漫画家デビュー物語:吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記」角川書店,小林まこと「青春少年マガジン1978~1983」講談社,久世番子「わたしの血はインクでできているのよ」講談社

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吾妻ひでお 「地を這う魚」 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-854144-2, \980
小林まこと 「青春少年マガジン] [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375618-0, \933
久世番子 「私の血はインクでできているのよ」 [ Amazon ] ISBN 978-4-06-337661-6, \667

 青春は光り輝く時代,なんて嘘っぱちを流しやがったのはどこのどいつだ。少なくともワシが見聞した限り,高校から大学を経て社会人になり数年過ごすあたりまでの時代をもう一度繰り返したいと願う人間は皆無であった。曰く,「体力・気力はあったけど思い返すだに恥ずかしいことばかり」「思い通りにならないことばかりで嫌気がさした」「四畳半の下宿で引きこもり生活になってしまって十二指腸潰瘍を発症して病院に担ぎ込まれた」・・・などなど,まーロクでもない思い出したくもないことばかり。知識経験不足のバカで貧乏だったにも関わらず,鼻息だけは荒いクソガキだったワシなぞは,あの当時のことを思い出すと身悶えしたくなるほどである。少なくとも人並みの世間体ってものを身に付けるまでの,そーだなー,三十路前半までの人生はなかったことにしておきたいと思っているのである。
 だがしかし,だ。今の自分があるのは,穴掘って埋めてコンクリ詰めにした数多のみっともない経験が土台となっているからであって,今更隠したところでしゃーないではないか,とも理性では思うのである。自分にどんな才能があり,どんだけの力量が発揮できるかは,それが試されるような出来事がなければ一生分からないまま。BSマンガ夜話で夢枕獏が「才能ってのは汲んでみなければ分からない。もう滅茶苦茶な状況になって汲み出し続けて『これまでかぁ』と精も根も尽き果ててようやく分かる」と言っていたが,よほど幸運な人間でない限り,一定の地位を社会に築くまでは「めちゃくちゃな状況になって汲み出し続ける」作業を若い時分に経験するものなのであろう。それ故に,そんなきつい経験は二度とゴメンだ,と思うのが普通の人間の青春の有様なのだ。

 ここで取り上げる3冊のマンガのうち,「地を這う魚」と「私の血はインクでできているのよ」(長ぇよ)は吾妻ひでおと久世番子がデビューするまでの「みっともなさ」の軌跡を描き,「青春少年マガジン」はデビュー後の過酷な週刊誌連載を闘ってきた小林まことが,早世した同期漫画家・小野新二と大和田夏希らとのさまざまな思い出を切々と描いている。3冊に共通しているのは,デビュー前後の時代は誰しも精神的・肉体的にきっつい思いをするものだ,ということを隠さずに語っていることだ。この度めでたく(?)四十路の仲間入りをしたワシは,漫画としての面白さと共に,彼らの誠実さに感銘を受けたのである。以下,それぞれのマンガ作品について,面白さと感銘のポイントを語っていこう。

○吾妻ひでお「地を這う魚 ひでおの青春日記
 失踪直前に描いていた「夜の魚」シリーズは,広くて暗い昭和40年代を彷彿とさせる街中を主人公・吾妻ひでおとその仲間たちが徘徊する,独特の雰囲気を持った作品だった。大塚英志・責任編集のComic新現実の著者インタビューを読んで,それが実際に吾妻ひでおが北海道の仲間たちと上京してデビューに至るまでの出来事をファンタジー風味にした作品と知った。そのインタビュー中に大塚が吾妻に直接依頼をして始まった新たな「魚シリーズ」が,Comic新現実→新現実→コミックチャージ(休刊が決定)と場所を移しつつ,この度ようやく一冊にまとまった。それがこの「地を這う魚」である。
 吾妻ひでおは,「うつうつひでお日記」(P.183)でこの新シリーズ作品を次のように評している。

 今回の「地を這う魚」は
 以前描いた「魚シリーズ」
 のような狂気や迫力
 恐怖感を出せませんでした
 今の自分には
 あの続きを描くのは
 無理のようです

 吾妻自身は,何故あのような「キ○チガイ漫画を描けたのか分からない」としているが,やはり失踪直前の精神状態と,恐ろしいほどの画力と色気のブローアップ時期にあったことの両方が作用して,あのような傑作が描けたとワシは推察している。こんなことを言うとまた吾妻が傷つくかもしれないので言いづらいが,ええい言ってしまおう。ワシは今でも失踪直前,1980年代後半の吾妻ひでおの絵・作品が最高だと思っているのである。
 その時代を知っているワシから本作を見る限り,少なくとも最初の,Comic新現実に描いていたいた自分の作品は,若干の狂気の香りは感じられるものの,まだ本調子ではないな,と感じてしまうのである。作品のコンセプトも変わっており,キャラクターは同じであるが,オムニバス的にファンタジーとして描かれていた旧「魚シリーズ」とは異なり,時系列的に,秋田書店でデビューが決まるまでの出来事が並べられている。まさに大塚が名づけたキャッチフレーズ「吾妻ひでおの青春」が描かれているのだ。

 本調子ではない,と思っていたワシであるが,今回こうしてまとまったものを読むと,どんどん「リハビリ」が進み,荒っぽかった線が精緻になり,文字通り「地を這う魚」の数は画面いっぱいを埋め尽くすほどに増殖していることが分かり,吾妻ひでおのクリエーターとしてのプライドの凄みを思い知ることになった。
 コマの隅から隅までうぞうぞしている魚以外の生物も多様だ。タコ,イカ,イモリ,ヤモリ(区別がつかんが),昆虫やロボットまでが,社会の構成員としてみっしりと詰まっている。仲間以外の他人は,その存在以外は無意味であるから,何も人間の形をしている必要がない,ということを本作を読んで深く納得した。日々の食いブチにすら事欠く毎日を,仲間と戯れつつ描く本作は,旧シリーズとは別物ではあるけれど,普通に暗い東京における青春を描いた良作であることは間違いない。

○小林まこと「青春少年マガジン 1978~1983
 目は口ほどにものを言う,という格言は,この小林まことの漫画には当てはまらない。逆だ。小林作品ほど,口が目以上に生き生きと表情を作り出しているマンガは,今の日本には見当たらない。への字に曲がった口,たばこの煙を吐き出す河童のような口,キュビズム作品の如くパースが狂った半開きの口,固い意志を表わす左下から右上に伸びる直線上に固く結ばれた口,「びぎえぇえええええん」と咆哮する鉄アレイ口・・・まー,小林作品のキャラクターの口はホントに見ていて飽きない。つーか,口が刻むリズムで読まされているように思えるんだが・・・錯覚だろうか?
 小林作品に共通する大衆的ユーモラスさに乗って読み進んでいくと,少年マガジンの賞を獲り,同時期にデビューした小野新二や大和田夏希と「新人3バカトリオ」を結成する所までは,過酷な連載をこなす様も面白く眺めていられる。しかし・・・,あまり書いちゃうとネタばれになるので詳細は省略するが,メジャー週刊誌の連載ほど人気と自己評価の狭間で苦しむ世界はないな,ということをジワジワと読者に伝えてくるあたりから・・・となってくるのである。ま,その辺を知りたければ本作を買って読んで下され。
 最終的には小野も大和田も1990年代中盤に逝去してしまうのであるが,これらの死を単純に「過酷な人気商売の故」としてしまうのは,ちょっと違うような気がする。大なり小なり他人との比較による評価を受けるのは現代社会では当たり前のことで,漫画ビジネスの世界ではそれが極端に変動する収入や人気として跳ね返ってくるというだけのことだ。それを自分が受け入れて飼い慣らしていくことができれば,ホントにそれ「だけ」のことなのである。他人による自分という人間の評価に対してどのように精神の安定を保つか,あるいはそれをバネにしてモチベーションを高めるか。現代人であれば,引退するまで悩み続けなければならない宿命なのである。
 小林まことが生き残ってきたのは,締め切りをぶっ飛ばしたり,授賞式を大遅刻したりする,確信犯的ズボラさがあったればこそだろう。本書を読む限り,とことん真面目な他の二人は悩みをストレートに抱え込んでしまったり,酒で発散させてしまっているために,早く天に召喚されてしまったと感じられる。もちろん,小林まことの作品が広く支持されているからこそズボラが可能であるとも言えるが,ワシは逆だと思っているのである。
 何故なら,川崎のぼるを源流としてその延長上に表情を獲得した小林まことキャラの口は,明確な意思の現れであるからだ。呆けたり歯を食いしばったりナナメ一文字に結んだりするためには,描きながら作者自身が同じことをしなければならないのだ。つまりは作者の意思があってこそのものなのである。ズボラ決め込むことができるのも,まずは「どーでもいーや」と投げ出す意思があってのことなのだ。
 まさに,小林まことの漫画家人生は,「口」の作る表情がすべてを物語っているのである。

○久世番子「私の血はインクでできているのよ
 シリアスな匂いのする2作に比べ,本作はあの暴れん坊本屋さんこと久世番子が軽やかな語り口のエッセイ漫画に仕立てたものであるから,気楽に笑って読める・・・のは一般人の証。一度,漫画家に憧れてめったやたらに漫画を書きまくった経験のあるオタクであれば,本書が暴露する,久世番子の画風が確立されるまでの恥さらし的な絵の変遷を笑うことはできないはずだ。「ああ私もそうだったなぁ・・・」とため息交じりにしみじみと昔を思い出すであろう。
 そう,本書は久世番子の「まんが道」なのである。いやー,昔はこんなのを描いていたよな~というようなこっぱずかしい絵を次々に見せていくのである。もちろんそんなものを晒す作者自身が一番恥ずかしい思いをしているのであるが,それをうまくユーモアに昇華しているところが久世番子エッセイ漫画のテンションの高さ維持に貢献しているのである。
 ・・・とまぁ,デビュー直前までのところまでは,お気楽ないつもの久世漫画なのであるが,新書館デビュー時のエピソードは,漫画家志望の方なら一読しておく必要があろう。ネタばれにならない程度にそのエッセンスを言っちゃうと

新人賞獲得はプロデビューを意味しない

とうことになる。重要なのは,編集部とコンタクトを取ることなのだ。
 個人的には,久世番子はストーリー物よりエッセイ物の方が,現時点では断然面白いと思っている。エッセイ物が最後どこに着地するのか分からないというハラハラドキドキ感を持たせてくれるのに対し,ストーリー物だと,うまくまとめ過ぎているように思えるのだ。たぶん,久世はインテリジェンスあふれる人なので,エッセイ漫画のように「はっちゃける場」がないとかしこまってしまう傾向があるのだろう。悪い意味で,ストーリー物の場合は少女マンガの典型的ストーリーを追いかけてしまい,独自性が発揮されづらいきらいがあるように思える。デビュー時にもたついたのも,そのあたりのパンチ力の無さが原因かも知れない。

・・・以上,漫画家がデビューするまで,あるいはデビュー後にどんな目に合うのかを端的に知ることのできる3作品,資料的価値もあるし,漫画好きならどれか一冊ぐらいは目を通しておきたいものである。そして,ドタバタしまくった昔をシミジミを思い返すまで時が過ぎた時に,「ああワシもそうだったなぁ」と共感しながら読むのがよろしかろう・・・と,四十路を迎えたワシはシミジミしながらそう思っているのである。