南Q太「ぼくの家族」YOUコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-782261-8, \838

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 本書読了後,ふ~,「レディース」もついに大変化の時を迎えているのか・・・と,感嘆せずにはいられない。欲を言えば,優れた中間小説並の「大人の物語」まであと一歩・・・と思わなくもないのだが,しかし,岡崎京子らが巻き起こした少女漫画から女性漫画への,ストーリーと絵柄の革命は,とうとう中高年女性も巻き込んでレディースまで変えようとしている・・・そんな大潮流が巻起こっていることを南Q太は本書で示したのだ。

 世の「妙齢」な女性であれば,未だに結婚生活における家事の担い手のデフォルトは妻であり,夫ではない,という「常識」にカチンと来た経験はあるはずだ。ワシが知る限り,よしながふみ「愛すべき娘たち」でも,かなり協力的な夫ですら食事は妻としか作らないし,掃除は汚れに根負けした妻がやれやれとため息をつきながらやらざるをえないものという場面が描かれるし,勝間和代&西原理恵子の対談でも,家事を「手伝う」と発言した毎日新聞男性記者に,手伝うとは何事だ,てめぇの仕事なんだゴラァ,当事者意識がねぇぞぉ~・・・と二人して説教しまくっていた。世の男性の意識は昔に比べれば大分変わったというのは確かだが,それでもまだ「良妻賢母」幻想は根深くワシら日本人の,主として高齢者と男どもに食い込んでいるのである。かくいうワシだって,妻がいれば家事は「やってもらいたい」という願望が拭えないのだ。それゆえに,家事負担の平等を恐れて未だにひとりもの生活を続けている・・・というのは単なる言い訳だ。すまん。

 本書では,ともにバツイチ・子供(娘)一人のイラストレーターの女性と会社員の男性が再婚したあとの,困難であることは火を見ることが明らかなステップファミリー生活が描かれているのだが,主として妻となる側の忍耐が前半の主要テーマとなっている。第一話から「つらくない結婚などないのだ」(P.31)・・・だからなぁ。いや,全く,(結婚してないけど)男性として,申し訳ないな~・・・と感じ入ってしまう。またこのモノローグの被った,まるで小学生のように膝抱えて泣いている女性の絵がいいんだなぁ。いや,ワシも四十路になってわかったんだけど,精神構造って全然進歩してないのね。メンドクサイとか疲れたとか世間体とかが邪魔して感情表現が表に出づらくなっているだけで,喜怒哀楽の発火点はそんなに変わってないのである。昔より成熟年齢が上がっているという話はあるけど,それを差し引いても,辛いもんは辛いよね~。特に「妻」はさ。
 ま,「夫」もそれなりに辛さは抱えて毎年3万人超の自殺者の過半を占めてしまったりするけど,死ねば終わりってのも一種の責任放棄っぽく感じられて,あまり同情できないところもある。辛さに耐える,のではなく,辛さを受け入れてアウフヘーベンするってのは,業田良家「自虐の詩」のテーマだけど,結局,宗教家が古来語ってきたことをワシら俗人も寿命が尽きるまで追求しなきゃいかんのだろう。

 本作の最後は正直,ハッピーエンドにしようとしすぎてご都合主義的なものが感じられて,う~ん,どうかなぁと思うところもある。それでも,本作の半ばの「羊と筏」の疾風怒涛な展開を経て,次第に他人同士だった家族が「融合」していく様は,南の実体験から来ている部分も多いのだろうが,説得力を持ってワシを和ませてくれた。怒りも悲しみも笑いも涙も全部取り込んでコミュニケーションを図り,多少いびつでも社会を形成する一つの結晶として関係性を固定化していくのが家族というものの基本的な姿なのだろう。これで最後にもう一歩,単なるハッピーエンドではないビターテイストがいい具合に入ってくると,田辺聖子とか佐藤愛子の中間小説のような,類型的でない上質なエンターテイメントになる・・・と,思うのだけれど,さてどうでしょう?

 そういえば,レディースって,昔から家族がテーマだったよなぁ,と今更ながら思い出した。その意味では金子節子とか風間宏子あたりから,夢路行やこの南Q太まで,本作も含めて「レディース」の王道は踏まえているわけだ。「嫁姑」関係が蒸発してしまった家族の形態や,「ヘタウマ」的な絵のセンスといった,表現形式はずいぶん変化しつつあるが,本作は間違いなく「レディース」の王道を踏まえている。この先も,新規参入者が増えるにつれてレディースといえども間断なく変化していくのだろうが,多分,「家族」という軸がブレることはないんだろうなぁ。