上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111733-1, \552
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111734-8, \590
今回,職場内の印刷物に本の紹介をする短いコラム(400字程度)を書けと言われたので,本書を取り上げることにした。職員全員に配られるものなので,立場・専門・興味は各人バラバラ。あんまし「ガロアの群論」みたいな理系色全開な本でもマズいし,かといってワシの趣味全開なマンガ「ネム×ダン」でもちょっとなぁ,というところがあるので,少し固めの時代小説が無難なのではないか・・・ということで吉村昭の出番となったのである。映画化が決まって,水戸市の湖畔にオープンセットが組まれていたことは,2010年3月の水戸コミケの際に見聞してきたので,その予習にと原作である本書をほぼ一気読みしたのである。
日本の歴史を習う際には,明治維新の直接の切っ掛けとなった「桜田門外の変」,即ち大老・井伊直弼襲撃暗殺事件,を必ず扱うが,短くまとめすぎると,事件の全貌がよく分からない。事件の基本構造が忠臣蔵と類似している点もあるので,「吉良上野介が悪い」→「井伊直弼が安政の大獄を引き起こしたから悪い」と単純化されすぎて伝わっているきらいがある。ワシも中学校でこの事件を教えられた際には,「暗殺されるほど強烈な弾圧をしたのだな」としか感じなかった。
しかし,政治的な事件というものは概ね,事件が起こるまでの背景と経緯というものがあり,原因を追求していくと様々な人物・事象が積み重なっていることが分かり,「鶏が先か卵が先か」という堂々巡りに陥ってしまうことがよくあるのだ。今のアフガニスタンやイラクに米軍が駐留している理由をきちんと説明しようとしたら,ソ連のアフガン侵攻から説き起こすことになってややこしいことこの上なく,更に言えば,なぜソ連が侵攻したかといえば米ソ冷戦の話をせねばならず,最終的にはイスラム教とキリスト教の起源まで遡ってしまうのである・・・ってのは行き過ぎだが,歴史的経緯というものはかくも複雑でメンド臭いシロモノなのである。
「桜田門外の変」もその例外ではない。確かに井伊直弼という人物の個性がなければ,「大獄」と呼ばれるほどの苛烈な水戸藩や攘夷派志士への弾圧は行われなかったかもしれない。しかし,第14代将軍世継問題が慶福派と一橋派に分裂してあれほど紛糾しなければ,そもそも,井伊直弼が大老に就くこともなく,ことは穏やかに済んだかもしれない。しかし,ペリーが来航して鎖国の扉をこじ開け,ハリスが強硬に通商条約締結を主張して成し遂げるという対外圧力がなければ,開国(やむなし)派と鎖国(維持すべし)派の対立が起こることもなく,そもそも世継ぎ問題も勃発することなく済んだかもしれない。しかしそもそも水戸光圀が御三家の一つのくせに尊王精神を主張していなければ・・・とまぁ,キリがないのである。
吉村昭の長編小説は緻密な取材に基づいた事実の積み重ねを土台とし,透明な文体で淡々と「描写」するところに特徴がある。本書「桜田門外ノ変」も,事件全体としてはせいぜい数時間,襲撃そのものは井伊直弼の首が有村次左衛門によって高々と掲げられるまで,ごく短時間で終了している。しかし,水戸藩士を中心としたグループが事件を起こすまでに至る経緯を,上巻全部を費やして「描写」しているのだ。水戸藩における改革派と門閥派の対立,そもそも水戸で攘夷思想が培われた地理的要因,襲撃計画をすすめるグループの諸国漫遊(「坂本龍馬」の名前もちらと登場)・・・を,襲撃グループの中心人物・関鉄之介を中軸に据えて書き連ねている。これは,重い。井伊直弼らの開国&慶福派が,尊皇攘夷を現在の過激右翼以上に強硬に主張する水戸老公・斉昭を毛嫌いするに至る経緯もきっちり「描写」しているから,読者は単純な肩入れができなくなる。幕末の動乱期に頻発する暗殺の連鎖がここから始まったということを考えると,下巻で描かれる襲撃後の関鉄之介の逃避行を助けた人々と世間という「土壌」こそが,一面非難されるべき所業でもそれが成立するためには必要な条件であったことを確認させてくれるのである。小林よしのり命名の「純粋まっすぐクン」的思考だけでは,歴史の重大事件という「点」の近傍に寄り添うことしかできず,点に至る「線」と,線を載せた「平面」に思いを馳せることはできないのである。
吉村昭は,薩長同盟締結における坂本龍馬の役割についても,完全否定していて,次のように発言している。
「薩長同盟というと,坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが,坂本龍馬は土佐藩の藩士ではなく,郷士です。坂本龍馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれども,そのようなことは史実にないのです。
一人の人間が薩摩と長州,今のアメリカとソ連のようなものですが,それを中に入って話をつけるなどありえない。一番最大のものは武器なのです。武器で合致してしまった。
それでこの薩摩・長州が新鋭銃,新鋭の大砲,これを(注:イギリスから)輸入して,そして幕府と対抗する。鳥羽伏見の戦いで,幕府軍は1万5千人,薩長の方は4,5千なのですね。それで圧勝してしまったのです。なぜかというと武器なのです。武器の勝利なのです。」(「ひとり旅」文春文庫,P.200)
・・・とまぁ,あくまでもプラグマティックな考えを貫いているのである。司馬史観に色濃いロマン主義・個人主義的なものとは対極にある透徹した現実主義,これを描く文体は,乱反射することのない無色透明なものである必要があったのだ。
さて,こういう原作からどんな映画ができるのか? 以前,NHKでドラマ化された「ポーツマスの旗」は随分リアルで地味なものであったが,逆にそれが小村寿太郎再評価の後押しに繋がったように思える。映画を見た観客が徳川斉昭,井伊直弼の評価をどのように下すのか,アンケートを取って,原作ファンとの比較対照をしてみたいないなぁと思うのである。
・・・で,これをどうやって400字に押し込んだものやら,ワシは更にめんどくさい作業を背負い込むことになったのであった。