[ Amazon ] ISBN 978-4-7780-3501-3, ¥952
単なる偶然ではあるが,本書が発売されてすぐ,ある人気女性シンガーが深夜番組で「35歳をまわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよね」と発言したことが事件になった。この発言事件の前に厚労大臣の失言が国会等でやり玉に挙がったが,その時は概して世間の反応は冷静だったのに対し,今回の事件は市井の人々の中に相当な深い傷を残したようで,そのシンガーの活動は当分自粛,担当ディレクターも処分を受けるという,関係者一同総懺悔という状態になった程である。
ワシは本書を読了し,一本木蛮は今回の発言をどう受け止めたのか,それが一番気になった。今のところ特に公式な反応はしていないようだが,本書は続編が予定されているらしいので,ひょっとするとそこには掲載されるかもしれないし,スルーしているかもしれない。いや,一本木のような真面目な大人の女性のことだから,多分,反応したとしてもそれは怒りとしてではなく,深い悲しみを伴ったものになるのだろうと勝手に想像している。
それは本書で描かれている,長年に渡る不妊治療の悲喜こもごもを知れば,納得して頂けると思う。不妊治療に関する本や当事者の体験談などは既に山程出版されているに違いないが,ワシは生憎未見であるので,そういうものがどういう傾向を持っているかは全く知らない。しかし多分,その中でも本書は相当な異色作だと思われる。著者自身の体験談という以上に,優れたエッセイ漫画としてずば抜けた出来であるからだ。
一本木蛮のエッセイ漫画が面白いということは,「じてんしゃ日記」を競作した高千穂遙が保証している上に,「じてんしゃ日記」自体がそれを実証しているから,今更繰り返す必要もないだろう。しかしどこがどう面白いかはもう少し詳細に説明する必要がある。以下の記述はワシの主観に基づくものだが,なるべく大方の納得が得られそうな所を取り上げてみることにしよう。
第一に絵が魅力的だと言うことが挙げられる。ワシは一本木デビュー当時の少年漫画を読んだことはないのだが,丸っこく可愛い絵でありながら抑揚の強いペンタッチであるというのは,まさしく往年の少年漫画のそれである。漫画の絵からペンタッチが抜け,抑揚のない線が主流になってきたのは,とり・みきがサインペンを使い始めた1980年代後半からの流れだと思われるが,21世紀に入ってからは逆にペンタッチの抑揚が強まってきたように思われるのだ。その意味では,一本木の力強く,それでいて滑らかなペンタッチの絵は,流行の荒波の中を一回転して結構先端に押し出されたものになっているのだろう。
第二に,そういう可愛らしい絵で描かれる世界は極めて上品であるということが挙げられる。ワシにとってはケバいコスプレイヤーのねーちゃんとしての一本木のイメージが強烈だったので,ヤンキー系の人かと思っていたのだが,前作「じてんしゃ日記」も含めて,不良っぽい香りが全然しないし,スケベネタも健康的かつ健全なものになってしまっている。手塚治虫は矢口高雄の作品を評して「上品」と言っていたが,曲がったところが皆無な矢口の描く世界と,一本木の作品とは通じるところが多いように思われるのだ。
第三に,情報量の豊富さを指摘しておきたい。優れたストーリー漫画を描ける作家のものでも,ことエッセイ漫画となると情報量が極めて少ないスカスカの作品になってしまうことがある。白く抜けた絵で短いページ数で体験談を描けばエッセイ漫画になるという勘違いが原因だろうが,物語を進めることが目的のストーリー漫画とは質の違うものだという認識は最低限必要だ。読者はエッセイ漫画に「現実感」の皮を被せて読むのであり,作品はそこに寄りかかって構わないが,その現実感の導入の手助けをするための「情報」はふんだんに盛り込まねばならない。自分を中心としたしみじみエッセイなら周囲の景色を的確に描き,体験記なら5W1Hは不可欠だ。本書は一本木自身の不妊治療体験記であるから,不妊とはどのようなものか,夫婦,特にダンナはどのように協力すべきなのか,どのように治療されるのか,やれば必ず治癒,つまり妊娠できるものなのか・・・等々,描かねばならない情報は大量にあるが,本書にはそれがもうてんこ盛りに詰まっているのだ。てんこ盛り過ぎてちょっと重いかなとも思うが,それだけ本人も,同じ不妊に悩む女性もダンナも,知りたい,知らねばならないことが多いという証でもある。重いテーマをノンフィクションとして過不足なく描くための誠実さもまた,この情報量によって裏付けられているのである。
中年男のワシは,不妊治療というものが女性にとってどういう体験なのかということがよく分かっていないし,本書を読んだからといって,分かった,などと軽々しく言えるものではない。言えるものではないが,しかし,「軽々しく言えるものではない」ということは理解したつもりである。正直言って,この先,一本木夫妻に子供が授かるかどうかは分からないが,身を持って体験したことを優れたエッセイ漫画として世に出した功績に対してはそれなりの報酬があってしかるべきではないか,とワシは願っているのである。