えみこ山「懐疑は踊る 3」ディアプラスコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-66140-8, \580

懐疑は踊る 3
えみこ山
新書館 (2006.5)
通常2-3日以内に発送します。

 どうもこの先きちんとしたぷちめれを(「きちんとした」もんあったのかという突っ込みは聞かないぞ)書くのが難しくなりそうな感じなので,この際,お蔵出しを兼ねて,昔から愛読している作家の作品を紹介することにしたい。

 その第一弾としてご紹介するのが,えみこ山である。「えみこさん」ではなく「えみこやま」と発音する。昔風の言い方をすれば,典型的なやおい作家,ということになるのだが,今やBLとか耽美とかモーホー(古いか)という,区分があるんだかないんだかワケワカのジャンルが勃興しているから,もはやかつての「やおい」という単語が持っていた雰囲気を伝えられる時代ではなくなっているのかも知れない。「やおい」で通じるような方々は既にオジサン・オバサンと呼ばれる歳になっている筈だ。
 「やおい」に関しては,例えば三崎さんの記事とか,Comic新現実 Vol.4の佐々木悦子「やおいの起源概論」を参照して頂きたいが,思いっきり簡単かつ乱暴に言うと,「美少年( or 美青年)がいい雰囲気になってあーだこーだする」,主として女性作家によるフィクションであり,1970年代後半から商業作品・同人誌上を席巻,今のBLというジャンルを形成する原動力となった一大ムーブメントでもあった。
 その中で,同人誌から商業誌へとデビューしていくものも多く,メジャーどころとしては坂田靖子から始まってCLAMPまで多数挙げられる。えみこ山も小説担当のくりこ姫と合同でサークル「えみくり」を主催し,かなりの人気サークルになったが,商業誌デビューは1990年代に入ってからと,かなり大器晩成的にデビューした漫画家である。

 ワシとえみこ山の初邂逅はほぼ商業誌デビューの時期と同じである。ただ,初めて手に取ったのは,えみくり発行の同人誌で,くりこ姫の方がメインの旅行記「中国トラベルトラベリング」であった。これはまだ手元にあるので,写真を貼り付けておく。

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 この中にえみこ山もカットや短いエッセイマンガを寄稿している。

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 確か本書は即売会の会場ではなく(壁際サークルで近寄るのも憚られたと記憶する),金沢のブック宮丸で入手した筈である。就職早々,能登半島のど真ん中へ左遷されて腐っていたこともあって,給料はたいて様々な少女漫画を買い漁っていた時期があり,その頃に購入したものと思われる。ワシが持っているのは1992年の奥付がある奴だが,着任したのがちょうどその年であった。

 で,すぐに嵌った,という訳ではない。くりこ姫のエッセイはそれなりに面白かったが,入れ込むほどのこともなく,えみこ山の絵に好感は持ったものの,ストーリー仕立てのきちんとした作品ではなかったため,これも追っかけるほどには至らなかった。ファンになったのは,新書館で単行本が出る前に,アンソロジーとしてまとめられて商業ルートに乗ったものを読んでからだと思う。それでも通販をしてまで手に入れたいという程ではなかったので,しばらくは疎遠になったものの,1996年に新書館から初単行本「抱きしめたい」(現在は品切らしい)が出て,商業単行本のみであるが,追っかけとなったという次第である。

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 以来,ずーっとえみこ山の単行本が出るたびにgetしているのだが,あんまり人に勧める気にはならないのだ。何故かといえば,これはあとり珪子の作品にも共通しているのだが,「ヌルい癒し系」でカテゴライズされそうな感じがしているからである。まあ,えみこ山当人も「男の子同志で悩みもせずにラブラブ」(「ごくふつうの恋」1巻あとがき)する作品だと言っているぐらいだから,そのように一括りにされたとしても怒りはしないと思うが,愛読者からすると,それだけでは済まされない魅力を全く無視した暴論であると言わざるを得ないのである。

 大体,「ヌルい」作品ばかりかというと,そうではないのだ。最近の商業作品にはその傾向が顕著だが,同人誌に載せた作品群には結構感情を揺さぶられるものが見られる。例えば新書館刊行の第二弾作品集「月光オルゴール」に収められた表題作は,ゲイカップルにおける家族愛をテーマとした大河ドラマっぽい作りの大作だし(羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」より短いけど),続く第三弾の「約束の地」は「泣けるやおいマンガ」の筆頭だと思う。絵の雰囲気が1970年代風の,まだ基礎がしっかりしていない黎明期の少女漫画っぽいものであるので,精密な描写を伴うべき場面はかなり弱いものになってしまうが,物語全体に漂う雰囲気は坂田靖子によく似ていて,「空気」を伝えるには適しているものである。
 たぶん,えみこ山は正統的な少女漫画,それも「やおい」が成立する以前から培われてきた「時代の空気」を会得していて,それが自分の生理とぴったり一致しているが故に,そこから外れるような作品を描くつもりは全くないのだと思う。この頑固さは夢路行にも共通していて,彼女の場合は商業的に干されていた時期においても,同人誌で全く商業作品と変わらぬテイストの作品を描き続けていたぐらいである。同じやおい市場から登場したCLAMPとはその点全く異なっている。これはどっちが良い悪いの問題ではなく,プロとしての資質と姿勢の違いであって,CLAMPのようにふるまえば必ず売れるという保証もないし,えみこ山や夢路行のようにしていればメジャーになれない,という訳でもない。

 ・・・なんだけど,このえみこ山の「成長のなさ」加減は,もう何というか,呆れるという他ない。これは褒め言葉でもあると同時に,もうちっと新機軸を出してくれないかなぁ,という希望でもある。本作は売れない絵描きのチョンガーとその2人の息子たちが主人公の長編「懐疑は踊る」の最終巻であるが,ミステリーの香りを漂わせているにも関わらず,その謎解きの部分がよく分からないまま終わってしまっているのである。その香りは独特の雰囲気にマッチしていていいのだが,描写力(説明力)の欠如がワシのようなオジサンうるさ方には残念に思われるのである。
 長く活躍を続ける作家に対しては,「昔の方が良かった」という意見が必ず出るものである。しかし,「マンネリ」を続けるにはそこに芸がなければならず,商業作品である限り,エンターテインメントとして成立するためには変化をつけ,退屈になってはいけないのだ。えみこ山の場合,その点がちょっと気がかりではあるが,このオールドテイストは日本漫画界の天然記念物として保存しておくべきものであるとも思うのだ。「変わって欲しい」ものと「変わって欲しくない」ものを同時にかなえることの難しさをつくづく思い知らされる,アンビバレンツな感情を引き起こす貴重な作家,それがワシにとってのえみこ山,なのである。