つい最近,当学教授の最終講義(ワシは聞きに行けなかった)の要録を読んでいたら,地動説に関してガリレオはコペルニクスについて全く言及していない,というお話で締めくくっていた。ふーん,今も昔も人間同士のプライドと功名心のぶつかり合いってのは変わらないんだな,とシミジミ思う。と同時に,参考文献の明示,つまりは先行研究・事例へのリスペクトを表わす,ということに関してはいろんな人が大なり小なり,意図的あるいは過失によって悶着を起こしてきて,今もそれは絶えていないということを考えると,ある程度のコンフリクトを抱えているからこその「文化」なのかなぁという気がしてくる。
ワシの漠然とした「著作物」のイメージはこんな感じである。まず土台には,多数の人間同士のコミュニケーションという「空気」と,そこでやりとりされる情報という「水蒸気」が不可欠である。その中の特定の個人や団体の熱気が空気の流れを作って水蒸気を集め,「雲」,即ち一つの文章・一冊の本として集約される,と。情報を語る言語は所詮「借り物」(by 糸井重里)であるが,情報そのものだって,元はといえばどっかからの借り物からしか派生しないものである。集めた情報の編み方とか,それを土台として自分なりの積み上げたものに対しては「著作物」として保護しなきゃいけない,という考え方は現代では常識となっているけど,茫漠とした「雲」の周辺にくっきりとした境界線があるはずもない。著作物ををどこまで保護すべきなのか,唾棄すべきなのかということは,文化のジャンルによって恐ろしいほどの幅があり,歴史的な経緯やビジネスとしての価値,果てはナショナリズムまで絡んできて,「こっからここまでを著作物として認める」という明確なラインは引けそうにもない。もし引けるとすれば,権利者同士のぶつかり合いの均衡点を取るしかなく,それとても時代の変化によって変動することは避けられない。大体,本気でぶつかり合うならまだマシで,大方はぶつぶつ言いながらも裁判沙汰にはせず,当事者がそれぞれ勝手な言い分を表明しておしまい,ということになる。こうなると漠然とした,ある程度合理性のある世間的な合意点というものの形成すら難しい。かくして剽窃だの盗作だのという問題は尽きることがなく現れては霧散霧消するか,どっちがいい人とか美人だとかハンサムだとか金持ちだとか貧乏人だとか著名人だとか学歴が高いキャリアがあるまだ商品価値がある,いやもうない・・・などといった要素に引きずられて時には非合理的な世間的空気が作られて終わってしまうもののようだ。詳しくは栗原裕一郎さんの本でも読んで下さいな。全くいやんなってくるから。しかしまぁ,そこで曲りなりにも積み上がってきたものを尊重しなきゃいけないのは言うまでもない。参考文献の明示ってのは,その尊重すべきものの一つである。
apjさんとこのblogエントリで,と学会がらみの悶着について運営側の唐沢俊一さんの意見に軍配を上げたら,案の定というか,アンチ唐沢な方々が集まってきてちょっとしたボヤみたいになっている。ワシはと学会の関係者でもないし,この悶着については全く知識がないのでどっちが正しいとか間違っているとかは分らないが,どうもアンチ唐沢な方々は潔癖なお人が多いようで,ワシみたいなゲスにはどーにもその言説が「純粋まっすぐ君」(by 小林よしりん)みたいで,生理的に受け付けないんだが,漫棚通信さんの件以来,訴求力のある町山智浩さんが煽ったこともあって,どーも唐沢俊一さんには風向きが悪いようですな。ま,仕方がないとはいえ,随分とまぁにくまれているモンだと感心させられる。憎まれるってのは大物の条件でもあるわけで,ひょっとしてアンチ唐沢な方々ってファンの裏返しなのかと勘ぐってしまいたくなる。
ご本人が認めた漫棚さんの件以外にも,パクリだ剽窃だと唐沢さんが言われ続けているのは,トンデモ事件コラムとかに参考文献(URL)を明示しない上,引用文を多用しないという書き方に起因しているように思われる。ネット時代なんだから,ネタ元として使っているところには仁義を切るべきだろうし,そうでないなら文献を最後に書いておくとかすればいいようなモンだが,それをしていないのは本人のスタイルなんだろう。実際,学者じゃあるまいし,いちいち文献なんぞ羅列していられるかいってんだ,と開き直っちゃった人もいるんだよね。代表的なところでは「なだ・いなだ」がそうで,ちくまプリマ-ブックス「こころの底に見えたもの」でも,フロイトの学説を紹介しながら文献については明示していない。同じシリーズでも金森修の方はちゃんと巻末に文献一覧があるのとは対照的。なだに言わせると,ろくに読んでもいない文献の羅列は学者が権威付けのためにするもんである,と。その割にはビジュアル著作権協会で人様の著作権の使い方には随分小うるさいのですねとイヤミの一つも言いたくなるが,あんまし唐沢さんみたいに声高な批判が聞こえてこないのは単に売れてないからなのか,それともアルコール依存に関してはオーソリティである医者という立場のおかげか?
文化的な立ち位置が違うからなんだろうが,特に芸人/職人の世界ではパクリが普通,というと言葉が悪いが,テクニックを見て「盗む」ことはよくあることだ。といってもあからさまなマネでは芸人仲間からは軽蔑されるが,くすぐりや演出を真似するってのは,芸道では普通にあり,あの志ん生ですら,先達のマネと言われていたぐらいである。目の前の客さえ喜ばせておけば,オリジナルかどうかなんて関係ない,瞬間瞬間が重要,という世界では,まずウケなけりゃ話にならない。極端な話,まんまのパクリだって,パクっちゃった方が客を沸かしていれば,それで人気が出てしまうことだって「アリ」の世界だ。ヤクザと言えばヤクザな世界だが,そうやって回っている部分がワシらの世界では今も存在している,ということは事の善悪の判断とは別にして,認識しておくべきだろう。
昔気質のライターには,文章のリズムが崩れるからと,引用文を嫌う向きがあったらしい。確かに,不用意に長たらしい引用文はちょっと勘弁して欲しいと思う。佐高信の金融恐慌の本がまさしくそれで,もうちっと的確にやってくれと言いたくなったものである。
引用を嫌い,すべて地の文に押し込んでスムーズな流れの文章を作る,という職人気質は今でもライターさんに残ってたりするだろうなぁとワシは想像しているのである。唐沢さんが以前,東浩紀の文章が下手くそと批判したことがあったが,学者的な文章がライター的な文章に比べて引っかかりが多いというのは,そもそも目的が違うから当然のことだ。何でそんなことで東に突っかかるのか,ワシはとんと理解できなかったが,ドンドン名声を勝ち得ていく東に対する嫉妬と,この職人気質を持つライターとしての矜持が相まってあの批判になったのかなぁと,ワシは勝手に結論づけている。どうも,唐沢さんはアカデミズム的なものとは相性が悪いようだ。参考文献をずらずら書かないのもその辺に原因の一端があるのだろう。
しかし,芸能プロを経営し,落語会のようなイベントを開くだけでなく,自らも出演してしまう唐沢さんは,かなり芸人的なノリに影響されているし,意図的に芸人的ライターとしての立ち位置を保っているように思われる。だとすれば,ネタの学術的発掘という金にならないことに精力を費やすよりは,ネタは楽に仕入れてうまく裁いて客に出した方が勝ち,という価値観を今も保っていることになる。パクリ批判に対してほぼ沈黙を守っているのは,「へっ,トウシロが外野でギャーギャー言ってても客は気にしねーよ」ということなのかも知れない。そしてその態度が何となく伝わってくると,神経過敏な方々や空気に乗って叩きたい輩が騒ぎ出すのだろう。してみれば,このアンチ唐沢な方々は,実は唐沢さんに載せられているということも・・・あるのかしらん? まー,あちらは結構な経験を積んできたプロデューサーだからなぁ。相当図々しく計算していたとしてもおかしくはない。そーゆー「古狸」みたいな存在には噛みついても取り込まれるだけ無駄であって,遠くで眺めているに限る,というのは,ワシが40年生きてきて学んだ経験則である。
つーことで突き放す気はないのだ。だって唐沢俊一さんの著作は読んでて面白いところが多いから(最近は町山さんの方が勢いがあって面白いが)。もしあちらがヤクザな「芸人」なら,こちらはもっと無責任な「客」でしかない。少なくともワシという客は,面白いものには金は出すが,道徳を語るだけの社会運動家や街宣車は無視して通り過ぎるようにしているのだ。もちろん「パクリだ!」というご批判はちゃんと受け取って,引用するときにはそっちを使うようにする。まぁ,ワシの商売柄,そうそう使う機会はないだろうけどね。
してみれば,唐沢俊一という人は,アンチを取り入れることによってさらに使用価値を高めたということになる。無責任な第三者であるワシは,その成果(と悶着)を楽しませていただいて,誠にありがたいと日々感謝しているのである。