西村博之「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 巨大掲示板管理人のインターネット裏入門」扶桑新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-594-05388-8, \740

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 まずは前言を撤回せねばなるまい。ワシは以前,本書の初めの部分[1.0], [2.0]の一部だけを読んで,「居酒屋で管を巻くオヤジの社会時評」という感想を書いてしまった。
 しかし,ワシは間違っていた。確かに今でもその部分についての感想は変わりないし,全体を通読した今でも「オヤジの社会時評」の部分が多いな,と思う。思うが,本書の面白さはそこではなく,”ひろゆき”(西村博之のハンドルネーム)の語り口,そのものにあるのだ。

 本書はひろゆきへのインタビューを編集者が聞き取ってまとめるという「バカの壁」方式で執筆(?)された新書である。佐々木俊尚小飼弾との対談も2章分挿入されており,特に,インターネットをフラットな社会の実現と見る梅田望夫的理想論を語る佐々木との対談において,ひろゆきの「身も蓋もない」(佐々木談 P.133)思考態度が鮮明となる。
 そう,本書の楽しみどころはこの「身も蓋もない」「どこに行ってもだいたい悲観的」(ひろゆき談 P.119)な,ひろゆきの語り口にある。
 前にも引用したが,竹熊健太郎さんは,ひろゆきとコミケ主催者の故・米澤嘉博に共通する性格を「柳に風」と語っていた。しかし,米澤代表の生き方は,コミケカタログ巻頭言に毎回繰り返し書いていたように,世間とのマッチングをはかりつつも,絶対にコミケという場を残すのだ,という明確な強い意志に貫かれていた。
 しかしひろゆきは違う。彼の態度は諦観に満ちており,なんだか悲観的を通り越して,投げやりになっているとも思えてしまう。以下,そのような態度が分かる部分を二つ上げておこう。

1.本書のタイトルへの回答として,2ちゃんねるが潰れない理由を「僕や2ちゃんねるが,まだまだコントロールできる存在だから」(P.13)と述べ,自分がいなくなっても,2ちゃんねるがなくなったとしても,世界のどこかに別の2ちゃんねる的なサイトが立ち上がってくるだろうと予言
している。

2.全国で起こされている民事裁判をすっぽかしている理由を,「最初は裁判にも行っていたのですが,あるとき寝過ごしてしまってから,何も変わらないってことに気づいてしまいました。」「そもそも僕のことを社会的責任のある人間だと,みなしている人は少ないのです・・・」(P.176)と述べている。真偽の程は不明だが,ワシはここを読んで不覚にも爆笑してしまった。

 何かこの態度,デジャブだなあ,どっかで見たことあるなぁと思っていたら,ああ,秋月りすだ,あの相対主義的態度で苦い笑いを取る芸風が同じなんだと気がついた。自分に降り掛かる身も蓋もない現実を笑いに転化する,というのは,阿刀田高によればフロイトの言うブラックユーモアの定義に当てはまるものらしい。
 してみれば,ひろゆきのこの語り口は,グローバル世界に放り込まれて停滞著しい日本社会に対する,痛烈なブラックユーモアになっていると言えるのではないだろうか。

 とはいえ,本書におけるひろゆきの語りをストレートな心情の吐露とも思えないのだ。「寝過ごした」云々のところもそうだし,現在絶賛著作権侵害中のニコニコ動画についても「著作権侵害コンテンツを扱うのは難しい」(P.65)と述べている。YouTubeもニコニコ動画も,著作権者などから申し立てがあれば動画の削除に応じているのは確かだが,ユーザからアップされる動画の著作権を逐一チェックするシステムになっていない以上,やはり著作権侵害コンテンツの恩恵を期待しているとしか思えない節がある。そうなると,前述した「本書の楽しみどころ」は,古狸と称せされる老練な政治家のおとぼけ口調なんじゃないのか,と思えてくる。どうも,ひろゆきが単純な「柳に風」のなげやり人間と言ってしまうと,認識を誤ってしまうんじゃないのかなぁ・・・。

 うーん,だんだん何を言っているのか分からなくなって来た。考えれば考えるだけ,「ひろゆき」の正体が掴めなくなってきたぞ・・・。今までワシが気がついた要素を並べてみると

 ・中年オヤジの常識論
 ・ブラックユーモア的言動
 ・古狸のおとぼけ口調

となるのか。多分,どれも正しく,どれかが間違っているとも言えないということなんだろうな。してみれば,本書はこーゆー要素をない交ぜにしたひろゆきの語り口を楽しむ本,という点だけが唯一正しい回答なんだろう,きっと。