松本清張「史観宰相論」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42605-5, \900

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 政治家の評価ってぇのは難しいモンだなぁとツクヅク思う。いや,個別の政治家が好きだ嫌いだと床屋政談レベルであれこれ言うのは簡単だが,歴史的に長いスパンで,かつ「日本の国益」に寄与しかどうかを判断基準にしてきちんと評価しようとすると,誠実に考えれば考えるほど分らなくなる。小村寿太郎なんてのはポーツマス条約直後にはロシアからの見返りが少ないと当時の国民からボロクソにこき下ろされたが,吉村昭が小説「ポーツマスの旗」でその業績を評価したら180度変わって名外相ともてはやされたり,井伊直弼に至っては二転三転どころではなく,結局今も統計的に確定した評価なんて存在しないのではないか。世の移ろいに従って「国益」の基準が変わってしまったり,評価する側の「常識」が変化してしまったりすると,政治家の評価なんてコロコロ変化するに決まっているのである。
 ましてや,政治家をテーマにしたノンフィクション書き物なんて,書き手の見方が変われば同じ人物を取り上げていても真っ二つの評価になることは普通にある。いや,同じ書き手でも「俺の筆先一つで善悪好悪は何とでも変えてみせるぜ」という筆先三寸な輩であれば,2パターン,いや何パターンの評価の異なった著作を作ることも可能だろう。大下英二ならやりそうだな。
 じゃぁ芯が通っている書き手であれば信用できるかというと,佐野真一のような文学的フレーズ表現に懲りすぎ,しかもその人物の生い立ちに寄りすぎた断定の多いライターだと,事実関係の記述は大いに参考になるが,肝心の評価については「?」をつけざるを得なかったりする。「凡宰伝」読んでいるときには引き込まれたけど,今になってみると,小渕恵三を「幼虫」と形容したのは何の意味があったのか,形而下的なことしか分らないカチカチ頭のワシにはさっぱり分らん。

 ということで,政治家の評価というものは,それなりに客観的・合理的な証拠に基づいた上で,個々人が判断し,それを各個人が積み上げてきた社会的ステータスも勘案して重み付けした上で統計的まとめを行い,そこに現れる「偏り」をもってようやく「まぁこの政治家はこういう評価か」と思うしかないものなのである。
 ・・・という結論を得た上で言うのだが,どーもそれはワシの好みではない。事実関係はきっちり調べて欲しいが,それはそれとして,結局その政治家がどんなことを政治的にやってきたのか「だけ」を取り上げて評価したものが好ましいと,ワシは思っているのである。「ちくま」No.462では佐野が小泉純一郎一家の,親権争いだの姉の別れた亭主の批判などを捕らえてとんでもない宰相だと批判しているが,そんなもの,政治家としての評価と何の関係があるのか,まるで意味不明である。小泉への批判は,国会議員となってつい先日の解散時に引退するまで,特に総理大臣在籍時の政治的振る舞いに力点を置いた政治活動に基づいて「だけ」で行うべきであって,不倫しようが離婚しようが「よっしゃよっしゃ」と言おうが目白に御殿を建てていようが芸者に金をばらまこうが,そんなプライベートなことはどーでもいいのである。ゲス的な調査はゴシップとして面白いからそれはそれで結構であるが,何を行い,結果として何が起こったのか,そこは揺るぎなく捕まえた上で良いだの悪いだのを言って欲しい。それがワシが好む「政治家談議」である。

 本書はそんなワシ好みどんぴしゃりの,大久保利通から鈴木善幸まで扱った「日本の宰相論」である。松本清張は本書の意義をこのように述べている(P.8)。

本文はどこまでも雑談ふうな史的宰相論である。ここにとりあげる人物が宰相の適格者だとはけっして思っていない。あるいは「悪宰相列伝」かもしれない。だが,現実性のない理想像的宰相論を言うよりは,曾ていくたびか変遷した組織の上にたしかに存在し,史的評価も与えられている「宰相」を見る方が,まだしも将来の理想像をさがす手がかりとなろう。

 阿刀田高は「松本清張あらかると」の中で清張の小説にはユーモアが全くないと指摘しているが,本書のような結構気楽に書き綴った(でも事実はきっちり調べた上で,だが)ようなエッセイでも,ほんっっとに読者をクスリとさせようと塵ほどもしていない。現実の宰相に理想なんて述べ立てたところでしゃーねーだろ,と一種の諦観というか達観というか,そーゆー冷めた視点のみが屹立しているという印象がある。結果として,日本の宰相の原型は内務卿・大久保利通がもたらし,そのくびきから現在に至るも逃れてられていないと断じることができたのであろう。

 本書では清張の興味を引かなかった首相はいとも簡単にすっ飛ばされている。東条英機なんて全く面白いと思っていなかったようで,近衛文麿が始めた「日本の破滅」(P.220)を行ったとして一言でまとめられているだけ。戦前の首相では,大久保・伊藤以降は政党嫌いだった山県有朋がいわゆる「統帥権」と,軍が天皇への直接意見具申が出来る制度「帷幄奏上」を創設したところから,近衛文麿が陸軍の「使用人」として終わるところまでを扱い,戦後はワンマン宰相・吉田茂を集中して述べ,それ以降の首相はさらっとした一口論評程度で終わっている。本書執筆当時の政治家が小物だということではなく,歴史資料の堆積のない最近の首相は書く意味がないと言っているようでもある。この辺は分厚い歴史資料好きな清張の面目躍如という感がある。

 きちんと取り扱っている宰相についての論評はほぼ的確,というか,資料の裏付けのある歴史的評価の定まった人物については,「ふーん,なるほど」と納得させてくれる記述をしている。ほめあげることは殆どなく,政治家として実行したこと・しようとして出来なかったことに対して少し辛口な論評を短くそっけなく行っている。ほとんど異論はないが,客観的すぎて作家と言うよりは学者の仕事という感じ。早大を出た石橋湛山に関する記述の中に,中年になって作家デビューするまで苦労した清張の「やっかみ」が見える記述(P.394)を見つけてホッとしたぐらいだ。高学歴の多い編集者に質問を浴びせてその無知ぶりを笑っていたという清張らしいが,ワシはこの子供じみた振る舞いに魅力を覚えるタチなので,もっと自分のことに絡めて語ってもよかったのではないかと思うのである。

 本書には,今度首相になる鳩山由紀夫の祖父・一郎についての記述も,現首相である麻生太郎の祖父・吉田茂の記述もそれなりの分量が割かれている。そしてその二人が登場するまでの歴史的経緯も明治以来厚く書かれている。戦後政治がどのような「源流」を持っていたかを知るには格好の一冊であると共に,今の政治も決してその源流とは無縁ではないどころか,太いワイヤーで繋がっているということを再確認する上でも役に立つ書である。ワシは政権交代が起った今こそ,本書が刊行された意味が出てきたと思っているのである。