,十分に許すことができる。本書の印税がチェリーボムの支払いに回るだけでなく,多少なりとも芸の肥やしになることを念願してオナホールのゴムじゃなくこの記事を締めることにする。
[2009-09-28追記] 浜松にて獅篭の会が行われたので聞きに行った。なるほど,さすがしぶとく名古屋で噺家を精力的に続けているだけあって,段違いに腕を上げていた。ブレークするのも近い若手噺家期待の星であることを確信した。