P.G.Steinhoff, 木村由美子・訳「死へのイデオロギー 日本赤軍派」岩波現代文庫

[ Amazon ] ISBN 4-00-603084-3, \1100

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 つい最近まで気がつかなかったのだが,産経新聞で「さらば革命世代」という連載がなされている。現代から1970年代の大学紛争を当事者の証言を得ながら振り返るという記事だが,まあこれだけ否定的な内容も珍しい。結果として,その時代に騒ぎまくった「全共闘世代は理屈をこね回していただけで、上の世代の敷いたレールを忠実に歩いてきたに過ぎなかった。政治も経済も行き詰まる中で、新たな日本型システムを提示することもできなかった」(第1部(10)「過去を振り返れない人たち」より),というのが連載全体のトーンである。産経新聞という媒体の性格を差し引いても,当たっているところが多いとはいえ,なんだか自虐的だなぁという感じがする。若い時分に馬鹿げた行動に出たり青臭い議論にうつつを抜かしたりなんてのは誰でもフツーにあることで,ましてや日本に留まらず,全世界的にリベラルの風が吹いていたのだから,自己卑下はほどほどにしておいたらどうか・・・と,ゼンキョートー世代なんてのは馬鹿老人の掃き溜めみたいなもんだという持論のワシでも弁護したくなるほどである。

 しかしその過剰なまでの自己卑下の背景には,ある種ヒーロー的な役回りを担っていた一握りのグループが行った一連の犯罪行為がある。赤軍派と総称されるそのグループは,ワシみたいな市井の一般人はもとより,学生運動の中心にいた人々までも戦慄させる行動をとった。一つはあさま山荘事件の少し前に終わった「総括」という名の粛清行為,もう一つはパレスチナ解放戦線の活動の一環としてのテルアビブ空港襲撃事件である。本書によれば,同じ仲間が引き起こした「総括」事件によって,パレスチナに飛んだ岡本公三らは無差別テロに参加せざるを得なくなったというから,結果だけ見れば「赤軍派」というグループは一括して救いようのない自滅的テログループということになる。そして大学紛争を支えていた無数の学生たちには,自分らの活動の中から赤軍派を出してしまったという重石がのしかかることになったのだろう。

 ハワイ大学で戦前の日本における共産党員の「転向」を研究していた著者は,テルアビブ空港での事件の後,夫の助言に従ってイスラエルの首相に手紙を書く。純然たる学術目的で,テロ後に生き残っていた犯人グループの一人,岡本公三にインタビューしたい・・・と。その願いはかなえられ,テープレコーダーも許可されない環境において,ロングランのインタビューをイスラエルのラームレ刑務所で行うことになる。それが著者と赤軍派の最初の接点であり,1991年に塩見孝也・高沢皓司らとあさま山荘周辺を訪れるまで,長い付き合いをすることになるのだ。

 本書の特徴は,同じ1970年代リベラルの風を受けていたとはいえ,米国人が執筆した「学術書」であることだ。共産党員の転向がなされた環境,米国人の生活習慣などを例に引きつつ,何故,岡本がイスラエルでマシンガンをぶっ放すに至ったのか,本人や家族へのインタビューを行いつつ,その背景にある社会情勢を述べ,赤軍派が第一世代の幹部逮捕によって第二世代へと移行していく過程を解説し,最後は連合赤軍事件の真相に迫っていく。結果として,あさま山荘からテルアビブ空港は一連の思想的背景があることが明らかとなるのである。そして,赤城山中で行われた「総括」のメカニズムも,しつこいなぁという程のねちっこい記述によって読者の脳に語りかけてくる。読んでいるワシの方が感化されそうなぐらいである。そうはいっても,その記述はあくまでアカデミックなものだ。
 それによると,最初の脱走者の処罰による殺害事件は別として,その後行われた「総括」は,いわゆる粛清とはタイプが違うものらしい。あくまで本人の反省を引き出すための行為にすぎず,それがあまりに過酷だったために,結果として殺人になってしまった・・・と,端的にまとめるとこうなるわけだが,読みながらワシは思いっきり突っ込んでしまった。まあ確かに突っ込みを入れるはずの「外部」が存在しない山の中の出来事とは言え,どうやったら「共産主義」の理念強化活動が,風雪吹きすさぶ山小屋の外に縛り付けた揚句に全員でぶんなぐることになっちゃうのが, さっぱり理解できない。しかも死んだら「敗北死」だぁ? 死ぬのが当然だろうがっ! ・・・と。
 しかし,Steinhoffはこの行為がなされた原因は確かにあり,それは日本的集団合意のあり方に起因するものだとしてこう述べている(P.167)。

 日本社会でよく見られるように,共同参加の意思表明を迫る強大な組織の圧力のもと,この新方針(注:「総括」行為に参加すること)はメンバーをジレンマに追い込んだ。それは,イデオロギーを巧みに操る森(注:森恒夫)の才能によって,いっそう力を得ていった。エスカレートしていく暴力に戸惑いを感じている人間も,弱気な姿勢を少しでも見せることは,自分の非革命性の指標になるのだとすぐに気がついていく。誰もが共産主義化を獲ち取ることを心から希求していたから,自覚した欠点がそれがどのようなものであろうと,克服するように努めようと決意していたのである。したがって,不快に感じる暴力にも駆り立てられるように参加していった。それは自分が次の(注:「総括」の)ターゲットになるのを恐れてであると同時に,不快だと思う気持ちが怯えからきていると自覚したからだった。

 もちろん著者は日本的なるものがなければ「総括」のエスカレーションもなかったと言いたいのではない。あくまで,この暴力行為は日本的なるものと無縁ではない,ということを主張しているだけである。そしてワシらはその時の赤軍派メンバーの心証を,好むと好まざるとに関わらず理解してしまうのである。実際,「そんことしちまったら死んじまうぞ」と,素朴な常識に従って止める回路が働かない状況であったからこそ,よく分からない森恒夫の屁理屈で死人が続出することになったのである。そして,彼らがひれ伏した屁理屈は,あさま山荘にこもった際に人質の管理人夫人を丁重に扱うという行為の合理的な説明にもなっているのである。

 本書は日本的なる文化背景を血肉として持っていない米国人が,同じ米国人に対して誤解の入る余地がないほどねちっこく「赤軍派」の思想と犯罪行為を解説したものである。それ故に,ワシみたいな全然その世代のことを理解していない人間でも分かりやすい内容になっている。しかしそれでも,ワシが1970年代にいたとして,赤軍派に肩入れしたかどうか,となるとかなり疑問である。
 たぶん,ホリエモンやコイズミを支持したようにはいかなかったろう。追い詰められたインテリの行き着く果ては遠く見送り,ポピュリズムを指向する権力者の尻馬に乗る方がマシと考えるのが今のワシだ。金融肥大化の経済の先行きは危ういとはいえ,グローバルスタンダード化が進んだ日本も含むこの世界のルールは所詮,思想なきゲームにすぎない。しかしゲームのコマの一つ一つ,目を示す情報ツールではない実体としてのサイコロですら,ワシにとっては愛おしい。思想がどれほど高邁であったとしても,目前の生きた仲間を抹殺するような行為に走るような集団が信奉するものからはできるだけ離れて生きていきたいというのが,今のワシが愛してやまない「馬鹿さ加減」なのである。